20091023

出版するということ。重版とsold out

ある出版企画をここのところ考えていて、その過程で葉っぱの坑夫の出版姿勢のようなものを改めて見直す機会をもった。何をどう出版するか、をどれくらい考えてやってきただろう、と。これはウェブでの出版にも言えることだし、紙の本でも同様。出版点数の少ない紙の本を例にとって見渡してみれば、2000年に葉っぱの坑夫をスタートさせて以来、この9年間に15冊の本をつくっている。最初は2001年10月に出版した「ニューヨーク、アパアト暮らし」。その後1年に1〜4冊程度のペースで出してきての合計15冊。この中には重版したものも4冊ほどある。印刷形式も最初はモノクロでのオンデマンド印刷、その後オフセット印刷を「シカ星」で初めて使用したけれど、このときは赤とスミの2色だった。「rabbit and turtle」はフルカラーで初めて作った本だが、これはスイスのNievesという出版社との共同出版。その後Nievesとは「AKAZUKIN」でも共同出版した。どちらの本もミヤギユカリさんが童話を題材に描きおろした絵本風のアートブック。また今年の夏にはZINE'S MATEというジンのフェアに参加する目的で、初めてフォトコピー印刷とインクジェットプリンターによるジン・スタイルの本を4冊作った。オンデマンド印刷の本とCD-Rを組み合わせた「森ノ星」という作品集もある。オンデマンドのモノクロの本はテキストのみ、CD-Rの方には100枚のカラー写真をフラッシュムービーで見せた。

こう書いてくると、印刷形式から使用メディア、共同出版まで、たった15冊の本にも多様な方法とスタイルが取られているのがわかる。出版部数にしても、印刷形式や出版の状況に応じて50部から1000部と大きな巾がある。

さて中身の方はどうだろう。元より計画性あっての出版ではない。年度計画はおろか2年、3年ごとの出版計画をもって進めていたことでもない。ウェブで出版したものを検討後、紙でも出版する、という方法を初期にはある程度とっていたが、紙の本の計画からウェブ作品が生まれたり、紙とウェブ同時進行で作ったり、紙のみの出版物も何点かある。つまりルールはないと言えばない。既刊の本を並べてみると、テキストが主体の本が6冊、絵や写真が主体の本が4冊、テキストと絵、写真の両方で構成されている本が5冊、とざっと分類できる。こう見るとほぼ三つのスタイルが同じくらいずつ出版されているように見える。翻訳プロジェクトをベースに出発した版元としては、わりにヴィジュアル系の本が多いかもしれない。言語面で見ていくと、15冊のうち、日本語のみの本は5冊。日英二重表記の本が8冊。絵のみでテキストがまったくないものが2冊、となっている。

中身を見ていく場合でも、単純にテキスト系かビジュアル系か、という風に分けていってもあまり意味がないこともあるだろう。「何」で表現するかは別にして、ある考え方や思想の方向性をもって素材や題材に応じた表現法を選んだり、著者の表現法がそのまま本の表現法になったりする。たとえば憲法九条の改憲に反対する、というテーマで本がつくられる場合も、漫画になるのか、テキストになるのか、絵本になるのか、は企画次第。その選択によって版元の資質が分かれるというよりは、問題の扱い方によって版元の立ち位置は見えてくるはず。

出版社が何をどう出版するかは、やはり大切にするべきことだろうと思う。商業出版においては、特に近年の日本では、端から見て混乱に陥っているように見える版元も少なくない。そこまでではなくとも、昔ほど本と版元の関係は、濃いものではないようだ。読者の方もあまり気にしなくなったし、気にしても役に立たないこともある。

葉っぱの坑夫は非営利での出版なので、作りたい本、作って意味があると思う本を、売れるかどうかに優先して出版することができる。ただしあまりに全体として売れなければ、活動資金が枯渇して本をつくることが不可能になる。また在庫の置き場にも困ってしまうだろう。そこを考え、調整しながら本を作ることになる。また作った本が売れて在庫がなくなったとき、版元はどうすべきか、という問題もある。それは本を作るときの最初の企画意図とも関係しているのかもしれないし、その本の、大げさに言えば「運命」を考えるということかもしれない。ウェブ作品であればそのサーバーを版元が維持している限り、本がなくなることはない。モノである紙の本の場合は、現物がなくなれば、即在庫0となる。少部数出版で、限定100部などと書いてあることがあるけれど、それは有限であることに意味がある、あるいはそれによって本の価値を高めようとしているのか、それとも印刷部数を少なく作ることを「限定」という言い方で何か別のことを表わそうとしているのか、わからないことがある。単にコストの問題や売れ行き予想から少なく作るのであれば、「限定」という言葉は入れなくて済む。部数だけ告知すれば事足りる。あるいは、この本は1回きりのもので、どんなに売れても重版はしません、ということを表わしているのだろうか。もしそうだとしたら、そこには理由があるのだろう。

葉っぱの坑夫ではたとえ50部、100部の本でも「限定」という言葉を使ったことはない。予算や1冊の単価を考えつつ、とりあえず部数を決めて初版を出版するが、なくなれば、まずはショップに委託で置いてある分の調査や回収をした上で、重版するかどうか決める。今までのところ、初版と同じ数ではなくとも、売り切れたものは重版してきた。考え方として、売れたということは少しは利益が出たということであり、最低でも元は取れたわけだから、それを本の継続という形で返す、表わすのは自然かなと思うから。初版300部で5年かかって売り切ったものなどは、そこから先はもっと遅いスピードで売れるのが普通だ。でも少しずつでも売れるということは、まだ需要があることだと思えるし、作るのをやめてしまうのはそれはそれで決心がいる。ある思いをもって作った本なら、著者が許可し、経済的にも許されるなら絶版にしたくはないと思う。何をどう出版するかと同じくらい、出版社が責任を負ってもいいことかもしれない。どんなに小さな本でも少部数でも、ある本を世に出す、公のものにする、publishするとはそういうことではないかと思う。

本を探してネットの本屋さんを巡っていると、軒並みsold outと表示されているリストと出会うことがある。自分の欲しい本がsold outとなっていた場合、考えるのはこれは最近売り切れたもので、たまたまのことなのか、そして近々入荷予定があるのか、それとも一度リストに載せたものは売り切れたが最後ずっとsold outになっているのか、いったいどちらなのだろうということ。情報として不足しているし、お客さんに対して不親切だと思う。出版社が在庫が切れたら重版するかどうかと、ショップが在庫が切れたら補充するかどうかは、それぞれの業種における責任だと思う。商業出版の本や大手書店でもあることだけれど、あちらは利益優先でしか動けない大所帯の限界としてあまり期待しないとして、小さな版元や小さなネットショップはそれぞれの本の命をどう見届けるかに心を砕いてもいいように思う。新しいものをどんどん生んでいくことと同じくらい、過去に作った本の命をどう始末するかも視野に入れていないと、小さな出版物は歴史を残したり、後の人々に思いを伝えていくことができない。

葉っぱの坑夫がISBNを振っているのは、amazonで売るためという実質的な意味とは別に、国会図書館に献本することで書誌データに記載され、本自体も保存され、「公開された本」として残るからである。それは自分の経験として、古い本や珍しい本、海外の本などに国会図書館で出会っているから。今店頭に置かれて、今の読者により多く触れてもらうことは第一の希望であるのは言うまでもないことだけれど、さらに、10年後、20年後、もっと先の時代に、何かを調べていてデータベースで行き当たるなどして、葉っぱの坑夫の本がその時代の読者に届くことを想像するのは、ひとつの楽しい夢であり本をつくる希望となる。