20160530

セックスワーカー:差別や人権という観点から

セックスワーカーとは、俗に「風俗」と呼ばれる業界で働く人のことを指す。ここ最近は女性の貧困問題と結びつけて語られることも多くなった。それは離婚やDV(夫婦間などの暴力)、その他の理由で生活に支障をきたしている女性が、収入を得る最後の手段として風俗で働くことを選択する場合があるからだ。

わたしは最近、2冊のセックスワーカーに関する本を読み、未知の世界を知った思いを経験した。「風俗」という業界、あるいはそこで働く人、そこに通う人、そのどれに対してもある程度の「偏見」が自分にはあった。無知ということがまずあるわけだが、特に関心をもったことはなく、ただ漠然とグレーなイメージをもっていたように思う。それが『性風俗のいびつな現場』(坂爪真吾著、2016年、筑摩書房)を読んで、その偏見の持ち方は明らかに正しくないことがわかった。性風俗が「あってはいけないもの」として、見えない裏の社会に追いやられることで、犯罪や病気を含めた様々な問題を発生させているとしたら、それはもう「表」社会の問題でもある。

近年この業界で起きた大きな出来事として、2004年の繁華街浄化作戦があげられるそうだ。東京都や警視庁などが一体となり、無届けの店舗型風俗店を取り締まったため、近県も含む風俗街が壊滅状態になったという。それにより店舗型ではないデリバリー式のサービスが生まれ、宣伝や集客はインターネットで行われるようになった。つまりリアル社会、街の中から姿を消し、より見えにくいところへ姿を消したということだ。

デリバリー型サービスの問題点は、店舗に客を集めるのと違って、ラブホテルなど外部の施設をつかうため、風俗店の経営者、管理者の目が届かず、ワーカーの身の安全が保障できないところにある。店舗内で接客するのであれば、何かあれば従業員が気づいて助けに行ったり、警察を呼ぶこともできる。しかしワーカーが一人で外部施設に派遣されて接客する場合、自分で自分の身を守るしかなくなる。つまり働き手にとっては、著しく労働条件が悪化したことになる。性風俗にかぎらず、実在するものを表面上浄化すると、裏に隠されることによって状況をさらに悪化させることはある。このことからも自治体や警察が、現状の実態を改善しようとして浄化をはじめたのではなく、目障りなものを消すことだけを考えて実施したことがわかる。ホームレスの人々を公道や公園から追い立てるのと同じ手法だ。その意味で自治体としての東京都が、福祉に関して、かなり低いレベルにあることが浮かびあがる。

風俗と福祉はまるで違った世界のように見えるかもしれない。しかし風俗店が弁護士や社会福祉士などの協力を得て、在籍女性の無料生活・法律相談をするなどの試みも、一部ではあるが行われているようだ。ソーシャルワークと風俗店の連携の見本といっていいだろう。ワーカーたちが安全に健康に働けることを保障するには、社会全体で取り組まなければならないことがわかる。『性風俗のいびつな現場』の著者坂爪真吾が代表を務めるセックスワーカーを支援する団体ホワイトハンズは、毎年「セックスワーク・サミット」を開催し、「セックワークの社会化」を模索している。「これからのセックスワーク(性風俗労働、売春労働)のあり方、進むべき方向性を議論するサミット」とのことだ。

ここまで読んで、「しかし売春という行為は、社会的に許されることなのか」という疑問が浮かぶかもしれない。性労働に対して対価をもとめる売春が、良いか悪いかを判断する基準として、たとえば倫理意識や宗教観などがある。しかし何を基準にするにしろ、整合性のある判断や万人に受け入れられる合意は果たして可能だろうか。そしてもし、セックスワーカー自身がこの職業を自分の能力の発揮の場と考え、そこで幸せを感じていたとしたら。法的な禁止や行為に対する犯罪性を主張するなら、その人たちをも納得させなければならないだろう。

そんな人間がいるのか、みんな仕方なくそれしかできないから風俗で働いているのだろう、と言う人には水嶋かおりん著『風俗で働いたら人生変わったwww』をお薦めする。著者は風俗で働くことによって、少女時代に負った精神的な欠損、ミサンドリー(男性嫌悪)を克服できたと書いている。水嶋は自身が風俗嬢として働くだけでなく、風俗嬢の講師もしている。この世界を生き抜くには、仕事上のスキルだけでなく、人生設計上のたくさんの知識が必要なのに、それを取得する機会や機関がどこにもない、と彼女は主張する。確かにどんな職業でも、プロとして高いレベルを保ち、自分の利益に結びつけるためのノウハウは必要だ。風俗嬢もその点は同じ、と水嶋は考えているようだ。

売春の存在の善悪に関して考えているとき、あることに気づいた。ヨーロッパの多くの国では売春が合法化されている、という事実。ドイツで2002年に売春が合法化された、という話を聞き、他の国も調べてみると、デンマークは1999年に、オランダは2000年に、他の多くの国々もウィキペディアによると合法化されている。国により売春は合法だが斡旋業は非合法とか、売春は合法だが買春は非合法など条件が違っていたりもする。国際的な人権団体アムネスティ・インターナショナルは、2015年に売買春の合法化を支持する方針を決定し、数日前の5月26日、セックスワーカーを暴力や人権侵害から守るためのポリシーを(パプアニューギニア、香港、ノルウェー、アルゼンチンでの実態調査報告とともに)発表した。このように世界的な潮流として、売春の存在を社会的に認めることで、セックスワーカーの人権を向上させ、犯罪や性病をなくそうとしていることがわかる。

水嶋かおりんに話を戻すと、彼女が主張するもう一つのことは、現在セックスワーカーとして働いている人の転職への道を開くこと。性風俗が社会化することで、社会の日陰者でなくなり一労働者としての自信がもてるようになれば、(他の職業の誰もしているように)別の働き方を模索したり、実際に兼業で働いてみることで、この職業にだけ縛られることがなくなる。サッカー選手と同様、セックスワーカーも年齢の壁があるという。セカンドキャリアの可能性が見つかれば、将来が明るくなり、今の仕事をつづけながら人生設計が組めるだろう。そのような健全さは、セックスワーカーにかぎらず必要なことだ。

このようなことが可能になるには、社会全体がセックスワーカーに対する差別觀をもたないようにする必要がある。会社の経営者レベルだけでなく、同僚としていっしょに働くかもしれないすべての人間が、「元風俗嬢」を単に他業種から転職してきた人、と受けとめることが求められる。難しいことだろうか。そうかもしれない。しかし業界外にいる人が、つまり一般表社会で暮らす人々が風俗に対する偏見をなくすことで、セックスワーカーたちの未来が明るくなるのであれば、努力してみる価値はあるのではないか。偏見をなくすことが社会貢献となるのだ。

最後にこのテーマで参考になる記事をいくつかあげたい。

新しいセックスワークの語り方―― 風俗、援デリ、ワリキリ…、同床異夢をこえて(水嶋かおりん×鈴木大介×荻上チキ)

風俗嬢の『社会復帰』は可能か?セックスワーク・サミット2012(要友紀子 / SWASH)

風俗の安全化と活性化のための私案――セックスワーク・サミット2013

アムネスティ・インターナショナルが発表した、セックスワーカーを暴力や人権侵害から守るためのポリシー(2016年5月26日)

20160516

ひとが本にたどりつくルート

いま1冊の本に出会うルートはいろいろある。書店の店頭で、図書館で、雑誌や新聞、ネットの記事の紹介で、アマゾンなどネット書店で、グーグルの検索で。あなたはどんなルートで本にいきつくことが多いだろうか? わたしはここ10年かそれ以上前から、書店で本と出会うことが難しくなっている。本屋さんの顔つきが少し変わったな、と思い始めた時期と重なるかもしれない。なんとなくのイメージだが、雑貨屋さんの感じに似てきた気がする。新しいもの、珍しい顔つきのもの、人目をひくもの、話題になりそうなもの。そういったものが店頭で強くアピールしてくる感じと言ったらいいだろうか。耳で聞いているわけではないけれど、賑やかな音があちこちでジャカジャカ鳴っているような。

もう一つ本屋さんで本と出会いにくくなった理由は、これはこちらの趣味嗜好も影響しているかもしれないが、本の分類が実情と合わなくなったことと関係している気がする。ジュンク堂の棚が図書館のようで素晴らしいと評判だったころ、新宿や池袋の店舗で本を探し苦労した覚えがある。たとえばナボコフのような作家がロシア文学の棚にのみ置かれている。確かにナボコフはロシア生まれだが、若いときに亡命して最終的にアメリカ人になっている。多くの主要な作品は英語で書かれた。ロシア系アメリカ人であるわけだから、アメリカの作家と思いそちらを探していた。ロシア作家の棚で見つけたときは、えっという感じだった。

これは一例に過ぎないが、図書館の棚も含めて、出版されている本の実情と昔からの分類法が合わなくなってきているのでは、と思うことがある。新たな分類項目の必要性が出てきていても、無理にこれまでの分類法の中に収めてしまってはいないだろうか。たとえば移民作家、ディアスポラ作家のような項目があってもいいし、そこに当てはまる人は決して少なくない。そこにはアフリカ系イギリス人や韓国系アメリカ人、ハンガリー系スイス人などの翻訳本にまじって、日本在住の中国人作家・楊逸や、ドイツ在住の多和田葉子、オーストラリア在住の岩城けいも入ってくるだろう。それじゃあいったい何文学かわからない、と思うかもしれないが、今や現実はドイツにはドイツ文学、フランスにはフランス文学というような箱に収まった状態にはない。見た目は少々バラバラでも、移民作家の視点にはけっこう共通するものがある。

あるいは母語以外の言語で書いた作家とか、2言語以上の言葉で書いた作家、という項目も立てられるだろう。翻訳してしまえばみんな日本語、と思うかもしれないが、それはそれで発見のある面白いコレクションになるかもしれない。またそういう作品に興味をもつ人、読みたい人もこれから増えてくるのではないか。

MENA(中東、北アフリカ地域)の本を集めても面白い。経済、宗教、言語、社会、文学などをMENAという括りで見ていくと、どのようなものが揃うのか。それは「中東関係」という項目立てとは違うラインアップになるのではないか。MENA諸国の多くはムスリムの国であり、アラブ系が多数を占める。この中にたとえば「パレスチナ問題」を扱う本を置いたとき、今までとは違った見え方になる可能性もある。

このような項目が立てにくいのは、本を探す人にとってわかりにくいからではなく、棚をつくる人(多くは書店の人)が本の中身や著者についてそこまで知らないからだ。今の時代、図書館に行っても本や作家について知識のある司書が駐在しているかあやしいが、書店ではなおのこと。いま書店員に求められていることは、そういった本や作家の知識でないことは想像できる。つまり情報に対して受動的な顧客をもとめていて、その方が都合がいいのだ。何かを(作家でもあるテーマでも)探して本屋に来られるより、書店に来て自分たちがアピールしているものに目をとめ、興味をもち手にとってほしいのだと思う。それが最初に書いた「雑貨店」的なイメージにつながっているのかもしれない。

といったわけで書店で本と出会うことが、わたしにとっては難しい時代がつづいている。代わりにネットでの本との出会いは非常に増えた。シノドスのようなサイトで記事を読んだあと、そこで紹介されていた本や、その記事の書き手の本をネットで探すことは多い。また読んでいる本の中に出てくる本を探すのもネットだ(リアル書店で探してもほぼ見つからない)。原書が外国語の場合、日本語に訳されているかどうか同時に調べたりもする。グーグルで検索すれば、たいてい上位にアマゾンが来ている。作家名で検索することもある。その場合、その作家の過去の、あるいは未知の作品と出会うことも多い。アマゾンのサイトでは、キーワードで検索すれば多種多様の本が表示される(ただしco.jpの検索は精度が高いとは言えない)。日本では近年、出版された本はよほど売れない限り重版されることが少ないようで、絶版(または在庫切れ)になっている本は多い。しかしアマゾンにはマーケットプレイスという強い味方があるので、よほど古い本や珍しい本でなければ、絶版本も安く手に入れられる。マーケットプレイスの充実ぶりは、日本の新刊書在庫切れ(絶版)という貧しい状況を助け、豊かにしている。

これがキンドルの本であれば、レビューを読んでも読まなくても、サンプルをダウンロードして試し読みができる。「なか見検索」に本文ページを登録する出版社は日本では少ないが、キンドルならすべてサンプルが読める。「なか見検索」はスタートしてもう随分たつが、一向に浸透しないのは何故なのか。出版社は「本は中身で売るもんじゃない」と思っているのだろうか。アマゾンの各書籍の内容説明の貧しさを見ても、そう疑いたくなる(本の内容説明は版元がテキストを書いてアマゾンに登録するもの。いわばセールストークの場だが、わずかな文字数のおざなりな紹介文が多い)。じゃあ何で本を売るんだと言えば「話題」で売るのだ。この点で出版社と書店の意向はぴったり合っているように見える。世の中の話題にそれほど興味がない人にとって、本屋の棚が「賑やかだけど寂しい」感じがする理由かもしれない。

このような状態が長くつづけば、店頭で衝動買いする本以外は、ネットで調べて、電子書籍であればサンプルを読んで買う、というルートがスタンダードになってくる可能性はある。本は雑貨とはやはり違う性質のものだし、いま話題にのぼっていることのみが価値を高める商品でもない。どちらかと言えば、買う側の自発的、能動的な心理やその蓄積が意味をもつ種類の商品ではないかと思う。

20160502

「いまここ」感覚と俯瞰のリアル

ここ何年かの間、作品の解説や評論、あるいはコラムなどでときどき「いま、ここ」の感覚という表現を目にすることがあり気になっていた。どんなケースで使われているか、ネットで調べて再確認してみようとしたところ、自己啓発やスピリチュアル系の話の中で出てくるものしか見つけられなかった。しかし記憶では、そうではない場面で、職業的な書き手によるものも含め見た覚えがあるのだが。肯定的な意味での「いまここ」である。

なんで「いまここ」という言い方が気になるのか、というと、「いまここ」という時間感覚には過去や未来という時間軸を無化する働きや意図があるように思えるからだ。また「ここ」へのこだわりは、場の広がりや多層性を見ないことにする気持ちが含まれている気もする。

「いまここ」肯定派は、いまこの瞬間この場所、ここで起きていることこそが大切、そこを真剣に生きる(見て感じる)ことがよいと言っているように思われる。一瞬一瞬のかけがえのなさ、この臨場感を大切に、これこそがリアルだ。思うにこのような思想は、日本の人々に多いと言われる現世利益的な生き方や、何をリアルと思うかの感覚と妙にマッチする。

「いまここ」と関係ある話なのかどうか判断がついていないのだが、「時間(軸)感覚のなさ」というのは日本で暮らしているとよく感じることの一つだ。ここでいう時間感覚とは、過去と現在と未来を貫く一刻一刻の時の刻みであり、その蓄積である歴史感覚だ。ある出来事がいつ起きたか、その前後には何があったか、という時間を俯瞰して見るような感覚のことだ。

インターネットでBloggerによってブログというスタイルの出版がスタートしたとき、新たな投稿をポストすると自動的にタイトル上に年月日が記録された。何でもないようなことだが、重要なポイントだ。現在は日本の新聞社も、ネットではこのようなシステムを使うようになり、年月日が記事の上に記されるようになったが(時々ないものがあるが)、それまでは日付のない記事がたくさんあった。これはインターネットでは投稿記事がどんどん積み重なり、原則として過去のものも残されるという法則が十分理解されていなかったからと思われる。「いまここ」感覚で記事を書いて載せていると、あとになってこの「いまここ」がいったいいつの「いまここ」なのか、わからなくなってしまうのだ。全国紙の新聞社がまさか、と思われるかもしれないが、実際そうだった。

テレビのCSで、EPGをつかって番組表を表示し、映画の内容を見ようとすると、簡単なあらすじや出演者名が書いてあるが、多くの場合制作年月日が抜けている。制作国も書いていないことが多い。わたしが思うに映画の情報を伝えるとき、タイトルと同じくらい制作年月日は重要だと思う。制作年月日はそれがどんな映画か、という情報を補足する役割がある。

おそらく情報を伝えるときの標準形というものが日本社会にはあまりないのかもしれない。人物紹介(自己紹介、プロフィール)であるバイオグラフィーと言われるものは、ウィキペディアなどを見てもわかるように、名前から入り、生年月日、出身地とつづくのが普通だ。自由形式で好きなように書くよりも、調べものをしているときや、複数の人物を比較するときなど、ある形式に沿って書いてある方が役にたつ。

インターネット創世記のころの日本の新聞社が、記事の掲載日を載せるのを忘れていたのは、この国の「いまここ」的時間感覚によるものではないかという気がする。書いた日付のない記事は、価値が半分に落ちる。客観的事実を述べるのに、正確な日付は重要だ。よく見かけたのは「8月10日、愛知県の今治市で、、、、」というような、月日だけで年度がどこにもない記事だ。今は2014年だから書かなくてもわかる、という感覚だと思う。しかし2016年にその記事を読んだとき、いったいいつの8月10日なのかがわからない。これは紙の新聞と大きく異なる点だ。

Bloggerのシステムが当然のように、自動で年月日が入るようにしたのは偶然ではない。創始者はアメリカの会社だが、物事を見るとき記すときの(西洋社会の)時間感覚、歴史感覚が自動記入のシステムを生んだのだと思う。

イングランドのサッカーの試合を見ていると、試合の半ばでスタジアムの観客(サポーター)がある時間に一斉に拍手をはじめることがある。過去にホームチームで活躍した選手が亡くなったときなど、その背番号の時間(17番であれば17分)に拍手をして追悼するのだ。半世紀近く前の往年の選手の場合が多いが、サポーターたちは過去の時代に活躍した選手を「いまここ」の時間軸の中に据えて可視化する。

イギリス出身で大阪在住のサッカーライター、ベン・メイブリーさんが先日こんなエピソードを披露してくれた。イングランドのFAカップの準決勝が最近あり、クリスタルパレスとワトフォードが戦った。クリスタルパレスの現監督アラン・バーデューは1990年、選手としてFAカップの準決勝に出場し、決勝ゴールを決めてチームを初の決勝戦に導いた。そのときチームの監督だったスティーブ・コッペルは、この勝利は選手たちのものと考え、試合終了のホイッスルを聞くとすぐ、ドレッシングルームへ帰っていったという。そして先週の準決勝で、今は監督となったアラン・バーデューは、チームが決勝進出を決めて試合が終わったとき、当時の監督と同じことをしたそうだ。ホイッスルを聞くとドレッシングルームに消えた。サポーターもそのことを知っており、またテレビのカメラマンも知っていて、軽く手を上げて去っていくパーデュー監督のショットを捉えている。

このようなエピソードを選手やスタッフ、サポーター、メディア、サッカーファンが共有して、チームのサッカー史の中に捉え、今と過去を結びつけているのは興味深いことだ。イギリスのサッカー文化とはたとえばこのようなものなのだろう、と思わされた瞬間だった。「いまここ」は過去にも未来にも存在する。「いまここ」を熱く感じ大切にしつつ、すべての「いまここ」を一本の線でつなぎ、俯瞰して見ることで一つ一つの「いまここ」は、さらに深く記憶に残るリアルなものになっていくのかもしれない。

リアルとは、「いまここ」で感じるかけがえのない瞬間のものであると同時に、「つづく時間」である歴史の中に置いて、俯瞰で見て感じ判断するものでもある。「いまここ」が湧きたつ感動のリアルだとすれば、俯瞰で見るリアルはときに冷たく厳しい現実もつきつける。