20150223

是枝監督「そして父となる」の真意は?

先日、地上波民放で映画「そして父となる」を見た。是枝さんの作品は、「幻の光」以来、「誰も知らない」「空気人形」などいくつかを見ていて、それなりに関心をもっていた。今回の映画は、出生児の子どもの取り違え事件がテーマになっている。

内容についての感想を書く前に、見ていて、カルチャーショックを受けたことがあったので、そのことを少し。地上波の民放なので、商品宣伝映像(CM)が挿入されることはわかっていたが、その頻度と量には驚かされた。昔(どれくらいかと言うと、かなり昔。10年単位か)は、最初の20~30分はCMなしで、ある程度ストーリーに視聴者が入りこんだあたりから、頻繁に入るというのが通常のスタイルだったように思う。しかし「そして、、、」では、もうのっけからCMがバンバン入ってきた。その後は、部分的に少し間があくところがあったかもしれないが、概ねCMの嵐で、印象としては本編とCMを交互に見せられたような感じだ。

この放送が特別なのか、今はどこでもこうなのか、わたしには判断がつかない。地上波の民放を見ることがほとんどないからだ。この映画は「地上波初」とあったので放映料が特別高かったとか、あるいは、最近はテレビのCMが昔より価値を下げているので、量でこなす必要があるからなのか。CSのシネフィルイマジカという映画専門チャンネルの場合、映画の中にはCMは入らない。スターチャンネルなど他の映画専門チャンネルでは、長編映画の間に3、4回はCMが入るが、まあ我慢できる程度、限度を超えているとは思わない。

もちろん、地上波民放とCSの有料チャンネルでは、視聴料の取り方が違うので比較はできない。タダで見れるだけありがたいと思え、ということかもしれない。そうわかっていても、やはり、あのCMの入り方はやや異常だと感じた。実際、最初の15分くらいのところで、見るのをやめようかとさえ思った。しかしリアルタイムではなく、録画で見ていたので、CMは早送りでやり過ごした。録画機に自動のCMカット機能がないので、リモコン片手に本編 → リモコン早送り → 本編 リモコン早送り、を繰り返した。

映画をタダで見れることはありがたいが、この見方だと不満が残る。おそらく、今後どうしても見たい映画を見る場合は、地上波では見ないだろう。せっかく自分の時間をつかって、期待する作品を見るときに、何を見ていたかわからなくなるような見方はしたくない。ネットなり、DVDレンタルなりでお金を払って見るだろう。まだまだ選択肢が少ないが、オンデマンド方式で過去の映画を有料で見るのが、一番理にかなっているかもしれない。

さて前置きが長くなってしまったが、「そして父となる」について。実は見終わって、よくわからないすっきりしない感じが残った。是枝監督はこの映画で何を表そう、伝えようとしていたのだろう。そこのところがわたしには、よく理解できなかった。リモコン片手の落ち着かない視聴ではあったが、全編それなりに集中して(何かほかのことをしながらではなく)見たのだが。

物語は、二つの家族のそれぞれの息子(6歳)が、産院で取り違えられたことが判明したところから始まる。病院側からの連絡で、その事実が二家族に伝えられる。一方の家族は、電気店を営み三人の子持ち、もう一方の家族はエリート社員の夫に専業主婦の妻、子ども一人の家庭。それぞれの家庭内環境や子どもへの接し方の違いが描写される。二つの家族の祖父母も出てくる。

子どものDNA鑑定をして事態がはっきり証明されると、二家族の困惑は最高潮に達する。「6年間育てた子どもが、他人の子だった」、あるいは「自分の子どもが、6年間他人に育てられていた」というショック。そして二つの家族は、交流をしながら解決策をさぐるが、「早いうちに」なんとかした方がいい、という気持ちに突き動かされていく(ように見えた)。そして二人の子どもは、ある日、交換される。二度目の交換だ。一度目は病院のミスで、二度目は両親の手で。子ども自身の気持ちは、まったく無視されているように見えた。まあ、そういう親の身勝手さを、是枝監督は描きたかったのかもしれないが。

人間の場合、親が子どもの面倒をみる期間は、15、6年から20年くらいだろうか(30代後半になっても、まだ親に面倒をみられている「子ども」も、最近は増えているかもしれないが)。そうであれば、すでに6歳の子は、あと10年もすれば、親の庇護から逃れていくはずだ。この映画で問題になっているのは、どちらの家族と暮らすか(住むか)ということのようで(もちろん親権をどうするか、はあるが)、そのことで言えば、対象となる年月は長い人生の中で見れば、短い期間とも言える、永遠というわけではない。そのことを頭において、解決法を探った方がいいのではないか、と感じた。なぜこの人たちはそのことに気づかないのか、そんな疑問がわいた。

もしそのことが頭にあれば、少なくとも「早いうちに」なんとかしなければ、という焦りからは解放される。この「早いうちに」という思想は、「まだ6歳なのだから、一個の人間としての意識が芽生える前に」なんとかしてしまえば、あとに影響が少ない、ということなのかもしれない。しかし6歳というのは、自意識もあり、自分の親やそれまで過ごしてきた家族との関係を、感情とともに充分蓄積している年齢だ。

この二つの家族の親が、まず考えなければならなかったのは、この6歳という時期の、それぞれの子どもに与える影響ではなかったか。どうやったら子どもに衝撃を与えずに、大人になるまでの一定期間(6歳から16歳くらいまで)を通過させるか、ということを一番に考えるべきだったと思う。そしてその間に、親とはなにか、子とはなにか、血のつながりとは、血縁のない親子とは、、、と自分たちに降りかかった問題の外に広がる、普遍的なことをもっと深く考え、探ってみてもよかったのではないか。親がそのように考え生きることは、必ず子どもたちにも伝わるはずだ。そして真実を告げる時期、どのように話すか、などの答えも、そうして暮らす10年くらいの経験から自ずと出てくるのではないだろうか。

この二つの家族の親たちがこだわっていたのは何か、というと、真実つまり血のつながりの有無に集中しているように思えた。確かに、血のつながりに強くこだりを見せる日本の社会を考えると、この映画は事実を描写した「リアルな」映画なのかもしれない。そこが食い違うことが、最大の衝撃であり、問題である、というような。

最近読んだ日本の小説で、こんなシーンがあった。東京に住む5人家族が、父親が関係した犯罪のせいで家を追われ、西表島に引っ越すことになる。主人公は小学6年生の男の子、二郎。突然、母親から東京を離れることを告げられ、二郎は言葉をなくす。すると母親がこう言うのだ。「もちろん、あなたたちは永遠に親のものではないので、自立できると判断した時点で、独り立ちしてもかまいません。ただ十五歳までは、おとうさんおかあさんと一緒に暮らしましょう。だから今現在の友だちとは、一旦お別れです」(奥田英朗「サウスバウンド」)

この母親の言葉の中には、親が絶対的存在という価値観は感じられない。小学6年生であれば、15歳まであと3、4年のことだ。今、友だちと別れるのは辛いだろうが、それも「一旦」のことなのだ。このように子どもの人生を見ることができれば、「そして父となる」の家族にも、もう少し広がりのある解決法が思い浮かんだのではないか。

映画も小説も現実に対しての真摯な態度は求められると思うし、リアリティは大事だ。しかし現実がこうだからと、その通り描く必要もないように思う。たとえば、「そして、、、」の映画の中のエリート社員の妻の方は、『母親なのに、なぜ産んだときに、自分の子ではないと気づかなかったのか』という罪悪感にさいなまされる。夫はやや自分勝手で自信過剰ぎみなエリート社員で、妻は夫に従い自分を低く見ているふしがある(昔風のではないが)。こういう夫婦関係の中で、なぜ自分の子ではないと気づかなかったのか、という妻の悩みは発生する。

少なくとも、現実にありそうな夫婦設定をしたとしても、映画全体に監督がそれに対してどう思っているのか、が現れていてほしい。是枝監督は現実の日本の社会とそこで生きる人間をリアルに描くことで、満足していたのだろうか? 映画には、その先の何かが求められるべきだと思う。それとも、わたしのこの映画の見方になにか足りないところ、見逃しているところや勘違いがあるのだろうか。カンヌ映画祭では、この映画は聴衆から多くの拍手を受けたと報道されている。しかし日本の聴衆と同じ受けとめ方をしているとは限らない。日本の外の国では、親子あるいは実子や養子に対する考え方が違うからだ。

一つだけ印象に残ったシーンがある。二つ家族が交流しはじめた頃、遊技場のようなところで、子どもたちを遊ばせる場面があった。四人の子どもたちが夢中になって一緒に遊んでいる。それを見つめる親たちの解放されたような、楽しげな表情。ドキュメンタリータッチで描かれたこのシーンは、人間が生きることがどんなものかを活写しているように思えた。親役の俳優たちは、この場面では素のようにも見えた。子どもが楽しげに転げまわっているのを、大人が(親であれそうでなかれ)見て喜んでいる、笑っている。子どもが心から楽しそうに遊んでいるのを見ることの喜び。それは人間の一つの真実だ。この場面で表されているようなことを、映画全体で表現できていたら、もっと素晴らしい作品になっていたのではないかと思う。

20150209

再創造と翻訳

前回のポストで、ピアノ演奏は再創造である、という岡利次郎さんの言葉を引いた。ピアニストは作曲家の創造した音楽を楽譜という形で手にし、演奏に命を吹き込んで、音楽を生き返らせる。楽譜のままでは、音楽を耳で楽しむことはできない。料理のレシピも、食べて味わうには、調理という再創造の過程が必要だ。レシピのままでは料理を味覚や嗅覚、視覚で楽しむことはできない。

そう考えていくと、様々なものが再創造によって成り立っていることに気づく。演劇も脚本というオリジナルがあり、俳優はそのテキストを読んで、自分の役を演じる。どのような人物か、どんな風にしゃべるかのヒントは脚本に書いてあっても、俳優が声に出すまでは聴衆は視覚や聴覚で楽しむことはできない。ダンスやバレエも同様。振付家がプランしたものをダンサーが再現する。そのときに、やはり再創造が起こる。(ところで振付にルール化された記述法がある、という話を聞いたことがない。過去の作品を再振付する場合、記憶にたよっているのだろうか)

小説を映画化したり、脚本にすることもある。また脚本から小説化することもたまにある。レシピから料理へ、楽譜から音楽へ、脚本から映画へ、とオリジナルがメディアの違いを超えて、新たなものとして表現される。それを再創造と呼ぶことにしよう。

では翻訳はどうだろう。テキストからテキストへ。メディアは変わらない。言語が変わるだけだ。しかし、楽譜が音楽に、レシピが料理になるのと同じような再創造が起き得るかもしれない。たとえばレシピを見て料理をつくるとき、書いてある通りにつくることもあれば、自分の家族の口にあうように、アレンジすることもある。フランス仕込みのシェフも、日本でフランス料理をつくるときは、日本人の口にあうように、あるいは材料が調達しやすいものでつくるかもしれない。それと同じようなことが、翻訳でも起きることがある。

実際、翻訳の場合、異なるのは表現としての言語だけではない。テキストの背景にある社会や文化が、テキスト元と移し替える先で、大きく異なったりする。翻訳の使命は、テキストに書かれていることを、違う言語で暮らす人々によりよく伝えることだ。何が書かれているのか、どのように書かれているのか、書き手の意図は何か、というようなことがわかる必要がある。

しかしこの「わかる」というのが、違う文化、社会の間では簡単ではない。「バナナは高価なもの」という社会(たとえば昔の日本)では、バナナをみやげとして人の家を訪問すれば、「珍しい高価な果物をもって現れた人」という意味が出てくる。しかしバナナなどそこら辺の木に、いくらでもなっている土地の人間にとっては、客がバナナを手に主人公の家を訪れた、と書かれているのを読んでも、なぜそんなことをするのか理解ができないかもしれない。

すると原著に書いてなくとも、「『この国では高価で珍しい』バナナを持ってあらわれた」としたほうが、ある土地の読者には状況がわかりやすい。この例の場合は、参照的要素が強いので、再創造というより付加情報のように見えるかもしれない。しかしたとえば小説の中の会話を翻訳するときなどは、かなり再現する、という感覚が翻訳者の中で強くなる気がする。

二人の人間、あるいは三人でも四人でもが、会話をしている情景を訳すことは、俳優が脚本をどのように読んで演技するかに近いところがある。地の文と違って会話は、その場面でキャラクターの違う人間が、生き生きと本当にしゃべっているように表さないと面白みが出ない。元の言語が英語であれスペイン語であれ、日本語にする場合は、日本語として会話に臨場感がないと、場面が死んだものになってしまう。どんな関係の者どうしが、どんな意味合いで、言葉を投げ合っているのか、身振りや目つきはどんな風か、というようなことが会話から伝わるのが望ましい。会話なので、多くの場合、その言葉は説明的ではなく、感覚的だ。それは書いてある言葉を、英語から日本語に移す作業というより、書いてある英語のセリフを日本語に置き換えて口に出して言う(演技する)作業といったほうが近い気がする。ある種、演劇的な素養が求められる。

翻訳をしていて思うのは、自分がまったく関心がないとか、むしろ嫌っているテキストを訳すことは結構つらいことだ。テキストを読むときの想像力が、いい方向に働きにくい。これまでの経験で翻訳について思うのは、翻訳とはある種の伝道的行為かもしれないということ。ここに書いてあることを世に伝えたい、広めたい、という精神のありようだ。

ピアニストも自分があまりいいと思えない楽曲を演奏するより、心からいいと思える作品を音に変えていくほうが、より能力を発揮できるのではないか。楽譜を読み、音に変え、作品を分析して理解し、という作業をする際、より自発的な想像力、創造力が発揮できる気がする。

再創造の場合、パフォーマーであるピアニスト自身が何を表現したいかより先に、そこに何が書かれているか、何百年か前にその音楽を生み出した人間が、何を意図してそれを創造したかを理解することが重要に思える。ピアノを弾くことは、まずは自分が受け身の媒体になって、楽譜から放射される何か、エネルギーのようなものを受けとめる行為でもある。その過程で、ああすばらしい、この跳躍、この音の連なり、この高い声の響き、バスの重厚感、、、と受けとめる弾き手がいて、その受けとめ方にピアニストの個性の一端があらわれる。

翻訳も、同じテキストを読んでも、訳す人がそのテキストをどのような受け身の媒体になって、原語から発せられるエネルギーのようなものを受けとめるか、で訳したあとのテキストが変わってくると思う。日本でよく言われる「原文に忠実な翻訳」という言葉も、何に忠実なことが求められるのかと言えば、原作者が発したエネルギーを翻訳者がしっかり受けとめ、そのことに忠実に日本語で演奏することを意味するものであってほしい、と思う。もしそうであれば、翻訳は、再創造とかなり近い行為ということになる。

何か事件のあったあとに、テレビでそれを説明するための「再現ビデオ」というのを見せることがある。状況を本当らしく説明する、のが再現ビデオの役目だ。あれを再創造ということは難しい。何のために、と言えば「説明するため」の再現だからだ。そこにはある意図をもって、オリジナルの素晴らしさを伝える、という使命はない。再現行為の中には、再創造と呼べるものと、そうではないものがあるということ。おそらく翻訳は、前者に近い存在だと思う。再現ビデオのように訳された小説は、読んで楽しくない気がする。