20190208

インタビューについて考えてみた


インタビューとは、質問者と回答する人の間で行なわれる会話のことである、とMerriam Webster Dictionar(2016年版)にはあるようだ。日本語にはこれにぴったりはまる訳語はないと思う。だからインタビューという英語がそのまま使われている。(ただし就職や入学の際の試験のinterviewは「面接」という言葉がある) 

記事を書くために、インタビュアーとしてインタビューイーに質問したこともあるし、メディアからインタビューされたこともある。海外のメディアからのインタビューも受けたことがある。最近、チリの新聞の記者からインタビューの依頼を受けたが、それはemailによるもので、スペイン語ではなく英語。日本語以外では、インタビューを受けられるのは英語のみだ。

去年の7月、葉っぱの坑夫でスタートさせた「インタビュー with 20世紀アメリカの作曲家たち」は、シカゴのブロードキャスター、ブルース・ダフィーが、Classical 97というクラシック専門のラジオ局で、音楽家たちにしたインタビューの記録からの日本語訳。ブルース・ダフィーはClassical 97がなくなる2001年までの間の約25年間、1600人を超える音楽家(作曲家、演奏家、指揮者、音楽評論家、プロデューサー、調律師など)に独自のインタビューをしてきた。

そして1990年代から、その録音を文字に書き下ろす作業をつづけている。ブルース・ダフィーのウェブサイトには過去のインタビューの一部がテキストで掲載されており、現在も文字化の作業はつづいているという。おそらく彼にとってのライフワークではないかと思う。わたしがたまたま出会ったのは、その中のインタビューの一つだった。去年の春のことだ。

グーグルでRégine Crespin(レジーヌ・クレスパン/フランスのソプラノ歌手)を探しているときだった。ちょうど彼女の自伝を読んでいて、それが素晴らしかったのでGoogleで検索してみたのだ。するとWikipediaの次に、ブルース・ダフィーによるインタビューが出てきた。そしてそのインタビューを読んだ。自伝で読んだ印象と変わらないクレスパンの声が聞こえてきて、感動した。自伝のクレスパンも、その「しゃべりの声」が素晴らしかったのだ。

ブルースのインタビューがあまりに素晴らしかったので、目次を開いてみたところ、たくさんの音楽家の名前が並んでいた。クレスパンのインタビューの素晴らしさは、ひょっとしたらインタビュアーの才能にも負っているのでは、という気がしたのだ。名前のリストを見ると、かなりの著名音楽家が並んでおり、またわたしの知らない人々もたくさんいた。

その中から、適当に(選ぶ基準があまりなかったので)ピックアップして、自分の知らない音楽家を中心に数人のインタビューを読んでみた。その方がインタビュアーの力量に焦点を当てられる気がしたから。そしてその予想はあたった、と思った。名前も知らない音楽家(主に作曲家)のインタビューが、どれも刺激的で、最高に面白かったのだ。

インタビューが面白い、というのはどういうことか。ふつうインタビューを読むときは、インタビューされる側に興味があってのことが多いと思う。聞き手が誰であれ、答える人に対する興味で読むのではないか。インタビュアーが良くないと、確かにあまり面白いインタビューにはならないが。逆にインタビュアーが面白いから、その人のインタビュー記事を読む、というケースはどれくらいあるのだろう。ブルース・ダフィーのインタビューについては、わたしの興味は、最初そこのところにあった。

インタビュアーであるブルース・ダフィーの長年にわたる音楽との関係性、彼の言葉を借りれば「音楽は友だち」ということ、また小さな頃からの音楽体験が、インタビューに質と深さをもたらしてるように思えた。小さな頃、地元の教会で歌っていた経験や音楽を大学で学んだこと、バスーン奏者として地元の楽団で演奏していたこと(中国などにツアーにも行っている)、地元の高校や大学で音楽を教えていたことがあること、そして大変なレコードコレクターであること。こういったことのすべてが、インタビュアーとしてのブルース・ダフィーを型作っている。

ブルースのインタビューでは、質問はごく普通の言葉(音楽専門用語ではなく)でなされ、答える方の音楽家も、一般的な言葉で語ることが多い。それはラジオというメディアだから、そこまで専門性をもたせないという意図があるのかもしれない。音楽好きの人々(知識の程度に差はあるだろう)が、それぞれのレベルで聞ける番組なのではないか。

ブルースの質問は、必ずしも専門的なところに的を当てていない場合も、音楽についての深い洞察が感じられるものがしばしばある。たとえば作曲家に対して、「音楽の目的とはなにか」、「作曲は教えられるものなのか」「作曲家は音楽を支配しているのか、それとも音楽に支配されているのか」などの質問がなされているが、その回答は個々の考え方が明確に導き出されて興味深い。こういった質問は、質問者の側に、音楽に対する深い理解がないとできないものだ。

インタビューではときどき、質問者にそれなりの(あるいは相当な)知識があるために、質問が「質問」というより質問者の知識のひけらかしや主張になってしまっていることがある。そういったインタビューは、退屈することが多い。質問が的を得たものでなくなる。何のためのインタビューか、というポイントがずれてしまっているケースだ。ブルースのインタビューは全くそういうことはなく、ブルース自身、自分の知識や経験をそこで見せる必要は感じてない、と言っていた。 

このように見てくると、インタビューの面白さは、かなりの部分、インタビュアーの質と関係しているように思える。その質とは、質問する方の前提となる知識もあるだろうが、どのような態度でインタビューに臨むかが大きいかもしれない。アメリカのテレビには、よく知られたインタビュアーによる著名人のインタビュー番組というものがあるようで、いくつか見たことがある。そういった番組のインタビュアーは、たいてい高い質を備えた人であることが多い。インタビューを受ける著名人も、インタビュアーの質でその仕事を受けるか決めているかもしれない。 

日本のインタビュー番組というと、あまり思いつかないが、「徹子の部屋」が一つの典型として思い浮かぶ。あれは黒柳徹子というキャラクターが、立派な大人でそれなりの仕事や人生の経験者であるにも関わらず、子どものように率直な(あるいは馬鹿げた)質問を、著名人に臆面もなくする、というところがポイントだろうか。たとえ相手が何かの専門家であったとしても、視聴者の代表として、子どものような率直さで何でも臆せずに聞く態度、といった。

その他のインタビューを思い浮かべると、たとえば政治家への記者のインタビューには、面白いと思えるものは少なそうだ。スポーツのインタビューもそうだ。決まりきった質問に対して、選手も決まりきった答えをしている。サッカー解説者の戸田和幸さんは、もし自分が日本のどこかのクラブチームの監督になったとしても、インタビューは絶対に受けない、と言っていた。

一般に日本は台本社会ではないかと思う。インタビューであれ、演説であれ、あらかじめ台本が用意されていて、しっかりそれに沿って進めなければいけない、そういう社会。もちろんアメリカでも大統領の演説はあらかじめしっかりテキストが用意されている。しかしそれを「実演」する段になったら、そんなものはなかったような喋り方をする。日本では、その台本を手に、演説というより、読み上げていることも多い。特に言語が日本語ではなく、英語だった場合は、ほとんどの場合、「読み上げ」になってしまう。日本の多くの政治家はそうだ。お隣りの韓国を見ると、女性の政治家が手元に台本なしで、英語による演説をしているのを2回ほど見たことがある。

演説ではなく、インタビューの場合も、日本では台本を見ながらというケースがある。サッカーのニュース番組(CSのJsports)で、スペイン語のできるディレクターが、南米の選手にインタビューする際、手に紙をもってそれを読んでいたのを見て、驚いたことがある。インタビューの質問を紙を見て読み上げる、というのは、相手に対して失礼にはならないのか。視聴している方にとっても、紙を読み上げて質問、というスタイルは、インタビューとしてなんだかテンションが落ちる。言葉の壁があるから? おそらくそうではないのではないか。

インタビューではなく、スポーツ実況においても、実は台本があるという。これも戸田和幸さんが本に書いていたことだが、実況前に台本を渡されて、おおむねその通りやることになっているらしい。実況で?!! とわたしは思った。実況とは何か、を考えればひどい話ではないか。それも局や番組の要望で、このように言ってくれという要望があるらしい。戸田さんは、さすがにこれは言えない、こういうことを言っていては自分の解説者としての信用を失う、と思った場合は、実況者(アナウンサー)に変わり言ってもらうよう頼むそうだ。こんなことが起きているとは、ひどい話ではないか。 

なぜこのようなことが起きるのか。番組内で予測不能なことが起きたら困るから? そういう「リスク」に対して、きっちりした台本をつくり、参加者はその場で感じたこと、考えたことを言うより、台本にあることをしゃべることを優先させられる。リスク管理は完璧でも、実況やインタビューにとっては、マイナスとなる。こういったことは、たとえば「インタビュー文化」というものがあるとすれば、視聴者は、かなり質の低いところで我慢をしなくてはならなくなる。面白いインタビューは生まれにくい。

インタビューひとつとっても、その社会のあり方や国や国民の対し方がここまで違うということ。日本では、コミュニケーションにおいて面白く、活発なものが生まれにくい土壌だとしたら、とても残念なことだ。インタビューはカンバセーション、そうであれば用意された質問に加え、その場でも会話が生まれ、質問が生まれ、互いの言葉に刺激を受けたり影響されながら、おしゃべりが行き来しなければ意味がない。会話に発展性が出てこない。

ブルース・ダフィーも自分のインタビューを「カンバセーション」と言ったり「チャット(おしゃべり)」と言ったりしている。そういった言葉で表される対話の即興性が、インタビューの肝だということかもしれない。



最近インタビューを受けたチリの記者Fernanda CarvajalによるLomonono.blog:葉っぱの坑夫がどのようにスタートしたか、どのようにして作家やアーティストと出会っているか、過去の、そして今後の出版物についてなど話している

20190125

アートと常識

アートというものが、現実の社会でどんな役割を果たしているのかについて、最近思いあたることがあった。年末年始にかけて、音楽家の評伝を2冊読んでいた。最初に読んだのが『グレン・グールド:未来のピアニスト』、次に読んだのが『高橋悠治という怪物』。2冊ともピアニストで文筆家の青柳いづみこの著書である。対象になっているのはどちらもピアニストにして作曲家、そしてどちらも破格の個性派。この2冊を読むことで、「変人」のようにときに言われ、あるいはそのようにレッテルを貼られているアーティストが、何を考えているのか(何を考えて生きているのか、何を考えて作品に対しているのか)を少し理解した気がした。

それとは別に、年始に身内の葬儀があって出席したのだが、そこにある社会というもののあり方や人々の行動を間近に見て、常識の世界の存在を改めて意識する経験をした。一般社会やそこで暮らす普通の人々というのは、個人としてのあり方と社会の常識のバランスの中で生きている。しかし集団の中に入れば、優先されるのはその社会(集団内)の常識となるだろう。少なくとも良識(常識)ある人間はそう考え、そのように振るまうのではないか。日本においてはそうだ。

常識というのは、そうするものだと自分が覚えていることでもあるし、また知らなくとも他の人のしているように振るまうことでもある。そうするものだと覚えている場合も、経験として知っているということであって、多くの場合、その根本や源を知ってのことではない。またそれを知っていることを求められることもない。そこにある常識から外れないように、よく周りを見て従っていればいいのだ。こうしたことは葬儀のような儀式の場に限らない。日常のあらゆる場面で、人々は常識から外れないように身の振り方をコントロールしている。

一方アーティストと呼ばれるたちは、そういった常識で固められた社会に対して、作品をとおして違う考えがあることを伝えようとしている、と思われる。つまり常識人から見たら、聞きなれない、あるいは非常識としか思えないことを、大事なこととして言っている場合があるということ。
作曲家でピアニストの高橋悠治の評伝である『高橋悠治という怪物』では、もう一人の怪物であるグレン・グールドとの比較がたびたび出てきた。グレン・グールドは特異な解釈、奏法をするピアニストとして知られているが、作曲家としての側面ももっていた。作曲をするピアノ弾きという点で、この二人には共通点がある。そのことと関係するかどうかわからないが、著者の青柳いづみこ氏は、両者が楽譜に指番号を振ることを嫌っていたことをあげていた。指番号というのは、親指が1、人差し指が2、中指が3、薬指が4、小指が5と表示される楽譜上の番号のこと。ある音符の上に3と書かれていれば、その音は中指で弾くのがいいという意味になる。(すべての音符に番号が振られているわけではなく、要所要所に書いてある。絶対的なものではなく、一つの指針ではあるが)

他のピアニストにもそういう人がいるのか、わたしは知らないが、アマチュアである自分の経験で言えば、指番号が定まらないうちはうまく弾けないし、指番号を振った楽譜こそが初見や練習中の曲を弾く上での道しるべとなる。これはピアニストである青柳いづみこ氏にとっても、ある程度言えることのようだ。

指番号を定めて(どの指で一つ一つの音符を弾くかを割り当てる。市販されている楽譜には、普通おおよその指番号は振ってあるので、まずはその通り弾いてみる)ピアノを弾くということの意味は、「いつも同じ指使い」でその曲を弾くことにつながる。それによって指が慣れ、スピードをあげてもスムーズに弾けるわけだ。

ではグールドや高橋悠治が指番号を振ることを嫌う、ということにはどんな意味があるのか。そは「繰り返し」をしないということ。弾くたびに違う指使いで弾くことが、クリエイティブな演奏につながる、つまり1回ずつ、違う弾き方を試しながら、その曲の別の可能性を探す、あたかもいま初めてその楽曲がそこで誕生したかのように対する、というようなことだ。

とすると、指使いをきっちり定めて、いつも同じ弾き方である曲を弾くことにはどんな意味があるのだろう。しかしそのことをこそ、ピアノを学習する者は「練習」とか「レッスン」と呼んでいる。それは奨励されることであり、そうやるべきことであり、それをやらずに1回ずつ気ままに指使いを変えていたのでは、練習にならない。それが普通の考え方だ。理想は100回弾いたら100回同じように弾けること。かもしれない。しかし、、、

この二つの態度の違いは、何のために演奏するのか、何をゴールとするのか、という問いにつながるだろう。ひたすら練習して、一つの弾き方で、ある到達点に達すること。一般の学習者が目指していることの一つだ。グールドや高橋悠治は、そのようなゴールではないところを目指している。楽曲から、どれだけ違った可能性を引き出せるか。同じことを繰り返すことに意味はない。そう考えているはずだ。

一つの弾き方でひたすら練習に励んでいる学習者にとっては、これは目を覚まさせられる指摘になる。どこで違ってしまったのだろう。。。と。この指使いについての「常識」は、ピアノ学習における決まりごととして、広く受け入れられているはずだ。一つの曲を何週間、何ヶ月と練習して、繰り返すことで自分のものにし、完成度の高い演奏に仕上げる。そうやって演奏を固めていくことで、完成品をつくりあげる。そこではミスタッチや演奏の不安定性はなくなるだろうが、同時に曲に対する「疑問」あるいは「問いかけ」も消えてしまうのはないか。

その意味で、グールドや高橋悠治が指使いを決めずに、1回ごとに違う演奏を心がけ、楽曲に対する問いをやめないのは、演奏者として正しい態度のように見えてくる。作曲をする演奏家の演奏が、演奏のみする演奏家と、どこか違うアプローチを見せるのは、このような傾向によるものかもしれない。つまり「上手く」弾くことより、どう作曲家の意図と対面するかの方が演奏する上で大切ということ。

日常生活や何かの式典においても、行なわれることの大半は、疑問の余地なく遂行されることが多い。なぜ朝7時半に起きて8時に家を出て、9時までに会社に着くようにするのか。なぜ8時すぎまで残業して、10時に家に帰ったらご飯を食べて風呂に入り、テレビを見て寝るだけなのか。考えることなく行動している。なぜ夜は10時前にベッドに入り、朝は4時半には起きて自分の研究または勉強をして、9時から5時まで働いて、7時には家で料理して家族と夕飯を食べ、子どもや妻(夫)と様々な会話をもつ、といったことをしないのか。そのように生活するには、日本では意志の強さと集団内での自己主張が必要になるだろう。

多くの場合、人は社会や集団の常識(それは必ずしも規則や規定ではない)に従って生きる。なぜそうなのかについては考えない。ものを考えないこと、周囲や常識に従うことが、楽な、あるいは問題の少ない生き方だと信じている。そしてあるとき、何か自分の身に起きたときに、初めて自分のやってきたことを、真剣な気持ちで思い返すのだ。

アーティスト(社会の要請ではなく、自己の発意として、それまでにないものを生みだす人)は、常識というものの枠を無化して生きている。つまりものを考える人だということ。どんな小さなことも、周囲の要請や社会の常識に従って、自分の考えを反映させることなく行動することはしない。日常の小さな行動と、自分の創作物の間には密接な関係があるはずだ。日常生活では全面的に因習や風習に従い、人にもそれを強要し、創作するときだけ何ものにも縛られない自由な発想で、などということはあり得ない。アーティストの特質は、身を置いている環境の中で自己を対象化し、それについて深く思索し、その成果を作品や行動で示すことだと思う。

アーティストが常識に捉われない自由な発想ができるとしたら、その理由は一般人より、より広く多種のものであふれる世界を知っている、あるいは経験しているからかもしれない。一般人の視野は一般に狭い。あることを強く「常識」として主張し、人にも強要する人は、自分のまわりの狭い世界しか知らずに、それを普遍的なものと思い込んでいることがある。しかし、たとえば葬儀一つとっても、日本では出席者は喪服と呼ばれる黒い服(黒ければ済むのではなく、たいていは喪服としてしか着られないような材質とデザインのもの)を着ることが常識だ。なぜ黒なのかとか、なぜ肌を出してはいけないのか、とか考える必要はない。喪服、として売っているものを購入して着ていれば、何も余分なことを考える必要はない。

しかし所変われば常識も変化する。聞いた話では、台湾では道教の葬儀のとき、白い服を着るという。ごく身内の者(一親等など)は、普段着でなくてはならない。それは悲しみの日に、着るもののことなどに頓着してはいけない、あるいはしないはず、というのが理由らしい。形式ではあるが、なるほどという部分はある。誰かが死ぬと、さあ、何を置いても段取りだと言って、死者を悼む気持ちは後にまわして、まず通夜や葬式の手筈を滞りなく、人から非難されないように整える、というのは死者を弔うという意味で、本当に正しい態度なのかどうか、わからない。わからないが、常識に従って、誰もがそれをする。しないわけにはいかない。

グレン・グールドが死んだときの葬儀の様子を、『グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独』というドキュメンタリーで見たが、教会で行なわれた式典で、参列者はみな普通の服を着ていた。Googleの検索で見た台湾の別の葬儀では、白いジャケットに紫のミニスカートの女の子のブラスバンドが、賑やかに管楽器などを演奏しながら行進していていた。また台湾の葬儀を体験した人のブログには、式典ではみんな普段着だったということが書かれていた。これくらい地域によって、葬儀のしきたりやマナーは変わるのだ。自分の属する集団内の決まりやマナーが普遍的なもので、絶対性がある、と思う必要はないということだろう。

アーティストはこういったこと、世界の多様性を体験として知っていたり、常識というものに必ずしも普遍性はない、と普段から考えていることから、一般人ほどそれに捉われて自分を失ってしまうことがないのかもしれない。アーティストというのは、この世界がどのように成り立っているのか、考えることが仕事だったりもする。ものごとの本質を考え抜くこと。ものごとの普遍性はどこにあるのか、思索する。つまり因習や常識に振りまわされないことで、新しい、あるいはあるべき世界を社会に向けて提示していく。そういうことが、すぐにではなくとも、徐々に社会に伝わっていって、固く凝り固まった過去からの枠組を解体したり、人々の常識を緩やかにほぐしていく役目を果たす。

『高橋悠治という怪物』を読んでいたら、「連弾はずれなく合わせるためのものじゃない」という高橋悠治の考えがわかった。通常、連弾は第一ピアノ(ピアノの高い方の音域担当)と第二ピアノ(低い音域を担当)が、きれいに揃って息のあった演奏を見せ、まるで一人で演奏しているかのように聞こえることが理想、と思われているふしがある(少なくとも日本では)。だから双子、または兄弟姉妹、あるいは夫婦ならではの連弾、などと言われたりもする。しかし高橋悠治の考えは違う。二人の人間が、1台のピアノに座って一緒に演奏するなら、そこで合奏ならではの面白いことが起きなくては、と思うらしい。むしろぴったり合わない方が、音楽的に立体感が増す、といった。言われてみればそれは正しいことのように思えるし、好奇心の湧くことでもある。練習すればするほど二人のずれはなくなってしまうから、もしやるとすれば徹底した練習で、それぞれが自由に弾けるまでやる、などというのは、普通の連弾の練習とはかけ離れている。

このようにあらゆることを考えていけば、世の中は、生きることは、もっと可能性に満ちた楽しいものになるのではないか。アーティストは、常識に縛られて生きる一般人を、違う思想に導き、固い殻から解放してくれる、ガイドのような人々なのかもしれない。

20181226

中心のない世界を生きる


ある朝ふと、これからの世界は中心のないものになるのかもしれない、と思った。これまでの世界には、常に中心があった。国家の中心、社会の中心、家庭の中心、学校の中心、評価の中心、、、 中心とは何かといえば、支配の構造を支えるもののことだ。

このことを思いついたきっかけは音楽だった。19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、調性音楽のルールが崩れ始めた。調性音楽というのはハ長調とかイ短調とか、中心になる音があり、それによってハーモニーが構成されている音楽のことだ。始めがあり、終わりがちゃんと終わりに聞こえる音楽(最後の音は中心の音だ)。音楽といったとき、調性音楽をふつう思い浮かべる。ここにはポップスも演歌含まれている。

そこから外れていった音楽というのは、調性が定まらなかったり、なかったりする音楽で、無調、多調などと呼ばれている。聞いた感じは、何コレ、前衛? メチャクチャ? メロディーがない、ふつうの音楽じゃない、といったものだ。無調の音楽には中心音がない。たとえば12音技法によって作曲された曲は、1オクターブ内のすべての音が平等に同じ頻度で、順番に扱われる。

何かと言うと中心音の存在が示され、最終的に必ずそこに帰ろうとする調性音楽から見たら、とても安定感、安心感のない音楽といえる。中心がない、あるいは固定化されていない、というのは、しっかりとした支配体制のもとに音がない(ように聞こえる)ということ。調性音楽のように、どの音も、常に中心音を意識し、常に中心を向いて動くという行動をとらない。

これを音楽以外のものに当てはめたとき、現段階ではそのまま当てはまるものはおそらくない。ただ例えば、今の世界の勢力構造を見たとき、昔ほど中心がはっきりしていない気がする。ヨーロッパが世界の中心だった時代、アメリカとソビエトが中心を争っていた時代、そしてアメリカが世界の警察を名乗って覇権していた時代。アメリカの大統領がトランプになって以降、アメリカは自国第一主義に方向を変え、覇権などしたくないように見える。そして中国やロシアといった国々が表舞台に現れ、主要国首脳会議もG7の時代からG20G7に新興国11カ国を加えたもの)へと重要性が変わってきているとも言われる。また2000年以降、BRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカ)の世界経済に及ぼす影響にも注目が集まる。

国際政治アナリストの田中宇氏によれば、世界は多極化の方向に進んでいるそうだ。

中心があることによって秩序立てられていた世界、つまり重要な存在(一極)があり、それを支える(あるいはお世話になる)形でその他が存在するといった構造が、これまでの一極主義だ。これはある意味、効率のいいシステムかもしれない。一極とその他では重要度が異なるので、その他は一極にひたすら従っていればいい。

しかしこの中心部分が希薄、または存在しなくなったらどうなるか。そういう世界観に対して、不安になる人は多いかもしれない。支配する側にも、支配される側にも、それぞれ不安分子は生まれるだろう。多くの「その他」の人々は、中心がある(いる)ことによって、安心して暮らしていけると考えている。

たとえば日本の皇室は実質的な中心とは言えないが、多くの日本人は「ある種の中心」と思っているかもしれない。天皇が変わったり、年号が変化したり、といったことをニュースのネタ以上のこととして受け止めている。年号は面倒だから西暦に統一してほしい、などという議論はあるのだろうか。天皇家の人々の人柄といったことと、天皇の存在、存続の意味とを分けずに考えている人は多いかもしれない。もし天皇がいなかったら、日本の中心は何になるのか、とか。中心は安倍さんと思える人は少ないだろう。

ものの評価についても同じことが言える。あること、ものに対する評価を考えるとき、定まった評価とあてにならない評価というわけ方があるかもしれない。中心のある世界には、定まった評価というものが存在する。たとえば朝日新聞、日経新聞、NHKといったものは、一定の定まった評価が与えられている、と考えられるメディアだ。それに比べると「沖縄タイムス」「琉球新報」は、偏向しているのではないか、などと本土の人間から言われたりもする。偏向という見方は、中心あっての考え方だ。

中心となる評価、定まった評価がなくなったら、一般人は何を指標にしていけばいいのか。と考えるとき、その中心を構成するものについて、その成り立ちについて、一度考えてみる必要がある。たとえばマスコミと言われるものは、どのようにして成立した(している)のか、とか。マスコミというのは利益構造の一つの典型かもしれない。大衆と言われる中心外の人々に、ある方向のニュースを特権的に大量に流すことによって、人々の意識を支配し、特定の層や組織に利益をもたらすといった。

前述の田中宇氏は、日本では、マスコミからのみ情報を得ている大多数の人は、世界がどのような状況になっているか、動いているかを正確に知る機会をもたないため、誤った認識をもつ可能性があると述べている。たとえば朝鮮半島は現在和解の道を歩んでいるが、それに伴い韓国から米軍が撤退する可能性が出てくる。朝鮮半島付近の政治、軍事状況が一変すると考えていい。そのとき日本の米軍はどうなるのか。といった話は、日本のマスコミではほとんど取り上げられない。

今年6月にシンガポールであった米朝首脳会談も、会談の成功によって(日本のマスコミではそう伝えてはいなかったが)、今後東アジアがどのようになっていくか、といった文脈で日本について語られたものは目にしなかった。それは日本のマスコミは、そういった方向性の分析をする立ち位置(立ち場)になく、そうする意味がないからだ。

世界情勢ではなく、もっと身近なことの評価についても同じことが言える。すごい感動を呼んだと言われている本、人気の高い映画やテレビドラマ、みんなが聞いている売れてる音楽、こういったものは一定の評価の結果だと考えられている。ある作品が評価されているかどうか、その目安として受け入れられている。しかし大量に消費され、受け入れられるものは、作品そのものに対する評価があったとしても、たいてい一定の仕組まれた利益構造の中で生まれている。つまり中心がある。そしてそれは評価が新たな評価を再生産するような構造にもなっている。売れてるからさらに売れる。みんなが見てるからさらに見られる。

しかしたとえば万人にとって手に取りたくなるような、あるいは読んで(聴いて)みたくなるような作品でなかったとしても、存在の意味がある本(音楽)はある。評価の対象になりやすいものだけが、価値ある作品とは言えない。マーケティング  —> 商品企画 —> 製造 —> 販売 —> プロモーションといった道筋ではないところから生まれるものはある。制作されたあと、公開(販売)され、じっと手にしてくれる(評価してくれる)人を待っている作品。そういう作品は、世の中の評価とは別に、自分の評価基準を持ち、能動的に選択、行動する人との出会いを待っている。その作品は待っている間、1度も読まれず、1度も聴かれない間は、価値のないもの、あるいは「自己満足」という評価が下されるかもしれない。

しかしおそらく、評価のあるなし、低い高いは、数では還元しきれないのではないか。評価というものが一極集中型(中心発信型)でなければ、もっと違う出会いがあるように思う。たとえて言えば、書店(リアルでもネットでも)で平台(トップページ)に並べられた本(多くは新刊本)と、図書館の書棚やデータベース(新旧の本が混じり合っている)の違いのようなことだ。手に取る理由(評価)のもとが他者の意図(仕掛け)から生まれているのか、選ぶ人の中で生成された興味によっているのかの違いとも言える。

現状は、最初に書いた「中心のない世界になるのでは」という仮説と反対の実態かもしれないが、一つ思うのは、インターネットが日本で広がり始めた頃のYahooGoogleの人気度の違いだ。当時Yahooはアメリカからやって来た人気の検索エンジン。ディレクトリ方式を採用していて、大分類から小分類へとジャンル分けされていた。たとえば「音楽」のディレクトリには「クラシック」「ジャズ」「洋楽」「Jポップ」「演歌」といった分類が並び、「クラシック」を選ぶと次に「交響曲」「オペラ」「ピアノ曲」と次の分類が出てくるような方法論だ。それに比べて新進のGoogleは、真っ白なページにGoogleのロゴとキーワードを入れる空欄があり、その下に普通のサーチかラッキーボタン(検索1位のページに直接行く)があるのみだった(基本は現在も同じ)。

どちらに人気があったかと言えば、日本ではだんとつYahooで、Googleを使っている人はまわりにあまりいなかった。この方式は日本ではダメだ、とまで思われていたようだ。Yahooであれば、選択方式で順番に項目を選んでいけば、どこかにたどり着けそうだが、Googleでは空欄をまず自分で埋めなければならない。自らの能動性が問われている=面倒だ、と思われていた節がある。またYahooは、スタッフが申請者のウェブサイトを審査して、そこを通ったものだけが検索結果に掲載された。だからYahooのディレクトリに採用されることは、サイト運営者にとって名誉なことだったのだ。Yahooのお墨付き。ここにはれっきとした「中心構造」がある。(本家アメリカもディレクトリ方式だったが、審査によって当落が決まる仕組だったかどうは疑問)

それに比べるとGoogleは、自社の定めたアルゴリズムによって、検索結果を導き出していた。今のようなコマーシャルの側面がなく、知りたい情報に高い確率で出会える可能性があった。しかし日本での人気はなかった。現在、検索に関しては、「ググる」という言葉が生まれたくらい、日本でもGoogleが圧巻していると思われる。Yahooにディレクトリ型の検索はなくなった。

インターネットの使い方に日本人が慣れてきた、ということだろうが、方向性としては、中心のない検索の世界へと足を踏み入れたように見える。データベースや検索は、中心のない世界観の一つの象徴だと思う。

20181211

未知の領域へのとびら


大人になればなるほど、自分の知らない領域に入っていくことは少なくなる、かもしれない。子どもや年齢の低い人は、基本的に、知らないこと経験のないことの方が多いという自覚がある。だから目の前に現れた未知のものに、素早く反応するし、意欲的だ。だけど大人だからと言って、なんでもわかっているのか、といえば実はそうでもない。世界のほとんどのことを知らないし、知っているように思っても、ほんの上っ面ということも多い。

自分はものを知らない、知っていることや経験したことはわずかばかりだ(あるいは特定分野に限られる)、と思えば、大人だって目の前が開けてくる。どんなジャンルであれ、その入り口に立ったとき、そこから先に果てしない世界が広がっていると知れば、好奇心が刺激される。自分の未熟さ、ものを知らないことにがっかりするのではなく、知らない分だけ、宝の量が増えたと思えばいい。

知らないことは恥ずかしいことか、そうではないかもしれない。恥ずかしいことがあるとすれば、知ったかぶりをしたり、知ることへの興味が低いことの方かもしれない。知ることへの興味がある限り、楽しい人生が送れる。知っていること自体にあまり価値を置きすぎると、その知っていることにあまり価値がなくなったり、すっかり内容や意味が変わってしまったことに気づかないことも起き得る。あるいは自分の知ることに固執し、それを守るために、新たな展開に抵抗しようとするかもしれない。

あることに興味をもちつづけている場合は、知っていることの内容や意味も更新されていくだろう。固定的な知識、というのは、あまり役に立たないのかもしれない。そういう意味で、経験ある大人、知識のある大人ほど、それを固定化しないためにも、未知の領域への興味をもちつづけることが大切ではないか。

いつの頃からか、生活上のことでも、知識上のことでも、自分が知らないということに喜びを感じるようになった。こんなこと知らないで、いままでよく生きてこられたな、という場合もある。それもOK。知らなかったことと対面するたびに、世界のとびらが一つ、開かれたような感覚をもつ。

わたしのような一般人にとって、専門的といえるジャンルはない。10年、20年とやってきたことで学んだこと、蓄積されたことはあっても、専門家といえるレベルではないし、それで1冊本が書けるほどの広がりも深さもない。しかしいくらかの蓄積してきたことをベースに、その方法論をもとにして、新たな領域に足を踏み入れることは可能だ。

そこで重要になってくるのは「興味の芽」のような存在だ。そういうものを自分の中に芽生えさせることができれば、未来はあかるい。しっかりとした充分蓄えのある芽であれば、その先の道はどんどん開けていく。興味の芽が、自分を未知の世界へと連れ出し、引っ張っていってくれるはずだ。

そういう興味の芽を自分の中で、常に培養しておくにはどうしたらいいか。一つは基本的な姿勢として、自分は知らない、ということを楽しく認めることかもしれない。自分は何でも知っていると思った途端、周囲にバリアを張ってしまうことになる。

もう一つは、ものごとを見たり感じたりするとき、できるだけ自分自身の正直な考えや気持ちに耳を傾けること。そして疑問があったら、できる限り調べてみることだ。すると意外な事実が判明したりする。一般によく言われていることと、まったく違う事実や分析と出くわしたりする。それをやるときは、注意深く調べる必要があるし、一つの言説によって決めつけてしまわない方がいいのはもちろんだ。ある意味、保留の状態にしておく。するとまた別の機会にそれに関連する、違う見方が出てきて驚かされるかもしれない。

そういうことを日常的に、ジャンルにこだわらずしていると、興味の芽が育っていることがある。知識や経験を絶対視しないで、いつでも更新できる状態にしておく。知性、感性、両方の面で固定化しない、ある意味、いつも保留状態というのがいいかもしれない。

以下は自分を例にとった具体例の検証。これにより少し考えてみようと思う。

わたしの目下の興味は、音楽。もう少し詳しく言うと、調性音楽が崩れはじめてからの音楽だ。そこから先の領域は、わたしにとってほぼ未知の世界だった。音楽ということで言えば、欧米から南米、日本にいたるポップスや世界各地の民族音楽(伝統邦楽をふくめ)、タンゴやジャズ、そしてクラシック音楽とそれなりの範囲で聞いてはきた。また10年、15年を超える期間、ピアノという楽器を弾いてきてもいる。さらには音楽理論を大学で学んだ時期もあった。しかしそれはどれも(民族音楽をのぞいて)ほぼ調性音楽の範疇に入るという意味で、同類だ。ベートーヴェンもピアソラもJポップもここにすっぽり入っている。

調性音楽というのは、ドミソ、ファラド、ソシレといったハーモニーに支配された、メロディーのある「普通の」音楽のことだ。常に中心になる音によって全体が支配され、音楽は終わった感のある終止で結ばれる。19世紀末期から20世紀初頭にかけて、これに当てはまらない音楽を書く作曲家が出てきた。ヨーロッパが元だと思うが、アメリカでもそれに影響を受けて、たくさんの「新しい」音楽を書く人材が出てきた。

この調性感のない音楽は、誰にとっても聞きなれないので、当時の聴衆から必ずしも支持を得ていたわけではない。またこの現代音楽と言われているものは、たくさんの方向性があって、それぞれ全く違うことを目指していたりするので、よけいわかりにくい。共通点は、いわゆる普通の音楽のようではない、聞きなれない音響による音楽だ、ということくらい。

中にはこれが音楽なのか??というものもある。音楽の定義を問うような作品だ。たとえばジョン・ケージというアメリカの作曲家の作品に、『4分33秒』という有名な曲がある。楽譜には「第1楽章:休み、第2楽章:休み、第3楽章:休み」とあり、演奏家はその指示に従って演奏する。多くはピアノで演奏される。楽譜の指示は「休み」なので休む(ピアノを弾かない)のが演奏になる。ふざけているというわけではなく、作曲者によると、演奏の場(ホールの内外など)の環境音に耳を集中させるということらしい。

これは現代音楽の中でも前衛に属するもので、極端な例ではある。しかし、もし「音楽というものをまったく聞いたことがない」という人が存在すれば(そんな人がいるとは思えないが)、「音楽」というものの感じ方は、ほかの人とかなり違ったものになるかもしれない。たとえば「風の音と音楽とはどう違うのか」とか「鳥の鳴き声と音楽の境界はどこにあるのか」といった疑問をもつとか。しかしほとんどの人は、音楽とは何かを経験的に知っている(と思っている)し、何らかの音楽(調性音楽)を聞いて育っているので、そこから外れた現代音楽は奇異に聞こえる。

調性のない音楽の理解には、耳で聞くことと、そこで何が行なわれているかを知ることの両方が求められると思う。知の部分、感性の部分、その両方を働かせる必要があるのだ。耳というのは舌と同じで、馴染みあるものしかなかなか受けつけない。その耳を慣らすには、たくさんいろいろなものを、長い時間かけて聞くしかないのではと思う。20年、30年、40年と聞き続けてきたもので、自分の耳(と感性)はすっかり出来上がってしまっていると考えた方がいい。とにかくたくさん聞くこと、とはアメリカの作曲家アーロン・コープランドも著書の中で勧めている。(What to Listen for in Music:音楽に何を聴くか)

コープランドは、聞きやすいもの、なんとか聞けるもの、聞くのが難しいものとして作曲家の名前をあげてもいる。とても聴きやすいもの (very easy) として、ショスタコヴィッチ、ハチャトリアン、プーランク、エリック・サティ、初期のストラヴィンスキーとシェーンベルク、ヴィジル・トマソンを。それなりに近づきやすいもの (quite approchable) として、プロコフィエフ、ヴィラ・ロボス、ブリテンなどの名を、そしてそれなりに難しい (fairly difficult) として後期のストラヴィンスキー、バルトーク、ミヨー、チャベス、ヒンデミットなどを。相当大変 (very tough) として中・後期のシェーンベルク、ベルク、ウェーベルン、セッションなどをあげている。

ここに上げられている作曲家は、だいたい20世紀初頭前後に生まれ、20世紀半ば前後まで生きていた人々だ。その意味で、時代的には古いといえば古いが、そこまで昔ではない。この本は初版が1939年なので、それが基本になっているかもしれないが、コープランドは1990年まで生きていて改訂も行なっているようだ。これを参考にして、聴きやすい作曲家の作品から試しに聴いてみるというのも一つの方法だろう。

現時点でわたし自身が受けつけられるのは、調性音楽が崩れはじめた最初の頃の、あるいはその前兆が見える作品だ。その端境期にいて重要な仕事をした、と言われる作曲家にドビュッシーがいる。ただドビュッシーを現代音楽に入れる人はいないかもしれない。ラヴェルやフォーレはどうか、調性音楽の範疇ではあると思うが、作品はモーツァルトやベートーヴェンとはかなり違う。プロコフィエフは新しい響き(いまでは当たり前)をもった作品を書いていて、この人の音楽は最初聞いたとき衝撃的だと思ったが、その後もずっと好きで聴いている。そうは思っていなかったけれど、大きなくくりでいうと、プロコフィエフは現代音楽に入ってくるかもしれない。日本では一度ブームがあったので、サティの方が一般に広く好まれてもいるかもしれないが、生まれはプロコフィエフよりずっと前になる。

調性が崩れはじめる端境期のあたりから、未知の領域の音楽に耳を少しずつさらしていくことで、固定化した感性をゆっくり溶かしていき、作品の理解につなげたい。それと同時に、こういった音楽をつくる作曲家が何をしようとしているのか、知識の面でも知っていきたいとも思う。それを理解するには、音楽の歴史という長い長い時間をさかのぼることも必要かもしれない。どんなものも、急に生まれることはないからだ。どのような流れの中で、調性のない、あるいは拍子の定まらない音楽が生まれるに至ったのか。新しいものを知るには、古いものを前提とすることも必要かもしれない、と思う。

未知の領域を知ることがどんな具合なのか、その例として自分の最近の関心について書いてみた。

最後に音楽学者、岡田暁生の著書から音楽の聞き方について:
音楽は聴くものであると同時に、読んで理解するものである。そして音楽を正しく読むためには、「学習」が必要となってくる。文法規則を知り、単語を覚えなければならない。音楽には語学と同じように学習が必要な面がある…………….(岡田暁生著『音楽の聴き方』より)

20181122

アマチュア・ピアニストは何をめざす?


浜松国際ピアノコンクールという催しがいま開かれている。そのライブ映像をネットで少し見てみた。それと関連して、ピアノを弾くことについて気づいたこと、考えたことなどがあったので以下に書いてみる。

『インタビュー with 20世紀アメリカの作曲家たち』というプロジェクトを今年の7月にスタートさせた。シカゴのラジオ放送局のクラシック音楽番組で、長年にわたって音楽家にインタビューしてきたブルース・ダフィーによるインタビューの記録をもとに、日本語に翻訳している。

ブルース・ダフィーのインタビューには、作曲家のほか、ピアニスト、指揮者、オペラ歌手などの演奏家を中心として、レコード技術者や音楽ジャーナリストまで含めた幅広い音楽関係者が集められている。ラジオに加えて音楽誌でのインタビューも含めると、1600人を超える人々に話を聞いているそうだ。その時の記録を(主として録音テープから)書き起こし、自サイトに掲載している。

葉っぱの坑夫では、アメリカの作曲家に的を絞り、10人のインタビューを翻訳する予定だ。ここまでの4ヶ月でジョーン・タワー、ポール・ボウルズ、ポッツィ・エスコット、スティーヴ・ライヒの4人を公開した。20世紀はハリウッド映画からファーストフード、ポップ・ミュージック、コンピューター文化と、商業的な文化がアメリカで花開いた時代。19世紀までヨーロッパ中心だった文化発信のエネルギーが、アメリカに移った感がある。そんなアメリカで、ヨーロッパ生まれ&育ちの「クラシック音楽」が、どのように生成されていったのかに興味をもった。アメリカの作曲家たちは、何を考え、何をつくろうとしていたのか。

ここまで訳した作曲家について言えば、1910年生まれのポール・ボウルズをのぞいて現存している。みんな現在80代になっているが、インタビュー当時は50歳前後で、音楽家としての経験、世の中の評価も充分で、意欲満々のエネルギーあふれる話し振りだった。

現代の作曲家たちの話を聞いていて気づいたのは、演奏家が20世紀になってどのようなものになっていったかということ。たとえばジョーン・タワーは次のように語っている。

19世紀には、作曲家と演奏家が同じ人間だということがもっとあって、それによって創造的な関係性を両者にもたらすことができた。演奏家は、曲をつくる作曲家以上に曲ができる道筋に意識的だったし、その逆も真。だけど今は演奏家はずっと向こうの方にいる、何キロも先にね。彼らは全く別の問題にかかわってる。それは傾向への関心と高度な技術。わたしは彼らをオリンピック選手と呼んでるの、素晴らしいことだけどね。

演奏家と作曲家の分化。演奏家の関心事は技術をみがくことと時流に乗る演奏法、か。さらにこう続けている。

わたしたちは歴史の中で、かつてなかったほどの優秀な演奏家を手にしている。そうであっても、演奏家たちはいつも音楽的な選択をしているわけではないの。彼らがしているのは楽器に関わる選択。彼ら自身のせいではなくて、楽曲づくりに関する訓練を、キャリアの中で一度も経験したことがないからなの。作曲をする演奏家たちは、しない演奏家と比べて、とても違う演奏をしていると思う。

現在の演奏家たちは(学生でさえ)高いレベルの技術をもっていて、難曲もやすやすと弾きこなしてしまう、という話はよく聞く。現在、開かれている浜松国際ピアノコンクールでも、自由選曲の第一次審査の曲目を見ていくと、難曲とされる『パガニーニによる大練習曲』を選んでいる人は多いようだ。第一関門突破には、まず技術的には何の問題もないことを見せておく必要があるということなのか(想像に過ぎないが)。ライブ映像や収録ビデオが公式サイトで公開されているが、それをちょっと覗いても、楽器を扱うという点では、十代の人も含め、問題のある人はいないように見えた。まあ、コンクルールなのだから当然か。

すごく変わった人とか、欠点は多いながら魅力のある人などはいるのか。多分いないだろう。なぜならこれはコンクールであって、プロのピアニストになる(あるいは成功する)ための登竜門なのだから。プロのピアニストが見せなければならないのは、「腕の確かさ」だろう。

ジョーン・タワーが上の引用の中で、作曲をする演奏家の演奏は、しない人の演奏とかなり違うと言っているが、それはわたしも感じたことがある。ずっと昔のことになるが、作曲家が自作をピアノで弾くというコンサートがあって聞きに行った。曲はすべて子どもの曲だったかもしれない。はっきりとは覚えていないが、どれもシンプルな曲だったように思う。自作なのだから、誰よりもその曲についてはわかっているはず。こういう意図で作ったというのが、演奏にも表れていたかもしれない。印象として、どれも面白く感じがよかった。ピアニストではないので、ピアノの腕を自慢する必要はない。作った楽曲をよりよく聞いてもらいたい、ということだと思う。

一般に作曲家の弾くピアノは、いわゆる「ピアニズム」みたいなものを強調することがなく、個人的には安心して聞ける。高橋悠治の弾く『ゴルトベルク変奏曲』は、他のピアニスト、たとえばこの曲で有名なグレン・グールドの演奏とはとても違う。グレン・グールドはそうは言っても作曲もしていた人だから、まだ普通のピアニストよりは作曲家寄りかもしれないのだが。それでもグールドの『ゴールドベルク変奏曲』には、高橋悠治と比べればずっとピアニズム的なものがあるように思う。

ピアニズム的な演奏がいけないわけではないし、これは好みの問題かもしれない。が、ジョーン・タワーの言う「オリンピック選手」という表現はある意味当たっていると思う。アスリートのように訓練を重ね、最高と言えるところまで技術を高め、どんなにスピードをあげても、確実性の高い破綻のない演奏ができるピアニスト、最弱音から最強音までコントロールがマシンのように効き、古典から現代曲まで幅広いレパートリーをこなし、、、、といった。

それに対して、演奏技術は低い作曲家の演奏は、ピアノの腕や楽器の扱いではなく、ジョーン・タワーの言うもっと「音楽的な選択」をしているのだと思う。近現代に入っても、ガブリエル・フォーレやモーリス・ラヴェルの時代には、まだ作曲家は自作の初演をしたり、レコードを残したりもしている。ラヴェルはピアノ曲をたくさん書いているが、ピアノの腕はそこまでではなく、イギリスのレコード会社からの申し出や、アメリカ・ツアーでの演奏に躊躇したと言われている。実際、アメリカ・ツアーでの演奏は、歓待も受けたが「下手くそ」で聴衆に驚かれたそうだ。アメリカ・ツアーでは、ラヴェルの指揮があまりにひどい、と非難したクリーブランド管弦楽団の主任指揮者もいたと聞く。

しかし作曲家で作家のポール・ボウルズは、ブルース・ダフィーのインタビューの中で、ストラビンスキーの自作の指揮について次のように述べている。

たくさんの指揮者が、ストランビンスキーは自分の曲を指揮する仕方を知らないと言ってますよ。でもわたしはそれを1ミリも信じないね。彼自身の指揮は、他の人のものよりずっといいですよ。だからわたしには理解できないね。求められることは、理解ですよ。知性で理解するだけじゃなくて、全般的な理解であり、また心情的な理解でもある。

そうか。演奏がいいか悪いかは、聴く人によってかなり評価がわかれるということかもしれない。どこを聴くか、という違いなのか。おそらく一般聴衆は、誰の曲であれ、ピアノでもオーケストラでも、破綻のない心地いい演奏を期待するだろう。作曲家の演奏や指揮は「上手い演奏」ではなく「曲の意図をつたえる」ことに重点が置かれているかもしれない。では演奏家は作曲家の意図を汲んでないのだろうか。ポール・ボウルズは次のように言っている。

そうですね、まずは演奏家は、自分の力で作品を理解しなくてはならない。だけど理解してない、たいていは。彼らの改変には [クスクス笑い] 目を見張らされるね、ときどき。テンポの指示は彼らにとって意味がないし、強弱も無視されている。それは彼らにはこうするべきという考えがあるからなんだけどね。

おや、、、演奏家は自分の力で作品を理解する必要があるけれど、そうはなっていない? 演奏家は自分の考えで演奏している、のか。それが演奏家の表現力ということだろうか。作曲家の多くは、自作の演奏への期待として、作品を理解し意図を汲みとって演奏してくれることをあげている。必ずしも技術的な「腕の良さ」を期待しているようではないらしい。1906年生まれのアメリカの草分け的女性作曲家のルイーズ・タルマは、もっと厳しい言い方でこの問題を語っている。

テンポの指定を窮屈に感じると演奏者が言っら、と聞かれて:それは全く認められないわね! それは演奏者の領域外のことよ。楽譜を実行するのが演奏者の仕事でしょ。楽譜にあることを演奏するために、そこにいるんであって。楽譜にどう書かれるべきか、指示するためじゃないの。

なるほど。これとは反対に、スティーヴ・ライヒは自分の作品が違う解釈で演奏されたときの驚きと喜びを次のように語っている。

ヴァージニアのシェナンドー大学から『6台のピアノ(Six Pianos)』のテープを受け取ったんだ。最初にそれをかけたときは、痛ましいほどの遅さに感じた。で、聴き直してみたところ、こう思ったんだ。「いや、なかなかいいぞ! 面白い演奏だ。たいした洞察力だ。南部の男性諸君が時間をたっぷりとって、あらゆる細部の表現を引き出している。せかせかしたニューヨーカーの自分が決して許さなかったやり方でね」と。(ブルース・ダフィーのインタビュー)

これは作曲家が心を開いて聴いた結果なのか、演奏者が深い洞察力によって演奏したからそうなったのか。その両方かもしれない。いずれにしても問題にしているのは、演奏の腕の話ではない。作品に対する理解の問題だ。

作曲家が望むことが曲への理解だとすれば、演奏する人は、もしその曲を大切に思い心から尊敬の念をもつならば、プロであれアマであれ、まずはその意図を汲みとる努力が求められる、と言える。それは現代のまだ生きている作曲家であれ、100年、200年前の作曲家であれ同じだろう。

ジョーン・タワーがオリンピック選手と名づけている現代の腕の達者な演奏家たちは、作品の理解についてはどのように考えているのだろう。もちろんコンクルールに出場するような人たちは、当然ながら一定の理解はしているとは思う。それがどういうものかは知りようがないが。それに加えて演奏技術や表現の独自性などを磨いていると考えられる。特にコンクールでは、たくさんいるコンテスタントの中から審査員が選ぶわけだから、平凡な演奏で埋もれてしまうわけにはいかない、だろう。

しかしアマチュアのピアニスト、つまり趣味でピアノを弾いている人たちは、演奏技術や作品の理解といった課題に対して、どういう態度で臨むべきなのか。わたしの想像では、ピアノが上手くなりたいと言ったとき、その8割は演奏技術を磨くことを指しているのではないかと思う。上手くなりたい意欲の強い人ほど、指の練習やツェルニーのような練習曲をやらなくてはと思ってるかもしれない。まずはそこを通過しなければ、と。

これは最近気づいたことなのだけれど、趣味でピアノを弾く人の目標や対象はピアニストではなく、作曲家たちが望んでいるような、作品のよき理解者としての演奏者であること、ではないか。作曲家がその作品で何をしようとしているかに興味をもつこと。それには音楽の成り立ちを、事前に自分で勉強する必要がありそうだ。ピアノを弾ける人は、楽譜を見たらすぐにその場でまず、弾いてしまいたい。弾くことで理解したい。それも間違ってはいないが、弾かずに楽譜を読むことも必要かもしれない。指揮者が楽譜を研究するような態度で。音の動きのパターンや曲の形式、バスの動きなどポイントはいくつもあるだろう。

ピアノを弾かない人はびっくりするかもしれないが、楽譜を見て演奏できることと、作品の理解とは違うことなのだ。極端な話、その曲が何調なのか、長調か短調かなど考えなくとも演奏は可能だ。シャープやフラットの数と位置さえ確認すれば、弾ける。わたしも楽譜を見たら即弾く、ということばかりしてきた。曲の理解? それは弾けばわかる、というのが答えだった。

しかし最近、そうではないようだということに気づいた。曲の成り立ち、どういう道筋でその曲ができたのか、知りたいと思うようになった。知って演奏したいと思うようになった。具体的にはその曲がどういう種類の音楽なのかとか、どのような形式によっているのか、とか。バッハの『ゴールトベルク変奏曲』の楽譜解説を読んでいたら、「形式」の説明のところに「いかにも大掛かりなパッサカリアらしく、この変奏曲では、同じバスの和声的内容が30の異なった形式で繰り返される。」とあり、ええっ、パッサカリアだったの??と驚いた。この変奏曲は、昔から何度も聴いてきた曲だ。

まずその変奏曲とは何か、ということを知らなかった。あるいはごく一部の知識で理解していた。ここ1、2ヶ月くらい、アメリカの作曲家アーロン・コープランドの『What to Listen For in Music』を少しずつ読んでいる。音楽から何を聴きとるか、といったような意味だろうか。専門家を対象とした本ではなく、素人の音楽の聞き手に対して、作曲家が音楽の成り立ちを丁寧に解説し、音楽の理解を深めるという趣旨の本だ。とても良い本だと思う。これを読むだけでこの作曲家のファンになってしまう。(この本は1939年に初版が出版されているが、アメリカのアマゾンでは今もたくさん読まれていて、レビューは95件、星もたくさんついている)

この本の中の「基本の形式」の2番目に「変奏曲」が出てきた。1番目はセクション(部分)から構成される音楽で、AーBーAなどの形式のもの。変奏曲には、Basso Ostinato、パッサカリア、シャコンヌ、テーマと変奏などがあり、パッサカリアは確かに変奏曲の一種だったわけだ。コープランドの本には、バスの繰り返しがあり、ground bassはメロディの役割も担っている、と書いてあった。そうか、『ゴールトベルク』はバスが大事なんだな。バスだけ何度も弾いてみたら曲の理解に役立つかもしれない。そして変奏曲ごとのバスの変化を感じてみるのもいいだろう。

そういえば、以前に作曲家についてピアノを10年くらい習っていたことがある。そのときよく言われていたのが、バスの音をよく聞くことだった。バッハのような対位法の曲ではなく、ハーモニーの曲であってもだ。バスの音を聞くことで、上に乗ってくるメロディーラインの音程感が適切になる、と言われた。ピアノは一つの音から出る音は決まっている、と思われているが、バスを聞くことでソプラノの音程感、ハーモニーの響き具合が変わってくるということだった。確かに響きは変わる。

ピアノの先生が作曲家であったことをそれほど意識はしていなかったが、思い返してみれば、演奏系のピアノの先生とは違う教え方だったかもしれない。子どもの生徒などが、ある箇所でつかえることがあった場合、普通ならその箇所を何度も練習するように指導するかもしれないが、作曲家の先生は違った。つかえる場合、それには原因が必ずあって、その場所が問題ではないこともある。1、2小節前のところからよく準備して入っていけば(一つのフレーズとして意識するなど)、スムーズに問題の箇所を通過できることがある。日本のピアノの先生は、聞いたところでは体育会系というか、うさぎ跳び100回的な練習を好むらしい。そうやってハノン(指の練習の曲集)やツェルニーの練習曲*をたくさん弾いて上手くなる、というルートがあるのだろう。

アマチュアのピアニストが目指すのは、「プロのピアニストも顔負け」的なことなのだろうか。アマチュアの時間や頭の使い方として、もっと有効なことがありそうだ。腕を磨かないと仕事にならないプロのピアニストとは違うのだから。もっと知の部分でピアノ演奏に迫っても楽しいことがありそうだ。多くの作曲家たちが言うように、作品を理解することが弾く喜びにつながることは大いにある。
コンクールの出場者たちがバリバリ演奏するのを見て悲観することはない。彼らがやっているのは、プロ仕様のアプローチなのだから。
浜松国際ピアノコンクールはどんなピアノ弾きを優勝者や入賞者に選ぶのだろう。聞こうと思えば全演奏だって聞けるようになっているが、そこまではなかなかできない。多分のこのネットで視聴できる仕組は、ショパン国際ピアノコンクールをモデルにしたのだと思う。ショパンコンクールでは審査員のコンテスタントへの評価も公開されていた。浜松はそこまではしないようだが、いくつかの演奏者の演奏を聴くことで、今のピアノ弾きたちの傾向や特徴がわかるかもしれない。

*ハノンやツェルニーでの練習曲:こういったものがたくさん出てきたのは、19世紀以降のことのようだ。岡田暁生著『西洋音楽史』によると、「十九世紀に入るとともに音楽史は、まるで技術開発競争史のような性格を帯びはじめるのである。」とある。そのような楽曲を弾きこなすために、指の訓練を目的とした練習曲が多量に生まれたのだろう。日本にピアノが入ってきたばかりの1960年代には、練習法としてハノンやツェルニーは欠かせないものだった。ピアノを弾く者にとって、19世紀の音楽こそが重要だった時代に、それらが多用されたことはわかる気がする。現在はどうなのか。2015年のショパン国際ピアノコンクールで2位になったシャルル・リシャール=アムランは、インタビューで練習曲を使っての指の練習はしない、曲の中から部分を取り上げて弾くことをやっている、というようなことを言っていた。そういう方法もあるだろうな、理にかなっているな、と読んだとき思った。

20181109

閲覧・ 試聴・試乗? それとも所有?


先月末からアマゾンがプライム・ワードローブというプライム会員向けのサービスを始めた。ワードローブ、つまり服や靴、バッグなどの商品を取り寄せて、試着し、気に入れば購入、気に入らなければ返品することができるという仕組らしい。クーリングオフのように一旦購入したものを期限内に返すわけではなく、試着の注文を出すだけ。サービス利用時点での購入手続きはない。

サービス期限内(7日間)に返品すれば、すべてクリアされる。1回のオーダーは最低3点、最大で8点。購入を決めた商品は、返品しなければ自動的に支払いとなる。体験者の話では、返品伝票がついていて、簡単に返品作業はできるようだ。もちろん返品の場合も送料は着払い。いっさい費用はかからないということらしい。返品は送られてきたときの箱に商品を入れ、コンビニなどへの持ち込み、自宅への集荷のどちらもできる。

この仕組、アメリカのアマゾンのサービスを日本にも適用したもので、サービス内容はほぼ同じようだ。オンラインでの服の注文は、ときにうまくいかないこともある。特に靴などはサイズは合っていても、微妙にフィット感が悪いなどよくあること。家でゆっくり試せるので、自分のもっている服や靴との合わせを確認することもできる。そういう意味で、オンラインの服の注文がもっていた欠点を、かなりの率で解決できそうだ。

アマゾンの事業方針は、常に消費者目線と言われているが、このプライム・ワードローブもその一つになるのだろう。

なぜこのサービスが気になったかと言うと、今の世の中、無料で試せることが重要なのだなということと、自分のものとして所有することと、一時的に保持すること(試着、試聴、試し読みなど)の違いは何かということ。

商品を購入するのではなく、利用する権利を買う「定額制サービス」はいろいろな分野で活発だが、個人的にはこれまであまり利用することがなかった。毎月自動更新で、利用してもしなくても料金を取られるところにハードルを感じていた。最初にそのハードルを超えたのは、IMSLP(国際楽譜ライブラリー)への年間$22USDのサブスクリプションだった。去年の9月に登録し、今年更新している。IMSLPは無料でも利用できるクラシック音楽全般にわたる楽譜(多くはパブリックドメインになったもの)を閲覧(ダウンロード、印刷を含む)できるサービス。音源も無料で利用(試聴)できる。 

サブスクリプションは「購入」というより、非営利組織であるIMSLPへの活動支援の側面が強く、その意味でも(初めての定額制の利用としては)なんとなくハードルが下がった気がした。それは楽譜の閲覧や印刷で、普段からかなりお世話になっていることがあり、一種の感謝の気持ちがあるからかもしれない。さらにサブスクリプションをすると、Naxosというクラシック音楽のレーベルのCD、レコードなどの音源にアクセスできる。無料だと音源のバラエティは少ないので、サブスクリプションの価値は大きい。

IMSLPで楽曲を検索すると、該当ページが出てきて、Naxosの音源がいくつか(ものによっては20種類くらいのCD、レコードが出てくる)、さらにフリーで聴ける音源、楽譜(たいてい数種類/非常に古い楽譜、手書き楽譜なども出てくることがある)がページに表示される。楽曲を次々つづけて聴くことができないので、バックグラウンドにかけておくのには適さないかもしれない。交響曲など複数楽章あるものを選べば、30分、40分は試聴できるが、小曲の場合2、3分で終わってしまうからだ。

IMSLPでの1年間を経て、最近iTunesのApple Musicのサービス(3ヶ月無料)の利用をはじめた。3ヶ月無料、とはちょっと驚いたが、それくらい使ってみれば良さがわかるということか。このサービスのいいところは、かなりの広範囲にわたる楽曲(とは言ってもサービスに該当しないアルバムもある)が利用できて、試聴するだけでなく、ダウンロードもできること。つい最近、葉っぱの坑夫の新シリーズ「インタビュー with 20世紀アメリカの作曲家たち」の第2回で紹介したポール・ボウルズによる『Music of Morocco』というアルバムをダウンロードした。これはCDだと4枚組のボックスセットで、日本では7000円以上の価格になっている。1960年前後に、ボウルズが現地で集めたモロッコのローカルミュージックの集大成で、2016年に発売されたものだ。 

こういうものをポンと7000円出して買うのは難しい。どんなものか一通り聴いてみたいが、いつも、ずっと聴くものでもないかもしれない。それがApple Musicのサブスクリプションでは、気軽にすべて聴くことができ、ダウンロードも可能。わたしは散歩の際、iPhoneで音楽を聴くことが多いのだけれど、ストリーミングではなくダウンロードしたものを聴いている。その意味でも便利なのだ。

すごく古いアルバムなどはiTunesにそもそもないこともあるので、そういうものはIMSLPで探す。まだ両方を使いはじめて間もないので断言はできないが、この二つは補完し合う関係になるかもしれない。どちらか一方だと足りないけれど、二つあればカバーできるといった。

Apple Musicをサブスクリプションしたときは、これはすごい! 無料期間終了後も、絶対継続するだろうと思った。3ヶ月使ってみて、来年1月にどういう判断をするか、今はまだなんとも言えないが。ちなみにサブスクリプションの価格は、980円/月である。

ところでこのダウンロードしたApple Musicのデータは、契約を続ける限り自分の端末に保存されているだろうが、ひとたび契約を解除したら、すべてきれいに消え去ると思う。これはアマゾンのKindleの読み放題などと同じだと思う。

つまり定額制サービスというのは、「所有」することとはちょっと違うのだ。図書館の本を借りるように、一時的に自分のところに保持、あるいは保存してある状態と言ったらいいか。ダウロンロードしても、その時点で保有して自由に閲覧、試聴できるだけ。契約が切れたら返すということは、本当の所有ではないということか。(購入した音源の場合は、iTunesの変換機能で他のファイル形式に置き換えたり、それをデスクトップに移して音楽ソフトを使ってショートバージョンをつくるなど加工もできる)

では所有とは何か。自分のものとして自由に使え、場合によっては人にあげることもできる。購入によってそれを手に入れた場合は、代金は支払い済み、あるいは将来のある時期に支払い済みになることが決まっている。そしてモノは永遠に自分の手元に残る。また加工も可能。そんな感じだろうか。

ではウェブ上で閲覧できる本は、どういう存在になるだろう。日本ではウェブ上で無料で読めていたものが、本として発売されると、多くの場合、消去されて読めなくなる。本が売れなくなる、という考えの商習慣からくるものだ。『えんとつ町のプペル』という絵本を出したキンコン西野は、発売後にウェブ上で全編無料公開したことで、大非難の嵐にあった。こちらは書店や出版社ではなく、読者や制作者の立ち場からの反発だったようだ。

しかしウェブ上で全編読めるということは、その本を購入することとイコールなのだろうか。本を購入した場合は、自分の本棚に一生でも置いておけるし、人にあげることも可能。ブックオフで売るのも自由。自分の気持ち次第だ。代金も払ってあり、本が途中で消える心配をしなくてもいい。いつでも好きなときに取り出せる。

ではウェブ上にある本はどうか。これは「閲覧」であって「所有」ではないので、提供者がデータを消してしまえば、手元には残らない。いつ行ってもあるという保証は、無料閲覧の場合ない。また人に作品のアドレスを教えるなり、SNSで紹介することはできても、あげることはできない。紹介はプレゼントすることとは違う。

こう考えると、ウェブ上にある作品は、図書館で本を借りて読む行為に近い気がする。図書館は本を借りる場所なので、普通は無料で貸し出しされる。しかし自分のものにして、いつでも手元に置いておきたいと思えば、購入することになるだろう。図書館で読んでおけばそれで足りる本と、購入して手元に置きたい本とは、重要度において、あるいは自分との関係性が違うのではないか。 

わたしは図書館でも本をときどき借りて読むので、本を購入する場合との違いはいろいろある気がする。とりあえずどんな本か見てみたい場合や何千円もする高い本は、まず図書館で探す。図書館で借りて読んでいた本が、非常にすばらしい場合、読むのをやめて購入しようかと迷うこともある。それは手元に置いて、好きなときに再読したいから、あるいはただ持っていたいから。その本を持っていることに意味があるから。その本を持つことで、書いた作家との関係性を感じられるから。あるいはその作家を応援したいから。などなど。

本を買って所有することと、ウェブ上で閲覧することの間には、やはり大きな違いがあると思う。どちらの場合も、ある種の出会いがあって、その本にたどりつく。本屋さんで出会う場合は、まずその本屋さんを選ぶ、行くという動機があり、そこで並べられている本の中からある本に出会う。ウェブの場合は、SNSで紹介されていたとか、ブログや書評で読んだなどの経緯があり、あるいは作家の名前やある出来事の件名を検索していて出会う、ということがあるだろう。

ウェブ上で出会った本が、電子メディア化されていれば、パソコン、スマホ、Kindleなどのデバイスですぐに読みはじめることもできる。(電子書籍の黎明期には、デバイスを手に、書店に出向いて本のデータを入れてもらう、という方式だった)

アマゾンの「なか見!検索」は優れた仕組だと思うが、昔に比べて(特にアメリカのアマゾンと比べて)閲覧できる量が減っているように思う。数年前にアメリカのアマゾンの「Look Inside」で小説を読んだときは、5章ある中身の第1章がまるまる読めた。面白かったのでそこまで読んでから、その本を購入した。本が面白かった場合、第1章をまるまる読んだからといって、もう買わなくていいと思わない。図書館で借りて面白いと思った本を、購入しようか、と思うのと似た心理ではないか。

人は心からいいと思ったものに対して、何かしたい、関わりたいと思うものだ。その意味で、「読まれてしまったら買ってもらえない」というのは、商売をする側の危惧に過ぎない可能性がある。ウェブ上で読んでいて素晴らしいと思った作品が本になれば、それを購入しようとするのは自然な行為だ。好きで読んでいたブログが、出版されることになったときなど、すでに読んだものでも買おうとする人がいる。おそらくブログの場合は、過去ログをすべて消してしまうことはないのではないか。そのまま置いておいた方が、将来にわたって読者を獲得できる率があがる気がする。 

とすると、やはりウェブ上の作品と、モノとしての本とは分けて考えていいように思う。

絵本ナビという子どものための本を集めたネット上の情報サイト/書店がある。絵本に関する幅広い情報を提供して本選びに悩むお母さんを支援し、絵本の世界を広めるという目的でできたもののようだ。ここで注目したのは「試し読み」ができる仕組で、それも本によっては「全編試し読み」が1回に限りできるとあったこと。1回に限りというのが引っかかったが、それでも他であまりない仕組だと思った。

間もなく発売予定の絵本『ワニ戦争』をここの「全編試し読み」の仕組をつかって公開できたら、と思った。サイトに問い合わせしてみると、これは読者のための絵本ナビによるサービスというより、出版社のプロモーションのためのプログラムで、利用するにはかなりの金額をサイトに対して払うことになるようだ。アマゾンの「なか見!検索」とは、まったく違う日本的商法による発想から出たものとわかった。最初に見たときは、「全編試し読み」に参加する版元が少ないのは、「なか見!検索」がかつてそうであったように、版元や著者が中身を見せるのをためらっているせいだと思っていた。それもあるかもしれないが、お金がかかるプロモーションであることがネックになっているのかもしれない。

『ワニ戦争』は11月中にはアマゾンを中心に、日本のいくつかの書店で発売したいと思っている。これはフルカラーの紙の絵本で、Kindleにはあまり適さないので、Kindle版はつくらない。電子メディアとしては、Web絵本の形で公開できないかと考えている。広く本を知ってもらうためだ。どのように電子化&絵本化するか、どこで公開するかなど現在、試行錯誤中である。

*葉っぱの坑夫のKindle既刊本全13タイトルが、12月1日より「読み放題(Unlimited)」に参加します。アマゾンのサイトで「葉っぱの坑夫」で検索すると、全タイトルの一覧リストが出てきます。この機会にぜひ、過去に出版された葉っぱの本を読んでいただければと思います。

*今日(11月9日)の東洋経済オンラインで、自動車メーカーのトヨタが、複数の車を定額で利用できるサブスクリプション型のサービスを開始する、という記事を読んだ。今後の車の形態(EV化やAI搭載の自動運転化)の進化を想定してのアイディア、というか大方向転換ということのようだ。利用者は車を所有するのではなく、サブスクリプションすることで、必要に応じて車種の違う車、たとえばセダンであったりスポーツタイプであったり、を選んで乗ることができる。不必要になれば返却する。カーシェアリングなどと関連する考え方かもしれないが、自動車メーカー自らが進める車の月額サブスクリプションはちょっとショッキングだし、もう所有の時代じゃないという状況を端的に表しているように感じた。


20181019

わたしたちの肉食のこと、再度考えてみる


ここ2、3年の間、動物をめぐる環境について、動物園や畜産工場などの問題に触れながら、様々な側面からの見方を取り上げてこのブログに書いてきた。その一つは今年の初めから4回に渡って掲載した「野生と飼育のはざまで」シリーズである。

その中でアメリカの畜産工場について、その改善策として、工場の設計に関わっている動物学者のテンプル・グランディンのことを紹介したりもした。動物福祉の一つの方法として、即時的、直接的な改善策として、理解できるものだった。動物が置かれている状況から、苦痛を除くという意味で、その成果は評価の対象になっている。

今回再度、畜産や肉食について考えてみようと思ったのは、環境倫理学という視点からこの問題を論じている学者の文章を読んだからだ。(Synodos:熊坂元大『肉食と環境保護――非菜食主義の環境倫理学者が言えること』、2018.9.28)

環境倫理学という学問があることは知らなかった。どういうものかというと、人間にとっての利益とは無関係に、自然環境や地球環境がどう扱われるべきかを、倫理として探求するものらしい。倫理として、というのは人間が自然や地球に対して、どう振る舞うべきかの指針を考えることだと思う。そのとき人間にとっての利益や不利益は、除外して考えられる。

たとえば捕鯨問題について言えば、動物福祉や動物倫理学の立場では、捕獲したりその肉を食べることは、動物に対する態度として倫理的に問題があると見る。しかし環境倫理学では、クジラやイルカの捕獲が、地球環境に与える影響が大きいかどうかを見ていくわけだ。たとえば動物にとって問題があったとしても、捕獲数の制限などで地球への影響が小さく保たれていれば、倫理的には正しいということになる。

こういったことから、動物倫理学と環境倫理学の間には、対立が起きることもあるらしい。この両者が同じ方向を見ていると思われる問題として、熊坂氏は、家畜についての議論を例としてあげていた。

熊坂氏は論文の副題にもあるように「非菜食主義」、つまり肉を食べる人である。この文章を書いているわたしも同様。肉食をしている。しかし肉を食べること、その肉がどこからやって来て、その動物が生前どのような暮らしをしていたか、に関心をもったり疑問をもったりもしている。それが何の役にたつのか、という疑問に対しては、肉食にかぎらず、自分の生活習慣に自覚的であることは、間接的ではあっても、人間全体の考えやひいては社会を変える原動力になり得るはずと信じているからだ、と答えたい。白か黒かにしか回答はない、とは思わない。これは論文を読むかぎり、熊坂氏の考えや態度と一致する。

熊坂氏の論文を読んでまず目を惹かれたのは、地球上の食料不足や飢餓に関する構造の解明だった。アフリカなど途上国で食料不足に陥っている原因は、土地の気候など自然の限界からくるものだと思っていた(なんとなく)。あるいはそれらの地域では人口抑制が不十分で、採れた食料では賄いきれず不均衡が起きているといった。

しかし原因はそこにはないことを知った。

世界の穀物生産量は約25億トンにのぼり、そのほかに野菜や果物が栽培されていることを考えると、世界人口を養うのに十分なだけの食物は生産されている。(『肉食と環境保護』より)

これは本当のことなのか。ではなぜ実際に食料不足が起きているのだろう。環境倫理学から見た問題点は、資源利用の不公正であり、これは環境学や開発学でも常に取り上げられている問題だそうだ。資源利用の不公正? その一つが収穫した穀類などの食料を、人間ではなく家畜を育てるために回しているからだという。

熊坂氏によれば、家畜に飼料として穀物を与える場合、たとえば牛の枝肉1キロのためにトウモロコシなどの飼料が10キロ以上必要になる。牛ステーキを家族3、4人で食べようというとき、牛の飼料10キロ分を必要とするということだ。牛肉は確かに高いし、豚や鶏肉だって安くはないが、それは生産の構造上、贅沢なものだからだ。
*枝肉とは:頭部・内臓や四肢の先端を取り除いた部分の骨付きの肉。食肉はここからさらに骨など余分な部分が取り除かれる。


そういう構造の上に肉食が成り立っていることに気づかされる。極端な言い方をすれば、肉食をすることによって、地球上で生産されている穀物などを過剰に摂取していることになる。そのせいで、途上国などで充分に食料が行き渡らず、栄養失調や飢餓が起きているとしたら、「自分のお金で肉を食べるのは勝手」と言っていられるだろうか?

実はこの構造上の問題は、最近発見されたものでも何でもない。2、30年前になるが、イギリス人の知り合いが、同じことを言っていたことを思い出す。その人はガールフレンドともども菜食主義で、いっしょにレストランに行っても肉を食べなかった。当時、(彼に勧められたのか)肉食が環境に及ぼす影響について書いた本を買っている。今書棚を探したところ見つからないが、『ぼくが肉を食べないわけ』という本だったと思う。著者のピーター・コックスはイギリス人なので、やはり当時、その知り合いから勧められたのかもしれない。

その本を真面目に読んだのか、ただ買っただけだったのか、覚えていないが、いずれにしてもその本の影響を強く受けたという記憶はない。菜食主義にもなっていない。当時、菜食主義というのは、(特に日本では)それほど聞く話ではなかったように思う。少数者がこだわりをもって実行している生活習慣、といった認識だったかもしれない。

しかし時代は変わり、地球上で、あるいは世界で起きている様々なこと、負の遺産につながることが明らかになってきて、一般の人もそういった出来事を身近なこととして受けとめるようになってきた。いま起きているグローバルな問題は居住する地域の問題でもあり、自分の生活習慣につながっていると思えるようになってきたのだ。

すると肉食の問題も、縁遠い話として聞いていたときは違った受け止め方になる。わたしにとっては、「世界人口を養うのに十分なだけの食物は生産されている」という事実は(それが事実だとすれば)衝撃的だった。食料は十分生産されているのに、家畜の飼料として消費されているから、すべての人に食べ物が行き渡らない、というのは計算上のことなのかもしれない。しかし実際に起きている状況や関係性そのものを表しているのではなかったとしても、参考になる数字として考えることは可能だ。少なくとも、ある地域の飢餓や栄養失調の理由を、気候や人々の生活習慣のせいとして理解することからは逃れられる。

また牛や豚などの家畜を維持するには、大量の穀物が必要であることも理解できるし、肉を食べるところまで行くには、食料の投資が必要で、間接的に大量の穀物をわたしたちが消費しているということもわかる。贅沢というのは、単に肉の値段が高いことを表しているのではなく、肉を手にするまでに、たくさんの投資が行なわれていることも示しているわけだ。

肉を食べるかどうかについて、どのような議論がいま可能だろうか。未来において地球規模で食糧危機の問題が起きるとすれば、食料生産は効率的に行なう必要が出てくるだろう。家畜を育ててそれを食べるという方法は、贅沢なだけでなく、効率の悪い食料生産方法だと熊坂氏は書いている。その意味でも、肉を多量に消費する生活習慣は、いずれ問題が出てくるかもしれない。

こういった食糧問題にかかわること以外にも、肉食をすることのマイナス・イメージはある。もし自分の食べている牛や豚、鶏が、問題のある環境の中で育てられているとしたら、それをリアルに見たり感じたりしたら、食べることへの意欲が失われるかもしれない。知らないから食べられているだけだとしたら。。。この問題の捉え方は、動物福祉や動物倫理学の立ち場からのものと一致するだろう。

大部分の牛や豚は、日本でも、牧歌的な農場で育っているのではない。家畜工場と呼ばれる「集約畜産経営」の環境と方法で生産されている。たとえば「妊娠ストール」と呼ばれる狭い檻があり、雌豚は種付けと分娩のとき以外、そこから出ることができない。EUではすでに使用が禁止されていて、アメリカなどでも禁止の方向に向かっているらしい。日本では90%近い業者がこれを使用している、という調査報告が出ているようだ(熊坂氏の論文より)。ストールの大半は60~70cm幅の檻で、豚が身動きする自由がない。90%近い業者がこれを使っているとすれば、少なくとも国産豚としてスーパーなどで売られている豚肉は、このような環境のもとからやって来たと想定できる。

こういうことを一つ一つ確認していくと、肉食の問題はさらに深刻なものとして感じられるのではないか。そういうことには目をつぶって(みんながそうやって生きているのだから、わたしも)、生きることは、肉食以外のことにも影響を及ぼしはしないだろうか。

つまり自分の生活習慣、日々の生き方の中に、他者(動物や環境など)に多大な影響を与えていることがある場合、それに目をつぶって生きることは、その他のことにも目をつぶって生きることに繋がらないだろうか。これはこれ、あれはあれ、という生き方ができるものなのか。

ではできることは何か。たとえば肉食の回数や量を、食事の工夫で減らすことはできるかもしれない。それを続けることで、また新たな視点が生まれてくることもあるだろう。自分の食べている肉が(購入している肉が)どこで生産され、どのような環境で育ったものか、知ろうとする努力をしてもいいかもしれない。たどろうとしても、全くたどれないものなのか。たとえばスーパーの肉売り場の人に声をかけて聞いてみるとか? 「国産牛とありますけど、どういった場所から送られてきたんですか?」と。そんなことはわからない、と言われるかもしれないが、聞かれた人はそのことを覚えていて、意識するようになるかもしれない。また最近はお客さんがみんな、どこの工場で育ったか聞きたがる、という小さなムーブメントを起こせるかもしれない。

わたし自身のことを言えば、肉食は減らす傾向にあり、食べるのは豚と鶏、牛はほとんど食べない。豚は平田牧場というところのものを生活クラブ生協を通して買っている。平田牧場のHPのビデオや、生活クラブの取材記事などで、豚が劣悪な環境で育っていないことは一応確認している。また豚の食料も地元の減反田や休耕田を有効利用して、平田牧場自ら飼料用の米を栽培しているという。平田牧場の肉はかなり以前にも長期間食べていたことがあり、途中何年間か抜けて、ここ数年またここの肉を食べるようになった。抜けていた期間は近所のスーパーで肉を買っていた。理由はその間、生活クラブに入っていなかったから。再開したのは個人配達を生活クラブが始めたことと関係している。

このように自分自身も、そのときの生活状態や生活習慣によって、消費行動が変化し、いつもいつも理想的な行動をとっていたわけではない。ただ何らかの意識があるかないか、は大きいものだ。まったく無関心に消費や生活を送っていては、変化のきっかけも逃してしまうだろう。この記事を読んだ人が、何か感じて、肉食をめぐる現在の状況を頭の隅においていれば、ちょっとしたきっかけが、行動の変化を促すことにつながるかもしれない。そんなことを思って、肉を食べることについて書いてみた。