20170330

キンコン西野、パート2

2月に『キンコン西野の「お金の奴隷解放宣言」』というタイトルで、キングコングの西野亮廣さんのことを書いたけれど、それ以降もこの人に注目し続けている。

西野さんの面白さ、特異さはかなり突出していて、やることなすことが興味深い。そしてその弁も面白い。お笑い芸人という職業的な才やエッセンスが何をしても、何をつくっても、至るところで効いていて、得しているなあと思う。そういえばマックンパックンのパックン(アメリカ人の方)も、日本版ニューズウィークでコラムを書いているけれど、この人のお笑い以外の仕事は、笑いのセンスあってこそという気がする。

注目していると書いたけれど、実は西野亮廣さんのキングコングとしての活動、つまり漫才は見たことがない(多分)。では何を追っているかと言えば、毎日更新されるブログや、ハミダシターというトーク番組(FOD=フジテレビオンデマンド)のネットでの視聴、活動にともなうクラウド・ファンディングのページなど。

西野さんが人を惹きつける理由は、アイディアの豊富さ、決断の早さ、実行力、そして人脈の豊かさ、面白さ。またいつ寝てるのだろう、いつ食べてるのだろう、というくらい、常にフル回転しているように見えること。ブログがほぼ毎日、濃い内容で、それなりの長さで、図版(デザインアイディアやイラスト、写真など)をともなって更新されている。朝の8時台の更新がけっこう多いから、早起きしてるのだろうか。とにかく毎日のように新しいことを思いつき、すぐにそれに手をつけ、今こんな風になってますーとブログで報告している。

西野さんの活動は多岐にわたるから、一つ一つ説明するのも大変だけれど、たとえば絵本の制作とその販売。最新の絵本『えんとつ町のプペル』は、西野さん(絵本作家としては「にしのあきひろ」と名乗っている)がストーリーやベースの絵を描いたあと、クラウド・ソーシングでスタッフ(完全分業制なので、いっしょに絵を描いて仕上げていくためのチームメンバー)を募集し、クラウド・ファンディングで資金を集めたとか。幻冬舎が版元になっていて、一般書店やアマゾンでも売っているけれど、それ以外に自らの手でも販売しているという。自らの手でというのは、ネットで直接注文を受け、サインを入れた本を封筒に入れて宛名書きをして自分で発送しているという意味だ。発送前の封筒の山の写真が、ブログに載っていた。直接読者に届けたい、1部でも多く売りたいから自らも、という気持ちの表れのようだ。ネットのサイトでこの絵本を無料で全公開したことで話題になり、クリエーターや出版業界などの一部から反発を受けて炎上したりしたらしいが、売り上げはその直後からグーンと上がって27万部を超えたと聞いている。

西野さんは「アンチはぜったい必要!」と常日頃いっているようだけど、まさにこの反応はアンチのパワーかもしれない。自分のファン、自分を好意的に見ている人ばかりで周りを固めていたのでは広がらない、というのが彼の弁だ。確かに。

自らプロジェクトを組み、資金調達し、ストーリーをつくって作品の絵を描き、本ができれば販売し、さらには全国各地でプペルの絵本展も開催しているらしい。その絵本展では朗読(読み聞かせ)もやっている。読み聞かせかぁ、なんかこれもトークのできる芸人ならではという気がしてくる。その才を存分に生かしてるんじゃないかなあ。

FODの『ハミダシター』の番組は、有料版も含めていくつか見た。西野さんがホスト役をつとめているが、どうも対談相手の人選を自らしているように見える。わたしが最初に見たのは無料版の「FUTURE学」2回分で、ゲストが面白かった。携帯のフリーテルの代表取締役・増田薫に加えて、アソビシステムの中川悠介(1回目)、研究者でメディアアーティストの落合陽一(2回目)が登場。どちらも会社代表や研究者に見えない風貌で、落合陽一の方は、まだ20代で筑波大助教授にしてデジタルネイチャー研究室を主宰している。1回目のアソビシステム中川さんのときは、きゃりーぱみゅぱみゅに興味をもち、さらにそのディレクションをした増田セバスチャンへと行って、セバスチャンの『家系図カッター』まで読んでしまった。この人もかなり変わった人だ。

また小説家の平野啓一郎の回も見た。西野亮廣と平野啓一郎という組み合わせが目を引いた。白っぽい明るい採光の天井の高いスタジオみたいな部屋で、二人並んでベンチにすわって話をしていた。意外な取り合わせのようで、なかなかはまっているところもあって、二人のやりとりは刺激的だった。60分くらいのトークのあいだCMなどまったく入らないし、カメラが切れること(TV番組でよくあるようなサイド情報やゲストの宣伝を流すなどの画面の切り替え)がなく、ずーっとじっーと落ち着いて、二人の話だけを聞いていられる。こうして見ていると、西野さんのホストとしての才能はかなり高そうだ。あいづちの打ち方やリアクションにやや芸人ぽいところはあるけれど(かと言ってNHKの対談みたいでも困るから、まあいいんじゃないか)、パッパッときれる質問を適度に挟んでいくし、ゲストの話をテンポよく聞いて進めるところもいい。ときどき自分の方に話を引きつけて、濃い話、自分の意見を語るのもなかなか。誰がきても全然負けてない。

西野さんは下の世代の人や子どもに対する期待がすごく大きそうに見える。実際そのような発言もしている。下の世代の人と話すときは、向こうがエライと思って聞いてると言っていた。子どもに向けて絵本をつくっているのも、西野さんの子どもたちへのメッセージということかもしれない。いろいろなイベント会場で、西野さんが子どもたちと遊んでいる写真を見るが、イメージとしての子どもではなく、リアルな子どもとの付き合いがあって、絵本を描いているようにも見える。平野啓一郎とのトークでは、二人とも、子どもたちに「将来何になりたい?」と聞いたとき、「わかんない」という回答が返ってくるのは正しい反応、ということで一致していた。今どき、将来の夢を一つのことだけに絞ったところで、世の中もぐるぐる変われば、仕組も簡単に変わってしまい、大きな会社も潰れるから、「これだけ!」という生き方はけっこう危ないというのだ。

ハミダシターの別の回では10代のシンガーソングライター、ぼくのりりっくぼうよみとの対談を見た。まったく未知の人だったけれど、話はとても面白かった。西野さんが彼を番組に招待したという感じだった。このように西野さんのまわりにいる人々、人脈がかなり面白いのだ。

西野さんの話でよく出てくるのは、「客はもういない」という指摘。どういう意味かというと、今は純粋なオーディエンス、つまり受け手であることに納まっている人はもう少数派で、みんなが作る側にまわっているということ。ものを作ることで食べていなかったとしても、もう一つの仕事として(jobではなくworkとして)、セカンドクリエーター(西野さんの命名)として活動している。だから「自分を発信者と位置づけて、純粋な受け手を探す」ことをしても、客はいないということらしい。いない客を探すのではなく、セカンドクリエーターたちと共同して活動した方が面白いし、広がりがでるというわけだ。広がりがでれば、つまり活動に関わる人が増えれば、活動は大きくなり、その分人の輪も広がる。

人の輪を広げるということについては、西野さんはたとえば、独演会をやるとき、チケットを手売りしたりする。ツイッターなどで自分の出没スケジュールを公開し、直接自分のところに買いに来てもらうという。買いに来た人と立ち話などしていると、その人が帰りがけに「もう一枚ください」ということが少なからずあるという。友だちでも誘おうという気にさせてしまうのだろう。チケットを手売りで直接買った人は、仲間意識が芽生え、自分も主催者側に少し立った気分になって独演会を成功させたいと思うらしい。それでその人が独演会を広めてくれる一員になる。その方法で最初400席だった独演会を2000席にまで増やすことに成功したようだ。

西野さんの活動は、絵本作りや読み聞かせ、トーク番組のホストにとどまらない。「おとぎ町」という町を最初は青山に、のちに埼玉につくった。そのどちらも持ち主の好意で土地を提供されている。また今は「しるし書店」という一風変わった古本屋をクラウド・ファンディングで資金集めして、自分のネットサロンのメンバーたち(ファンクラブのようなものか)と立ち上げようとしている。マーカーで線を引いたり、折りをつけた本はBookoffなどでは扱ってもらえなかったり、価値が低くなるけれど、この「しるし書店」はその「しるし」こそが貴重だというコンセプトらしい。本の持ち主がどのようなところに惹かれて線を引いたのか、それを本の中身とともに味わい、共有する。「しるし」が本の価値を下げるのではなく上げているという逆転の発想。

一事が万事、このようなことを一日中、一年中、考えては実行し考えては実行し、としているのが西野亮廣さんという人だ(と思う)。興味をもった方は、まずは毎日更新されているブログをのぞいてみてはどうだろう。

20170318

「地球温暖化」をめぐる議論ふたたび

日本で地球温暖化についての報道が目につくようになったのは、いつ頃からだろう。2000年代の前半? いや2000年代半ば以降だろうか。IPCC(国連気候パネル)が、「温暖化の原因は自動車利用など人類の行為」であることが90%以上としたのは2007年(前回の2001年には66%以上だった)。アル・ゴアの映画『不都合な真実』が公開されたのが、2006年(日本では2007年)。アメリカではその前年の2005年当時、地球温暖化の原因を二酸化炭素の排出による温室効果ガスによるものとする勢力と、それを否定する勢力の対立が起きていた。多くのメディアは前者を支持し、タカ派のウォールストリート・ジャーナルなど数少ないメディアが人為説に否定的だったという。

そして今、トランプ政権になって、大統領が「地球温暖化説は信用できない」というような発言をし、環境保護局(EPA)の長官に、同様の考えをもつスコット・プルイットを指名している。トランプとは反対の立場をとるオバマ大統領時代のプルイット氏(当時オクラホマ州司法長官)の経歴には「EPAの方針に反対を唱える中心人物」とあったそうだ。そのEPAの長官に、今回プルイット氏が任命されたというわけだ。

ニューヨークタイムズやロイターの3月10日の記事によると、プルイット氏はアメリカのニュース専門放送局CNBCのインタビューで、「人間活動による環境への影響を正確に測定することは非常に困難で、影響の強さについては見解の相違が大きい」とした上で、「人間活動が地球温暖化の主な要因との見解には賛同しない。議論を続け、引き続き検証と分析を行う必要がある」と述べたそうだ。

トランプ政権下の環境保護庁長官と聞いただけで、「まゆつばもの」の人物と思う人がいるかもしれない。しかし、人間活動による環境への影響を測定することは簡単ではないこと、(調査や分析の方法によって)見解の相違が出ること、今後も議論や検証をつづける必要があること、これらのことは間違っていないと(わたしは)思う。共和党支持者でもなく、保守論者でもないが、考え方として「地球温暖化に対する結論はとっくに出ており、世界的なコンセンサスがすでにあり、議論の必要は一切ない」という意見には賛成できない。

アメリカのように人為説派、懐疑・否定派の対立がない日本では、国民、政府、メディアそろって地球温暖化は二酸化炭素の排出によるもの、と信じているように思われる。というかそれ以外の考えがあることすら一般に知られていないのかもしれない。「地球温暖化は二酸化炭素のせい、それでいいじゃないか」 わたしもあるときまで、特に疑問をもってはいなかった。何がきっかけで人為説一元論に疑いをもつようになったかと言えば、ある国際ニュース解説者が、「温暖化問題は、気象や環境問題というより、国際政治の問題だ」と書いているのを読んだことにある。かなり前のことで、おそらく10年以上前になると思う。以来、この問題に関する見方が大きく変わった。

地球温暖化問題がなぜ環境問題というより、政治の問題なのか。日本でも世界でも、IPCCの報告の真偽やアル・ゴアの発言に疑問を抱く科学者やジャーナリストがそれなりの数出てきて、地球温暖化人為説について様々な見解が出ている。国際ニュース解説を書いている田中宇氏は、英米など第三次産業にすでに移行している先進国が、これから発展して二酸化炭素を多く排出しそうな中国やインドなどを、排出ガス規制によって発展を遅らせたり、規制によって「経済成長の果実の一部をピンハネ」する仕組(排出量の多い企業が「排出権」を少ない企業から購入するなど)をつくるためではないか、と推測していた。確かに、先進国は過去に排出したほどには、今後二酸化炭素を出さないだろうことはわかる

しかしここに来て排出規制に消極的だった中国が、去年の9月のパリ協定(京都議定書に代わる新たな温暖化防止の枠組み)で、国際的締結を承認し批准を認めている。中国の批准により、パリ協定の発効は前進するとみられている。ここ何年かで中国やインドは国力があがり、後進国であることから抜け出し、世界の枠組に入ることが損失にならなくなっているのかもしれない。

基本的に、二酸化炭素の排出量を減らすことはいいことだ。日本で言えば、1960年代からのマイカーブーム以来、それは変わっていない(二酸化炭素が増えることによって、逆に、地球の寒冷化を進めるのでよくない、という意見も聞いたことがあるが)。しかし二酸化炭素排出と温暖化の関係の信ぴょう性が疑われ、政治に利用されたつくりごと、偽情報だったとすれば、それは大いに問題がありそうだ。これだけ世界中の人々を巻き込み、真実でないことが長期にわたって信じられたとすれば、地球規模の犯罪行為に見えてくる。

IPCCは2007年に、気候変動問題に関する活動でアル・ゴアとともに、ノーベル平和賞を受賞している。このことが人為説に拍車をかけた可能性は高い。しかし地球温暖化関係のいくつかの書籍(主として温暖化あるいは人為説懐疑派の)を読むと、IPCCは重要な過ちをいくつか犯しているように見える。一つは、温暖化現象が起きていることを表す図(グラフ)で、上昇に転じている時代から現在までのデータを(都合よく)取り上げて、二酸化炭素が増えはじめた時代との合致を示す、という方法論をとっていること。それ以前のもっと気温が高かった時代を無視しているというのだ。あるいは1960~70年代にかけての気温の低下時期を、意図的にデータから削除して、上昇し続けたかのような図をつくったという分析もある。これについては、2009年11月に起きたクライメートゲート事件で、データ製作に関わった2者間のメールがハッカーによって暴露されたことで、データ改変の事実が明るみに出た。クライメートゲート事件は、日本ではほとんど報道されなかったと聞く。

IPCCは設立の1988年当時、「2020年にはロンドンもニューヨークも水没している」と初代議長が発言していた。またIPCCは「ヒマラヤの氷河は2035年までに溶ける」とする報告書を以前に出していたが、あとになって「2350年までに溶ける、の間違いだった」と関係者が訂正しているらしい。IPCCのパチャウリ前議長は、地球温暖化人為説を否定することは、ホロコースト否定と似たようなもの、という見方にも関わっているという。ゴアの『不都合な真実』が、予告編を見ただけでも虚仮威しの大ボラ吹きに見えるのは、あれが科学や環境の話ではなく、政治の話(プロパガンダ)だからに違いない。たとえばゴアは映画の中で「6メートルの海面上昇」を主張しているそうだが、これは1980年代の古い数字を使ったもの。IPCCでさえ、アメリカの環境保護局が1980年代に出した「2100年までに海面は数メートル上昇する」という予測を、1990年代には67センチ、2001年には48.5センチ、2007年には38.5センと数値を減らしつづけているというのに。

トランプが「地球温暖化説はうそだ」と言えばいうほど、あいつが言うなら、うそではなく本当に違いない、と思われるのが今の状況。逆効果で、地球温暖化説がまた、より強力に広まっていくかもしれない。わたし自身は、データ改ざんの可能性や歴代議長たちの軽率な発言など、IPCCのあり方には一定の疑惑をもっている。なぜいい加減な情報によって「温暖化の事実」を証明しようとするのか、なぜその原因を二酸化炭素の排出のみに求めるのか。人為説に少しでも疑問を挟むことが、なぜホロコースト否定と並べて語られるのか。納得しがたいことは多い。今後この問題が、(特にトランプ政権下で)どう動いていくか、人々がどう反応するか、見守っていきたい。

目を通した地球温暖化問題に関する書籍、サイト:
地球と一緒に頭も冷やせ!(ビョルン・ロンボルグ、2008年、ソフトバンククリエイティブ刊)
正しく知る地球温暖化(赤祖父俊一、2008年、誠文堂新光社)
地球温暖化の政治学(竹内敬二、1998年、朝日選書)
CO2温暖化説は間違っている(槌田敦、2006年、ほたる出版)
二酸化炭素温暖化説の崩壊(広瀬隆、2010年、集英社新書)

田中宇 国際ニュース解説https://tanakanews.com/

20170303

小沢健二の不思議な広告

少し前(2月21日)に見た新聞広告から、新聞とか広告のことを考えてみた。その前に、紙の新聞をとっている人ってどれくらいいるのだろう。イメージとしては月極めで家まで配達してもらう定期購読者は、年齢層の高い人というのがまずある。ネットで見たある調査では、2016年度で70%強の人が定期購読者らしい。そのうち全国紙は50%程度。年齢層でいうと、20代、30代は半分程度で、やはり60歳以上の人が90%近くと高い割合を示している。またここ10年くらいの変化でいうと、2008年度が90%弱あった定期購読率が2016年度には73%とかなりの落ち込みだ。この調査の中には電子新聞として定期購読する人も含まれているようだが、比率は1.5%と低い。わたしの家では長らく紙の新聞をとってきたが(やっと先月末で止めた)、わたし自身の紙の新聞への信頼度は近年ガタ落ちで、家族がとっていたからパラパラと見ていたものの、ものの5分か10分で読み終わる。読むところがないからだ。以前(10年以上前)には、時間をかけて読んでいた時期もあった。新聞の中身が変わったのか、自分が変わったのか、その両方あるいは社会のあり方や新聞の位置づけが変わったのか。

新聞代はけっこう高い。月額4000円くらい。しかし紙面の半分ちかくは広告という印象がある。めくってもめくってもぶち抜き15段、30段(現在は文字を拡大した12段が基本の新聞もあるが)の広告がつづき、記事になかなかたどり着けない、というイメージ。試しに広告が新聞全ページのどれくらいの割合を占めるか数えてみよう。手元にある2月22日の朝日新聞の広告段数を数えてみた。最初に全体の段数を数えようとしたが、広告のないページが1ページもないので数えられない。朝日新聞は何年か前から文字を大きくし1ページ12段にしているようだ。ページの5分の1(昔風に言うところの全5段)以上の広告を中心に数えてみたところ、(15段換算で)290段あった。新聞は40面(ページ)なので15段×40ページで全部で600段。ということはやはり約半分が広告ということになる。試しに翌日のものも数えたが285段だった。この2日間は平日だったため、15段広告が何ページもつづく旅行会社のパッケージツアーのものはなかった。なのでほぼ通常、こんな割合ではないかと思う。気づいたのは多くのページが、見開きで5段+15段の組み合わせになっており、記事部分は2面(30段)の中の10段分(つまり3分の1)ということ。株式のページなど広告がないページや、5段+5段の見開きもあるので、全体としては広告が半分弱ということになる。

何年か前に同じ計算をしたことがあるが、そのときは広告が3分の1くらいだった記憶がある。半分まではいっていなかったと思う。それでも驚き、高いお金を払って広告ばかり見せられていることに腹をたてた。今は広告代(媒体料金)が安くなっているので広告が増えている、あるいは新聞社への広告出稿が減っているので、量で広告費を稼ごうとしているということだろう。しかし半分ですよ! 払っている新聞代の半分が広告とは。なぜ誰も文句を言わないのだろう。

広告も情報のうち? そうかもしれない。しかし(たとえば)「リベラル、インテリ層」が読者と言われている朝日新聞も広告はひどいもの、読む(見る)に耐えないものが多い。男性週刊誌のえげつないタイトルが拡大太文字で並び(ときに写真も)、「あの世の仕組みがわかる」本やら、白髪染めに若返り、健康食品の「無料提供」のデカデカとした文字、腰痛、尿もれ、美肌の文字がこれでもかと並び、にんにくパワー、健康シューズ、エコに社員旅行に善玉菌といった商品の嵐。こういうものを貴重な情報源としている読者とはいったいどんな人々なのか。日常に得られる情報が新聞とテレビしかない層だろうか? 広告内容や広告コピーがひどいだけでなく、デザインも汚い。こうした広告群と「誇り高い」「知性派リベラル」朝日新聞の記事や論説とはどんな関係があるのか、知りたいものだ。

新聞の定期購読者が減っている現象、当然と思う。正しい判断だ。誰が購読料の半分を、読みたくもない広告に払いたいと思うだろうか。それに気づかないで月額4000円払っている人が主な読者層とすれば、新聞社がその人々にどんな記事を提供しようとするかも想像できる。実際、朝日新聞を読んでも、世の中のことは理解できない。表面をなでるだけだ。会社や友人との会話で、どんな事件があったか話すときそうそうと相槌をうてる程度の内容だ。(通信社経由でない)オリジナルの取材記事や署名記事は少ない気がするし、どの記事もいつも同じ側面からばかり語られているようにも見える。あるいは何も語らないか。最近は誰でも読めるツイッターの引用(トランプなど)も増えている。

広告が広告なら記事も記事、ということか。目をとおす利点があるとすれば、どのような記事が、あるいは広告が、いま日本の主要メディアで扱われているかを見聞すること、くらいかもしれない。

さてタイトルに書いた小沢健二の広告の話。モノクロの15段(1ページ)広告、タイトルは黒ベタに白抜きのゴシックで「言葉は都市を変えていく」となっている。その下に新聞記事風レイアウトで縦組み10段の文字原稿。一番下には「19年ぶり新作シングル本日発売」の大きめの文字。右上端には、その新曲の歌詞がゴシック太文字の横組みで入っている。『流動体について』小沢健二の新歌詞。また左下端には別の楽曲の歌詞『神秘的』も横組み太文字で入れられている。すべて文字ばかりの紙面で唯一、黒太枠で突き出し広告のような体裁で「小沢健二 既発MV限定公開中」と書かれた中に、小沢健二らしい人の小さなポートレイト・イラストが入っていて、ユニバーサル・ミュージックの該当URLが記されている。

パッと見た目、広告のようでも、記事のようでもない不思議な体裁だ。記事なら最低でも5段組の広告が下にあるはずだし、広告であれば、大きな写真とか大きな文字が紙面いっぱいにあるはずだ。そのどちらでもない。左上に小さな黒枠に囲まれた「広告」の文字があるから、広告だとわかる。わたしは最初、何かなと思って『流動体にについて』の歌詞を読んだ。その脇に小沢健二の新歌詞とあったからだ。「新歌詞」というのも不思議な、あまり聞いたことのない表現だ。

そのあとエッセイのような文章を読み始めた。よく見ると「発売記念モノローグ連作」と書いてある。これはあとで気づいた。「連作」は全部で6つ。『アンキパンの秘密』『ビバ、ガラパゴス!』『メイポールの日』『ショッカーを追え』『歴史の連続性』『遠い起源』。文章はなかなか面白く、長文だがするっと最後まで読んだ。19年ぶりにシングルを発売するにあたって、全ページ広告というのはすごい試みだと思うけれど、それ以上にこの広告のスタイルに不思議さを感じていた。エッセイにはアメリカの暮らし(家族で住んでいる)、そこで暮らす息子(3歳)の話、日本のいちご(や食パンがハイレゾ=高解像度=密度がある)の話、息子の保育園とそれにともなう仮面ライダーの戦いの場面の陣形の話、昭和のテレビ主題歌と軍歌の類似性といった話題がゆるやかに関連しながら語られていく。

19年ぶりのシングルを出したシンガーソングライターの近況報告ともとれるし、アメリカに住みアメリカ人の妻と子どもと暮らす、日本人移民による「外から見た」日本観のようでもあり。こう書くとよくあるどうでもいい駄文を想像するかもしれないが、わたしは書かれていたいくつかの考察を面白く読んだ。いつも忌み嫌い、金返せと悪態をつく15段広告を隅々まで読み、一定の満足感を得、さらには新聞と新聞広告について考え、このように文章まで書いている。CDを買う気はないが、情報はちゃんと受け取り、なんらかの影響も受けた。これを広告効果と言わずしてなんであろう。

小沢健二の文章には、特定のファンに向けて書いた感じがあまりなかった(実際わたし自身、ファンでもなんでもない)。不特定多数の人に向けて何が言えるか、という印象を受けた。エッセイの内容はCDとは関係なさそうだ。トップにある広告コピー(ヘッドライン?)「言葉は都市を変えていく」は、『流動体について』の歌詞の中にある。「だけど意思は言葉を変え 言葉は都市を変えてゆく」が2度繰り返されている。そうか、アメリカでの暮らしというものが、この歌の感性のベースになっているということなのか。エッセイはそれを伝えるためのものなのか。

むかし広告業界で仕事をしていた経験があるので、この広告はどのような手順を追ってプランされたものなのかなあ、という興味が少し湧く。想像では形(見映え、デザイン)から入ったのではないだろう、ということ。多くの広告は(たとえブレーンストーミングをして企画書があったとしても)、制作のある時点で「じゃあまずデザインのたたき台を」という話になって、一気に形の世界に入る。そしてA案、B案、C案とデザインラフができれば、もう終わったも同然、デザインに基づいて、ここに入るコピー、ここに入る写真(あるいはイラスト)を用意する作業に入る。そしてクライアントが「B案がいいなあ」と言えば、B案に決定。しかしあとになってクライアントの上層部の人間が「うーん、違う」と言えば、またブレーンストーミングの段階にもどる。あるいは今ある案を無理やり改良する。(これは程度の低い広告制作の例かもしれないが)


小沢健二の新聞広告は、どういうものをどういうやり方で発信するかに本人が深く関わっているように見えるところ、が勝負の決め手になっている(もしこれが効果的であったなら)ように思える。もちろん広告代理店やデザイン事務所がつくっているのだけれど、あまりその部分が目立たない。中間の媒介的な立場の影が薄いというか。「この広告はアートディレクター○○さんの仕事」というのが新聞広告の質を左右しているかのような時代があった。そういった意味で小沢健二の広告は、広告制作専門業者の手を経ていながらも、発信者の生な手触りが感じられるつくりになっていると思った。