20190125

アートと常識

アートというものが、現実の社会でどんな役割を果たしているのかについて、最近思いあたることがあった。年末年始にかけて、音楽家の評伝を2冊読んでいた。最初に読んだのが『グレン・グールド:未来のピアニスト』、次に読んだのが『高橋悠治という怪物』。2冊ともピアニストで文筆家の青柳いづみこの著書である。対象になっているのはどちらもピアニストにして作曲家、そしてどちらも破格の個性派。この2冊を読むことで、「変人」のようにときに言われ、あるいはそのようにレッテルを貼られているアーティストが、何を考えているのか(何を考えて生きているのか、何を考えて作品に対しているのか)を少し理解した気がした。

それとは別に、年始に身内の葬儀があって出席したのだが、そこにある社会というもののあり方や人々の行動を間近に見て、常識の世界の存在を改めて意識する経験をした。一般社会やそこで暮らす普通の人々というのは、個人としてのあり方と社会の常識のバランスの中で生きている。しかし集団の中に入れば、優先されるのはその社会(集団内)の常識となるだろう。少なくとも良識(常識)ある人間はそう考え、そのように振るまうのではないか。日本においてはそうだ。

常識というのは、そうするものだと自分が覚えていることでもあるし、また知らなくとも他の人のしているように振るまうことでもある。そうするものだと覚えている場合も、経験として知っているということであって、多くの場合、その根本や源を知ってのことではない。またそれを知っていることを求められることもない。そこにある常識から外れないように、よく周りを見て従っていればいいのだ。こうしたことは葬儀のような儀式の場に限らない。日常のあらゆる場面で、人々は常識から外れないように身の振り方をコントロールしている。

一方アーティストと呼ばれるたちは、そういった常識で固められた社会に対して、作品をとおして違う考えがあることを伝えようとしている、と思われる。つまり常識人から見たら、聞きなれない、あるいは非常識としか思えないことを、大事なこととして言っている場合があるということ。
作曲家でピアニストの高橋悠治の評伝である『高橋悠治という怪物』では、もう一人の怪物であるグレン・グールドとの比較がたびたび出てきた。グレン・グールドは特異な解釈、奏法をするピアニストとして知られているが、作曲家としての側面ももっていた。作曲をするピアノ弾きという点で、この二人には共通点がある。そのことと関係するかどうかわからないが、著者の青柳いづみこ氏は、両者が楽譜に指番号を振ることを嫌っていたことをあげていた。指番号というのは、親指が1、人差し指が2、中指が3、薬指が4、小指が5と表示される楽譜上の番号のこと。ある音符の上に3と書かれていれば、その音は中指で弾くのがいいという意味になる。(すべての音符に番号が振られているわけではなく、要所要所に書いてある。絶対的なものではなく、一つの指針ではあるが)

他のピアニストにもそういう人がいるのか、わたしは知らないが、アマチュアである自分の経験で言えば、指番号が定まらないうちはうまく弾けないし、指番号を振った楽譜こそが初見や練習中の曲を弾く上での道しるべとなる。これはピアニストである青柳いづみこ氏にとっても、ある程度言えることのようだ。

指番号を定めて(どの指で一つ一つの音符を弾くかを割り当てる。市販されている楽譜には、普通おおよその指番号は振ってあるので、まずはその通り弾いてみる)ピアノを弾くということの意味は、「いつも同じ指使い」でその曲を弾くことにつながる。それによって指が慣れ、スピードをあげてもスムーズに弾けるわけだ。

ではグールドや高橋悠治が指番号を振ることを嫌う、ということにはどんな意味があるのか。そは「繰り返し」をしないということ。弾くたびに違う指使いで弾くことが、クリエイティブな演奏につながる、つまり1回ずつ、違う弾き方を試しながら、その曲の別の可能性を探す、あたかもいま初めてその楽曲がそこで誕生したかのように対する、というようなことだ。

とすると、指使いをきっちり定めて、いつも同じ弾き方である曲を弾くことにはどんな意味があるのだろう。しかしそのことをこそ、ピアノを学習する者は「練習」とか「レッスン」と呼んでいる。それは奨励されることであり、そうやるべきことであり、それをやらずに1回ずつ気ままに指使いを変えていたのでは、練習にならない。それが普通の考え方だ。理想は100回弾いたら100回同じように弾けること。かもしれない。しかし、、、

この二つの態度の違いは、何のために演奏するのか、何をゴールとするのか、という問いにつながるだろう。ひたすら練習して、一つの弾き方で、ある到達点に達すること。一般の学習者が目指していることの一つだ。グールドや高橋悠治は、そのようなゴールではないところを目指している。楽曲から、どれだけ違った可能性を引き出せるか。同じことを繰り返すことに意味はない。そう考えているはずだ。

一つの弾き方でひたすら練習に励んでいる学習者にとっては、これは目を覚まさせられる指摘になる。どこで違ってしまったのだろう。。。と。この指使いについての「常識」は、ピアノ学習における決まりごととして、広く受け入れられているはずだ。一つの曲を何週間、何ヶ月と練習して、繰り返すことで自分のものにし、完成度の高い演奏に仕上げる。そうやって演奏を固めていくことで、完成品をつくりあげる。そこではミスタッチや演奏の不安定性はなくなるだろうが、同時に曲に対する「疑問」あるいは「問いかけ」も消えてしまうのはないか。

その意味で、グールドや高橋悠治が指使いを決めずに、1回ごとに違う演奏を心がけ、楽曲に対する問いをやめないのは、演奏者として正しい態度のように見えてくる。作曲をする演奏家の演奏が、演奏のみする演奏家と、どこか違うアプローチを見せるのは、このような傾向によるものかもしれない。つまり「上手く」弾くことより、どう作曲家の意図と対面するかの方が演奏する上で大切ということ。

日常生活や何かの式典においても、行なわれることの大半は、疑問の余地なく遂行されることが多い。なぜ朝7時半に起きて8時に家を出て、9時までに会社に着くようにするのか。なぜ8時すぎまで残業して、10時に家に帰ったらご飯を食べて風呂に入り、テレビを見て寝るだけなのか。考えることなく行動している。なぜ夜は10時前にベッドに入り、朝は4時半には起きて自分の研究または勉強をして、9時から5時まで働いて、7時には家で料理して家族と夕飯を食べ、子どもや妻(夫)と様々な会話をもつ、といったことをしないのか。そのように生活するには、日本では意志の強さと集団内での自己主張が必要になるだろう。

多くの場合、人は社会や集団の常識(それは必ずしも規則や規定ではない)に従って生きる。なぜそうなのかについては考えない。ものを考えないこと、周囲や常識に従うことが、楽な、あるいは問題の少ない生き方だと信じている。そしてあるとき、何か自分の身に起きたときに、初めて自分のやってきたことを、真剣な気持ちで思い返すのだ。

アーティスト(社会の要請ではなく、自己の発意として、それまでにないものを生みだす人)は、常識というものの枠を無化して生きている。つまりものを考える人だということ。どんな小さなことも、周囲の要請や社会の常識に従って、自分の考えを反映させることなく行動することはしない。日常の小さな行動と、自分の創作物の間には密接な関係があるはずだ。日常生活では全面的に因習や風習に従い、人にもそれを強要し、創作するときだけ何ものにも縛られない自由な発想で、などということはあり得ない。アーティストの特質は、身を置いている環境の中で自己を対象化し、それについて深く思索し、その成果を作品や行動で示すことだと思う。

アーティストが常識に捉われない自由な発想ができるとしたら、その理由は一般人より、より広く多種のものであふれる世界を知っている、あるいは経験しているからかもしれない。一般人の視野は一般に狭い。あることを強く「常識」として主張し、人にも強要する人は、自分のまわりの狭い世界しか知らずに、それを普遍的なものと思い込んでいることがある。しかし、たとえば葬儀一つとっても、日本では出席者は喪服と呼ばれる黒い服(黒ければ済むのではなく、たいていは喪服としてしか着られないような材質とデザインのもの)を着ることが常識だ。なぜ黒なのかとか、なぜ肌を出してはいけないのか、とか考える必要はない。喪服、として売っているものを購入して着ていれば、何も余分なことを考える必要はない。

しかし所変われば常識も変化する。聞いた話では、台湾では道教の葬儀のとき、白い服を着るという。ごく身内の者(一親等など)は、普段着でなくてはならない。それは悲しみの日に、着るもののことなどに頓着してはいけない、あるいはしないはず、というのが理由らしい。形式ではあるが、なるほどという部分はある。誰かが死ぬと、さあ、何を置いても段取りだと言って、死者を悼む気持ちは後にまわして、まず通夜や葬式の手筈を滞りなく、人から非難されないように整える、というのは死者を弔うという意味で、本当に正しい態度なのかどうか、わからない。わからないが、常識に従って、誰もがそれをする。しないわけにはいかない。

グレン・グールドが死んだときの葬儀の様子を、『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』というドキュメンタリーで見たが、教会で行なわれた式典で、参列者はみな普通の服を着ていた。Googleの検索で見た台湾の別の葬儀では、白いジャケットに紫のミニスカートの女の子のブラスバンドが、賑やかに管楽器などを演奏しながら行進していていた。また台湾の葬儀を体験した人のブログには、式典ではみんな普段着だったということが書かれていた。これくらい地域によって、葬儀のしきたりやマナーは変わるのだ。自分の属する集団内の決まりやマナーが普遍的なもので、絶対性がある、と思う必要はないということだろう。

アーティストはこういったこと、世界の多様性を体験として知っていたり、常識というものに必ずしも普遍性はない、と普段から考えていることから、一般人ほどそれに捉われて自分を失ってしまうことがないのかもしれない。アーティストというのは、この世界がどのように成り立っているのか、考えることが仕事だったりもする。ものごとの本質を考え抜くこと。ものごとの普遍性はどこにあるのか、思索する。つまり因習や常識に振りまわされないことで、新しい、あるいはあるべき世界を社会に向けて提示していく。そういうことが、すぐにではなくとも、徐々に社会に伝わっていって、固く凝り固まった過去からの枠組を解体したり、人々の常識を緩やかにほぐしていく役目を果たす。

『高橋悠治という怪物』を読んでいたら、「連弾はずれなく合わせるためのものじゃない」という高橋悠治の考えがわかった。通常、連弾は第一ピアノ(ピアノの高い方の音域担当)と第二ピアノ(低い音域を担当)が、きれいに揃って息のあった演奏を見せ、まるで一人で演奏しているかのように聞こえることが理想、と思われているふしがある(少なくとも日本では)。だから双子、または兄弟姉妹、あるいは夫婦ならではの連弾、などと言われたりもする。しかし高橋悠治の考えは違う。二人の人間が、1台のピアノに座って一緒に演奏するなら、そこで合奏ならではの面白いことが起きなくては、と思うらしい。むしろぴったり合わない方が、音楽的に立体感が増す、といった。言われてみればそれは正しいことのように思えるし、好奇心の湧くことでもある。練習すればするほど二人のずれはなくなってしまうから、もしやるとすれば徹底した練習で、それぞれが自由に弾けるまでやる、などというのは、普通の連弾の練習とはかけ離れている。

このようにあらゆることを考えていけば、世の中は、生きることは、もっと可能性に満ちた楽しいものになるのではないか。アーティストは、常識に縛られて生きる一般人を、違う思想に導き、固い殻から解放してくれる、ガイドのような人々なのかもしれない。