20110829

イスラム革命、ほんとうは何だったのか(2)

前回はアーザル・ナフィーシーのエッセイを例に、一人のイラン人女性作家がイスラム革命をどのように捉えているかを書いた。彼女の見方では、100年くらい前からイランに起きていた民主化自由化運動が、1979年のホメイニの革命で一気に後戻りし、女性のヴェール着用規定など社会のあらゆる面で画一化が起きたということになる。今回はさらに他の作家や学者の見方に触れてみたい。

日本語の翻訳版も出ている「ペルセポリス」というマルジャン・サトラピの自伝的コミックは、最初の章「The Veil」でイラン革命時のヴェール着用の混乱を描いている。著者は進歩的な両親のもとに育ち、フランス式の学校に通っていたが、革命政権にとって退廃的で資本主義的なそのような学校は閉鎖されることになり、学校で子どもたちはヴェールの着用が求められる。サトラピの母親はヴェール反対のデモに参加し、身分を隠すため髪を明るい色に染めサングラスをかけていたという。ホメイニの革命政権が資本主義や帝国主義を目の敵にしていたのは、イスラム原理主義が共産主義やファシズムを基盤にしたものだったことと関係がある。宗教的側面とは別に、左翼急進派を味方につけて、「帝国主義」に立ち向かおうとしていたのだ。その帝国主義とは、女性やマイノリティの権利を含む、個人や文化の自由が含まれたものだった。

イラン系アメリカ人レザー・アスランの「変わるイスラーム」(藤原書店、2009年)は、イスラム教やイラン革命を理解する上で役に立った本。1906年の立憲革命の後、イラン革命の前にもう一つ民族主義革命と呼ばれる出来事があった。1953年、インテリ、宗教指導者、バザール商人らがイランの独裁政権を転覆させのだ。が、数ヶ月後、CIAの肩入れで王は復権する。脱イスラム化と世俗主義による近代化政策は、婦人の参政権や識字率の向上を目指す一方で、イスラム教勢力の弾圧や市民の自由の抑圧もあり、国民の反発も抱えていたと思われる。アスランによれば、1979年のイラン革命は、民主主義者、学者、欧米で教育を受けたインテリ、レベラル派と保守派の両方の宗教指導者、バザール商人、フェミニスト、共産主義者、ムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒、、、とあらゆる層の老若男女から圧倒的な支持を受けた革命だった。2月のテヘランの街頭に溢れた数十万人の群衆は、パフラヴィー王の抑圧的で専制的な治世への軽蔑心で心を一つにしていた、と言う。政党政治を無視し、憲法を廃止し、腐敗した無能な統治をしていた国王にとことん嫌気がさしていたのだ。

イラン革命は革命後のプロパガンダで言われるような、ホメイニの命令で始まった一枚岩的な革命運動ではなかったと言う。反帝国主義、民族主義、打倒現政権を唱える、立ち場の違う様々な勢力の中で、「ホメイニの声が一番大きかったにすぎない」とアスランは書いている。ホメイニはこういう人々の反発心をうまく利用して一つにまとめ、革命につなげた。前述のアーザル・ナフィーシーのエッセイの中には書かれていない、王の政権への反発や革命への民衆の求心力がここでは指摘されている。

ただし、ナフィーシーの指摘する革命後の宗教的強制がなかったのかと言えばそうではない。あったのである。ナフィーシーはその点を強調しているだけである。革命の基本条項としては、1906年の立憲革命と変わらない理想主義が掲げられていた。男女の平等、宗教的多元主義、社会的正義、言論の自由、平和的集会の権利などなど。それらがなぜ、革命後に実行されなかったかと言えば、既成の宗教指導者階級が巧みな操作によって、自らを道徳的権威としてでなく、国家最高の政治的権威者に仕立ててしまったからである。憲法はこのイスラム法学者たちに、政治や司法のあらゆる権限をもたらした。宗教指導者による絶対的支配の制度化を可能にしてしまったのだ。国民はその「不吉な潜在的重要性に気づかず」、国民投票において98%以上の賛成で新憲法は承認される。その結果、イラン国民は、パフラヴィー王時代とはまた別の圧政の元に押し込められることになった。

そして革命の翌年に起きたイラン・イラク戦争の中、国家安全保障という名のもとに言論の自由が封じられ、宗教指導者による全体主義国家体制が現実のものとなる。アスランによると、1906年、1953年は外国勢によって、1979年は既成の宗教指導者階級によって、横取りされた悲運の革命ということになる。

こうしてイランのここ100年の歴史を見ていくと、近代化や民主主義、宗教や言論の自由のある社会は、王政の中でもイスラム政権下でも実現されなかった。100年の中で3回もの革命を経験してもである。最後のイラン革命について言えば、多くの国民によって、腐敗した王政政治から抜け出す道として、大きな期待と支援を受けながらも、最後には裏切られる結果となっている。アスランによれば、イスラム世界はいま、キリスト教における宗教改革と同じ事態が起きつつある時代にあたると言う。人々が宗教指導者という特権階級や地域の宗教施設に頼ることなく、ムスリムとして自律的に生き、コーランに接することが可能になってきたからだ。コーランはいまや一部の宗教指導者が独占するものではなく、原語のアラビア語が読めなくとも、翻訳書を読むことで自分で解釈ができるものになった。また特定の宗教施設に属さなくとも、インターネットで好みの宗教指導者を見つけ、日々の疑問をぶつけることができるそうだ。複数の宗教指導者に質問をし、その中から自分に合った答えを取り入れる、こうなるともう、一種の人生相談と変わりがない。宗教が権威から離れ、個人の手の元に渡っている。

その手だてとなっているのが、翻訳とインターネットだという事実は、何とも興味深い。今後イスラム世界がどのように解放されていくのか、あるいはそうはならないのか、は興味あるところだ。イランにおける立憲革命、民族主義革命、イスラム革命と3回に渡る改革運動が、どれも基本理念としては、自由で民主主義的な解放された社会を理想に掲げていたのであれば、イスラム教自体が悪弊を生む問題の核心ではない、という推測が働く。イスラム教は多分、思想としては、自由で公平な理念と相反しないのだろう。ただ現実としては、3回の革命が失敗したように、自由な社会を展開し運営していけるだけの国の基盤がないのだ。国の基盤がない、という中には、為政者のレベルだけでなく国民全体の文明度、社会理解度も関係してくると思われる。もちろん一人の人間の能力は、生まれた場所や所属する社会によって多くを規定されている。しっかりした国の基盤は国民が支えるものだが、その国民は国の基盤の範疇の中からしか生まれない。

Firoozeh Dumasというイラン人作家の「Funny in Farsi」にこんなエピソードが出てくる。著者が7歳のとき、家族はイランからアメリカへと渡る。最初の登校のとき、母親が教室についてきた。父親の考えで、少しの間、付き添うのがいいと思われたからだ。本人も母親も英語を理解しない。教室で先生が新入生である著者を紹介するとき、世界地図をみんなに見せて、イランの場所を教えてもらいましょうと言う。そして母親に、イランの場所を示してください、と頼む。先生に促されて、母親は前に出ていくが、答えることができない。「Iran? Iran? Iran?」身振り手振りも交えて先生は聞くが、母親は答えることができない。最後に先生が理解したのは、母親は英語がわからないのではない、地理がわからないのだ。世界地図の中で自分の国がどこなのか、どこにあるのかを知らないのだ。著者の母親の世代では、女性が教育を受けることはあまりなく、良い夫を見つけることが女の一大事で、お茶を入れたり料理ができることこそが覚えるべきことだったという。

このような状況を「後進性」という言葉で言い表すことはできるが、これはイランやイスラム社会に限ったことではない。日本も過去においてそうだった。ある程度の民主的な社会を実現するには、国民を構成する個々の人間の「個としての能力」が必要になるのではないか。村や家族といった社会に従属するだけの個ではなく、自身が意味ある構成要員であることを自覚する個であること、それが個としての能力だ。

宗教というのは、イスラム教にかぎらず、「完全なる個」の存在とは相反するものなのかもしれない。個が確立されていない集団や社会ほど、宗教が力を発揮できる。宗教は信仰に関することだけでなく、社会のきまりや習慣、教育、政治、制度などあらゆることを支配下に置くこともできる。イスラム革命よって起きた社会の画一化は、イスラム教そのものと無関係であるとは断言できないが、その不合理性の多くはどこの社会でも起きうる、国と国民の進度の反映として見るのがいいように思う。

20110812

イスラム革命、ほんとうは何だったのか(1)

9.11以降のここ10年、イスラム教徒が関係する事件やテロが世界の注目を集めてきた。アラブ系の人々やムスリムに対する理由のない偏見や排除の思想が、地球全土をうっすらおおっているように思えることも多い。ムスリムの数が少ない日本では、街で彼らを見かけることもあまりないし、知り合う機会もなく、新聞、雑誌などで日常的にイスラムに関する知識や情報に触れることも少ない。日本にいれば、確かにイスラムのことを考えなくても生きていけるように思える。未だ、のんきな島国人として暮らすことは可能と言えば可能。

一般に、日本の報道はスポーツもふくめて、国際ニュースが非常に少ないという事情もある。国営放送のNHKでさえ、夜の7時、9時のニュースのほとんどは国内ニュースで、海外ニュースを見たければ、NHK BS1で「ワールドN」(旧「今日の世界」)などを見るか、ケーブルTVや衛星放送でCNNやBBCなどの海外の報道番組を見ることになる。インターネットのニュースも日本語で見ている限り同様。それだけ日本の社会状況や日本人の心理的状況が、国内的視野のみで自足しているということなのだろう。

自分がイスラムについて関心をもったきっかけを思い起こせば、多くの人々と同様、やはり9.11のときだと思う。あの事件のあと、日本でも多くのイスラムについての解説本が出版され、そのいくつかはかなり読まれたのではないか。が、それもおそらく1、2年くらいの内に静まったように思う。わたし自身の興味もほぼ同時期に消えた。次にイスラム関係の本を読んだ時期は、2009年初頭に、池内恵という若いアラブ研究者の本「イスラーム世界の論じ方」(中央公論新社、2008年刊)という刺激的な本を見つけたときだと思う。この本を手にとったきっかけは、その前年にパレスチナでハマスが自爆テロなどの武力抗争を行使する中、パレスチナ人によって選挙で自治政党として選ばれたことがあった。池内恵の本は意外にも、イスラム研究者でありながら、日本の親イスラム研究者たちとは立ち場を異にし、イスラム教を擁護しているわけではなかった。むしろイスラム教のもつ問題点があげられていたことが印象に残っている。そのことで、池内氏は研究者たちから批判を受けたりもしていたようだ。

そして最近、またイスラム世界への興味が戻ってきた。きっかけは、現在進行中のプロジェクト「Birds Singing in New Englishes」で、イスラム圏の作家の短編小説やエッセイを訳す機会が出てきたからだ。このプロジェクトでは、英語圏以外の出身作家の英語作品をアンソロジーとして集めているが、ここのところパキスタン、シンガポール、バングラデシュとイスラム教の地域の作家が続いている。短編小説やエッセイを通じて、彼らにとってイスラム教はどんなものなのか、少しずつその片鱗を知る過程にある。中でもエッセイは、著者の心情が率直に書かれているだけに、より参考になった。

アザール・アビディの「チトラルへの道」を訳したときは、パキスタンがアフガニスタンに隣接していること、作者が子どもの頃よく訪ねた伯父の家がペシャワールにあり、そこが後にテロリストによって爆破されたこと、などパキスタンという国の事情を知ることになった。そしてアビディがエッセイの中で、この国の暴力の連鎖の始まりは、「わたしの考えでは、元年は1979年であったと思う。それはイラン国王シャーが王位を失い、イランの人々がホメイニにだまされて革命に身を投じ、自らを滅ぼすことになった年だ。」と書いていたことから、イスラム革命を知ることの必要性を強く感じた。アビディは、「わたしの目からは、チリにおいてピノチェトがしたように、イランのシャーが革命を押さえ込んでいたら、今日の歴史はずっと変わっていただろうと思える。」と述べている。シャーがアメリカによって守られ、ソビエトがアフガニスタンに来なかったら、タリバンもアルカイダもテロリストの爆破もなかったのでは、と続けているのだ。

イスラム革命についての知識は非常に少ない。知識がないから自分なりの解釈ももてない。そういう状態だった。少し調べてみようと思いたって、最初に手にしたのが「イラン人は神の国イランをどう考えているか」(レイラ・アーザム・ザンギャネー編)。その中のアーザル・ナフィーシーの「夢の材料」というエッセイによれば、イスラム革命以前のイランは、19世紀半ばからイランの現状に疑問を持った人々が改革運動に参加していた。そして1906年立憲革命が起きる。それはベルギーを手本にした新しい憲法で、女性の社会への参加を拡大させる画期的なものだった。1967年には女性が家庭の外で働きやすく、結婚についても実質的な権利を持つことのできる家族保護法が発布された。このような社会の解放化が、1979年のイスラム革命によってに100年近く後戻りさせられた、というのがナフィーシーの主張だ。新体制下では結婚承諾年齢が18歳から9歳へ、一夫多妻制も合法化され、家族保護法も無効にされた。最高指導者であるホメイニによれば「女性の尊厳を回復させるため」のものだったらしい。新法にはヴェールの着用規定が含まれ、それに反対する数十万人の女性たちがテヘランでデモを繰り返したという。ヴェールは最初職場で義務づけられ、その後あらゆる公的空間へと広がっていった。ナフィーシーによれば、ヴェール着用の狙いは、個人的、宗教的自由を「たたきつぶして」社会的画一化を強要するところにあった。

つづく(レザー・アスラン、マルジャン・サトラピなどの本に触れる予定)