20120522

今シーズンのベストゲーム、ベストチーム、ベストプレイヤー


去年の今ごろ、「世界最高峰を決めた夜」というタイトルで、ヨーロッパのサッカークラブの最高峰を決める、チャンピオンズリーグ(CL)の決勝戦について書いた。そして今年も昨土曜の晩(日本時間でおとといの早朝)、ドイツのミュンヘンで、今年のヨーロッパ一を決める試合が行なわれた。

去年はイングランドのマンチェスター・ユナイテッドとスペインのバルセロナFCの対戦で、どちらもすでに国内のリーグ優勝を果たした後のCL決勝戦だった。今年の決勝戦2チームはイングランドのチェルシーFCとドイツのバイエルン・ミュンヘンで、どちらも今シーズンリーグ優勝は逃していた。

実質的には世界一、と言われるヨーロッパのCLは、中でもその決勝は、世界じゅうのサッカー選手が考えうる最高の舞台。4年に一度の国対抗のワールドカップも世界一を決める舞台ではあるが、近年はW杯よりCL優勝の方がサッカーファンの注目度が高い、とも言われている。

スポーツというのは面白いもので、文学や音楽、演劇などと同様、勝敗の結果だけが注目点ではない。確かに最後のところで勝敗があるから、はっきりとした結末があり、それは取り返しようのないものだけに、勝負への執着はやる側にも見る側にも強く残るのだが。スポーツにおいて見るべきものが結果だけはないとすれば、それは何か。ひとことで言うのは難しいけれど、いわば人生と同じようなもの、なのかもしれないと思う。人はひとつの人生で、いかに生きるかを考え、何を成すかを探し、自分にできることを探り当て、それを一直線に、あるいは迷いさまよいながら進んでいこうとする。多分一人の人間にとって、死ぬまでにそれを果たせたかどうかは重要だと思うが、やはり成果だけではなく、それを果たすために何を自分がやり抜いたかが、意味あることとして残るように思う。

文学などの芸術と言われるものが扱っているのは、主としてその過程のことではないか。結論だけが重要なのであれば、小説も最初と最後を読めばことが足りる。

さまざまな人間活動の中で、文学や音楽に対して大きな敬意をはらっている自分だが、スポーツに対しても同じくらい、得るもの(楽しみや学び)が大きいと感じている。これまでテニスやボクシングなど、主に国際試合の対戦をテレビで見てきたが、ここ10年はサッカーの国際試合が中心だ。(ケーブルテレビのJSportsを見ていると、自転車競技からホッケー、ラグビー、ダーツと様々なものが世の中にあるのは知っているが、今のところサッカーで手一杯の状態)

さて、今年のチャンピオンズリーグである。今年は様々な番狂わせが起きて、たとえば去年決勝戦出場のマンチェスター・ユナイテッドが、グループリーグの段階で勝ち点が稼げず、決勝トーナメントに進めなかった。スイスのバーゼルという強豪とは言えないチームに、ホームでもアウェイでも勝てなかったのには驚かされた。また今シーズン、イングランドのリーグで、ユナイテッドを最後の最後で抜いてリーグ優勝を果たしたマンチェスター・シティが、グループリーグで敗退してしまったのも意外だった。決勝戦出場のバイエルン・ミュンヘンと、グループリーグでは互角の戦いをしていたのに。

イングランドから出場した4チームの中で、最も期待されていなかったチェルシーFCが決勝に残ったことは、サプライズの一つだった。チェルシーは元々は強いチームで、リーグ優勝に常にからむような実力派ではあるが、今シーズンは不調がつづき、3月には期待されていた新任の監督もついに解任。リーグ戦は6位という不名誉な結果に終わっていた。この順位では来年のCL出場はできない。(今年のCLで優勝すれば出場の特典が与えられる)

今年のCLは、スペイン勢同士の最終対決になるのではないか、という見方が早くからされていた。去年の王者バルセロナFCとレアルマドリーの2チームが、誰もが納得する最有力候補だった。前年CLの後は、バルセロナに勝てるチームは、世界中探しても当分見当たらないだろう、とまで言われていた。勝てる可能性があるのは、レアルマドリーくらいだが、リーグではなかなかバルサに勝てなかったのが先シーズン。今シーズンは、バルサの調子が今ひとつとも言われていて、リーグ優勝もレアルマドリーに明け渡していた。ただしスペインリーグでも、CLでも得点王はバルサのスター、メッシが取っていて、その活躍ぶりは群を抜いていた。

今年のCL準決勝に残ったのは、レアルマドリー、バイエルン、バルセロナ、チェルシーの四つのチームだった。レアルマドリーとバイエルンはホームとアウェイで互角の戦績だったが、最後のPK戦でレアルマドリーが三人の選手が得点できず、敗退した。バルセロナとチェルシーについては、多くの人々が、サッカーファンからサッカー評論家、スポーツコメンテーターまで、当然バルセロナが勝ち抜けると思っていたようだ。が、第1戦でホームのチェルシーが1−0で勝ち、試合を有利に進めた。バルセロナが無得点に終わったのは、サプライズと言ってもいい。たとえアウェイでの戦いであれ、あれだけ得点力のあるチームが無得点とは。アウェイでの得点は、2試合の得点合計が同じになったとき有利に働くので重要だ。第1戦が終了した時点で、チェルシーの勝ち抜けの可能性は出てきたが、カンプノウ(バルセロナのホームスタジアム)での第2戦では、バルサが大量得点して簡単に挽回できるのでは、と思う人がまだ多かったのではないか。バルサに(特にカンプノウで)勝てるチームなどいない、という思い込みと、今年のチェルシーはリーグで低迷してるから期待できない、というのが理由だ。

そうした周囲の見方の中、バルセロナのホームでの第2戦が行なわれた。バルセロナはいつもどおりボールを長い時間保持し、ボールをまわし、何度も決定的チャンスをつくった。ゲームのほとんどの時間帯、90分を通じて、チェルシー側のゴール前で両選手がプレイしていた。これがバルサのスタイルだ。チェルシーは引いて守り、ほとんどの時間自陣ゴール前に押し込まれ、必死の守りだった。が、むやみにボールやボール保持者を追いかけず、かわされないようにしながら、体力を無駄に消費しない戦いをしているように見えた。去年決勝で負けたマンチェスター・ユナイテッドの戦い方から学んだのだろうか。徹底したそのやり方は、かなり功を奏していた。

しかしやはりカンプノウでのバルサは強い。ついに前半の終わり頃で立て続けに点を入れ、2−0に持ち込んだ。しかも前半途中でチェルシー側は、ディフェンスの要で主将である選手の退場で、10人になっていた。一発退場を示すレッドカードを主審が掲げたとき勝負は見えた、と思った人は多かったのではないか。わたし自身、こりゃダメだ、と思った。あらゆる状況がチェルシーに不利であり、ああやっぱりな、と思わされた瞬間だった。が、チェルシーの選手はあきらめていなかった。アウェイゴールを1点でも取れば、合計2−2となり勝利できる。バルセロナの2点目の3分後、すでに前半ロスタイムに入っていたが、チェルシーは素晴らしいカウンターの速攻で1点をしとめる。

アウェイゴールの差でたちまち優位に立ったチェルシー。追加点を入れないと勝ち抜けられないバルセロナ。それでも、まだこの時点で、チェルシーの勝ち抜けを確信できた人はほとんどいなかったのではないか。10人になったチェルシーは後半、自陣ゴール前の守りをいっそう固めた。このまま守りきれば勝てる。しかし後半の45分間、バルサの猛攻にゴール前で耐えつづけるのは至難の業と思われた。いずれゴールが生まれる、と誰もが思ったに違いない。実際危ない場面はたくさんあり、PKさえバルサに与えてしまった。しかしメッシの蹴ったPKは、まさかのクロスバー直撃でノーゴール。こんなことがあるのか、という展開だった。

このまま終わっていても、チェルシーは勝てた試合ではあった。準決勝で敗退など考えていなかったバルセロナは、なんとしても点をとらなければならない。この心理的な差は大きかったとは思う。残り10分のところで、チェルシーの就任して間もない暫定監督は、トーレスというフォワードを入れてきた。守りきるのではなく、さらに点をとりにいくというメッセージなのだろうか?と思った。トーレスはイングランドで過去最高額と言われる移籍金でチェルシーに来たスター選手だったが、移籍以来1年以上たつのに、ほとんど活躍ができていなかった。この日もそのせいでスターティングメンバーから外れていた。が、トーレスがフィールドに入ってきたとき、何かひらめくものを感じた。いいぞいいぞと、何か賛成したいような気持ち。期待の新任監督が解任された後、チェルシーではアシスタントコーチだった人が、監督を引き継いでいた。この人は悪くない。まだ若く、監督経験も少ないが、クールな頭をもった人のように見えていた。(わが家ではその風貌から「おじぞうさん」と呼んでいた)

残り10分。悪くない時間帯だ。サッカーでは何か一仕事するのに充分な時間。そして後半ロスタイム、投入されて12分のところで、これまでの1年間の不調をすべて取り戻すくらい価値のある得点をトーレスは決めた。そのとき、点を取らなくてはいけないバルセロナは、ほぼ全員が敵陣内に入っていた。ハーフライン近くでボールを受けたトーレスは、無人に近いピッチの約半分を独走、これほどの見せ場はないというくらいの感動的な場面だった。最後は前に出てきたゴールキーパーをかわしてボールをゴールに流し込んだ。見事としかいいようがない。胸のすくような、ファンでなくとも心を奪われる、圧巻の攻めを見せたチェルシー。これでトータル3−2、チェルシーが勝ち抜けた。

バルセロナの選手たちの落胆ぶりは尋常ではないように見えた。そういえば、ハーフタイムが終わって後半開始の直前、カメラがベンチのペップ(バルサの監督)を映していた。ペップはからだを半分に折り、頭を両手で抱えていた。あれは何だったのか。アウェイゴールを入れられて同点にされたことで、ショックを受けていたのか。でもまだ45分残っているわけだし、バルサの得点力をすれば不可能なことなどないように思えるのに。しかし結果がチェルシーの勝利だったことを考えると、あのとき何か予感するものがあったのだろうか。

この準決勝の戦いぶりを見て、チェルシーというチームの素晴らしさを再発見した。以前から強さのあるチームとは思っていたが、こんなすごい試合を見せてくれるとは。バイエルンとの決勝戦も結果が予測できないいい試合だったと思うけれど、やはりバルセロナとの準決勝、そこを勝ち抜いたチェルシー選手の肉体と精神の強さは、誰も持ち得ないような高いレベルもので、この戦いが決勝戦の結果にも影響を及ぼした可能性はある。

決勝は延長戦でも勝敗が決まらず、PK戦にまでもつれ込んだ。勝利を決めた最後のキッカーは、チェルシーのドログバという選手だった。コートジボワール代表の34歳。最晩年の選手生活の中で迎えたこのCL決勝の、試合を決める最後の最後のPK戦の、最後のキッカー。対するバイエルンのゴールキーパー、ノイアーはこのPK戦で止めたのは一人ながら、ここまですべてのキッカーの動きを読んでいた。ドログバは試合後のインタビューでこう言っている。「非常に難しかった。でも自信があった」 この言葉通り、ノイアーはドログバが蹴った方向と反対に大きく飛んだ。読みは外された。ドログバのPK成功でチェルシーが勝利を手にしたのは、何とも象徴的。今年のCL全体の中でも、ドログバのいくつかのゴールは決定的な場面できめられ、ひかり輝いていた。優勝を飾るにふさわしいチームのスタープレイヤーだった。

今シーズンも各国複数のチームで、目を見張るようなプレイや選手たちと出会ったけれど、やはりベストゲーム、ベストチームは何かと言えば、バルセロナ戦のチェルシーであり、ベストプレイヤーはドログバだと思う。

20120507

出版の変遷、いま何が変わりつつあるのか


出版、つまり本をつくって世に出すことの意味が変わってきているのではないか。最近ときどき思う。いつからかと言えば、少し遡ってインターネットが普及してきた2000年前後あたりからかもしれない。今、葉っぱの坑夫では新しい出版の試みとして、amazonで本をつくって売ろうとしている。アマゾンがもつPOD(プリント・オン・デマンド)の仕組をつかって、本を登録し、販売するのである。ここではアマゾンは、印刷屋であり出版社でもあり、書店でもある。

プリント・オン・デマンドとは、元々、必要なときに必要な部数だけ刷って出版する仕組やスタイルのことを指していたが、実際には1部ずつ刷るというより、オフセット印刷より少ない部数(300部以下くらい)を低価格で、オンデマンド印刷機で刷ることにメリットを置いたものだった。葉っぱの坑夫の初期の出版物もこのオンデマンド機をつかって作っている。当時、500部あたりがオフセット印刷との価格的な分岐点と言われていて、300部くらいがオンデマンド印刷での出版を考えるときの、一つの目安だった。

どこかのネット書店かなにかで、注文ごとに1部ずつ本を刷って売るオンデマンドの仕組もあったようだが、たいてい1冊の価格が3000円くらいと高めの値段がついていたように思う。絶版本や需要の少ない本を、高くても買いたい人に向けて出版する方法論と解釈されていた。

ではアマゾンのもつPODの仕組とはどんなものなのか。実際にはアマゾンPODで作られた本は、他の本といっしょにアマゾンのサイトで販売されているが、あまり知られていないせいなのか、アマゾン側も大々的に知らせていないせいなのか、メディアでも話題になることがないようだ。このプログラムを利用できるのは出版社、そして著者や著作権者も含まれる。葉っぱの坑夫は出版社として元々アマゾンとつきあいがあるのでわからないが、著者や著作権者、ということは一般の個人も参加可能なのかもしれない。出版すべき本をもっていれば誰もが作家である、という意味では著者であることに特別な資格条件はない。

アマゾンPODの仕組は、出版する本を印刷できる状態に整えた上で、アマゾンのデータ保管庫に送って登録し、読者から注文があったとき、アマゾン側で印刷し、発送するというもの。版元(または著者)は、アマゾンの仕様書に従って本のデザインデータをPDFに仕上げる必要がある。データがそのまま印刷機にかかるようにするためだ。それほど面倒な仕様ではない。デザインデータが作れる人なら、特に問題はないだろう。

この仕組による出版のメリットは、まず印刷という初期投資が必要ないことだ。注文ごとに印刷するので、印刷代は本が売れた後に支払う。先に印刷しないので、在庫を持たなくてすむこともありがたい。出版社は在庫を置くために、広いところへ広いところへと移ったり倉庫を借りたりするわけだから(酷い場合は本を断裁もする)。またひとたび登録すれば、品切れや絶版になることはない。アマゾンが存在する限り、本は生き続ける。もしかしたら版元や著者が消滅しても。アマゾンがやっていることは、グーグルに似て、今このときの商売だけに集中するのではなく、人間社会のあり方にも関与しようとしているように見える。現状の出版社が本を絶版にしていても心が痛まず、商売としては当然と考えているかもしれないのとは対照的だ。

ただこの仕組ではリスクが少ないかわり、利益率が当然ながら低くなる。販売価格からアマゾンのマージン分を引いた、残りの60%から印刷実費を引かなければならない。本代をよほど高くするか、たくさん数が売れるかしないと、1冊の販売から得られる利益は多くないので、「商売」にはなりにくいかもしれない。

しかし商売を第一に置く出版ではなく、本を出すこと自体が目的のプロジェクトや活動なら、利用価値はいろいろありそうだ。本を出したい人が、一時はやった「自費出版」会社に高いお金を払ってつくってもらうより、こちらの方が理にかなっているようにも思える。元々このプログラムは、経営母体であるアメリカのアマゾンで始まったものだ。アメリカでは出版社に、というより、本を出したい著者、個人の作家に対してサービスを提供しているように見える。個人の作家がアマゾンで本をつくり、売ってもらう仕組として機能しているように見える。

日本のアマゾンでは、出版までの流れをアマゾンの担当者とやりとりしながら進めていくが、アメリカでは相手にするのは主にウェブのページ、つまりセルフサービス方式になっている。本を出版するまでのガイダンスや、製作中の自動プレビューのプログラムは非情によく出来ていて感心するが、サイトからあるいは電話でスタッフ(アマゾンではなく系列会社のCreateSpaceというところがやっている)に問い合わせもできる。また制作などに関するコミュニティーもあるようだ。

ブログを思い起こしてもらえば、アメリカのPOD出版はその印刷本版と言ってもいいかもしれない。ブログも来るべくして来たものだった。インターネットが普及して、作家に限らず幅広い書き手が出現した。最初自分のサイトを立ち上げるのも大変だったけれど、それが広く行き渡り、さらにウェブ用のプログラムが書けない人でも、ウェブ用のデザインツールを持っていない人でも、テキストや写真など素材さえあれば、誰もが簡単に自分のサイトを作れるようなった。それがブログの大ブームだ。Bloggerのブログが世に出る前に、自分でプログラムを組んで、テキストを放り込めばサイトに反映される仕組をつくっていた人も知っている。わたしもBloggerが出来る前から、こういう仕組を探していた。

ブログやPODの仕組は、作家や出版社が誰なのかを問うものでもある。いい作家と価値の低い作家、良い本をつくる出版社とつまらない出版社、そういう違いはもちろんある。また本をつくる行為がお金を儲けるためなのか、それ以外の目的のためなのか、も人によってわかれるだろう。これまでの世界では、プロかアマチュアか、という線引きによって分かれていたことがそうではなくなった。世界がある意味フラットになった。フラットを公平と訳してもそれほど遠くはないかもしれない。ピラミッドに対してのフラット。

そうなったとき、プロが何をすべきかはまた新たな問題として出てくるだろう。プロができること、プロにしかできないことはもちろんある。ただプロは商売だから、利益をあげなければならず、その分自由が利きにくい面もある。いい本をつくることより、売れやすい本をつくることばかり考えなければならないかもしれない。新しいこと実験的なことをするより、ある程度予測のできることや「ニーズ」があると言われていることを優先してやるかもしれない。目的は金儲けなのか、いい本をつくることなのか。両立することもあるけれど、しないこともある。本をつくる人間が、出版社であれ個人であれ、商売であれ活動としてであれ、こういった問題をはっきりさせないとやっていることの意味がわからなくなる。

誰もが自由に本をつくって売れるようになると、本や出版の質が低くなる? そういうこともあるかもしれない。でも現状の出版の形態が、いい本をたくさん生み出すのに適したシステムだと言えるだろうか。未来型の社会になっても機能するだろうか。基本的に、技術やシステムが多くの人間に公平に提供されていくのはいいことだ。そこから何が生まれるのか、見てみる価値はある。仕組が変われば、主体も変わる。既得権を手にして主体として商売を張ってきた人々にとっては、面倒なことかもしれないが、世界が開かれていくことは、人間の社会にとってはいいことのように思える。