20110629

Sleeping Village:眠る村

まもなく出版する新しい本のタイトルは、「Sleeping Village:眠る村」。スウェーデンのアーティスト、ラグナール・ペルソンのドローイング集です。ラグナールの絵を初めて見たのは、2年前のZINE'S MATEでのことです。蛍光がかった濃いオレンジの表紙は、馬の頭部がペン画で精緻に描かれていました。

並んでいた他の、どちらかというホンワリ、シンプル、スマートな印象のジンの中で、ラグナールのジンは強烈な光を放っていました。中を開くと、オオカミ、女の子、鳥、不思議な森の風景、フクロウ、ヘビ、ゾンビっぽい生きもの、メタル系文字、十字架と裸婦などがタッチをかえて次々現われます。基本は色のない世界ですが、絵によって部分的に色が入ってきます。印象的だったのは女の子たちの目力(めぢから)が強かったこと。パッと思ったのは作者はメキシコあたりの人だろうか、ということ。ZINE'S MATEのスタッフからスウェーデンの人です、と聞いて意外でした。

絵を見て、何が気に入るのか、気に入らないのか、はなかなかわからない、解けない謎です。ナニが、と言葉で表す前のところで、絵と観る人は結びつきます。どこがいいんですか、何が好きなんですか?と聞かれたら、そこからどうしてなんだろう、と考えはじめるという感じ。たとえばラグナールの絵のなかの女たち。女性をどのように描くかは、女の作家でも男の作家でも、その人の特性がよくあらわれる気がします。そして案外いいと思える人は少ない。女性あるいは女というものを、その作家がどう見ているかが見えるように感じるのです。絵を描くことと、女の人をどう見ているか感じているかは、直接は関係のないことです。絵そのものより、作家個人の生活や普段の女の人ととの関係性と関係があるのかもしれません。

ラグナールの描く女の子、女たちは、ときにワルソーな顔つきだったりします。意志的な表情の女たち、知性を感じさせる女たちもいます。わたしの印象ではみんなノーブラ。あるいは胸がない。でもラグナールは鳥や馬を精細なタッチで描くときのように女性を描いているだけかもしれない。でも考えてみれば、そのように、つまり鳥や馬と同じように女性を描く画家はいるんだろうか、とも思う。もしかしたらそこのところがわたしがラグナールの絵を気に入っている由縁かもわからない。逆に言えば、鳥や馬も、こちらが鳥や馬を見る目(現実に見ているときに、個体を識別するくらいのレベル)をもっていれば、ラグナールの絵に描かれた鳥や馬がもっとよく見えてくるのかもしれません。

今回の本をつくるにあたって、本のタイトルはVillageというのがまず思い浮かびました。ラグナールから送られてくる絵を見て、またラグナールの生まれた場所、スウェーデン北部の小さな村の話や、そこに住んでいた祖母の話(鳥の絵を描いてほしい、というリクエストに応えようと鳥の絵を描きつづけていたけれど、絵ができる前に100歳でおばあさんは亡くなったとか)を聞いて、思いついたものです。するとラグナールは、それならSleeping Villageはどうだろうと言ってきました。そしてそれをタイトルにしたテキストも書いてくれました。

ラグナールは一枚一枚の絵には、それぞれ物語がある、と言っていました。なるほど、確かに、何かモノの形を画面に留めたというよりそこに至るまでの出来事をワンカットで表しているようにも見えます。あるいは、魂のようなものを描いているのかもしれません。馬の魂、鳥の魂、人の魂、何とはしれぬものの魂、魂とは生きものが「生きている」という証のことです。でも絵の印象は、生き生きしている、というより、静まりかえった死の世界のようにも見えます。死の世界のように生き生きしている、としたら何と逆説的なんでしょう。

このドローイング集には小さな写真集が挟み込まれています。ラグナールの写真をいくつか見せてもらって、彼の絵の秘密に少し触れた気がしたので、読者にもそれを感じてもらえたらと思ってつくることにしました。ラグナールは絵をたくさん描く人で、この本の企画が進行中のあいだ、つぎつぎに新しく描いた絵を送ってくれました。同様に、写真も実はたくさん撮っていたようで、たくさんのストックの中から写真集のために選び出してくれました。写真もまた、ラグナールの視覚の世界をよく表しているものだと思います。絵と写真、一つのテーマを二つの方法論で観る楽しみ。「Sleeping Village:眠る村」は今、印刷進行中です。7月上旬には出来上がり、出版できると思います。

以下のページに本の紹介があります。

Sleeping Village:眠る村
http://happano.org/happano_store/SleepingVillage/sleepingvillage.html

また、7月16日(土)〜7月18日(月・祝)、3331 Arts Chiyodaで開催されるZINE'S MATE 2011の、ZINE'S MATE SHOPに、この本を出品予定です。一番早く、手に取って見られる機会かもしれません。

20110617

イスラムについて、知らなかったこと

正直に言って、わたしはイスラムについて偏見をもっている。たとえば女の人が髪を隠すために被らなければならないスカーフ、あの存在を見るだけでも、イスラムは女性を不平等に扱う宗教観があるに違いないと思っていた。一方で、イスラムは非常に平等で、平和主義、人種差別的でない価値観をもつ普遍性のある思想、とも聞いていた。どちらがイスラムの本質なのだろう。そう思いつつも、印象と聞きかじりによる偏見、つまり無知による思い込みは長く続いていた。今も偏見を払拭したとは言えないが、少しずつ知らなかったことを知り始めている。

少し前にテレビで、リビアなどここ最近のアラブ諸国での民主化運動に関する報道番組を見た。その中で、ヒジャブ(ベール)を被った大学生の女の子二人が、悩みや相談したいことがあるときは、モスクに行くのではなく、インターネットに数ある宗教指導者のサイトにメールを送って質問すると言っていた。だからモスクにはあまり行かない、と。知らなかったことだが、イスラム教における宗教指導者とは、コーランを解釈する学者を指すそうで、聖職者(神によって定められた権威者)ではない、つまりコーランという聖典から神のメッセージを読みとる知識や能力がある人ということだ。

女子学生は、結婚前の相手と会ってデートすることは許されるかどうか、という質問をいくつかのサイトの宗教指導者に送っていた。答えは、結婚前のデートは許されない、というものから、相手を知ることは大事なので節度をもって会うことはいいことだ、という回答まで、同じコーランを元にしていても、いくつもの違う指導が返ってきたという。そして、彼女たちも現代を生きているんだと思わせられたのは、複数の異なる回答から自分が納得できるものを選び、それに従って行動すると言っていたところだ。複数の宗教指導者に質問し、その中から自分がいいと思うもの(自分に都合のいいのもの)を選ぶ、という行為は、自分のテリトリーにあるモスクに行って、一人の指導者から一つの回答を得るのとはかなり違うことだと思える。

複数の宗教指導者に質問するという行為自体、宗教指導者を絶対視してはいない現われだ。実際、イラン出身の宗教学者レザー・アスランによれば、テヘランでは宗教指導者にあたるペルシア語「アホンド」は侮蔑語に等しく、「そんなアホンドみたいなことをするな!」と人々は言ったりするとか。イラン革命前には考えられなかったことだそうだ。

レザー・アスランによれば、イスラムにとって大きな宗教改革が起きているのが今の時代だと言う。ルターが宗教改革によって、教会や教皇を離れて聖書をキリスト教の唯一の源泉にしようとしたように、イスラムではコーランを、宗教指導者の解釈から、個人の手に取り戻しているところであると。ムスリムの間では、歴史的に長い間、宗教指導者たち、宗教指導機関が、どのようにコーランを解釈するかを独占してきた。その解釈には、宗教指導者たちの保守的で男性優位的な、いわば彼らにとって都合のいい考え方が多々あったに違いない。コーランそのものが啓示しているというよりは、その時代の社会通念や権力者の意向が強く反映されていたものと考えられる。

ところがムスリムの識字率や教育状況が飛躍的に向上したことや、禁止されていたコーランの翻訳が進み、アラビア語以外の多くの言葉で読めるようなったことから、個人がコーランを読み、自分で解釈できるようになった。それまでは一握りの宗教指導者からしか、知ることのできなかったコーランの意味やメッセージを、個人が自分の判断で解釈できる時代になったのだ。そこにインターネットの普及が加わり、ますます個人がコーランの解釈について、唯一絶対の宗教指導者を頼らなくてもいい状況が広がっている。それがアスランの言う、イスラムにおける宗教改革ということだ。

コーランの名の元、特定の価値観をもった人々や機関によって、故意に都合よくねじ曲げられてきたものが、今目にしているイスラム教の姿だとすれば、非ムスリムの目から見ると奇異に映る思想、習慣、風習も、イスラムの本質とは関係のないものである可能性は高い。

イスラムについて知ることは、それほど簡単なことではないかもしれない。でも今を生きる人間にとって、どこの国・地域に住んでいようと、イスラムは無視したり、偏見のままに放置しておけるような主題ではなさそうだ。であれば少しずつでも、機会をとらえて知っていくしかない。

参考図書:「イラン人は神の国イランをどう考えているか」(レイラ・アーザム・ザンギャネー編、2007年、草思社刊)、「変わるイスラーム/源流・進展・未来」(レザー・アスラン著、2009年、藤原書店刊)

20110603

世界最高峰を決めた夜

正確にはヨーロッパ最高であって、世界最高ではない。でも今のフットボールの大陸間のレベルを当てはめると、実質的にはヨーロッパ最高がそのまま世界最高になるらしい。この先20年、30年先には違う基準が生まれるかもしれないが、今の時点では、ということだ。

5月28日土曜日、ロンドンのウェンブリーで、ヨーロッパサッカーのクラブチームの頂点を競う決勝戦が行なわれた。欧州チャンピオンズリーグという名をもつこの大会は、毎年ヨーロッパの各国リーグ(スペイン、イングランド、フランス、イタリア、ドイツ、ロシア、トルコなど欧州サッカー連盟に加入している52ヵ国、76チーム)の前年の上位クラブが出場し、リーグ(総当たり)方式のグループステージを経て、トーナメント(勝ち抜き)方式でベスト8、ベスト4と進み、最後に決勝戦を迎える。決勝戦だけはあらかじめ設定されているスタジアム(今年はウェンブリースタジアム)での一発勝負で決まる。準決勝までは、ホーム&アウェイ方式といって、対戦チームのそれぞれのホームスタジアムで1回ずつ、計2回の試合を行なう。グループリーグでは総得点の上位2チームが先に進み、決勝トーナメントでは2試合の合計点で勝った方が勝利を得る。この方式はそれぞれに有利な条件下(ホーム)で1回ずつ、計2回対戦するため、実力が反映されやすいと言われている。面白いのは、勝ち抜き戦で合計点が同じになった場合は、アウェイゴール(適地でのゴール)の数が多い方が勝者になること。

今年の欧州チャンピオンズリーグは、スペインのバルセロナとイングランドのマンチェスターユナイテッドが決勝に進んだ。この対戦カードは2年前と同じ。つまりここ何年か安定した強さを保っているチーム同士の再度の顔合わせになった。2年前は歴史も人気もあるビッグクラブ二つの対戦ということで、「夢の顔合わせ」などと言われ、試合前は五分五分の予想がされていたが、結果はバルセロナが2−0で完勝。今年は7対3、あるいは8対2くらいの割合で、バルセロナ有利の見方が多かったようだ。バルセロナの強さは、準決勝のレアルマドリー(スペイン)戦でも充分披露されていたので、このチームに勝てるところはないのでは、という見方もちらほらあった。ユナイテッドの方は、準決勝のシャルケ(ドイツ)戦では「明らかに格上だった」と言われるような、圧倒的な勝利を得て強さを見せてはいたものの、シャルケはレアルマドリーと違い、ここまで勝ち進んできたことがサプライズのチームだった。

因みにバルサ、ユナイテッドの両チームは、この決勝戦前に、今年の国内リーグでそれぞれ優勝を決めていた。つまり現時点でのスペイン最高とイングランド最高の対戦にもなったわけである。バルセロナというチームは、多くの選手が全寮制のもと、子どもの頃から共に生活しながらトレーニングを受け、その中から優秀な選手が選出されてプロ選手となり、トップチームを形成していると言われている。今年のチームもスタメン11人のうち8人がバルサ下部育ち、その中の3人は、そろって2010年度のヨーロッパ年間最優秀選手の最終候補の3人に残っている。一つのチームから3人のファイナリスト、これは普通あり得ないこと。それだけ優秀な選手が揃っていることになるし、下部組織がうまく機能しているように見える。

一方ユナイテッドの方は、イングランドのチームの多くがそうであるように、世界各国からやった来た国際色豊かなチームだ。バルセロナがスペイン人選手が中心であるのと対照的。ただ選手の移籍が日常のサッカー界にあって、ユナイテッドは長期に渡ってプレイする選手が多いチームではある。10代のときから活躍し、20年に渡ってプレイの質を維持しつづけ、30代後半の今も存在感を示しているプレイヤーも1、2人いる。ベッカム、クリスティアーノ・ロナウドなどのスター選手も在籍していたが、彼らも10代の頃からユナイテッドで育ち、ユナイテッドでスターとして開花した選手たちである。印象として、若い選手の才能を買って入団させ、チームで長く育てるクラブのように見える。今もスペシャルな選手は何人かいるが、個々はわりに地味めで、チームとして強さを発揮するクラブとも言える。また監督も1986年から四半世紀チームを主導し、移り変わりの激しい(成績が悪いとすぐに解雇される)監督職の中にあって、非常に珍しい存在となっている。

バルセロナの現在の監督は就任3年目だが、13歳のときからバルセロナ下部組織で育ち、後にトップチームで中心選手としてプレイしてきた人。そして監督としてクラブに戻ってきた。プロ選手時代を入れると15年近くバルセロナのために働いていることになる。バルセロナ、ユナイテッド、この二つのチームには、他のチームにはない似たところがあるように思える。それは人とクラブとのつながりに関係していることだ。人というのは選手であり、監督。一つのチームに同じ人々が長く関わることは、チームカラーやそのクラブのあり方に影響する。国内リーグで、ヨーロッパで、共通の経験を積み重ねてきたメンバーが長くいっしょにプレイすること、それを繰り返すことで、自然にチームの伝統のようなものが生まれる可能性はある。今のヨーロッパのサッカー界では、それほど多くはないクラブとしてのあり方のように、わたしには見えるのだが。

バルセロナとユナイテッドの、2年前対戦時と今年のスターティングメンバーを比べてみた。どちらのチームも驚くほどメンバーに変化がない。スタメン11名のうち、バルセロナの方は7名、ユナイテッドの方は8名が2年前と同じだ。2シーズンというのは確かにほんのちょっと前とも言えるが、入れ替わりの激しい他のクラブを見ていると、そしてヨーロッパ最高を決める重要な試合でのメンバー選びということを考えると、なかなかこうはならないのではと思う。

この夜の試合はバルセロナの2連勝で終わった。負けた方のユナイテッドの監督ももろ手をあげて称賛するほど、勝ったバルセロナは強く、素晴らしいチームだった。個々の選手が素晴らしく、またチームが一つの人格のように機能していた。ユナイテッドの方は選手個々人の質は低くなかったものの、チームとしてうまく機能しなかった。バルセロナの細かいパス回しに翻弄され、ボールを保持して攻撃態勢に入れる時間帯があまりに少なかった。サッカーのスタイルの違いとチームとしての機能の質の差が見えた試合だった。バルセロナは相手陣地にボールを持ち込んで、細かいパスをつなぎながらゴールの機会を待って勝負する。ゴール前に長くいること、そこでボールを回すこと、それを徹底的にやっている。個々のボール保持能力の高さから、ボールを奪われることが少ない。ユナイテッドの方はボールに執着するのではなく、中盤でボールを奪って、3、4人のシンプルで素早いパスワークで前進し、あっという間にゴールに迫るダイナミックなスタイルに見せ場がある。この試合では、ボールに執着しないユナイテッドが、7割近い時間ボールを保持するバルセロナにやられてしまった。

チームとしての力、個々の選手の能力の差もあるかもしれないが、このスタイルの差がこのファイナルの場では、実力差以上に試合の進み方を決定づけてしまったようにも思えた。試合の多くの時間が、ハーフラインの半分、バルセロナのゴール側で費やされた。ユナイテッドはそこでボールを奪うことが難しく、また奪っても前に繋げることがなかなかできなかった。それができていた時間帯もあったが、全体としてリズムがバルセロナのものになっていて、試合を支配することができなかった。

ユナイテッドはもしかしたら違う戦い方をすることもできたかもしれない。いつものやり方ではなく、バルセロナに合わせた戦い方、たとえば自陣ゴール前に引いて堅く守り、何人かの相手選手にはマンマークをつけるなど。今回の決勝戦までの試合の中で、バルセロナ対策をやってプレイしある程度成功したチームもなくはなかった。でもユナイテッドはそれをしなかった。ここまでやってきたやり方、ユナイテッドというチームのプレイスタイルで最高のパフォーマンスをすることにこだわった。バルセロナの方は元々、今のやり方以外はあり得ないチームであり、またそこに絶対的な自信をもってプレイしている。このファーストチームだけでなく、育成世代にいたるまでこの軸はびくとも動かないものだ。バルセロナのグアルディオラ監督は試合前の会見で、たとえ負けたとしても、このチームと選手たちを誇りに思う気持ちは変わらない、またユナイテッドが負けた場合もユナイテッドが素晴らしいチームであることに何の変わりもない、というようなことを言っていた。ユナイテッドのファーガソン監督もほぼ同じ気持ちだったのではないか。

サッカーの試合というのは勝ち負けを決めるもの、どちらがより強く優れたチームかを競う。勝ったか負けたかはチームにとって、天国と地獄ほどの差が出るものでもある。が、それだけのものかと言えばどうもそうではないようだ。それは人の生き方にも通じるものだ。自分の人生を有利に進めようとするのは自然なこと。でも同時に生きるためには夢や理想も必要だ。自分がどんな人間であるかを他の人々に示したいという気持ちが、人が生きることを前進させていく。サッカーのチームもまた同じことなのかもしれない。自分たちがどんなサッカーを目指して日々トレーニングを重ね、試合に臨んで結果を出していくか、結果から修正しそれをまた試合に反映させ、その繰り返しの中で成長していくものなのだ。であるならば、チームの核であるプレイスタイルを一つの試合のために変えることがどんな意味をもつのかはすぐわかる。

ユナイテッドは来年にもまた、チャンピオンズリーグで、バルセロナとどこかの段階で対戦する可能性は高い。スタイルを変えることなくチームをより強化することを、1年かけて取り組んでいくのだろう。今の時点では、バルセロナのプレイスタイルが世界中のサッカーファンやサッカーチームに大きな影響を与えているのは間違いない。それが一番強くて魅力あるサッカーに見えるからだ。でもこれは今のバルセロナのチーム、選手の能力があって初めて実現できている強さであり魅力とも言える。このチームが同じ強さを保持するであろうここ何年かの間に、強さと魅力を強化したユナイテッドが、自己のスタイルで逆転をするところを見てみたいものだ。それが実現すれば、世界最高峰の頂上はさらに天に近づくことだろう。