20200522

舞台芸術とビデオ映像

ここ最近の3ヶ月くらい、つまり新型コロナウイルスが地球規模で広がりはじめてから、その影響で各国の劇場やコンサートホールが閉鎖するようになって、その代わりとして、非常にたくさんの舞台芸術をネットで鑑賞することができるようになった。最初は海外のものばかりだったが、少しして日本でもコンテンツの無料公開が出てくるようになった。


個人的には、コンサートや演劇をホールに見にいくという習慣はなくなっていた。過去に何を見たかと言えば、海外からの演奏家のソロリサイタルとか、アート系の演劇集団の作品とか、日本のバレエ団やインディーなダンスカンパニーのもの、あとは、、、旅先のロンドンやサンフランシスコで小劇団の前衛演劇やミュージカルなど。オペラの経験はない。


しかしここにきて、インターネット上でたくさんの舞台芸術(主としてヨーロッパ発の第一級作品)が無料で見られるという事態になり、演目とスケジュールとアドレスをチェックして追いかけるという日々がつづいている。


これだけ舞台芸術と離れていた者が、ここまで密着するものかと自分でも驚いている。その理由の一つは、作品自体の質の高さに加えて、舞台を映像化する技術のレベルがかなり上がっていることと関係している。作品がよくても映像化されたビデオが凡庸だったり、質が低かったら楽しみはずいぶん減るだろう。


ただ作品自体のよさはもちろん大事であり、前提でもあり、演出の面白さや新奇性、コスチュームのアイディアや美しさ、照明や音質も含めた舞台の効果、そして演技やダンスのレベルが高くなくては、いくら映像化が優れていても楽しめるものにはならないだろう。


作品自体の質の高さがあって、それを映像化したとき、動画作品として更に楽しめるものになっているというのが理想だ。作品の質が高く、非常によく練られた舞台芸術の場合、その映像化についても神経がつかわれているケースが多い。クレジットを見ると、普通の劇場映画なみのスタッフロールがあったりする。ビデオを撮るディレクター、撮影カメラマン、サウンドレコーディングのディレクターやアシスタント、とずらりと並んでいる。


この「質の高さ」は大切で、それなしにはいくら「非常事態下」だといっても、これほど舞台作品を見ることにはならなかったと思う。いやこの状況下だからこそ、質の高さは大事なのかもしれない。「芸術は人間にとって、社会にとって必要なものだ」という、芸術の存在価値を訴える主張があるとしたら、それは質によって示されなければ意味がない、通じることはないだろう。その意味で、ドイツを中心に、ヨーロッパ各国は必死の取り組みをしているようにも見える。最高レベルのものを提供する、という使命感のようなものを現在のネットのストリーミングを見ていて感じる。


日本の舞台芸術の提示の仕方はどうか。昔の日本の舞台中継では、カメラは1台くらいしかない感じで、作品の魅力が伝わりにくいものだった。多少のズームインはあっても、カメラ据え置きのような。つまり「中継」あるいは「記録」というところにフォーカスされているのだ。それは今でもあまり変わっていないかもしれない。この分野の開発、中でも人材の開発が遅れているのかもしれない。それとも人材はいても、舞台をクリエイティブに撮るというプランやアイディアがないのだろうか。


オペラやバレエを、劇場で見ることのできる人は限られている。チケットは安くないし、劇場がミュンヘンやアムステルダムなど海外にあればなおのこと機会は減るだろう。また1年に何回も通うことも難しい。もし見たい演目がバーチャルな世界で、それほど高くなく、インターネットを通して日常的に見ることができたら、かなり素晴らしいのではないか、と今回の状況下で思った。そしてそれはきっと、未来の聴衆をつくることに貢献するはずだ。


現在は無料で提供されているものが多いが、この方式で見て楽しむ人が劇的に増えれば、いずれ適切な料金を払って、映画を見にいくようなつもりで(それくらいの料金で)見たいという人は出てくると思う。すでにバイエルン州立歌劇場は、STAATSOPER.TVというサイトで登録なしでコンテンツを配信している。演目はほぼ週ごとに変わり、どれも素晴らしい。歌劇場は現在、新型コロナウイルスの影響を受けているアーティストなどを支援するため、PayPalによる寄付を募集している。しかし日本のPayPalでは寄付をしたくても国内法規よってできない。「国内法規による規制のため、日本およびシンガポールからのPayPal経由の寄付はお受け取りできません。」とのこと。


PayPalが日本法人化される前(アメリカで登録していたとき)は、問題なく寄付はできていた。あるシステムが日本化されることで、世界のコミュニティの一員になることが不可能になる、というのはどんなものだろう。今回の新型コロナ関係のことでは、日本のITネットワークの社会化が非常に遅れていることがわかったけれど、ITやインターネットが絡むと、日本ではあらゆる面で選択肢が少なくなり、スムーズにことが進まない。


クレジットで支払いというのは海外の企業に対して問題なくできるが、寄付でPayPalを通したもの(海外では非常に多い)は一切利用できないということだ。それによって「なぜか日本からは寄付がない」と思われてしまうことになる。


サブスクリプション方式でクレジットで支払う場合は問題がなくても、寄付によって成り立っているネット上の劇場やコンサートホールには、感謝と応援の意を表したくとも、日本の法律が邪魔してできない。悲しく苛立たしいことだ。


現在は支払いも寄付もなく、たくさんのヨーロッパ発の演目を鑑賞している。オペラ、バレエ、演劇と見てきて、最近のヨーロッパでの舞台芸術がどんな方向にあるのか、だんだんわかってきた。


まず感じたのは、オペラでもバレエでも、単に質の高い踊りを見せる、歌を聞かせるということでなく、総合芸術としてのレベルを高めることに力を注いでいるのではないか、ということ。演目がスターダンサーや名人的歌手の力で支えられているというより、もっと全体的な仕上がりにフォーカスしているように見える。


オランダ国立バレエ団の『コッペリア』全幕は、その演出と衣装も含めた美術が素晴らしかった。ビジュアル作品と言っていい。もちろん、踊り手たちの技術や演技のレベルは言うまでもなく高い。しかしそれは当然のことなのだ。振り付けも面白く、ドリーブの音楽はこんなに良かったっけ?という風に聞こえた。そして舞台装置は仕掛けも含めて、童話の世界のようだった。子どもたちが見たら、夢中になるのではという造りになっていた。


衣装もヘアもユニークで、トップモードのようなオシャレ感があった。これまでに見た『コッペリア』では、自動人形(コッペリア)の生みの親コッペリウス博士は、老人であることが多かった。オランダ国立バレエ版では、背のひときわ高い、かっこいい男性がこの博士を演じていた。その容姿とあいまって、博士の踊りの素晴らしさにも目を奪われた。また、子どもたちの出演がとても目を引いた。子どもというのは体型的にも、からだの動きとしても、また踊りの習熟度の点でも大人のダンサーとは違う。その違いが舞台で、演出に活気を与えていた。


この作品のビデオ化について、特別変わった演出があったとは思わないが、舞台作品を心理的距離を感じさせずに、うまく見せていたと思う。おそらくどのシーン、どの踊り、どのキャラクターをどのように、どのカメラで、どの角度と距離で撮るか、隅々まで計算されていたものと思われる。


チューリッヒ歌劇場のバレエ『ロメオとジュリエット』は、プロコフィエフの音楽が好きなので見てみた。この作品の中の「騎士の踊り」の音楽がとりわけ好きだ。凄みがあって、血湧き肉躍るという感じで、狂気を含んだ響きが素晴らしい。これぞプロコフィエフという感じで、通常男性の群舞で踊られる。この作品は全幕で見たことはなかったので、いい機会だと思った。


チューリッヒ・バレエ団の『ロメオとジュリエット』は、舞台装置はシンプルでモダンなものだった。天井から吊るされた大きなシャンデリアが、唯一の目立つ装置。象徴的につかわれているのではないかと思った。衣装もモダンで全体として黒ベースだった。最近のバレエ作品は、どの演目でも、男性ダンサーが多く起用されていることが多く、演出や振り付け上も男性の見せ場がたくさんある。男性ダンサーの数が増えていて、バレエ団が抱えている優秀な踊り手を生かすためかもしれない。また男性の優雅で力強い踊りは、現代に合っている。


チューリッヒ・バレエ団のロメオでは、踊りに加えて演劇的要素が強く出されているように感じた。ビデオで見た感じでは、ときに踊っているシーン以上に演技が際立っていた。中でも最後のロメオとジュリエットが、交互に相手の死を嘆き悲しむシーンでは、どちらも迫真の演技だった。ロメオはジュリエットの死に出会ったとき、実際に声を出して叫んでいた。バレエで踊り手が声をあげるのを見たのは、これが初めてだ。またジュリエットがロメオの死の悲しみにくれるシーンもかなり強烈だった。ダンサーがここまで演技することを求められているのは驚きであり、また新鮮でもあった。オペラもそうだが、バレエも演劇の一種なのだと感じた。


古いタイプの昔のバレエでは、すべてがバレエの振りの内にあって、演技もバレエの様式の中で行なわれている印象があった。悲しんでいるふり、喜んでいるふり、その「ふり」によって感情を表現するような。だから舞台上で恋人同士が、俳優のように本当にキスすることはなかった。今は、どのバレエ団も(海外では)みんな唇を実際に(ときに激しく)合わせている。キスした「ふり」というのはない。つまりダンサーも演技者なのだ。


このバレエ団の振り付けの特徴をいうと、ジュリエットを除く女性ダンサーの多くがポアントと呼ばれるトウシューズではなく、つま先で立つことのない普通のバレエシューズだったこと。このシューズの違いが踊りにダイナミックさを加えていた。ある種の開放感や男性に近い力強さが表現できていた。古典バレエでは、エスニックダンス以外は、たいてい女性はポアントをはいて踊ることになっているが、はかないことによって振り付けも大きく変わってくる。


ジュリエットの乳母役の女性もポアントではなかった。チューリッヒ・バレエ版では重要な役の一人で(通常は端役)、コミカルな踊りや仕草が素晴らしく、聴衆の笑いを誘っていた。またそのセンスのいい笑わせ方(振りと踊り)が、劇としての質を高めていた。そういえば同じプロコフィエフ『シンデレラ』にも、コミカルな役があった。シンデレラの姉二人の意地悪さが、ユーモアたっぷりに描かれている。ユーモアのセンスは、ひょっとして作曲家であるプロコフィエフの中にあったものなのだろうか。いや、でも通常の版では、乳母は年配のあまり目立たない「乳母乳母」した役だから、この『ロメオとジュリエット』は特別なのだろう。


ロイヤル・ナショナル・シアター(ロンドン)では、日本でも『シャーロック』で知られるカンバーバッチが演じるフランケンシュタイン博士の『フランケンシュタイン』を見た。オペラや演劇では、字幕のあるなしが興味を左右する。『フランケンシュタイン』はセリフは英語ではあったけれど、やはり字幕があればなお理解は進む。おそらく劇場の字幕を読むより、ビデオで字幕を読む方がずっと楽だ。


映像作品として海外の演劇を見るのは初めてなので、興味をもって最後まで見た。演出や舞台装置など、全体としてクォリティは高かったと思う。またビデオ作品としても、カメラをあちこちに配し、相当高い場所からの俯瞰カメラも含め、効果的な演出になっていたと思う。


クリエーチャーと呼ばれる博士の手でつくられた生きものは、映画などで知られる人造人間の容姿とは違っていた。最初のクリエーチャー誕生のシーンは、劇的で美しかった。やはり演劇で始まりのシーンは大事だ。冒頭、結構長い間、セリフのないシーンがつづく。クリエーチャーは頭や顔が縫い目や傷、血だらけの醜い生きもので、言葉も知らない。奇妙な声を発するばかり。やがておかしなイントネーションの発話で少ししゃべれるようになると、「I’m different」を繰り返す。みんなから忌み嫌われ、恐れられ、排除される異質の存在、それがクリエーチャーの意味なのだろう。


この三つ以外にもバレエやオペラをいくつか見た。バレエについて言うと、いま見る場合、演出や装置、衣装の魅力が作品の出来不出来に大きく関わってくるように感じた。ダンサーの踊りのレベルについては、どこのバレエ団もほとんど問題がなく、それをどうこう言うまでもないという感じ。『白鳥の湖』は確かに名作かもしれないが、作品上あまり演出に変化を加えられないせいか、多くが従来どおりのものに近く、踊りだけ見ているのはどうにも退屈してしまう。


オランダ国立オペラの『ヴォツェック』は、アルバン・ベルクの傑作と聞いていたので見ようと思った作品。第2幕まで見て、第3幕は飛ばし飛ばしみた。字幕もあったし面白くないことはないのだけれど、ストーリーや音楽にあまり魅力を感じなかった。ヴォツェックを演じていた男性歌手は、変態っぽさが出ていて面白い個性だなとは思った。オペラはいくつか条件が整わないと、なかなか楽しめないものだ。


クルターグという好きな現代作曲家がいて、90歳を超えてつくった初オペラ『勝負の終わり』(ベケットの戯曲をクルターグ自身がフランス語の台本にした)が2年前にスカラ座で初演された。それをRai Play TVというところが配信していたのを知って見にいった。音楽は面白い感じだったけれど、字幕がイタリア語のみで、ストーリーが追えず興味がつづかなかった。


日本のものでは東京バレエ団が去年、ヨーロッパで公演した『ザ・カブキ』を見た。これはずっと昔、初演のときに劇場で見ている。モーリス・ベジャールの振り付けによるもので、舞台装置はごくシンプルで、それはストーリーには合っていると思った。歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』のヨーロッパ人の解釈による演目で、男性舞踊手(特に群舞)が中心の面白いバレエだ。今は男性舞踊手のたくさん出ているバレエは多いが、この作品初演時はあまり他になかったのではないかと思う。ベジャールは才能あふれる振り付け家だ。


ところでチューリッヒ・バレエ団のあとで、バレエ『ロメオとジュリエット』を別のカンパニーにで見る機会があった。サンフランシスコ・バレエ団の『ロメオとジュリエット』は、チューリッヒ・バレエ団に比べると、従来の古典的なものに近かった。舞台美術や衣装、演技や振り付けなど全体としてよかったが、チューリッヒ・バレエのようなユニークさはなかった。


真ん中以降の幕間で、2回ほど、演出家やダンサーなどのインタビュー、リハーサルの様子、衣装や小道具担当の人の話などを集めた映像があり、これはとても新鮮だった。こういう試みは良いと思った。もしライブであれば、幕間の時間の使い方としていいし、そうでなくても、舞台芸術になじみのない人にとって、とてもいいガイドになる。


こういう試みはクラシックの演奏会でもあっていいものだ。指揮者や演奏家が演奏する曲について、作曲家について、聴衆に向かって話をする。舞台で、その場でやるのもいいし、それが難しい場合は、ビデオに撮ったものを挟み込んで演奏風景とともに映像作品にするのもいいと思う。今回の新型コロナウイルス下では、演奏家がモニターの前の聴衆に向かって話をするシーンが多々あった。


海外の演奏家や指揮者、演出家の多くはそれを心から楽しんでやっていた。慣れているのかもしれないし、演奏も含めて「音楽でコミュニケートしたい」という気持ちの現れなのかもしれない。「鍛錬を積んできたものを聴衆の前に提示する」というタイプの演奏家にとっては、あまり得意ではないことかもしれない。今回の状況下で、たくさんの演奏家の映像を見ていて、二つのタイプがありそうなことが感じられた。


以上、最近見た舞台作品のビデオ映像について感想を書いてみた。こんな機会だから見ることができたたくさんの演目。それによって知った、改めて感じた舞台作品の魅力、最近の傾向。いろいろ幅広く勉強になった。舞台一つとっても、そこには現在の社会が反映されている。素晴らしい作品を見ることで、人間の能力やアイディア、そして進歩を改めて感じることができたし、人間や人間社会の未来に希望をもつことができた。芸術はそんな役割を果たしてもいるんだな、と感じた。


*日本のバレエの中のキスシーンについて:2019年秋の新国立劇場バレエ団の『ロメオとジュリエット』公演のハイライト映像を見るかぎりでは、実際のキスはないように見えた。ロメオは海外の外国人ダンサーが演じていて、振付家も海外からのゲストだったけれど。芸術監督が日本人だからか(ただし海外のバレエ団で踊っていた人)、日本におけるバレエの演じ方の習慣なのか。熊川哲也さんのKバレエカンパニーによる『ロメオとジュリエット』は、ハイライトを見ると、ジュリエットが外国人ダンサーで、熊川さん演じるロメオと一瞬唇が合う場面があった。熊川さんは海外のバレエ団出身。


20200508

この3ヶ月に起きたこと。その反応や対処について

情報の届き方というのは、人によって、社会によって、国によってずいぶん違うものだなあ、と今回の新型コロナウイルスの件では感じることが多かった。同じように情報を受けていたとしても、その認識の仕方は様々だし、問題への対処の仕方にも大きな開きがあると感じた。その理由は、基礎となるもの、つまり国や社会の基盤、人の生き方の基本となるものの現在地(現状)がいかなるものかということと関係がありそうだ。


人も社会も国も、平常時からある程度の幅をもって、まわりを(社会と自分との関係を)認識している必要がありそうだ。


新型コロナウイルスの現状が抜き差しならない非常事態として、日本に住む大半の人々に受けとめられたのはいつなのか、調べてみようと思った。わたし自身のことをまず言うと、この事象に目を向けたのは、2月4日のことだった。国際ニュース解説の田中宇氏が記事として取り上げていたものを読んだ。ただしその時点では記事のタイトル(武漢コロナウイルスの周辺)が示しているように、中国の武漢で起きている事象としてだった。その後10日間のあいだに、有料記事も含め、田中氏から3つの新型ウイルス関係の記事が立て続けに配信され、これはただごとではないのかもしれないと思いはじめた。そして2月15日の時点で、ウイルス関係の記事は非常に重要なのですべて無料配信とする、という告知が配信記事内にあり、その時点で事の重大さをさらに確信した。ただしその時点ではまだ、「武漢ウイルス」という言葉が記事内で使われていた(その後、新型コロナウイルス、または新型ウイルスという記述に変わった)。つまり中国のある地域で起きている深刻な事象という認識だ。


では日本の新聞はどのように報道してきただろう。Wayback Machineをつかって過去3ヶ月の日経新聞の記事を調べてみた。最初に目につく場所(電子版1面の下半分あたり)に登場したのが、1月20日の「中国新型肺炎、北京や深圳にも拡大 発症200人超」あたりではないかと思われる。このとき、タイトル下に表示されるキーワードは「中国・台湾、生活、医療・健康」で、「新型ウイルス」はない。またアクセスランキングの上位5位内にも、この関係の記事はない。この時点で、日本では感染者が1人確認されていた。


日経新聞の新型コロナウイルス感染世界マップを見ると、日本に感染者が出たのは1月14日。そのとき、中国41人、タイ1人が世界のすべての感染者だった。韓国に1人出るのは1月19日のこと。このあとアジア地域でポツポツと感染者が出始め、その後アメリカ、カナダでも出る。1月末になると、フランス、ドイツ、イタリアと感染者が現れる。2月末までには広がりは中東やアフリカにまで及ぶ。この時点でイタリアでは死者が35人にまで膨らんでいる。3月半ばにはイタリアで死者が2000人を超え、アメリカでも感染者が4000人を超える。アメリカは感染者も死者も増えつづけ、4月1日の時点で死者6500人。ヨーロッパでも全域で猛威をふるい、イタリアは感染者10万人、死者12000人。4月末にはアメリカは死者60000万人を超え、ヨーロッパのどの地域より大きな影響を受けている。


新聞報道のゆくえを再度見てみよう。1月中の日経新聞電子版のニュースの扱いは、まだ数が少なく、武漢関係の記事としてのみ。2月4日になって「中国から車部品供給が停滞 日本勢も懸念」という産業関係のニュースとして取り上げられている。また2月5日には、横浜沖に停泊中のクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」から10人の感染者が出て、乗船客約3700人が足止めとなっているという記事が載る。そこから1ヶ月たった3月6日を見ると、「東京5色の旅 五輪カラーを探して」というオリンピック関連のニュースがあり、新型コロナの記事も1面にいくつかはあるものの、そこまでの危機感には至ってないように見えた。3月14日のアクセスランキングは、1位が「米、英国・アイルランドからの入国も禁止」で、4位が「米欧、新型コロナ対策総動員 検査拡充や企業支援」とよその国の話。ヨーロッパでの感染の広がりが報道され、3月15日には、「仏、新型コロナで全飲食店休業 スペインは外出制限」のタイトル。その日、日本のニュースとしては、「36都道府県で749人感染 」とあった。


この時点で世界累計の感染者数は14万人を超え、死者は5300人超え。


3月22日のアクセスランキング1位は「オリンピック開催について近く決定」。同日、1面の記事では「世界保健機関(WHO)は新型コロナウイルスについて、パンデミック(世界的な大流行)になっていると認定した」とある。3月22日の時点で、日本は感染者1000人を超えている。3月半ばに行われた小中学校などの卒業式は、参列者や祝辞などを縮小した形で、マスク着用で行なわれたところが多かったようだ。


3月半ばまでの世界の状況はだいたいこんな風だった。一方でオリンピック開催への関心と希望を残す人々がいて、一方ではこの状態をパンデミックと見るという、アンビバレントな状況と情報が日本にはあった。おおよその感じでいうと、2月中は多くの日本人は、新型コロナの感染状況に対して、そこまで厳しい見方はしていなかったと思われる。確かに店舗でのトイレットペーパーの買い占めや、消毒液やウイルス用手洗い石鹸などの売り切れはあったかもしれない。しかしこの行動は、テレビのワイドショーで納豆がからだにいいとなれば、スーパーから納豆が消えるという事象に近く、状況に対しての深刻な認識から行動が起きたようには見えない。


3月になって、卒業式が縮小して行なわれたりしていても、日本の人々が、どこまでことを深く受けとめていたかはわかりにくい。WHOのパンデミック宣言があったあたりでも、ある本屋さんのメールニュースでは「満開の桜」「春を存分に楽しみたいもの」といった文言があった。対照的に別の本屋さんでは、期間限定でウェブショップを送料無料にし、また店舗はオープンしているけれど、「消毒と換気に気をつけ店内は少し寒い」ので、暖かい格好で来てください、とのメッセージがあった。同じ時期の同じ業種のメッセージ発信でも、これだけの差がついている。なぜなのか。どこで違いが生まれるのだろう。


それは個人でも同じ。イベントや展示を企画していた人たちも、この時期の開催をどうすべきか、相当悩んだと思う。会場になっている場所が閉鎖を決めれば、出展者に選択肢はないが、自分が決めなければいけないケースでは悩みは深かったことだろう。その際、パンデミック宣言がある一方で、春を存分に楽しみたいと訴える人もあり、の状況では、いったい現実の真実はどこにあるのか、見定めるのに混乱がともなう。


ヨーロッパやアメリカでは大変なことになっているけれど、日本はまだそこまでじゃない。と受けとめることも、考えようによっては可能か。小さな展示場や集会場で小さな催しをして少ない人数を集めることが、世界に対してなんの影響を与えるだろうか、といった。実質的には問題ないだろう、という判断は多分可能だ。しかし一歩、自分のことから少し距離をおいて、いま世界で何が起きているか、最も困難な状況に置かれている人々がいかに1日1日を生き延びているか、ということをリアルに想像したら(あるいは医療の現場で、重装備の医師や看護師が立ち働いている、あるいは床やベンチでつかの間の休息をとっている写真を目にしたら)、自分が何をすべきか、あるいは自分と社会(世界も含めた)の関係はどのようなものかに想いが至るかもしれない。


物理的に地球上のあらゆる地域で感染が広がり、その勢いをなんとかして止めなければ明日がない、というときに、その状況を(たとえ自分や知り合いが感染していなくとも)正しく認識するには、どんな頭や思考法が必要なのか。即物的なことを言えば、たとえば、イタリアに親しい友人や世話になった人がいる、ということがあった場合、あるいは自分の兄弟姉妹が医療施設の最前線で働いているという場合、その人の思考範囲はきっと広がりを増すだろう。日本とイタリアは、自分と医療の最前線は、実質的に地続きだということがわかるだろう。つまり想像力の問題なのだ。


それで思うのは、近年日本では、異質なもの、自分から遠い存在を常日頃から排除しがちではないか、ということ。簡単に理解できる身近なものだけを好み、そればかりに接していたら、人間の脳や心にはどういうことが起きるだろう。海外の文学には興味がない、音楽も日本人のものだけで充分。アメリカならまだしも、アフリカや南米など興味の範囲外。そのような傾向が、年齢を問わず、日本全域に広がっているのではないか。


そのどこが悪い、日本人が日本人のものだけで満足していてどこがいけない。人は誰でも自分の好きなものを好きなだけ楽しむ権利がある。それが自由主義であり民主主義だ。そう考える人は多いかもしれない。しかし事実は、今回のウイルスの問題だけでなく、日々手にしたり、食べたり、着たりしているものも、そして海や気候などの自然環境も、世界的、地球的広がりの中にあり、自分という存在もその中でかろうじて成立している。たとえ実感はなくとも。実感がないのは、単に認識が足りないからだ。


今回の新型コロナウイルスは、その実感のなさに鋭い指摘のメッセージを送ってきているようにも見える。人間は個人としても存在しているけれど、社会(21世紀においては地球全土を含めた)を構成する一員としても、一人一人が良い面でも悪い面でも意味ある存在なのだ。一人一人が互いに深く関係しあっている、とも言える。イタリアの市民が明日の見えない苦しい状況の中で、毎晩きまった時間にアパートのバルコニーに出て、互いを励ましあおうと声を揃えて歌っているときに、「日本は日本。この季節は例年どおり花見で浮かれたい」という心理があるとしたら、自分のこの感覚になにか問題はないのか、一度問うてみる必要があるかもしれない。


新型コロナウイルスの世界的な蔓延は、自分と世界がどう繋がっているのか、互いにどう連鎖しあっているのかを考える機会をすべての人に提示している。

20200424

きっと未来につながる、ライブストリーミングの活況(2)

前回からのつづき。主要ホール閉鎖の中で見た、バイエルン州立歌劇場のオペラ『ユディト』、ロサンゼルス発、The Industryのオペラ『Sweet Land』につづいて、3月中旬から4月にかけて視聴したオンライン・コンテンツの中から、印象深かったものを以下に紹介。

ドイツ・グラモフォン、世界ピアノ・デー10人のピアニスト

ドイツ・グラモフォンというレコードレーベルが、3月28日の世界ピアノ・デーのイベントして、インターネットでバーチャル音楽祭を開催した。コロナウィルスの影響下ということで、選ばれた10人のピアニストは、それぞれ自宅で高解像度のスマートフォンをつかって、自身の演奏風景を撮影していた。ライブ放送されたのち、少しの期間、3時間あまりのフル映像が公開されていたが、現在はハイライトのみ。
World Piano Day – Global Livestream Highlights | Deutsche Grammophon


ひょっとしたらグラモフォンの影響もあってか、その後、演奏家のスマホ撮影によるライブ・ストリーミングが、日本も含めてたくさん出てきた。わたしがピアノ・デーを見たときは、まだあまりなかったので、とても驚いたのだけれど。

グラモフォンのライブは、ピアニスト一人あたり20分程度で、最初にメッセージがあり、それから演奏というスタイルだった。中には演奏する曲について解説しながら弾く人もいて、それもとてもよかった。最初が最近引退したばかりのポルトガルのマリア・ジョアン・ピレシュ。昔NHKのピアノレッスン番組で先生をしていたこともあり、またピアニストとして人気の高い人でもある。メッセージの詳細はよく覚えていないけれど、今の状況をどのように受け止めているか静かに語る姿には、彼女の誠実さがよく現れていて胸打たれた。そしてこれから演奏するベートーヴェンの悲愴ソナタについて、ベートーヴェンの人生が苦難の道であったことを語り、いまこのとき演奏するのにふさわしい曲だと言っていた。そのような語りを聞いて、それから演奏を聞くというのは、そして世界が共有している今の状況下では、通常聞くのとはまた違う体験になった。

演奏というのはただ歌うだけではない。語るものでもあるのだ。

ピレシュの次はアイスランドのピアニスト、ヴィキングル・オラフソンという人だった。「まだこの家に越してきたばかりで」と包装を解いてない荷物を指差し、大きな窓から明るい光が差し込む部屋でピアノを弾いた。わたしにとっては未知の人で、調べたところ1984年生まれの36歳。最初に一番好きだというバッハを弾き、それからバッハと同時代のラモーを弾いた。こう書くとバロックを弾く人かと思うかもしれないが、そうではなく、フィリップ・グラスやドビュッシーをこういった作曲家と同じアルバムに収録している。そしてなにより、この人が弾くと現代の曲のようにも聞こえる。作曲もする人のようで、アルバムを綿密に構成することは、作曲に近い作業だというようなことも語っていた。ピアノを弾いては曲について語る姿は、音楽への愛にあふれ、印象深かった。

元々知っている人としては、2015年のショパン国際ピアノコンクールで優勝したチョ・ソンジンがいた。久々に見る彼は少し大人っぽくなっていて、でも日本人と同様、メッセージを語るのはあまり得意ではなさそうで、簡単なあいつさつ程度で演奏にうつった。自宅のピアノ室のようで(多くの人がそうなのだが)、グランドピアノの上に白いカバーがかけてあり、壁面の書棚には楽譜や本がつまっていた。こんな風にピアニストの自宅を見ることなどないことで、またそこで演奏する姿というのも初めて見るもので、興味津々だった。

同じ自宅といってもスケールの違う人がいた。7番目に登場したキット・アームストロングは1992年生まれの28歳。スマートフォンを覗きこみながら自己紹介する姿は、普通の若者と変わりがない。しかし「ここが居間なんです」と言っていた場所は、どう見ても普通の家じゃない。天井が高く、太い柱に天井画、彫刻、これは教会ではないのか? と思っていたらその通りだった。フランス北部にあるカトリック教会で、2012年、アームストロングが20歳のとき購入し、コンサートホールにしたという。アームストロングも、わたしにとって未知の人だった。ピアニストであり作曲家でもあり、ごく小さな頃から曲を書いていたようだ。Wikipediaによると数学や物理学にも興味があり、音楽と同時進行で勉強してきたとか。生まれはアメリカで、両親の一方は台湾人、とアジア人の血をひく。というか見た目はアジア人の容貌だ。しかしフランス語も堪能で、英語をしゃべっているとき、フランス訛りがあるように感じられるほど。この人もオラフソン同様、ピアノを弾きながら、落ち着いた声で、楽しそうに、1曲ずつ曲の解説をしていた。

一番最後に弾いたダニール・トリフォノフ、スマートフォンに向かって自己紹介する姿は、(おそらく意図して)マスクと手袋着用。教会のようなところで、非常に離れたところにスマートフォンを置き、マスク姿でピアノを弾いていた。顔などはほとんど見えず。カメラは据え置きのまま、ピアノを引き続けた。このプロジェクトはハッシュタグにWorld Piano Dayとともに、StayAtHomeが掲げられていて、トリフォノフはそのアピールをしていたのかもしれない。

この3時間あまりの10人のピアノ演奏が感動的に映ったのには、いくつかの理由があると思う。一つは「いま」という地球レベルで起きている事態の深刻性を、演奏者と不特定多数の聴衆が共有していること。誰にとっても同じように感染のリスクがある、という共通認識をすべての人が分かち合っている、そして自分にできることをしたいと思っている。そのことを共有しながら、音楽を通してつながっている。もう一つは、プロの高いレベルのピアニストたちが、自宅にいることを推奨し、自分も自分の家を出ることなく、自分の家のリビングルームや練習室で手持ちの設備(スマートフォン)をつかって撮影、録音していること。ピアノの演奏には、その人の人間性が現れるものだが、その人の生活までがここではあらわになっている。たとえばアイスランドという北の果てに住むオラフソンは、温かそうな厚手のカーディガンを着て、リラックスした表情でピアノに向かっていた。そういう身近さを、この非常事態の中で触れることは特別の印象を残すように思う。

10人のピアニスト、中でも未知の人の演奏を聴き、話を聞き、とする中で、心惹かれる演奏家と出会えたことは貴重な体験に思えた。

その他の印象深かったプログラム

前回の原稿を書いたあとにも、引きつづきいろいろな作品を見て、聞いてまわっている。それらの話を少しずつしたい。

クラシック音楽は一部の数少ないファンが聞くもの、と思われている節がある。日本でこの時期にネットで流していたオーケストラには、それを払拭しようという意図があったのかもしれない。もっと普通の人、多くの人が楽しめるものを、と。東京都交響楽団は、「春休みの贈り物」と題して<癒やしの音楽><みんなで歌おう>というコンテンツをやっていた。アニメの名曲やスメタナの「モルダウ」などが並ぶ。新日フィルはたくさんのメンバーが、自宅で演奏することで一つの曲を合奏していた。同様のアイディアとして、東京混声合唱団がやはりそれぞれの自宅から、リモートアクセスによる合唱のビデオを流していた。また坂本龍一は自身の音楽プロジェクトCommonsで、過去のヨーロッパツアーなどのコンサートの映像を、ライブと期間限定のアーカイブで無料提供している。

わたし自身のことを言うと、クラシックや近現代の音楽は聞くものの、管弦楽曲は普段あまり聞いていない。だからオーケストラについてよく知らないし、楽曲についても同様。またクラシックを聞くといっても、(誰にとってもそうかもしれないが)あらゆるジャンルを網羅しているわけではない。ごく狭い範囲、ピアノ曲、チェロやバイオリンの曲といったものが中心だったりする。ときにギターやアコーディオン、リコーダーやコントラバスーンの曲を聞いて面白く感じたとしてもだ。今回のコンサートホール閉鎖の影響下で、ヨーロッパやアメリカの劇場などがコンサート映像を配信したことにより、わたしはオペラを初体験した。このことがきっかけで、もっといろいろ見てみようという気になっている。

ベルリン・フィルのバルトーク
オペラ以外にも普段聞くことのない管弦楽曲を聞く、という体験もしている。「きっと未来につながる、ライブストリーミングの活況(1)」でも最初に紹介したベルリン・フィルは、引き続き日々アクセスしている。ここでバルトークの『管弦楽のための協奏曲』をサイモン・ラトルの指揮で聴いた。演奏の前に、ラトルによる解説(11分も!)がありそれがとても良かったこと、また楽曲自体、バイエルン州立歌劇場のオペラ『ユディト』のプロローグで聴いてとても好きになった、ということもあった。ラトルの話は非常に興味深いものがあり、それは先日見た『ユディト』のさらなる理解につながった。

人々の団結を弾くコンラッド・タオ
まったく未知の音楽家に出会うことの多いこの時期。コンラッド・タオはニューヨーク市在住のピアニストで作曲家。自宅の練習室からFacebookを通じてライブ演奏をしていた。グランドピアノのまわりをきれいにライトアップし、来てくれてありがとう、と挨拶したのちに、まず大好きなバッハの曲をと言って短い曲を弾いた(若い演奏家でこの時期バッハを選ぶ人がなんと多いことか)。それからカメラ(スマートフォン)に向かっていろいろな話をし、次に演奏したのはフレデリック・ジェフスキー作曲の《「不屈の民」変奏曲》。この曲の原題は「団結した民衆は決して敗れることはない 」というもので、チリの革命歌「不屈の民」をテーマにした36の変奏からなるピアノ曲。タオは最初にiPadをピアノの譜面台に置いて、この元歌(人々が合唱している)を流し、それから演奏に入った。このメロディは聴いたことがある、よく知られた歌なのだ。タオはこの時期にふさわしい曲として、人々の団結をうたったこの作品を選び、演奏したのだと思う。

イースターのミサのライブ
4月12日の日曜日は、キリスト教の祝祭日イースターだった。この時期、ヨーロッパやアメリカの教会はどうしているのだろう、と思い探していたらミサをライブで流しているところがいくつか見つかった。セント・パトリック大聖堂(ニューヨーク、マンハッタン)で金曜日のミサの録画映像を見てみた。確か2時間近いビデオだったと思う。天井の高い美しい礼拝堂に司祭が数人いて、祈りの言葉を述べたり、聖歌を歌ったりしていた。歌う人は一人で、歌になると常にその人が歌っていた。朗々とした声の持ち主で、きっと歌をうたう司祭なのだろう。ミサの様子を見ていて、これは宗教儀式なのだけれど、どこかオペラなどの舞台芸術に近い印象だなと思った。舞台芸術のはじまりは、宗教儀式にあるのだろうか。



宗教関係の儀式でいうと、もう一つ、ライプツィヒの聖トーマス教会の『ヨハネ受難曲』の演奏があった。こちらも内装の素晴らしい教会で、まずその大きさや美しさに圧倒される。ここはバッハが音楽行事をつかさどっていた教会で、就任期間にたくさんのカンタータを作曲、演奏していたらしい。有名な『マタイ受難曲』もここで初演された。ビデオでは『ヨハネ受難曲』(91分)が流され、それは総勢たった7人による演奏だった。ソプラノ、アルト、テノール、バス、指揮者、オルガン、チェロの7人が、少し距離を置いて立ち、演奏していた。もちろん礼拝者はいない、ガランとした礼拝堂だ。しかしこの時期、タイミングということもあり、宗教曲を普段聞かない者にとっても、バッハの音楽は心に響くものがあった。

独仏のテレビ局アルテの連続ライブ
Arte.tvというところでは、Hope@Homeというプログラムを見た。バイオリン奏者のダニエル・ホープが自宅のリビングルームに友人などゲスト演奏者を招いて、この「文化的な分離」と「シャットダウン」を受けて、「難局に対処するため」のコンサートを開くというもの。3月26日にepsode 1が公開され、4月15日の時点でepisode 19までいっていた。このアルテというテレビ局を調べてみたところ、独仏共同出資の局のようだった。コンテンツは色々で、オペラのところを見ると、プッチーニの『トスカ』をやっていた。英語字幕付きで見れるようだった。

アルテにはクラシックだけでなく、ポップスやジャズなど様々なジャンルのプログラムがアップされている。グルックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』は字幕が英語ではなかったため、ざっと見ただけだったが、有名な「精霊の踊り」がどのような場面で演奏されるか見ることができた。そういえばオペラ『ジョコンダ』をどこかのサイトで覗いていたとき、バレエとして有名な「時の踊り」を見ることができた。この曲と踊りは子どもの頃からよく知っているものだったので、こんなところで出会えるとは、という感じだった。単独のバレエ作品としてしか知らなかったので。

オランダ国立バレエとオペラ
バレエでは、オランダ国立バレエがこの時期に合わせて、週替りで作品を見せていた。わたしは第1週の『ドン・キホーテ』と第2週の『くるみ割り人形』をほぼフルバージョンで見た。『ドン・キホーテ』は部分的にしか知らなかったので、全編を見ることができてよかった。『くるみ割り人形』の方はよく知っているので、つまみ食い程度にと思って見はじめたのだけれど、第1幕から子どもたちがたくさん登場して、それに惹かれてそのまま見つづけてしまった。こんなにたくさんん子どものダンサーが出ている『くるみ割り人形』は初めて見た。女の子も男の子もたくさん登場して、元気に踊っていた。この演目はよく知られたもので、わざわざ見るかどうか迷うところだが、子どものダンサーがたくさん登場するという演出は、舞台に活気を与え成功していたと思う。そのあと『眠りの森の美女』『コッペリア』『白鳥の湖(ハイライト)』とつづくようだ(それぞれ1週間の上演)。

またオランダ国立バレエは、レッスンビデオをつくっていて、この時期にレッスンに通えないダンサーたちは、自宅のキッチンテーブルなどを利用しての練習に役立ててください、とバーレッスンの映像を流している。ピアニストと講師の二人で30分くらいのものだった。

オランダ国立のオペラの方もストリーミングで作品を流している。4月21日の時点でプッチーニ『トスカ』をやっている。英語字幕があるし、よく知られた作品なので見てもいいかな、とは思っている。アメリカのオペラ好きの友人から、スタンダードなものも見たらどうかとアドバイスされている。これまで見た2本はスタンダードではないので。『トスカ』は多分スタンダードだと思う。そのあと5月に入ると、アルバン・ベルク『ヴォツェック』を流すとのことで、これはちょっと興味がある。現代音楽の作曲家ベルクの作品で、1925年に初演、当時前衛作品だったとか。今見たらどうなんだろう、という興味。

スカラ座の現代オペラ作品
RaiPlayというサイトでは、ミラノのスカラ座で2018年に上演された、ジェルジュ・クルターグの初のオペラ作品『勝負の終わり』(2018年、台本:サミュエル・ベケット)の映像を流していた。RaiPlayはイタリアのマルチメディアのポータルサイト。クルターグは今年94歳になるハンガリーの作曲家。この作品のことは以前から知っていたけれど、まさかネットで見られる日が来るとは思ってなかった。

トーク・ライブも活況
最後に紹介するのは音楽の演奏やバレエではなく、ライブでの対談。Zoomなどを使ったこのようなコンテツは、今あちこちで見かける。ときにポッドキャストをつかった音声だけのものもある。わたしが面白いと思ったのは作曲家の藤倉大と指揮者の山田和樹の連続対談のシリーズ。毎週月曜日の午後10時からライブでやっている。ロンドンの藤倉とベルリンの山田が、YouTubeによるトークのストリーミングを流している。藤倉大は少しだけ知っていたが、山田和樹は未知の人。この二人は「大ちゃん」「和樹くん」と呼び合うような、これまでに仕事も一緒にしたことがある、仲のいい音楽友だちみたいだった。話の内容は音楽に限らないのだけれど、どの話も音楽につながっている印象を受けた。「和樹くんはテクノロジー音痴」「大ちゃんは古典音楽音痴」みたいなところがあって、その周辺で笑えるところが結構あった。ただし、内輪話、裏話という感じではなく、二人を知らない人が見ていても、なぜか面白い対談になっていた。二人とも好奇心旺盛なところがあって、そこが人を惹きつけているのかもしれない。



とここまで、前回の(1)も含めて3月、4月に経験し、印象的だったライブ・ストリーミングを紹介してみた。この先、地域によってはロックダウンや外出規制が少しずつ解けてくる可能性はあるが、地球規模での警戒解除までには時間がかかりそうだ。その間、引き続き、劇場やカンパニー、演奏家などの個人がライブ・ストリーミングによる活動をつづけていくのではないか。そしてこのバーチャル・シアターというフォーマットは、世界が完全に安全になったとしても、残っていく、あるいはもっといろいろな形で発展していくのかもしれない。

ネットワーク社会というものが、思わぬ厄災によって急に進行したことは、ある意味興味深い。インフラも含めた設備・環境や人間の対応力も基礎はすでにできている。日本のような現金&ハンコ文化が根強い旧型の国でも、今後少しずつ変わっていく可能性がある。今回のことで思ったのは、インフラやスキル、対応力も大事だけれど、バーチャルな社会やその方法論に対して、心理的な面で違和感やギャップを減らしていくことが大きなポイントになるのかなと。未来はきっと、リアルとバーチャルを組み合わせることの中に、新しい方法論や可能性を見つけていくのではないかと思っている。


20200409

きっと未来につながる、ライブストリーミングの活況(1)

新型コロナウィルスの影響で、国内外の劇場が閉鎖している。コンサートへ行けない聴衆へのサービスとして、海外の劇場やレコード会社のいくつかが、無料でライブストリーミングを流したり、オンデマンドの動画アーカイブを公開している。

3月の中頃、バイオリン奏者のコパチンスカヤのFacebookで、ベルリン・フィルが無料でコンテンツを公開していることを知った。3月末までに登録すれば、1ヶ月間無料でデジタル・コンサートホールのコンテンツが見れるという。ベルリン・フィルに特別興味があったわけではないが、どんなものをやっているのか、どんな風にやっているのか見てみようと思い、すぐに登録した。
(現在、締め切り期限なしで1ヶ月間無料視聴の登録を受け付けている。日本語のガイドあり)

ベルリン・フィル:デジタル・コンサートホール

最近のオーケストラ公演や過去のシーズンのコンテンツなどあって、少しずつ見てみた。ナビゲーションや画像の質など良好で、快適に鑑賞できそうだった。また驚いたことに、サイトは完全に日本語化されていた。日本語以外に英語、スペイン語、中国語など6つの言語が用意されていた。さすがベルリン・フィルということなのか。

ベルリン・フィルのデジタル・コンサートホールは通常、有料で登録して見るもののようだ(月額1800円弱)。そのため元々のコンテンツとして、過去のアーカイブが豊富に揃っているようだった。他にも同じようなサービスがないか(この時期なので)ネット上を探してみた。海外について言うと見きれないくらい、いろいろな無料のコンテンツ提供が出てきた。しかも多くのところが日々、新しいコンテンツを継続して公開している。

海外コンテンツの中から、実際に見て聴いて印象的だったもの、未来性を感じたものをここで紹介したい。現在わたしたち(そして世界中)が被っている非常に困難な時期に、このような「夢のような出来事」が起きて、またとない体験ができることを、そして未知の世界を知る機会を得たことを心から嬉しく思う。辛い状況にあっても、新しいことが学べるのは心理的に大きな救いになるし、きっとこれは何らかの形で未来につながっていくと思う。視聴者、提供者の双方にとって。

日本のアーティスト個人やオーケストラやホールなどの機関においても、このようなアクションはあったが、いくつか見た感じでは、ムービーの意図や質などの点で、(個人的には)印象深いコンテンツとは感じられなかった。プロダクションのアイディアや技術の問題と、こういうビデオ作品を作り慣れていないことが原因かもしれない。ただ今の状況の中で、行動を起こしたことに対しては、おおいに称賛したい。まずはやらなくては何も起こらないと思うから。

以下、3月中旬から4月にかけて視聴した三つのコンテンツを中心に書いていく。


バイエルン州立歌劇場のオペラ『ユディト』

正直いってオペラにはうとい。まずオペラを通して見たことがない、劇場でもネットでも。関心もさほどなかった。しかしこの『ユディト』という作品は、ふつうイメージする昔風のオペラとはかなり違うようで、興味を惹かれた。ひょっとしたら、オペラの世界は近年、大きな変化をとげているのだろうか?

『ユディト』は今年の2月7日に収録されたものだった。しかも初演作品、その時点ではまだ(コロナウィルスの影響を受けず)観客が入った状態だった。ほんの1、2ヶ月前に初演された新作オペラを見れるなんて! と驚いた。この『ユディト』という作品は、『青ひげ公の城』と通常呼ばれているバルトーク唯一のオペラ作品。元のストーリーはシャルル・ペローで、モーリス・メーテルリンクの戯曲からオペラ台本が作られたようだ。ユディトというのは、この物語に登場する女の主人公の名前。

ほぼオペラを知らずに、また『青ひげ公』についても何も知らないまま、いきなりこの『ユディト』を見始めた。バイエルン州立歌劇場は18世紀半ばに起源があり、19世紀にはワーグナーの主要作品が初演された劇場として知られている、由緒ある立派な劇場。作品に入る前に、クレジットロールを流しながら、この歌劇場の外観がたっぷりと映された。建物は古い時代のいかにもヨーロッパという見映えだけれど、オペラの中身は違った。

まずステージ上に大きなプロジェクターがあって、夜の都会の風景が映されていた。ステージ下にはオーケストラボックスがあり、かなりの人数の大きな編成のオーケストラが入っていた。指揮者はオペラでは舞台の方を向いている。比較的若い女性の指揮者だった。画面では都会の風景から、一人の男が街を歩いていく後ろ姿に切り替わる。バルトークの音楽は不穏な、ミステリアスな緊張感に満ちたものでゾクゾクする感じ、映像も徐々にスリラータッチになっていく。(ここで使われている音楽は、バルトークの『管弦楽のための協奏曲』)

これは現代のドラマなのだ。映像の中の男はビルの地下室のようなところに入っていく。車が1台あり、そのそばに作業台のようなデスクがある。この場面を別の場所から4分割のモニターで見ている男がいる。監視カメラが設置されているのだ。ミステリー度が一気にあがる。

と、こんな風に映像は音楽のみの無言(セリフなし)で進む。バルトークの音楽の良さが際立っている。ストーリーは進んでいく。年配の女性がパソコンで仕事をしているシーンが映る。これが主人公のユディトなのだが、本名は違う、アンナ・バーロウ。身分証明書から、実は刑事であることが判明。こんなキャラクター設定は、もちろんオリジナルの台本にはないはず。

延々とつづく映画のような作品、いったいいつオペラになるのか。指揮者はプロジェクターを見ながらタクトを振りつづけている。(オリジナルの台本では、この部分はプロローグとして、前口上が語られるようだ。)

40分くらいたったところで、ステージに黒い幕が降りてきた。そして舞台の上にセットが現れる。映像の中にあった地下室と車、そして車の中には女(ユディト)が。舞台中央あたりにドアがあり、それによって右側の部屋と地下室が分けられている。ドアの右手の部屋には、映像の中で監視カメラを見ていた男がいる。そしてこのドアが『青ひげ公の城』の第1の扉だ。物語では、扉は第7の扉まであって、ドアが開けられるたびに次の部屋へと場面が転換していく(拷問部屋、武器庫、秘密の庭園など)。

映像の中のシーンが、ステージ上に現れた最初の瞬間はスリリングだった。ここから二人の主人公、ユディトと青ひげのやりとりが歌で行なわれていく。言語はオリジナルのハンガリー語。わたしは英語字幕の設定で見る。このオペラはセリフ(歌)のやりとりがシンプルで、量もそう多くはない。だから字幕を読むのは楽。またセリフの内容も、中学生程度の英語で理解できる。「Yes, I will follow you」「What beautilful flowers」「Open the door, Judith, and look at them!」のような感じだ。(ビデオを見る限り、舞台に字幕装置はなかった

オペラは字幕を読むことで、理解が飛躍的に進む。劇場で見る場合は、通常舞台の前面上部に液晶発光の装置があるようだが、モニターで見ているときは一つのフレーム内に、舞台と字幕が収まっているので、より見やすいと思う。

というわけで、この初オペラ体験は衝撃だったし、かなりの満足度に達した。バルトークの音楽の良さ、ミステリータッチのストーリーと映像、映像と舞台の組み合わせ方、活気ある女性の指揮者、キャラクター設定、舞台装置など、この作品がオペラであるということ以外のところに大きな魅力と見どころがあった。制作のケイティ・ミッチェルという演出家が、鬼才と言われている人のようで、またムービーの監督、グラント・ジーの映像もよかった。映像場面と舞台やオーケストラボックスをときに引いたアングルで映すビデオ・デザインも優れていたと思う。

劇場で見るのとはまた違った楽しみ方を、このビデオ・オペラ作品は提供していた。こういう作品であれば、もっとオペラを見てみたい。

蛇足:おそらくユディトは通常、若い女性として設定されていると思うが、ケイティ・ミッチェルの演出では、年配の女性。青ひげ公が次々に誘惑し幽閉している女性も年配ばかり。「シニア・クイーン」というコールガールの出会い系サイトに、ユディトが登録することで青ひげの家に行くという展開(ユディトは、行方不明の女性たちを探す刑事として潜入する)。

バイエルン州立歌劇場の『ユディト』の紹介ページ




ロサンゼルス発、The Industryのオペラ『Sweet Land』

バイエルン州立歌劇場の次に見つけたのは、ロサンゼルスのオペラ・カンパニーThe Industryの『Sweet Land』という作品。チャイナタウンのすぐそばにあるロサンゼルス州立歴史公園で野外上演されたもので、これも初演作品。新型コロナウィルスの影響で、3月半ばまで2週間ほど上演したところで中止になり、カンパニーは即座にこの作品を映像化して公開することを決定。スタッフ、出演者が3月15日に集合して、無観客で作品を収録したという。そして2週間後の3月29日(現地時間)に、ネット上でこれを上演すると発表した。『Sweet Land』は有料で、前売り券は日本円で1062円だった(公開後は1600円くらいになっていた)。

わたしはニューヨーク・タイムズのザカリー・ウルフという人のレビューを読んだのち、この非常に安価で提供されたプレオーダーのチケットを購入した。このオペラを見てみたいという欲望と、チケットを買うことで、カンパニーを支援できたらという気持ちの両方があった。

このオペラ作品はVimeoを通じて公開された。日本時間3月30日の朝、Vimeoからの通知が来ていて、公開がスタートしたことがわかった。すぐにアクセスする。作品は映像作品として制作されていて、最初の場面は、舞台として使われた「ロサンゼルス州立歴史公園」の俯瞰映像と、なんとも説明の難しい不思議な声の集合による、美しく力強い歌、ハーモニーだった。アメリカ・インディアン? あるいはアイヌの人々の歌声? プリミティブな発声による、古典的なオペラとはまったく違う歌声だった。

このオペラの楽曲は、1977年上海生まれの作曲家ドゥ・ユン(2017年にピュリッツァー賞受賞)と、同じく1977年生まれでナバホに出自をもつアメリカの作曲家レイヴン・チャコンの二人によるもの。未知のハーモニーと不思議なメロディ、変わっているけれど美しい歌声に導かれて、オペラはスタートする。

最初にも書いたように、このオペラは野外で上演された。ロサンゼルス州立歴史公園というのは、スプリング・ストリートとゴールドライン(リトルトーキョー駅など含む軽量電車)に挟まれた細長い地形に立地し、オペラの最中に、何回かこの電車が背景を走り抜けていく。ニューヨーク・タイムズの批評家ザカリー・ウルフは、電車もオペラのキャラクターの一人のようだった、と記している。確かに、電車が通り抜けていったときは驚いたし、演劇的な効果はそのパワーと意外性において絶大だと感じた(最初に見たときはセットの一部だと思っていたので、すごいことをするなとびっくりした)。

この野外公園に設置された舞台を広くつかってオペラは演じられる。オペラは二つの“サイド”に分かれている。一つは「feast(祝宴、ご馳走)」もう一つは「train(電車)」。ビデオで見る場合は、順番に見る。上演の場では、観客はどちらかを選んで見て、もう一つは翌日に見ることができるらしい。最初の部分と最後の部分は同じシーンで、真ん中が違っている。

スウィート・ランドを夕闇がおおう。
何ものかが夕闇とともにここにやってくる。

彼らは何ものなのか?
彼らは影と反響なのか?

わたしたちは、聖歌を耳にする、
たくさんの声、さまざまな響きが重なる声を。
岸辺でこの土地の者が、やってくる船をみている。

始まりのシーンでこんなテロップが流れる。これは植民者によるアメリカの始まりの歴史を表しているのだろうか。アメリカ・インディアンのトリックスターであるコヨーテ役の女性が歌う。やってきた見知らぬ者が「ゲスト」になるのか、と。やってきた船のキャプテンが歌う。エデンをもとめ太陽を追ってここまでやってきた、と。

バイエルン州立歌劇場で見た『ユディト』とはまた違った意味で新しいスタイルの作品だと思う。

Sweet Land (The Industry)



次回につづく