20130617

出版のはじまり


小さな声を、できるだけ効果的に、広く普遍的に響かせるにはどうしたらいいか。小さな声とは、個人であったり、小さなグループなど社会的に大きな力をもたない者の主張や表現であるが、それを仲間うちの世界ではなく、不特定多数の、同じような考えや意志を持つ人々にむけて伝えようとしたとき、インターネットをチ中心とするネットワークは、強力な味方になる。インターネットが登場したとき、出版=publishの手段として、これほど理想的なものはないと感じた。

インターネットによる出版が可能になった瞬間、もしかしたら、それまでの同人誌的なメディアの役割は終焉にむかったのかもしれない。技術的な手段をもたなかったから、少部数発行の本や雑誌を出すことに甘んじていた。たくさんの部数印刷するには、コストがかかるからであり、また仮に大量部数刷るコストがあったとしても、それを流通させる手段をもたないので無駄になる。自分たちのことを理解してもらえそうな、身近な特定の人々にだけ、読んでもらえればいい、という指向性があったというより、技術と手段がなかったから、そういう指向にならざるを得なかったと考える方が自然だ。ただそこのことろは、当事者に明確に認識されていないかもしれない。

もともと出版とは、グーテンベルクの時代から、広く世に何かを知らせるための手段として存在した。ある考えや思想への理解をもとめるとき、それがまだ世の中で認められていなければいないほど、広い受け手の可能性を探ることになる。賛同してくれる人は、世界のどこにいるかわからない。

インターネットで出会いを生む大きな存在となっているもの、それが検索エンジンである。本で言えば、リスト化されていない目次のようなもので、世界中にちらばる雑多な情報や表現の水先案内人となっている。検索エンジンを有効にしているのが、データベースである。GoogleとAmazonは、当初からこの二つが他に抜きん出て優れていた(因みに、インターネットの初期の頃の日本のデータベースや検索エンジンは、質が非常に低かった。今でも、あまり得意な分野ではなさそうだが)。日本ではGoogleがなかなか広がらず、Yahoo型の検索に長い期間支配されていた。ジャンルごとに小分化されていく、ピラミッド型ディレクトリー形式のものである。また登録式でもあったため、主宰者側から「有効」なコンテンツである、と認められないと、掲載すらしてもらえなかった。Yohooで検索できる、というのが一種優位な資格になっていた時期があった。

しかし結局のところは、Google式の人為的な判断によらない、全開放型のすべてを包括するデータベースと精度の高い検索の仕組の方が有効だ、という結論に至ったのではないか。欧米では登場以来Googleが優勢だったようだが、日本もそちらにシフトしていると思う。

少し話が脇道にそれるかもしれないが、日本がデータベースや検索エンジンづくりがあまり得意ではない原因について、思い当たることがある。それは社会(企業や団体、一般人などで構成される共同体)において、この世に存在するものへの対し方に、公平ではない部分があることと関係しているかもしれない。情報というのは先端から末端まで、事の大小に限らず、あらゆるものが網羅されていて初めて、有効性が発揮される。それを分類、階層化して再構築したものがデータベースである。

たとえて言えば、日本がつくるデータベースには、アメリカやフランス、インド、日本は入っているが、スリナム共和国やアンドラ公国はないか、あっても説明が1行しかない、というようなイメージだ。どのような法則による選別かはわからないが、ある種の不公平さによるデータ集積がなされている。このようなことは、日本の社会の至るところで見られる。たいていは、選別するときの標準的な法則はなく、選択の際、中心に「日本」あるいは「ニッポン人」の「常識」や「心性」というものがどっかり腰をおろしている。その目から見て情報を選別、収集するので、どうしても偏りがでる。あるものないものがないまぜになっていて、情報量のバラツキもあり、役に立たないことがある。

なぜ小さなものや、それほど(自分に)関係なさそうなものも情報集積には必要か、と言えば、それはそうしないと全体がわからず、各要素の相対化もできないからだ。日本の社会には、ものごとを相対化して見るという思想がかなり欠けているように見える。あらゆる場面で。それはテレビや新聞の報道を見ていても歴然と表われている。よく「日本は内向きだ」という反省があるのは、このことと関係がある。

データベースと出版は、直接的につながりはないとしても、無視できない関係性はいくつかある。たとえばアーカイブと言われるものがある。情報や保存記録を集めた書庫のようなものを指す。そこに収められた情報や記録文書が、インターネット上で公開されていたとすると、それは出版に近い存在になる。情報や記録文書はデータの形で保存されている。文字情報の場合もあれば、写真や音源のこともある。ある場所に一括保管され(あるいはリンクでつながり)、一般に公開されていて、それを利用者が自由に引き出して読んだり、聴いたり、見たりする。その行為は、本屋さんで本を買うのとは違うが、アマゾンの電子書籍やiTunesの音楽の買い方とは重なるものがある。

「出す」から出版ではなく、そこに「ある」ことで出版になる、ということを示しているように思う。

20130610

翻訳の不思議、言葉の不可解<2>


この体験と前後して、ネットで翻訳に関する面白い論文を見つけた。慶応大学の学生の翻訳に関する論文で、フィッツジェラルドのギャツビーの小説についての分析。古くは野崎孝訳の「グレート・ギャツビー」などのタイトルで知られ、2006年に村上春樹も翻訳している作品だ。論文はその二人の訳と2009年に新たに翻訳された小川高義の訳の比較をしている。論文は小川訳の新規性について述べる上で、他の二人の翻訳と何が違うのか、原文と訳文を並べて解説している。論文によれば、小川訳の特徴は、日本語で「読む人」のことを最重要課題として訳していることだ、と言う。ときに原文とは違う構文を選択したり、減訳もして読みやすくしているというのだ。翻訳対比のところでは、各訳者の訳文の文字数に注目しそれを記している。論者によれば、どの部分をとっても、ほとんどの箇所で、小川訳は文章量が少ないという。たとえば他の訳者が94文字のところ、小川訳では42文字なっている、というように。(吉岡泉美氏の論文

この発見は、ある意味画期的であり、また有効性があるものだと思った。今までこういった論議はあまり聞いたことがない。訳文が短いということは、もしそれが的確であれば、読みやすくスピード感をもって読めるということ。日本の出版文化では翻訳が盛んであるにもかかわらず、翻訳文学はあまり人気がない、読まれていないことの原因の一つに、読みにくさ、ということが関係しているかもしれない。もたもたとした、聞き慣れないものの言い方、というのは翻訳書にときどきある。(この項の<1>で書いた、翻訳者がときに引っかかる一種のワナと関係している)

実はこの論文に出会ったのは、三者の中の一人、小川高義さんという翻訳家に以前から興味をもっていたから。小川さんの名前をGoogleで検索していて、論文を見つけた。小川さんの翻訳に興味をもったのは、ジュンパ・ラヒリの小説を読んでいたときのこと。そのとき原典でラヒリの小説を読んでいた。とてもいい。好きな作家だ。と、ふと、昔日本語でもその本を読んだ記憶がもどってきた。それで本棚を探すと、あった。それが小川高義の訳だった。日本語訳を読み返してみた。そのとき感じたのは、読後感が非情に似ているということ。日本語でも英語でも、ほとんど変わらないイメージを読んでいてもった。

これはすごいことでは?と思い、そこにあった訳者の名前をたよりに、別の本を日英で読んでみた。「オリーヴ・キタリッジの生活」という小説で、いくつかつけ合わせてみると、訳出の方法はときに、かなり自由な裁量でなされいる。ははーん、こういうのアリなんだ、と思わされた。結果はラヒリの作品と同様、読んだときの印象が近い。このことは翻訳にとって、中でもフィクションならば、最大の功績といっていいのではないか、と思った。

原文と訳文が近い印象なのは当然、と思う人もいるかもしれないが、そうとは限らない。原文に徹底的に忠誠をつくしたつもりで訳しても、結果がいいものになるとは限らない。それは訳される言葉と結果となる言葉の間に、様々な違いがあるからだ。どのように言ったら、原文に近い印象を与えられるか、は広い意味の言語能力とセンスだと思う。論文に上げられていた三人の訳者の中で、自著の作品(小説)があるのは、村上春樹だけである。他の二人は作家ではなく研究者なのだろう。普通なら作家の方が、学者より創作的な文章を書く(訳す)のはうまいはず、と思ってしまう。しかし現実はかならずしもそうではない。論文で上げられていた村上訳の例文は、論者が指摘しているように、確かに直訳調のところがあったり、「不自然ではないが、しかし長めの訳文になっている」といったところが見られるようだ。また逆に日本の読者には説明不足な部分も垣間見える。小川訳はその点で親切心があるように見える。

訳文はできれば短めに(もたもた説明くさくならないように)、ということと、読み手の状況を把握して言葉を選ぶ、ということは翻訳にとってかなり重要なことなのだろう。読み手の状況を把握して言葉を選ぶ、と言っても、日本のものに置き換えるときは注意が必要とは思う。以前にアメリカの小説を読んでいて、「嫁姑のあいだがら」のような表現が出てきてげっそりした。先に原典を読んでいたので、そんな日本の「家文化」に基づく風習に置き換えられたら、イメージがおかしくなってしまう、と感じた。読んだときの印象が大きく異なったのだ。

言葉というのは不可解なもの。その背景にさまざまなものがついてまわり、母語であればなおのこと、偶然の手垢にまみれたものとして存在する。たとえば「嫁姑」と聞けば、橋田壽賀子のドラマの世界を連想してしまうとか。人々がすでにもっていると思われる、ある言葉の一般的なイメージは、それがどんなに的外れであっても、すでに存在するものとして威力を発揮し、きれいに消し去ることは難しい。そのことを前提に、翻訳者は日々、言葉を選ぶことになる。

20130604

翻訳の不思議、言葉の不可解<1>


ここ何ヵ月かかけて翻訳していた本を先月訳し終えた。まるまる1冊の本を訳すのは久しぶり、メアリー・オースティンの「雨の降らない土地」以来だろうか。本のタイトルも決まった。「私たちみんなが探してるゴロツキ」、ベトナム出身の作家レイ・ティ・イェイム・トゥイの小説だ。去年の夏に「とり うたう あたらしい ことば」にその第一章「スートップ!」を掲載した作品で、それが非情に興味深かったので、全章を訳して出版することにしたものだ。

全五章ある小説の残りの四章分を訳すのに四ヵ月くらいかかっているわけだが、そのうちの半分以上は推敲に費やした時間だ。三月には翻訳の第一稿はすべて終えていた。そこから約二ヵ月間、各章を行ったり来たりしながら推敲を繰り返した。この推敲の作業の精度によって、訳文の質は変わってくる。

不思議なのは何回推敲を繰り返しても、一つも直しが出ない、ということがないこと。推敲が進めば単純な書き間違えや訳の不正確さというのはなくなるが、訳文の日本語がもう一つだったり、わかりにくかったり、ということは、やってもやっても出てくる。それは一つには、時間をおいて読み直すようにしているので、読むときの自分の気分が変わる、ということも影響している。あるときはこう思ったが、次には違う印象や考えをもつ、というように。

でもこれは必要なことで、推敲の際たいせつなことは、一度そこにある日本語テキストから離れて、他人が書いたもののように読むことだからだ。自分の言葉(日本語)の世界からのみテキストを読むと、修正すべき点がみつからない。

また翻訳においては、いろいろなワナがあって、訳文の日本語を書くときに引っかかることがある。自分の文章なら犯さない間違いを、翻訳文ではやってしまいがちだ。その多くは、原文に引っぱられることから来ている。つい原文の表現をそのまま日本語に移してしまうことがある。たとえば、人が死んだ場面でその人を数人の人が取り囲んでいるときに、...... their shoulders hunched and .......という文を、「肩をまるめて」と訳してしまったりする。肩をまるめて、という言い方は間違いではないと思うが、「背をまるめて」と言ったほうがより情景がわかりやすい。訳しているときは、shoulderに引っぱられて、「背」という言葉を思いつかなかったりする。

また一般に、英語に関していうと、どんなことも論理的に詰めていくことで、言いたいことや情景をくっきりと表わす傾向があるので、日本語人から見ると、説明くさいことがある。なぜなら、とか、であるから、とか、つまり、とか。日本語はもっと、感覚的に言葉を並べ積み重ねていくことで、言いたいことに近づけていく言葉のように思う。文と文、節と節の関係性が明確でなくとも、全体として意図に沿うよう文を組み立てられる。そのため非論理的なことを自分が書いていても、あまり目立たない、気づかない、何となくつじつまが合っているように見える、ということはある。長所というより欠点かもしれないが。

たとえば日本語と英語ではそういう違うがある。そのことが翻訳にも影響する。正確に、原文に忠実に訳そうと思うあまり、くどい日本語になってしまう例は多い。最近こんな経験をした。

知り合いの小さな子(小学校低学年)のために、英語のビジュアル本を買った。大型の写真絵本なのに、中を開くと、意外にも各ページに文章がけっこうある。日本語に訳して本といっしょに誕生日に贈ろうと思っていたのだが、これを訳すにはそれなりに時間がかかりそう、、、困った、と思ったが、毎日少しずつとにかく訳してみようと始めてみた。でも実際、忙しい日々の中でとれる時間はわずか。15分、30分、といった時間で、走るようにその日のノルマを訳すということを続けた。

子ども、中でも読める漢字の少ない低学年の子どものための文章は、ひらがなと漢字の使い分けも難しい。また熟語であれば適切な日本語がある場合も、その年代の子どもにわかるようにするには、別の言い方を考えなければならない。時間がない中で、それらのことを解決しながら、走るようにして訳した。結果、原文からかなり離れてしまった(日本の子どもの理解に合わせて書き換えたり、つけ加えたところも含めて)箇所もある。頭の中で半分は、訳すのではなく、この本の意味(主に写真で表わされている)が伝わればいい、本を見ながらお話ししているように書けばそれでいい、とも思っていた。

あとで読み返してみると、悪くない文になっていた。原文からはときに離れてしまったけれど、作者の意図は「読み手」に伝わりそうだった。そしてふと思った。翻訳の本質とは、実はこういうところにあるのかも?と。(次回につづく)