20191214

写真、映像、音楽:ドキュメントのいま(1)


ドキュメント(document)には、「(情報を〕文書[音声・写真・映像]で記録する」(他動詞)、「〔写真・録音・映画などの〕資料、記録、ドキュメント」(名詞)という意味がある(英辞郎)。この意味、あるいはニュアンスには、「事実に基づく情報」を映す、記録することが中心に据えられている。と思う。

しかしコンピューターの技術が発達し、ハード機器とともに様々なアプリやソフトウェアを一般の人間が手にすることができるようになった今、ドキュメントの意味は少し揺らいでいるかもしれない。記録の対象となる「事実に基づく情報」の意味が揺らいでいる、とも言えるのだが。

写真や動画の加工やデザインのツールを提供する企業としてほぼ独占状態にあるアドビが、最近、コンテンツの透明性に関する発表をした。写真加工などによって、事実ではない情報に信ぴょう性をもたらす「ディープフェイク」対策に取り組むというのだ。

11月12日の東洋経済オンラインの記事(写真に騙されるな!アドビが打ち出した「対策」)には、アドビにはこの対策をやらないという選択肢はなかった、と書かれている。この問題に真剣に取り組まないかぎり、「ディープフェイク製造技術企業」とレッテルを貼られる可能性があるという。

確かに高度な技術を開発し、それを誰もが手軽に使えるようにしたアドビのサービスや製品は、人間の暮らしを楽しく豊かにするものである。しかしその技術が、使い方によっては、事実を曲げて真実と主張したり、拡散することに手を貸すことが起きれば、技術そのものと技術提供者に責任が求められるのは当然かもしれない。

一般の人はそこまでの加工をしているかどうかわからないが(アドビ製品を使うにはコストがかかるので)、写真に映っている人物を削除したり、そこにいなかったのに加えるといったことが、今の技術では簡単にできる。動画についても、アドビの2019年版のビデオ編集アプリには、この技術が実装されているとこのこと。

写真でも動画でも、顔認識をして表情を変えることはもちろん、動画の場合は口を動かして音声合成技術と組み合わせれば、ある人物が本当にある内容をしゃべっているようなビデオも制作可能らしい。これは完全なフィクションだ。

アドビの発表会では、ある写真が撮影されたままのものなのか、加工されたものなのかの特定もできることが披露され、加工された写真を元に戻すこともできるとして参加者の驚きを誘ったようだ。コンテンツの出所を明らかにしようとするこの取り組みには、ツイッターやニューヨークタイムズが加わっているとのこと。

アドビの姿勢としては、加工技術を否定するのではなく、つまりアーティストやデザイナーが技術を使って写真を加工することに規制をかけるのではなく、コンテンツがどのような出所のものかを見る人に対して明らかにする、ということだと思う。そのことがクリエイティブ(創造性)に影響することはない、という考えのようだ。

基本的にはそうだろう。しかしもしかしたら、加工の過程やオリジナルが提示されることに対して、そのような透明性に対して、違和感を持つクリエイターもいるかもしれない。beforeアンドafterのような、あからさまな提示のされ方を好まない人もいるだろう。でもわたしたちは技術を手にして、自分の力では成し得ないような結果を生むことができ、それを利用することで利益を得ているとしたら、やはりそこで起きてくることの責任も取らなければいけないのは当然のことだ。そしてひとたび、コトの真偽の精査をやり始めたら、とことんどこまでも、技術が可能な範囲でめいっぱい実行する方向にいく、というのがコンピューター技術の世界だと思う。

このような状況の中で、ドキュメントという行為について改めて考えてみたいと思った。写真や映像に関わる作品で、最近三つほど気になるものを見つけた。以下、順番に紹介していきたい。


世界の音を記録する映像作家
ヴィンセント・ムーアのプロジェクト

ヴィンセント・ムーンはフランスの映像作家(写真家、サウンド・アーティスト)。世界各国を旅して、その土地で出会った人々と彼らの音楽を記録するプロジェクトを10年以上前からやってきた。バックパックにカメラとマイクとコンピューターを入れ、行った先の路上で出会った人々に、ここで今一番の音楽は何かと聞いて、それを撮影して記録する。一人で行動し、協力者は旅先で出会った人々というシンプルなプロジェクトだ。

メディアは映像だが、音楽を記録することが一つのミッションのようだ。音や音楽を記録する、ドキュメントするというプロジェクトは、昔は民族音楽の研究者や作曲家がフィールドワークの名でやっていた。その場合、テープレコーダーやウォークマンが音を採る道具だった。ヴィンセント・ムーアは、映像とともに音を撮っている。

音の記録という意味では、音の場合、早くから機器や加工技術が進んでいたので、プロからアマチュアに至るまで、当たり前のように音をサンプラーに取り込み、加工やミックスをして「フェイク」なものを作っていた。誰もそれをフェイクとは呼んでいなかったけれど。

機器にしろ技術にしろアイディアにしろ、音の世界はたいてい他のメディアより先を行っていることが多い。

2014年にムーアはTEDで、「Hidden music rituals around the world」というタイトルでスピーチをしている。hidden music ritualとは、山中などの奥地に暮らす人々の儀式の音楽のこと。ムーアのサイトで、わたしも、ブラジルのマットグロッソ州シングー川流域に住むメヒナク族の村の映像を見た。儀式の準備をする人々の様子や暮らしぶり、独自の楽器を使った音の世界を体験した。40分くらいの映像作品で、カットなし編集なしの一発録りのようだった。演出がないので、その現場に立ち会ってすべてを見守るような感じだ。これぞドキュメントの真髄とも言えるが、よほど興味がないと、こういった「あてのない」コンテンツを最後まで見通すのは難しいかもしれない。(それは今の私たちが「演出されて」「見どころの詰まった」ものに飼いならされているからだ)

TEDのスピーチで、ムーアは最初に「なぜ我々は記録をするのか」という問いを発している。それがプロジェクトを始めたときの最初の問いだったそうだ。スタート時、ムーアと音楽好きの友人は、音楽産業から遠く離れたところで、自分たちのやり方で、今存在する、人々の間に生きている音楽を探して記録したいと思った。そして、最初は住んでいるヨーロッパの街々で、インディペンデントのミュージシャンから人気ミュージシャンまで、カフェで、滞在先のホテルやタクシーの中で演奏してもらい映像に記録した。そしてそれをインターネットで公開した。

音の記録という意味では、映像のない音だけの記録の方が、より音への集中度が高いかもしれない。たとえば自分の子どもの音楽会や劇を記録する場合、今であればほぼ100%ビデオに収録するだろうが、もし音声だけを記録したら、それはそれで音の記録として価値あるものになる。映像なしでの音の記録は、また別ものという気がする。そして音だけの世界にも、多くの情報が詰まっている。映像のない分、音への集中度が増し、想像力がかきたてられる。ときにあえて、音だけの記録を採っても面白いかもしれない。


ストリートビューが作品に
ダグ・リカード『A New American Picture』

GoogleアースやGoogleマップができたときは興奮したし、その後ストリートビューが現れて、このプロジェクトの巨大さに心底驚かされた。

海外小説を読んでいるとき、出てくる地名をGoogleマップに入れて検索し、それをストリートビューで見るということは結構やった。『私たちみんなが探してるゴロツキ』という小説を訳しているときは、サンディエゴの町の名前、通りの名前、目印になる建物などを検索してはストリートビューで見ていた。その小説は自伝的なものだったので、かなりの確率で、小説に登場する通りや建物やショップが確定できた。そしてそれは大いに参考になった。

また中国出身の作家ハ・ジンの『自由生活』を読んでいたときは、中国人の主人公家族がハイウェイ(アメリカ)を使ってボストンからアトランタまで引っ越しするところを、マップとストリートビューを並行して見ながら読んだ。

「Google Mapsと本を読む」より「ニューヨークの渋滞に巻きこまれたくなかったので、コネティカットとの州境を越えるとすぐに、I-287号線へ路線を変更した。そして西を目指して一二マイルほども走ると、ハドソン川が現われた。あまりにも大きくて穏やかで、まるで海を見るようで息を呑んだ。」(ハ・ジン『自由生活』より)
Google Mapsでたどると、ニューヨークとコネチカットの州境は川で、そこ越えて95号線で海沿いの道を走り、実際に287号線に道を乗り換えてその道を行ってみた。道の両側にそれほど高くない木がまばらに生えていた。そしてハドソン川が現われた。料金所を通過して少し行くと片側三車線の橋が走っている。道の両側をLook left、Look rightで見渡すと、太陽に輝くハドソン川の川面が見え、確かに川幅は広かった。(happano journal_J 20101108)

また飛行家のアン・モロー・リンドバーグの本『翼よ、北に』を読んでいるときは、長江の描写を目で確かめるために、Googleアースを使った。本の中でリンドバーグは「見渡すかぎり悠々と流れている大河は、空から見るときに初めて真の姿を見せる。」と書いていたが、まさにその空からの姿を、家に居ながらにして目にしていた。

このようにGoogleアースやGoogleマップ、ストリートビューは自分の関心に沿って、地形や俯瞰図や町のランドスケープをいとも簡単に目にすることができる。それが遠くの、行ったのことない、未知の土地であればなおのこと、不思議な感覚に捉えられる。その感覚は今も変わらない。慣れることはない。

このような経験をしてきたので、ダグ・リカードという写真家の『A New American Picture』という写真集を見つけたときはなるほどと思った。写真集そのものを手にしたわけではない。この写真集がどのような意図で作られたか、ということを本人のサイトで読み、その写真を見たのだ。この写真集は、アメリカ国内の経済的に荒廃した地域や忘れ去られたかのように見える町を探し出し、その場所に実際に行くのではなく、ストリートビューで追って撮ったものだ。

そういうものが写真集として成り立つのか、という意見はあるかもしれない。写真を撮る対象はドキュメントの命である「実物」や「実体」ではなく、モニター上の映像だからだ。リカードは三脚を立ててカメラを据え、時間をかけて探し当てた「場所」をシューティングした。リカードのサイトの説明では、この写真集は、たとえば車で旅をしながらアメリカの風景を撮った、スイス人写真家ロバート・フランクの『The Americans』(1958年)を思い起こさせる作品である、としている。そういう意味もあって、タイトルが『A New American Picture』となっているのだろうか。

この写真集の出版は2010年。リカードは4年にわたって膨大な量のストリートを探索し、それを撮影していったそうだ。わたしが小説を読みながらストリートビューを見て興奮していたより、少し早い時期だったと思われる。地名を検索し、ストリートビューでそこがどんな場所か(どんな地域でどんな人々が暮らしているのか)を探り、見てまわることは、実際にその場に自分が立つのとはまた違った体験のように思える。自分はその場に登場しないのだから、一方通行という意味で、一種の「のぞき」行為に近いのかもしれない。

また一方で、写真とは何か、ドキュメントとは何かと考えるとき、特定の視点で「ある対象を写しとる」行為とすれば、その対象が何であっても、その成果は写真であり、ドキュメントであるということになるのではないか。ストリートビューで撮影場所を探し、どこにするか決め、アングルを設定し(現在のストリートビューでは、上下左右全方位360°のランドスケープが提供されていて、自由にフレーミングできる)、シャッターを押す。被写体がモニター上の風景ということを除けば、通常のドキュメント写真を撮るときとほぼ同じだ。

おそらくドキュメント写真にとってポイントとなるのは、対象がリアルなもの(実体)であるかどうかではなく、「撮影者による特定の視点」の明確さではないだろうか。これで思い出したのは、大分前になるが、ある写真集の中の写真を、ある意図で選び、カメラで撮影し、それにコメントを付け編集するというプロジェクトをやろうとしたこと。行為としては「複写」にあたるが、実用的な意味での複写ではなく、作品としての複写だった。そのとき、すでに印刷された写真を写真に撮るということの意味を考えた。そしてこんなことをする人は、おそらく世界中を探してもいないだろうと思った。

ダグ・リカードのストリートビューによる写真集は、被写体がリアルな実体ではなく、他者(Googleのストリートビューカー)によって自動撮影されたモニター上の映像の「再撮影」とも言える。しかしそこには写真家の明確な意図や集中が感じられ、本の紹介ページを閲覧するだけでも作品としての魅力が充分に伝わってくる。

*写真、映像、音楽:ドキュメントのいま(2)「ロシアの国境地帯6万キロを撮る写真家」(2020.01.17)



20191129

ミス、偶然性、予測不可能(補足)


このテーマで書くのは(1)(2)で終わりと思っていたのだけれど、もう少しだけ補足的に書きたいことが出てきたので、追加で書くことにした。

きっかけは(2)を書いていたときに起きた、サッカー場での「事故」だった。ミスと事故は違うかもしれないが、ミスによって事故が起きることはある。どちらも予測不可能な形でやってくることに変わりはない。そしてそれに関わった人々が、どう対処するかには興味深いものがある。

11月10日(日)、イングランド北西部にあるエヴァートンのホームで、ロンドンをベースにするトットナムとの試合があった。試合終盤の70分過ぎ、トットナムのソン・フンミン選手(韓国)がエヴァートンのゴメス選手(ポルトガル)にタックルを仕掛け、それによって転倒したゴメス選手が、手前にいたトットナムのオーリエ選手(コートジボワール)と衝突し重傷を負った。ニュースによると脱臼骨折とのことで、映像には映されなかったが足首が不自然な方向に曲がってしまっていたとのこと。ソン選手には当初イエローカードが出され、その後事態の重さから一発レッド(退場)へと変更になった。

試合は一時中止、ピッチ上は大変な騒ぎになり、医療関係のスタッフの他、各チームの選手やコーチングスタッフなどが、負傷した選手の周囲を取り囲んだ。ゴメス選手の足の状態を目の当たりにしたソン選手はショックを受けてパニック状態になり、頭を両手でおおい、スタッフに抱きかかえられながら号泣している映像がカメラに捉えられた。また衝突されたオーリエ選手もショックを受けていたようで、両手で頭を抱えていた。

これに似た事故を10年前にも見たことがあった。2009/2010シーズンのプレミアリーグの試合で、ストーク・シティのショウクロス選手がアーセナルのラムジー選手にタックルを仕掛け、骨折を負わせた。ショウクロス選手にはレッドカードが出され、退場した。退場の際、目に涙をためている選手の顔が映し出された。当時、ショウクロス選手は23歳。ラムジー選手は20歳、どちらも将来を有望視されているイギリス人だった。2月に事故にあったラムジー選手は、その年の10月にトレーニングに戻ったが、フィットネスを取り戻すため、下位のチームでしばらくプレイするなど、万全な状態になるまで長い日数を要したようだ。

サッカー選手にとって怪我、中でも手術を必要とするような重い負傷は、大きな絶望感につながる。ピッチ上で怪我をし、タンカーに乗せられて搬送される選手が、泣いている姿はよく見られる光景だ。しかしその怪我が重傷であるときは、怪我を負わせた選手の方も大きなショックを受ける。

トットナムのソン選手のときは、その号泣する選手のまわりをエヴァートンの選手が囲んでいるのが印象的だった。ゴールキーパーのピックフォード選手(イングランド)とフォワードのトスン選手(トルコ)が、ソン選手の肩を抱き、背をさすり、頭に手をやり慰めていた。このような予測不可能な出来事の、それも自チームの選手が大けがを負った場面、騒然とした空気の中で、事故の一因となった選手の元に行って慰めの言葉をかける、という行為に目を惹きつけられた。

これで思い出したことがあった。何年も前、もう閉店してしまった有楽町西武での出来事。ある日そこで買い物をしていたら、目の前の下りエスカレーターを年配の着物姿の女性が上から転がり落ちてきた。はっきりとは覚えていないが、わたしの目の前だったように思う。もしかしたら、一番近くにいたのが自分だったかもしれない。驚きのあまり、わたしは呆然と突っ立っていた。何もすることができなかった。すると周りにいた何人かの人が、その女性に駆け寄って助け起こし、救急車を呼び、とテキパキと事故の処理をはじめた。

そのあとで、わたしは考え込んでしまった。なぜ自分は何もできなかったのか。突っ立っているだけだったのか。人間として欠陥があるのではないか。たとえ他のこと、たとえば仕事ができるとか、何かの能力に優れているといったことがあったとしても、このような場面でまるで役立たずであるのは、人間として全体的に見たとき、極めて能力が低いことにならないか。などなど。確かに突然の出来事に対応するのは簡単ではない。でも。

それから何年かたって、同じような場面にまた遭遇した。そのときは新宿西口の大江戸線に降りていく長い階段だったと思う。階段半ばあたりまできたとき、上から年配の女性が転がり落ちてきて、途中の踊り場で止まった。このときはもう迷わなかった。すぐに駆け寄って、女性に声をかけ、周囲でびっくりしてこちらを見ていいる人々に救急車を呼ぶよう頼んだ。そして救急車が到着するまでの何分間か、その女性のそばに着いていた。女性は気は失っておらず、話をすることはできたし、骨折などはないように見えたが、ショックもあってか起き上がることができないようだった。わたしに向かって何度も「すみません」「ありがとう」の言葉を繰り返していた。

その女性にはこちらの事情など知りようもないことだけれど、この出来事があって、わたしは少しだけ救われた思いがした。自分は冷酷な人間でも役立たずでもない、以前何もできなかったのは、おそらく経験が足りなかったせいだろう。そう思えるようになった。

サッカー選手の場合は、自分が事故の原因だったりするので、心理的な負荷はとてつもなく大きいだろう。ソン選手に与えられたレッドカードは、VAR(video assistant referee)での診断の結果、イエローカードに変更された。ソン選手のタックルが引き起こした事故ではあるが、怪我自体はソン選手の足によるものではなく、ゴメス選手の落下時の衝撃と判断されたからのようだ。その試合の2日後には、トットナムはセルビアでのチャンピオンズリーグの試合を控えていた。ソン選手の退場時のショック状態から見て、出場は無理ではないかと思われていた。しかしソン選手はトットナムにとって、今シーズンも得点源の一角。どうなるのか、でもあの様子ではおそらく無理だろう、多くの人がそう思っていたかもしれない。

しかしセルビアでの試合に、ソン選手はスタメンで出てきた。なんというメンタルの強さ。トットナムのファンだけでなく、エヴァートンのファンからも、たくさんの励ましのメッセージを受けたことが、その後のソン選手のインタビューでは語られていた。そういう思いに応えるためにも、自分は試合に出る、と語っていた。そしてその試合で2ゴールをあげ、チームを快勝へと導いた。そのゴールのとき、ソン選手は喜びを表すことはなく、ゴールを祝うチームメートに囲まれながら、カメラに向かって両手を合わせた。

この同じ動作をその次の週のプレミアリーグでまた見ることになった。ウォルバーハンプトン対アストンヴィラ戦での、ヒメネス選手(メキシコ)はゴール後に、ソン選手と同様、両手を合わせた。それはその試合で、オーバーヘッドのシュートをしたヒメネス選手の足が、相手ディフェンダーの頭に当たり、その選手は脳震盪を起こして気絶した。その直後、ヒメネス選手は膝をついて、ヴィラのGK(ゴールキーパー)などとともに気絶しているディフェンダーへの対処(体の向きを変え舌を出させるなど)をしていた。医療スタッフが到着する前のことだ。サッカー選手はこういったことへの対処法の訓練を受けているのだろうか。

ここでも試合は長い時間にわたって中断した。脳震盪の選手はタンカーで運ばれていった。ヒメネス選手には、危険なプレーということでイエローカードが出された。

その後試合は再開され、ヒメネス選手はゴールを決め、ウォルバーハンプトンは勝利した。そのゴールパフォーマンスのとき、ヒメネス選手はソン選手と同じ動作をした。チームメイトに囲まれながらもゴールを喜ばず、両手を合わせていた。この両手を合わせる、という動作が何を意味するのか、何に基づくものなのか、興味をもった。

仏教? キリスト教? いくつか関係ありそうなことをサイトで見てみてわかったのは、キリスト教においては、両手を合わせるのは祈りの意味があるようだった。ただイメージ検索をすると、両手を合わせただけでなく、指を組み合わせている写真もあった。その動作はキリスト教の動作としては知られているものだと思う。しかし手を合わせて尖塔をつくるような格好も、祈りの動作としてあるようだった。神に許しを請う(forgiveness)の意味が書いてあるものもあった。

ところでエヴァートンのフォワード、トスン選手(事故直後にソン選手を慰めていた人)は、この試合で、事故のあった後、シーズン初のゴールを決めている。1-0で負けている中の貴重なゴールで、また97分という試合終了直前のアディショナル・タイムでのゴールだった。これにより試合は引き分けとなった。

事故とゴールには直接の関連はおそらくない。しかし続けざまに、事故に深く関わった選手がゴールを決めているのを見ると、どういうことなのかちょっと考えてしまう。

一連のサッカーの試合での事故について、そして自分が事故現場に立ち会ったときの対処について書いてみた。予測不可能なことは、ミスであれ事故であれ、どこでもいつでも起きる。起きてしまったことは元に戻すことはできない。しかしそれにどう対応するか、対処するかは、そこにいた関係者全員の手に委ねられる。(1)(2)で書いたように、演奏中や試合の中での大きなミスも、その「事故」のあと、人々がどう思い、行動するかで全く違うストーリーになるのではないかと思った。とすると、わたしたちは普段から、ある程度そのようなミスや事故に対して、心構えをもっていた方がいいのだろうか。

少なくとも、こうして不測の事態が起きたあとの余波を見て考えたり、学習したりする機会があれば、少しだけマシな行動が取れるかもしれない、そう思ってこの記事を書いていた。


20191115

ミス、偶然性、予測不可能(2)


ミス、偶然性、予測不可能(1)はこちら

先々シーズンのUEFAチャンピオンズリーグの決勝、レアル・マドリード対リヴァプール戦で、リヴァプールのゴールキーパーが大きなミスをした。チャンピオンズリーグは欧州のクラブチームのトップを決めるシーズン最大の大会で、おそらく世界最高レベルの試合が観れる機会といっていい。その決勝の舞台で、GKが大きなミスをしたことが影響してリヴァプールは負けてしまった。そのキーパーはまだ若手の選手で、シーズン中、不安定なプレーがときに見られたものの、チャンピオンズリーグをチームメイトとともに戦い抜いて決勝まで来た。つまりこのような大舞台での経験はなかったとしても、一定レベルのGKであると言っていいように思う。

サッカーでのミス、目立つミスと言えば、多くは守備に関するものだろう。その中でもGKのミスは直接ゴールにつながるので大きなミスになりやすい。非難も受けやすい。センターバックなどディフェンスの選手も、時にミスによる非難の的になる。多いのは、ゴール前でボールを失い、相手選手にボールをかっさらわれてシュートされることだ。それがゴールになれば、大きなミスとなることは必至。もう一つミスとして大きな注目を浴びるのが、PKの失敗だ。ペナルティキックは、ペナルティエリア内(ゴール前のスペース)で相手選手がファールを犯したり、ハンドをしたりしたとき与えられる特権。これを蹴るのはキックの上手い人で、多くは攻撃の選手かもしれない。GKとキッカーが1対1になるので、比率的には入る確率が高い。しかし緊張のあまり枠外に飛ばしてしまったり、GKに弾かれたりしてPKを失敗すると、特にそれで勝ち越せるとか、同点にできるなどの重要な場面であれば、チーム、サポーターともに大きな失望を味わう。よって非難の的になる。

またW杯などのトーナメント方式の試合では、延長戦でも勝負がつかないとき、PK戦になることがある。数人の選手が順番に蹴っていき、失敗した人の数が多い方が負けだ。2010年のW杯南アフリカ大会で、日本とパラグアイのベスト16の試合がPK戦にもつれ込み、日本の選手(駒野選手)が失敗したことで敗退したのを覚えている人もいるだろう。試合後、駒野選手は顔をおおって泣き崩れ、それを泣きながら慰めている松井選手の姿がカメラに捉えられた。ボール1個、蹴り損ねただけで、世界が終わったような悲しみようだ。大事な場面で、公衆の前で、ミスをすることの典型のような光景だった。

前にあげたリヴァプールのGKカリウス選手も、試合後、大泣きしながらサポーター席の前に行って謝罪した。こちらまで泣きたくなるような表情だった。彼のミスは、ボールを仲間ディフェンダーにアンダースローで投げようとして、すぐ目の前にいた相手フォワードにボールを弾かれ、ゴールされてしまったというもの。確かになんで!!!というミスではあるが、このようなGKのミスはこれ以外にも何度か見たことがある。SNS上では、心ない人たちからの脅迫めいた投稿が溢れたと聞く。そこまでいかなくとも、試合の放映を見ていた人の中には、「何だコイツ」「レベル低すぎ」と言っていた人は少なくなかったのではないか。

しかし、あのオリバー・カーンでさえ、ミスを起こすのだ。もっとも重要な場面で! そしてそれを「ただ起きる」と言っている。

カリウスのミスに対して、ウェールズの元GKネヴィル・サウスオールは、試合後にカリウスに応援の言葉をツイッターで送っている。自分にもその経験がある、暗い記憶だ、でもそこを通り抜けてほしい、Stay strong, Believe in yourself! と結んでいる。人がミスを犯したとき、その場にいた人、それを見ていた人は何をするべきなのか。ということを考えさせられる。

カリウスがサポーター席に謝りに行ったことについて、批判をした批評家もいたようだ。詳しいこと、その意図はわからないが、わたし自身は彼がそのような行動に出たことに少し驚いていた。自分のミスが影響して試合に負けて(優勝を逃して)しまったとき、心を固く閉ざして自分の内にこもり、ドレッシングルームに直行するといった行動もあり得るように思ったのだ。大泣きしながらサポーター席に行ったという行動からわかるのは、彼とサポーターとの間には、なんらかの、それなりのコミュニケーションがあったということだ。試合会場にいたわけではないし、リヴァプールのファンでもないので想像するだけだけれど。彼は最悪の事態を招いたときに、少なくともその場で自分を晒している。そこにこのGKがどんな思いでこの試合に臨んでいたか、決勝戦に至るまでの道のりをどう歩んできたかを想像させるものがある。

わたし自身は、カリウスのミスを見たとき、単純に他人事とは思えなかった。自分のことのように、とまではいかないが、起きたことの事態や彼の、彼のまわりにいる人間の心情に思いがいった。小さな痛みを感じた。わたし自身、公開の場でミスをしたことがある。カリウスとは比べものに全くならない、もっと小さな限られた場所で、一般に知られていない場面ではあるが。ただミスをした本人にとっては、その場の大小や重要度はあまり関係ない。何かのコンクールでもなく、実際上はなんの影響もなくても、ミスによる痛手は受けるものだ。

(1)で書いたピアニストのピレシュは、ワークショップの最後の日に、参加者全員の発表の場を設けた。練習してきたことをみんなの前で見せる。場所は音楽ホールの舞台の上ではあったけれど、観客がいるわけではない。ワークショップをともにしてきた仲間同士の発表の場だ。ピレシュは舞台に立つときの心構えや挨拶の仕方を話したようだ。そしてこう言った。「わたしがまず弾いてみます。わたしが緊張しないと思ったら、それは間違い。緊張します」 そしてお辞儀から始まって、短い曲を演奏した。大きな舞台での演奏より、少ない数の人の前で演奏する方がより難しい、とも言っていた。その意味はよくわかるので、こんな指摘までするとはさすがだなと思った。

またこうも言っていた。弾く前はとても緊張します。でも聴衆の前に出ていって、そこで挨拶をするとき、その緊張の質が違うものなる、良い心理状態に変わるのだと。あるいはそうなるようにすると。この話も、非常によくわかる。一度だけ、それを経験したことがある。その日、わたしはシューベルトのピアノソナタを会場で弾くことになっていた。力に余るということはないものの、そして数ヶ月間かなりの練習をしてきてはいたが、いろいろな意味で余裕しゃくしゃくで弾けるというレベルのものでもなく、まあだからこういった発表の場は力試しになるわけだ。舞台の袖でわたしは緊張し、檻の中の動物のように意味なく歩きまわっていた。もう楽譜は手元にない。身一つで舞台に出て行って、ピアノの前に座り、10分近くの時間、すべてを自分がやり通さなければならない。自信があるとか、そういう気持ちは特になかった。ただ舞台の上を歩いていって中央で立ち止まると、会場にいる人々をゆっくりと見まわした。理由はなく、ただそうしていた。お辞儀をして拍手を受けたとき、どうしてか「ありがとう」という気持ちが湧いてきた。自分のこれからやる演奏を聴いてくれて、ありがとうという心からの素直な気持ちだ。今このときその場に自分が、人々がいることに対するある種の感動があった。そして鍵盤に向かって弾き始めた。それ以前にも人前での演奏は何回か経験はしていたが、あの時ほど気持ちよく演奏できたことはない。のちにピレシュの言葉を聞いて、あの時の状態(心とからだの状態)が、彼女の言っていること(緊張からリラックスへの切り替わり)ではないか、と思い当たった。

もちろんミスは緊張が理由でだけで起きるものではない。ただ緊張がミスを呼ぶことはある。緊張して自意識が高まると、完璧なプレイ(演奏でもサッカーでも)を求めてしまい、リラックスが難しくなる。ここで気付いたのだが、完璧とプレイ(遊ぶ、楽しむ)は相反する言葉かもしれない。完璧に遊ぶ、完璧を求めて楽しむ、などという表現は理に合わない。

やはり演奏もサッカーも、その発生は遊びであり、楽しむものなのだ。それがプロの世界になれば、そうも言っていられないという事情が発生するかもしれないが、そうであっても、先にあげた演奏家たちが強調し、日々挑戦しているように、完璧性を求めての行動、行為は、やっていることの破壊に繋がることもあるのだ。そういうことをプレイヤー、聴衆の両方が、よくよく理解していれば、ミスが起きたときの波紋は違ったものになるかもしれない。

聴衆としてミスに立ち会うことで、プレイも含めた出来事全体が忘れがたいことになって、記憶にとどめられることもある。こんな話を聞いた。ある地方のコンサートで合唱付きの交響曲が演奏された際、地元の児童合唱団が曲の途中の入りを間違えた。それは現代曲で入りが難しく、歌い始めを逃してしまったのだ。すると指揮者がチッと舌を鳴らして、その少し前から演奏し直した。今度は順調にいった。しかし音楽が止まり再開するまでの間、会場は凍りついたという。その場で聞いていた人の話では、なぜかその曲が忘れがたいものになり、CDを買い求めて、その後ずっと聴き続けているとのこと。

わたしにも似たような経験がある。今でもその曲(ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲)を聴くと懐かしさとともに、小さな胸の痛みを感じる。その曲が単なる名曲ではなくなってしまったのだ。会場でリアルタイムで「事件」を分け合った経験とでも言おうか。楽曲に別の意味が足されたのだ。

ミスは人間の行為の結果。そして演奏やサッカーも人間の行為であり、なぜそれをするのか、追求するのかといえば、そこに遊びがあり、楽しさがあるからだ。予測不可能なことが起きたり、偶然性と出会ったりするからだ。そういう「空き」のことを「遊び」とも言う。ミスをしたくなければ、準備をすることは大切かもしれないが、充分準備をしたならば、あとはミスを恐れることなく、できる限り自由な精神でプレイするのが理想だろう。プレイヤー、聴衆の両方がその精神でリアルタイムの出来事に接すれば、もし大きなミスが起きたときも、受け止め方はまったく違ったものになるだろうし、プレイヤーだけでなく聴衆の側にも学びが生まれるはずだ。

20191101

ミス、偶然性、予測不可能(1)


『This is Football』というドキュメンタリーを見ていたら、オリバー・カーンという元ドイツ代表の名ゴールキーパーが、「それ(ミス)は、ただ起きる」と言っていた。2002年日韓W杯のときの決勝戦で、カーンにとってこの大会ただ一度の、初めてミスを犯して、ブラジルにゴールを許してしまったことを言っている。シュートされたボールを手前でこぼし、転がったボールを相手に入れられたのだ。名キーパーによるまさかのミス。この失点とさらなる追加点により、ドイツは優勝を逃した。

それにしても、ミスはただ起きる(理由を探しても無駄)、という発言は衝撃的かもしれない。多くのタイトルを獲得し、強豪バイエルン・ミュンヘンで14年(21年間の選手生活)を過ごした存在感のあるGKだったカーンの口から、そんな言葉が出るとは。

人間はミスを犯す(他の生物もそうだろうが)。現在のサッカーではミスを減らすために、予測不可能なこと、偶然性を極力減らすことに力を入れているそうだ。小さな、あるいは大きなミスが試合を決定してしまうことが多いからだろう。しかしその予測不可能性こそが、サッカーの面白さでもあり、サッカーをサッカーにしているという見方もある。たとえばゴール前で大きく跳ねたボールが、ディフェンダーに当たってゴールマウスに吸い込まれるとか。弱小のチームが、いくつかの偶然が重なって、強豪チームに勝ってしまうとか。サッカーは得点の少ないスポーツなので、1点が試合を左右することがある。

人間はいつでも、どこでもミスを犯す可能性をもっている。クラシック音楽の演奏会のことを考えてみよう。プロでもアマチュアでも、演奏会でのミスは心理的に演奏者の大きな痛手となる。クラシックの場合、楽譜に書かれたこう演奏されるはずという見本があるので(そして聴衆がそれを知っていることもあるので)、そこを踏み外せばミスと認定される。プロはミスをしないのか、と言えばそんなことはない。様々なエピソード(笑えるものも含めて)が残っている。途中で迷子になって、同じところを何度も繰り返したとか、演奏を止めて最初から弾き直したとか。ただプロの方が、何か起きたときの対処法はうまいだろう。聴衆に気づかれずに演奏を終えることも可能かもしれない。

より経験の少ないアマチュアはどうかと言うと、演奏中にミスを犯すと、それが引き金となって演奏全体をうまくコントロールできなくなったりしがちだ。自分の失敗に動揺して、平常心を保つことが難しくなり、一つ一つのアクションが綱渡りのようになってしまう。音楽は一度走り出すと終わりまで止まることができない(止まってはいけない)ので、その意味で非常に厳しい。発表会など人前で一人で演奏することは、普通の人(そういう経験のない人)が考える以上に、演奏者にとって負担が大きいことだ。小さな子どもでも、舞台に出る前、顔が白くなるほど緊張することはある。練習をたくさんしてきた子どもほど、緊張度は高まるかもしれない。

少し大きくなって、中高生くらいになると、自意識が高まるので、さらに人前での演奏は難しくなる。他で経験したことのないような緊張感に包まれる。頭が真っ白になって、数ヶ月練習してきたことがどこかに行ってしまったように感じられるかもしれない。でもいま、この場から逃れることはできないのだ。絶体絶命の危機。緊張のあまり、そして自意識が最高潮に達して、いつもの体と気持ちの関係が崩れ、自然な演奏が不可能になると、何でもない箇所でミスを犯したりする。それがさらに心理的に打撃を与え、全体の流れに影響を与える。などなど。

オリバー・カーンは、ミスはただ起きる、と言った。それはある意味正しいように思える。もちろんミスの原因をたどることはできる。集中力の欠如、練習の不備、不足、心理的な圧迫、その日の健康状態といった。しかしどれだけ準備し、練習し、不測の事態に備えていても、ミスは起きるときは起きる、というのも真実のように思える。

サッカー選手でも演奏家でも、ミスをしたあとで言っていることは同じだ。ミスから学べることは大きい。そこには学びの絶好の機会がある、と。ある演奏家はステージでミスをすると、その晩帰ってから、ベッドの中で100回くらい自分のその日の演奏を反芻するという。その作業、ミスから何を学べるかこそが、何を汲み取れるかが大事なのかもしれない。貴重な学びのチャンスと捉えることができたら、ポジティブになれる、次の機会に生かせる。

リコーダー奏者のミカラ・ペトリは、舞台で完璧に演奏するために、音楽性を犠牲にするのは良くない、と言っている。ミスなく演奏すること(完璧性)と音楽性とは違うものだと言っているのだ。完璧さを第一目標にミスなく演奏することに心を傾ければ、音楽性が失われてしまうというわけだ。それは音楽というのは、完璧性を聴衆と分け合うものではなく、楽しさや美しさを分け合うものだからだ。サッカーで言えば、予測不可能なことを最小限に抑え、ミスのないプレーを第一目標にすると、サッカー本来の楽しみが薄れてしまうというのと似ている。

パーカッショ奏者のエヴェリン・グレニーは、準備や練習はしっかりするけれど、舞台の上では何ヶ月もやってきたこと、リハーサルでやったことは繰り返さない、と言っている。練習してきたことを見せるのではなく、舞台の上ではそこから自由になって演奏したい、練習はそのための準備であると。それは予測不可能なことを含むから危険にさらされる、何が起きるかわからない、でもこれこそが聴衆と分け合いたいことだ、と言っている。前述のミカラ・ペトリ同様、音楽の本質は完璧さではなく、ミスも含めた予測不可能性や偶然性、自由な心情、今そこで生まれている何かの中にこそある、そういうことなのだろう。

最近引退したピアニストのマリア・ジョアン・ピレシュは、さらに強い言葉でこれについて語っている。「演奏家が不変、安定を演奏に求めると、音楽が破壊される」 子どもたちにピアノを教える、ブラジルで行なわれたワークショップでそう言っていた(NHK教育:スーパーピアノレッスン)。プロの演奏家だけでなく、アマチュアの演奏家にとっても、大事なことなのだろう。アマチュアや子どもの演奏者にとっては、練習してきたことがミスなく舞台で再現できるかは、普通、まず一番の目標になることかもしれない。先生も親も、本人もそれを期待する。しかし音楽の本来のあり方から考えると、そのやり方は、音楽性が失われたり、音楽が破壊されたりすることなのだ。

しかし練習でやってきたことを舞台で繰り返さない、というやり方はプロにとっても厳しいことかもしれないのに、アマチュアや子どもの演奏家にできることなのか。おそらくこれを実行するには、練習そのものを変える必要があるだろう。目標(ミスのない演奏を目指す)が変われば、普段の練習も変化するに違いない。たとえば難しい箇所、間違えやすい場所を、反復練習して体に覚え込ませる、という体育会系的なやり方ではなく、その箇所をいろいろな方法、解釈で弾いてみたり、違った視点で捉えてみたり、新たな発見を求めるといった、取り組みの幅を広げ、可能性を探していくような練習を試みるとか。このような練習は、練習そのものが音楽の追求、音楽の中にある何かを探す、という行為と結びつく。完璧さを得るための単純な反復練習には、何かを問うとか探すといった心理は働かないかもしれない。

ではミスに対して、聴衆の側はどうなのか。サッカーにしろ、演奏にしろ。それがプロであれば、完璧性を求める心情は、ある程度あるかもしれない。精神の自由度を求めミスには寛容な人と、まずは完璧性をという厳格な人と両方いるかもしれない。一般に、公衆の面前で緊張の舞台に立たされた経験のない人ほど、他人の犯したミスに厳しいのではないかという印象がある。サッカーでも演奏でも、そういった場に立たされた経験があり、ミスを犯した経験もある人は、ミスを犯したときの言いようない心の痛み、心に残る傷、消えない記憶を体験しているので、他者のミスに対して厳しい言葉を吐くことは少ないように思う。「ダメだ、こいつ」「終わりだな」といった決めつけをすぐにするのは、自分がそういう場に立ったことのない人だと思う。つまりその面での経験の少ない人だ。
つづく

20191018

インターネットと出会いのロマン(2)


『ドット・コム・ラヴァーズ/ネットで出会うアメリカの女と男』によると、オンライン・デーティングはまずmatch.comにプロフィールや写真などを載せて登録し、自分から、あるいはメンバーからのメールで始まる。ここで第一段階に当たるメールの役割はとても大きい。著者の吉原真里さんは、自分から書く場合も、相手からメールがあった場合も、じっくりと取り組む。相手から初めて来たメールも、自分の出したメールへの返事も、内容、言葉づかいなどじっくり検討して、その人となりを想像する。そういったメールを何回か交わして、お互いが気に入れば、デートということになる。
*ここでいうメールとは、携帯やスマホのSMS(ショートメッセージ)ではなく、パソコンを使った比較的長さのあるものが中心ではないかと思った。

吉原真里さんによれば、メールで受けた印象と、実際に会ったときの印象は、たいていとても近いという。これはわたしも何回も経験したことだ。出会い系ではないけれど、メールだけのやり取りだった人と、実際に会うという経験はたくさんしている。海外からの人も含めてだ。その印象は、「メールと変わらない」である。つまりメールというのは、日本の多くの人が心配するほど信用ならないものではなく、むしろ手紙などより、送受信のタイミングも含めて、相手の性質や傾向がストレートにわかるメディアではないかと思うのだ。

吉原真里さんは、マッチ・ドット・コムの経験から、メールの文章と実際の人物との誤差はあまりない、と書いていた。メールは、結構その人となりが現れるものだ。未知の人から初めてメールで連絡を受けることは、わたしの場合それなりに多いが、最初のメールである程度その人の感じはつかめる。昔は手紙の形式そのままで書いてくる人もいた。前略から始まって敬具で終わるような。さすがに今はそういう人はいないが。何回かやりとりが進めば、「お世話になっております」は、ほぼ9割くらいで使われている定型文だ。締めは「どうぞよろしくお願いいたします」。それが常識や安全を保証している。ということになっている。

しかしメールの肝は本文だと思う。多分、メディアとしては、手紙と電話、あるいはチャットの間くらいの感じだろうか。手紙はもはや書く人が少なくなっていると思うので、メールは書き言葉で人に何か伝えるための、標準的な媒体となっている。日本では文章が長いことは嫌われる、という風土があるので、メールも長くならないよう気をつける。もし長くなってしまった場合は、「長文にて失礼します」的な謝罪文が入る。英語圏でも、メールという即時性の強いメディアの特徴から、そこまで長いメールを書く人はいない。とはいえ、かなり長い文章、入り組んだことについての議論もメールでなされるし、そこで重要なことも決定もする。別に問題はない。

このように見ていくと、メールでのやり取りから相手の特徴を知り、気に入ればデートまで進むという手順は、それほど問題のある行為とは思えない。「メールでの出会い」というステップは充分有効だと思う。そして「出会いのロマン」についても、そこで生まれ、醸成されることもあるだろう。顔を見るまでは「無」の状態ではない。なんかこう、、、、脳と脳がつながる、という感覚がある。

人との出会いのロマンが、インターネットで可能だとしたら、たとえば本との出会いのロマンはどうだろう。というのは、強力な「紙の本」派の人々の発言には、本との出会いのロマン的な話がよくあるからだ。それはネットではなく、街の本屋でのみ起きるらしい。

確かに本屋さんを特に目的なくブラブラしていて、またとない本と出会うことはある。その喜びは大きなものだ。偶然見つけた、という出会い感が、何か得したような感情と結びつくこともあるかもしれない。自分自身の経験に照らしてみると、実際には回数はそれほど多くはないのだが。その理由の一つには、本屋さんの品揃え自体が、ここ10年、20年で変わってきて、売れる本が中心になっているからということがある。また自分の読書傾向の変化や、(新旧を問わない)一極集中的な本探しの態度にも原因があるかもしれない。また洋書のことで言えば、まず一般書店の少ない在庫(ごく一般的な、あるいは何かで話題になった本)の中から、自分の求めるものを探すのは不可能に近い。

わたしの本との出会いは、ここずっと、ほぼインターネットを通じてのものになっている。一つはネットの記事やブログなどで紹介されていた本というルートがある。あるいは本の紹介ではなく、ある人物に興味を持った場合に、その名前を検索して本にたどり着くといった。あるいはある事象や事件に興味を持った場合、それを頼りに検索して本にたどり着くとか。するとそこにゾロゾロと関連本が現れたりすることもある。

最近の経験では、さっきあげた吉原真里という人物を通じて、ほんの2、3時間のうちに、10冊近い本に出会っていた。本人の書いたものだけでなく、本人が紹介していた本も含めてだ。そのうちの半分くらいは、即座にKindleのサンプルをダウンロード。うち2冊をまずは購入。紙の本しかなかったものは、その中の2冊をアマゾンのマーケットプレイスで購入した。またとりあえず中身を見てみるために、最寄りの図書館に2冊ほど予約を入れたりもした。

その本の中で、この機会がなければ触れることがなかっただろうというものもある。たとえば柴崎友香のノンフィクション小説『公園に行かないか? 火曜日に』とか、中島京子の『夢見る帝国図書館』は、本屋さんで棚にあっても、自分が手に取る可能性は少ない本だと思う。どちらも小説家としては興味の範囲外だったから。吉原真里さんのブログの紹介文を読んで、まずはサンプルを手に入れた。この2冊は比較的新しい本であるが、興味を持つのは新しい本とは限らない。マーケットプレイスで購入した本の一つは2010年出版のもの。それほど古いとは言えないが(とはいえ9年前)、今の書店の時間の流れでいうと相当古い本に属するだろう。よほどのロングセラーか、人気作家か、何か理由がなければ5年以上、いや3年でも、新刊が棚に置かれ続けることは簡単ではない。

こういった事情も、つまり新刊がどんどん出版され、本屋のスペースは限られているため、古い本と出会いにくいこと、それもまた本のとの出会いという意味では、マイナスに働いてしまう。話題の新刊を中心に探している人にとっては問題なくても、そういう流れとは関係なく、自分の関心によって、本を探し選んでいる人間にとっては、古い本と出会えないのは決定的なマイナス要素になる。

最初に書いたように、確かに本屋で思ってもみなかった本と出会うというロマンはある。しかしそれはネットでも、ほぼ同じことが起こり得る。

人でも、本でも、出会いのロマンというものがあるとするなら、それはどこでも起きる。リアルワールドであれ、ネットの中であれ。ネットで出会った人より、親戚や友だちの紹介で出会った人の方が、より信用できるとか、自分に合うはずとか、おそらく言えないと思う。本に関して言えば、町から本屋さんがなくなっていくのは寂しいことかもしれないが、それは業態としての本屋さん、あるいは本というメディアに変化が起きているからかもしれない。昔ながらの棚に本がいっぱい並んでいて、そこから好きな本を取り出して買う、という仕組だと、今の本の世界のすべてはまかなえない。

商売として成り立たせようとすれば、なおのこと、置ける本が限定されてしまうし、そうするとわたしのような者が買いたい本は置けないことになる。バラエティの点でも、深度の点でも、新旧の品揃えの点でも、難しい。本だけで商売する場合、限られたジャンルの本のみ、古いものから新しいものまで、深いところまで、細部まで届くような品揃えの本屋、というのは可能かもしれない。たとえば「天文学」に特化した本屋とか、「ピアノに関する本」のみ集めた本屋とか。しかしそういう書店は、ネットの方が効率よく商売できそうなことは、ちょっと想像すればわかる。リアル書店でそれが大手町に一軒あったとして、そこに日常的に行ける人は限られてしまうから。かといって「天文学」専門の書店が、全国でチェーン展開するというのも難しいだろう。

「出会い」というロマンについて、人との出会い、本との出会いをとおして考えてみた。ロマンというのは、最初に書いたように、まだ起きていないことに対して夢や希望を持ったり、いろいろ想像して理想の世界を自分の中で描くことだ。ロマンは一瞬で終わるものではなく、自分の中で紡ぎ、育てていくもの。何かと対面していい印象をもったとき、そこからどうその思いを発展させたり、確認したりしながらさらなる強い思いにまで膨らませていくか、そういうことじゃないかと思う。顔を合わせてなら好き嫌いがわかるけれど、メールの文章じゃわからない、ということでは多分ない。その人の中で何が判断の基準になるか、にもよるとは思うけれど。

20191004

インターネットと出会いのロマン(1)

ここでいうロマンとは、英語のromanticのことで、つまりまだ起きていないことに対して夢や希望を持ったり、いろいろ想像して理想の世界を自分の中で描くといった意味だ。ときに空想的とか、現実離れした、と見られる感情や心情も含まれる。

次に「出会い」について考えてみよう。出会いとは、実際に何かとあるいは誰かと「出くわして」知り合うことだろうか。この「出くわして」というのはニュアンスとして、単にmeetするのではなく、思いがけなく出会ったり、遭遇したりすることで、英語でいうならencounterが近いだろう。

そしてインターネット。これは説明するまでもないが、ただ人によって使い方がかなり違うので、同じインターネットといってもデバイスも違えば、使う機会、使うサイトやアプリ、目的、使用量などに大きな差があると思われる。それによってインターネット体験は異なってくる。

今回ここで書いてみようかな、と思っているのは、インターネットで「正しい」出会いはできるか、というような問いだ。正しいというのは、人がリアルワールドで「出会い」と言っているものと同じことができるのか、という意味だ。なぜ正しいという言葉を使ったかというと、インターネットで起きることは、信用ならない、という感情が(論理ではなく)特に日本では根強いと思われるから。

このアイディアが浮かんだ一つのきっかけに、最近読んだ吉原真里さんの『ドット・コム・ラヴァーズ/ネットで出会うアメリカの女と男』(中公新書、2008)という本がある。この本は、かの有名なmatch.com(マッチ・ドット・コム:1995年アメリカでサービス開始、現在世界中に1500万人の会員。日本では2002年にサービス開始)を、アメリカで自ら体験した著者が、出会った人(男)たちを例にあげながらレポートしている。著者はアメリカ文化研究者で、ハワイ大学の教授であるが、この本は出会い系ネット・コミュニティについての研究書ではなく、まっとうな、著者自身の体験記だ。

この本の序章に、こういったオンライン・デーティングは、「そうでもしないとデートにありつけない情けない男女のための手段というイメージ」が2000年ごろまでは優勢だったと書かれていて、著者自身にもそのイメージがあったそう。それがニューヨークに1年間研究休暇で滞在していた2003年、ちょっとしたきっかけから挑戦してみることにしたという。

日本人的にいうと、「情けない男女」うんぬんより、インターネットで知り合った人なんて信用できない、という見方のほうが強かったのではないか、当初は。現在はだいぶ違うと思うが。生活する過程で(自然に)知り合うのではなく、条件を設定して相手を探すという手法として、日本では昔から「お見合い」というシステムがあった。ただしお見合いの場合は、知り合いや親戚からの紹介とか、直接の知り合いではなくても、然るべき人を通してといった、「どこの馬の骨」ではない人に限られていた。そこはオンライン・デーティングとはまったく違う。逆方向だ。太鼓判が先に押されている。

かなり前に(10年以上前、もっと前か)、コンピューター見合いというのは聞いたことがある。人と人の(男女の)マッチングという意味では、オンライン・デーティングと同じ仕組と言えるわけだけれど、目的がこの場合は、婚活だ。そこが日本らしいと思う。今「コンピューター見合い」で検索してみると、「Yahooお見合い」とか「ご縁を育むWEBシステム」(日本結婚相談所連盟)などが上位に出てくる。「日本結婚相談所連盟」というの名前もなんかスゴイ。要するに、知り合いのおばさんがWebシステムに変わったということだ。

オンライン・デーティングは特に結婚を目的としたものではない。いい人と巡り合って、最終的に結婚に至る、というケースもあると思うが、それが目的ではない。生活を豊かにするパートナー探しといったところだと思う。日々の楽しい生活には、それを支える仕事、趣味、学びの場、友人、食べものや衣服、インテリアなどいろいろ必要だと思うが、デートする相手もその中の一つということだろう。特にアメリカでは、デートする相手がいるかいないかは、重要項目の一つなのかもしれない。ニューヨーク生まれで、アメリカでの暮らしが長い吉原真里さんが、オンライン・デーティングに興味をもち、実行するのはごく自然なことに見えた。

おそらく結婚相談所ながれのオンラインお見合いシステムは、婚活だからこそであって、日本でデートのためのマッチング・システムが盛んだ、とはあまり思えない。はっきりとは言えないけれど、たとえデートのみの目的で、と言っていたとしても「結婚」という到達地点をまったく想定しないことはあるだろうか。日本の良識あるいは常識を考えると、結婚に関係ない恋愛関係をネットで精力的に求める精神性はあまりないように見える。自分の親に、恋愛対象を求めてオンラインに登録してる、結婚するつもりはないけど相手が欲しい、と言ったら、「遊び」と取られてしまわないだろうか。

今はずいぶんマシになったと思うけれど、インターネットが日本に普及し始めた頃は、多くの人が、このツールあるいはメディアにある種の恐れと不安を抱いていた。SNSが普及するよりもっと前のことだ。日本の人は「不特定多数」と対することに慣れていないので、顔の見えない相手、未知の機関はまずは「要注意」事項に分類される。クレジットカードがオンラインで使えるようになっても、恐いから使わない、といった。PayPalのような、個人に便利なネットの決済サービスがなかなか広がらなかったのも、ネットバンキングの利用者が少ないのも、どこかネットでのやり取りに、特にお金など重要なものが介するときには「恐い」とか「不安」が増すのだと思う。

銀行の方もやっているのが日本人で、利用者も日本人ということで、ネットバンキングの口座を作る場合も、手続きの間で、必ずアナログ手段が使われていた。葉っぱの坑夫を始めた2000年頃、eBankというネット銀行ができて(現在は、楽天銀行になっている)、すぐに口座を作った。本の購入者に、ネットから入金してもらえる仕組を導入したかったから。その前後にPayPalにも口座を作っていて、それも支払いの仕組として導入した。PayPalがネット上で簡単に口座を作れるのに対して、eBankは郵便やハンコを使ったアナログ手段が求められ、かなりウンザリしたのを覚えている。ああ、これが日本だな、と。しかし一般の日本人の心情からすれば、これくらいアナログ手段を使っていても、それでもまだ信用できない、ということかもしれない。実際、せっかく作った口座だが、eBankやPayPalを利用して振り込みをする人は、何年もの間、ほとんどいなかった。

不特定多数の相手に対して、ハードルが高い、なかなか信用できない、という日本の人の心性は(意識していないかもしれないが)かなり根強いものだと思う。それが人でもお金でも、やり取りの際の障害になってきた。そこには知り合いや関係者、関係のある人のみ信用する、という村的な世界観があるのだと思う。それはインターネットという世界を充分に使いたい、という場合の障害にもなり得る。携帯電話(スマホ)、ミクシー、Facebook、Lineといったコミュニティ系のものは大いに利用されるが、そうではないオープンな仕組はそれほど興味を持たれていない。メールアドレスが常に公開されていて、不特定多数の人とのやり取りが普通に行なわれている、たとえば英語圏とはだいぶ違うと思う。これまで葉っぱの坑夫では、アメリカ在住の作家たちと、メールを通じて直接やり取りすることが多かった。それは大学などに勤務している作家たちが、大学のファカルティーのページで個人のメールアドレスを公開しているから。あるいは作家自身のウェブサイトで、メールアドレスを公開しているなど。日本では特別な人を除いて、そういう人はほとんどいない。Twitterが出来たとき、参加する人たちはいたが。

「どこの馬の骨」からメールなどもらいたくないのだと思う。しかるべき機関なり代理人を通してしかコミュニケーションを持ちたくない、もつ必要性も感じない、といったところだろう。まずメールというツールについても、便利ではあるけれど、信頼性が高いとは言えない、と思っていると思う。なぜなのか、と言えば、なんの繋がりもない未知の人からのメールは、信用できるか判断ができない、あるいは難しいから。ではこの世界は、どういうもので成り立っているのか。自分の知る代理人やしかるべき機関は信用するが、バラバラに散らばる個人は当てにならない。そういうあり方が伝わってくる。しかしこの世界は、バラバラの個人によっても成り立っている。
(つづく)

20190913

川久保玲 vs. ゆとり世代 (2)


(1)はこちら

前回は、ゆとり世代と年齢的に半世紀のギャップがある川久保玲の「思想」を比較してみた。今回は「古着女子」、韓国の「BTS」、アメリカの「AOC」といったこの世代同士の比較を。

ゆとり本の制作者の一人でもある25歳の起業家男子のファッションへのアプローチ。川久保玲のクリエーションの探求と人類の進歩という宣言、目標に対して、この起業家男子は、自分の個人的な趣味から「古着女子」というアカウントをインスタグラムで開設し、わずかの期間でフォロワーを増やした。現在フォロワーは20万人を超えるという。10万人を超えたところで、起業家男子は勤めていたIT系スタートアップ企業を退職し、インスタグラムと連動したECショップを開設、インフルエンサーをアンバサダーに認定するなどして、さらなるフォロワーを増やしていった、とのこと。2018年にエンジェル投資をする個人投資家から2回の資金調達に成功し、年末には下北沢にリアル店舗オープンが決定、といった成功談がビジネス・インサイダーというウェブ・メディアに書かれていた。

その記事の中に、次のような本人の発言があった。「起業家って、自分がすごいことを自分で説明しなければいけないじゃないですか。その説得がダルい。著名な投資家から資金調達すれば、『この人たちが推しているんだったら将来すごくなるのかな』って、期待感を醸成できる」

おー、説得がダルい。とは。川久保玲が聞いたらなんというか。でも著名な投資家から資金調達を受ける際には、その「ダルい説得」は必要ないのかな。説得抜きで、向こうが見込みありと思って資金を出してくれるのであれば、それはそれでスゴイことだけど。

ここで話が少し飛ぶが、韓国にBTSというヒップホップのグループがある。彼らも世代的にはゆとり。1992年から1997年生まれの7人のグループで、ビルボード200で1位になるなど、全世界的な人気となっている。彼らは韓国人だから、ゆとり教育を受けたわけではなく、日本のゆとりたちとは何の関係もない。ただお隣りの同世代の人たちは、どんな感性を持っているのかな、とは思う。「ゆるく生きる」やり方では、このような成功は達成できないのかも、と。

BTSに関しては、どうやって韓国のバンドがアメリカを始めとするヨーロッパやアジアで人気を得るようになったのか、そこが謎だった。確かに数年前にも韓国からはPSYという歌い手が出ていて、『江南スタイル』という曲が世界的ヒットになったことがあった。当時、マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)に移籍したばかりのサッカーの香川真司選手が、チームのクリスマス・パーティでこれを歌って大受けした、と聞いたことがある。しかし今回のBTSは、一つの曲というわけでなく、グループ自体がすごい人気で、アメリカではTVの人気トークショーなどに出演して話題になったり、ロンドンのウェンブリー・スタジアムのライブのチケットが即座に売り切れた、などネットの記事を賑わしている。ビートルズ並みか、という日本の音楽ライターもいるくらい。

アメリカの雑誌ヴォーグのウェブ版でも、BTSの追跡レポートを何回かしていたりと、人気には実態がありそうだった。わたし自身は、ヒップホップは嫌いじゃないけれど、経験的にはフージーズ及びローリン・ヒル止まり。K-POP系統のものは経験も感もないので、ちょっと聞いただけでは音楽やダンスそのものについては判断がつきかねる。歌はほとんど韓国語で歌われているそうだ。それに欧米のファンはどうやって反応したのだろう。確かに音楽の場合、歌詞がわからなくても、音楽自体を好きになることは可能。あるいは音楽の中にすでに歌詞の要素が含まれているので、具体的に言葉がわからなくても、フィーリングは伝わる。

歌やダンスについては判断が難しいので、国連総会で彼ら(リーダーのRM)がユニセフのキャンペーン「Love Myself」の一環としてスピーチを行なったものを聞いてみた。彼らには「Love Yourself」というアルバム・シリーズがある。RMはもともとラッパーで、言葉で何かをアピールすることが一番の自己表現のようだった。国連総会ではなかなかの英語によるスピーチをしていて、彼がラッパーだということがよく理解できた。そこで語られた「自分の名前を見つけること、そして自分を語り、自分の声を見つけてほしい」とか、「あなたの名前は何? あなた自身を語ろう」というメッセージは、その語り口とともに、シンプルな英語で自身の声で発せられると、同世代へのアピール力がかなりあるのではと感じられた。

このようなアプローチが彼らの歌のメッセージの一つであるなら、確かに、同世代の人々を含めた世界の若者たちに、国や言語を問わずアピールしてもおかしくはないと思う。それはその世代の人々が、インターネットの様々なコンテンツやグローバル化した商品を通じて、共通意識をすでに持っているからかもしれない。40代の人、60代や80代の人だって、ある時代を共有して生きてきたことで、たとえばベルリンの壁崩壊を通じてとか、戦争体験であるとか、似たフィーリングを持っているかもしれないが、BTS世代、あるいはもう少し広げてミレニアル世代の人たちの共通認識は、もっと個人的なところ、個人の内部から発しているように見える。そういう共感は、社会的、政治的、あるいは国家を通した経験より、エモーショナルなところでよりいっそう強い一体感を生む可能性がある。そこでは国とか伝統的な文化圏といった境界がゆるく溶け、すべてが個人レベルの意識や感覚から発生する共感のベクトルとなる。

韓国と日本は若者文化的にいうと近年、互いに影響をしあっている。だから両国の若者は近い感性を持っているはずだ。BTSのウェンブリーでのライブも、日本の300館の劇場でディレイ・ビューイングが行なわれたとか。日本にも(おそらく多くは同世代、つまりゆとり世代の人々の)BTSファンがたくさんいるのだろう。全世界レベルのARMYというファン組織があって、彼らの活動を支援しているというようなことも聞いた。

とはいえBTSのファンとゆとりたちがどのように似ていて、どのように似ていないのか、それについてはわからない。多分、違うようでいて、共通する部分があるのではないか。似ているようで、まったく違うところがあったとしても。それはゆとりたちを生んだものが、ゆとり教育の結果(成果)だったとしても、そこだけで生きてきた、生きているとは思えないからだ。

韓国からアメリカに目を移すと、政治の世界で、ミレニアル世代(1980年代~2000年代初頭までに生まれた人)の台頭の兆しがあるようだ。民主党下院議員に今年就任した、通称AOC(アレクサンドリア・オカシオ=コルテス)は、プエルトリコ系の移民家族の元で育った29歳。米国史上(女性として)最少年での当選だそうだ。資金力ではなくSNSを活用して当選した、出馬を決めた選挙当時はバーテンダーだったなどのプロフィールも、ミレニアル的で当選後の話題の一つだ。日経新聞によると、アメリカのミレニアル世代の4割は、民族人種的マイノリティーとか。

AOCは民主党の議員仲間で「スクワッド」というグループを作っている。このネーミング自体、ミレニアル的というか、AOCの出身地ブロンクスを含むイーストコーストのヒップホップ・カルチャーでは、自主的に集まったグループの呼称らしい。スクワッドの構成要員は、4人の移民系マイノリティーに属する女性たち。内二人は、ソマリアとパレスチナ出自のイスラム教徒。残りの一人はアフリカ系アメリカ人。4人とも2019年の選挙で当選している。AOCは当選の翌日に、インスタグラムで4人の写真とともに「スクワッド」宣言をしている。

アメリカのミレニアル世代の4割が民族人種的マイノリティーというのが本当なら、このまま進めば、あるいは更に増える傾向にあれば、現在29歳のAOCが39歳、49歳、59歳、となるここ30年間(2050年くらいまで)の間に、社会で実権を握るマジョリティ層となり、AOCを大統領に登りつめさせることもあり得る。そのときは、「女性初の」などというヒラリー・C世代好みの代名詞ではない、別の、今はちょっと思いつかないラベルが貼られるだろう。

ゆとり、BTS、AOC、この三つは、出自も違えばキャラクター(パーソナリティ)の類似点もまったくないように見える。しかしここにたとえば「インターネット」とか「共感」とか「下からの力」といったキーワードを置いてみると、案外地つづきの風景が見えてきそうな気がする。バラバラの個人が、インターネットを媒介として、ある共感に基づいて繋がる。それがあるサイズにまで達したとき、既存のシステムを超えるほどの、予想外の影響力をもつことがある。そういった意味で、目指しているものは違っていても、この三者のあり方、活動の指向には、共通するところがあるのかもしれない。


当選翌日にAOCが投稿したインスタグラム「スクワッド宣言」
左からイハンオマール、アヤンナ・プレスリー、ラシダ・タリーブ、AOC(アレクサンドリア・オカシオ=コルテス)