20121009

個人と国家ーーースポーツ報道に見る日本人の愛国意識


作家の温又柔さんが白水社のウェブサイトに連載してる「失われた『母国語』を求めて」の第18回「私の国々」の中に、サッカーのワールドカップの試合の前に「日本人なら、ちゃんと日本を応援しろよ」という言葉を小耳に挟んで動揺した、という箇所があった。在日台湾人である温さんは、それを聞いて、「日本人は日本を応援しなければならない。日本を応援しないなら日本人ではない……そう突き付けられたような気がした。」と書いている。日本人なら日本を応援しろよ、と言った人には、特別なことを言ったという意識や、他国の人を排除しようという悪意はなかっただろう。が、日本人であれば日本を応援するはず、という固定観念に縛られているとは言えると思う。

なぜ日本人であれば、日本を応援しなければならないのか。日本人であることと、日本国への「愛」や「忠誠」の表明をスポーツ観戦の場ですることには、どういう関係性があるのか。そういったことは、ほとんど今の日本で問われることはない。日本人ならみんな日本を応援している、とのんきに考え、そのことに格別疑問を感じないのが「常識」だからだ。

それは裏を返せば、「日本人である」ことを、自分の第一のアイデンティティにしているからだ、とも言える。意識などしていないと言っても、そのように「素直に思えること」自体が、自己のアイデンティティを示している。オリンピックの報道が、日本人選手の「功績」ばかりに偏っていて、幅広い競技や他国の選手の活躍を見渡せないものになっていても、不満の声が上がらないのも、多くの日本国民がそれでいいと思っているからだ。テレビや新聞の報道の偏りは確かに度を超えていると思うが、かといって彼らが視聴者の感覚を無視して、扇動的に愛国的な表現に走っているとも思えないところがある。いわば市場原理、「ニーズがある」ということだ。

そういう意味で、もっと日本人以外の選手の活躍もみたい、日本人が出ていない競技も紹介してほしい、という意見が一般の視聴者の中から出てくるには、あと100年はかかるかもしれない。

日本が勝てば「素直に」嬉しい人々、それが自然なことだと信じている人々、日本人の中から優れた選手が出てきて「世界」で通用したりすれば、もう天にも昇る気持ちで、その選手=日本人=自分、という構図が簡単に出来上がり、自分のアイデンティティや能力が底上げされたと感じる人々、こういう人々がいかに多いことか。スポーツ報道やスポーツ番組の組み方を見ていても、かなりあからさまだ。

こういうことに気づいているのは、日本に住む外国籍の人たちだと思う。なぜならスポーツの国際大会のテレビ放映では、話題の中心はもっぱら日本チーム及び日本人選手と決まっているからだ。新聞報道でも、ある競技で1位になった人がトップ記事になるのではない。トップ記事は何位であれ日本人選手で、仮に日本に住む外国籍の人々の母国の選手がある競技で1位になっても、扱いは小さいということを彼らは経験的に知っている。

スポーツにおいては「愛国意識」が非常識なまでに高まりやすい。たとえば「良識的」で「民主的」なイメージをもつ朝日新聞も、スポーツ記事については、かなりの「偏向」が見られる。内情の見えにくい政治の世界と違って、情報ソースが多様なスポーツは一般人にも見破りやすいのに、平然と「愛国報道」をしているところを見ると、相当のんきで無頓着な記者やデスクが多いのだろう。

最近、朝日新聞でこういう報道があった。イングランドの名門ビッグクラブに日本人サッカー選手が加入した。日本人初の世界最高と言われるリーグのトップクラブへの移籍ということで、日本のサッカー関係者や報道は上へ下への大騒ぎとなっていた。その入団記者会見の模様が、写真入りで新聞に載った。その写真を見て、わたしは???と思った。向って左側に日本人選手、その右隣りにクラブの監督がいたが、監督の(向って)右の肩のところで不自然に写真が切れている。本当は監督のもう一方の隣りには別の加入選手が写っていたのだ。海外の報道で見ると、監督を中央にして両側に新加入の選手が写っているのが元の写真だった。つまり日本の新聞は、右側を切ってしまったというわけ。

何でこんなことをしたのか。おそらく、入団会見は日本人選手と監督だけでやってほしかったのに、もう一人のイギリス人選手も一緒に行なわれたことに大いに不満があったのだろう。だからいなかったことにした。写真だけではなく、記事の文章にも、いっさいイギリス人選手の話は書いてなかった。その記事を読んだかぎりでは、日本人選手が監督と二人で入団会見を開いた、という「事実」が伝わってくる。これが偏向でなくて何だろう。「ウソ」はついてないかもしれないが、事実も伝えていない。それとも日本の新聞では、ある取材現場で起きたことの全体ではなく、日本人のことだけ切りとって伝えていればいいという考えなのか。

こんな報道が誰からも非難されずに大手を振るっている日本の社会。おそらくこの「無頓着な愛国心」ゆえの報道に、不信感を抱いた日本人読者はほとんどいないのでは。日本の多くのサッカーファンの熱狂とともにある新聞やテレビは、自らを「愛国意識」が過ぎた存在とは意識していないだろう。わたしが思うには、報道というのは、世界を相対的視野の中で捉え、事実を伝えるべきである、そうしてほしい。そうでないと、身勝手で身びいきな物語があちこちで溢れることになる。そして世界で実際に何が起きているのかを見誤る。新聞報道は、市場原理にまかせた「商品」であってはならない、と思うのだが。

愛国心が低いから教育し直した方がいい、と非難さえされる現代の日本人であるが、自分(個人)を「日本人という枠組=国」と同一視する傾向が決して低いとは思えない。それは「個人として生きる」という意識の発達が遅れていることと関係していると思う。村社会もなく、日本や日本人という枠組にすっぽり埋まらずに生きることは、確かに不安が多いかもしれない。しかし、そこから距離を置いて生きることを少しはしないと、個人というものが育つ土壌ができない。この国で個人が何かを主張できるようには決してならない。それは幸せなことでも、未来のあることでもない。