20060324

Coffee and Cigarettes

ジム・ジャームッシュのオムニバス映画を見た。タイトルの通り、テーマ(というかシチュエーション)はコーヒーとたばこ。カフェやホテルのラウンジなどで、さまざまな人がテーブルをはさんでコーヒー(ときに紅茶も)とたばこを手におしゃべりをする、ただそれだけの映画。全部で11のエピソードがあり、出演者は俳優やミュージシャンなどで、ほぼみんなが自分自身の役に扮して出ていたのではないか。扮して、というのはドキュメンタリーではなく、脚本があってフィクションだから。ケイト・ブランシェットだけは一人二役で、ひとりはケイト本人だけどもう一人は従姉妹(いとこ)という設定だった。すごく面白い。この人ならでは。

ジャームッシュはもともと好きだけれど、今回見て、また改めて良さを発見した思い。最初のタイトルバックから音楽や音響がかっこよくてわくわくするし、全編モノクロだけどそれがぴたっとはまっているから、逆にあ、モノクロだ、とも思わずに見ていた。

この映画のオフィシャル・ウェブサイトがあってそれもなかなか楽しい。アマゾンだったか、レビューを見ていたら、とても退屈したという人がいてびっくりした。わたしなどは一瞬も見のがすまい聞きのがすまい、と見ていて、10分たらずの1話のあいだに3、4回は笑わずにいられないのに。人それぞれであるなあ。と。どのエピソードも面白かったけれど、「双子」と「いとこ同士?」が印象に残っている。「双子」はスパイク・リーの妹と弟が双子の役をやっていて、ぶっきらぼうなところがとても可愛かった。「いとこ同士?」はケイト・ブランシェットの話とは別のいとこ編。

この日、ちょっと必要があって、家にある短編集の古いのをあれこれ拾い読みしていた。「中国行きのスロウ・ボート」(村上春樹)、「アイリッシュ短編集4」(ウィリアム・アイリッシュ)、「ボッコちゃん」(星新一)、「男たちのかいた絵」(筒井康隆)。短編のスタイル(とくに終わり方)ってどんなんだっけ?という調査である。ある作家から送られてきた短編集の原稿を下読みしていたのだが、終わり方が腑に落ちない。ふだん小説をあまり読まないので、感が働かないのかもしれないと思い、書棚にあった古い文庫本から適当に選んだものを読んでみていた。

ジャームッシュの映画も短編集のようなものだけど、オチのようなものは、、、、うん、あるといえばあった。オチはあまり見え見えでもつまらないだろう。なんとなく、くらいのほうが見ていて、くすりと笑えるかもしれない。小説の場合はどうか。やはり何か終わりに欲しい気はする。ちょっと意外なこと、期待はずれのこと、とかが。そういう意味ではセンスが大切なのか。あるいはセンスが合うか合わないかで、受け手の評価がわかれるものなのだろうか。

陽に焼けていたり、シミがついていたりの文庫の短編集だが、読んでみてそれぞれ結構面白かった。作家は違っても、何か楽しみ方に共通するものがあるように思った。短編集。

20060314

春にとどいた本

3月になって、手元にいろいろな本がとどきました。北アメリカの森の話、詩の絵本、1週間の詩集、フランス人が英語で書いた詩集、アイヌの物語など。本が届くたびにジャーナルに書こうと思っていたのですが、たまってしまったので、こちらにまとめて書きました。
Review19「春にとどいた本、いろいろ」

20060305

国語、パート2

学校の科目の名前「国語」の呼び方について先日書いた。日本では日本語の授業のことを「国語」(national language= 国家言語)と呼んでいるが他の国々ではどうだろう、という疑問。その後、いくつかの返事が来たのでその報告を。

イタリア語は「Italiano」または「lingua italiana」と言うそう(パレルモのグイドより)。
ItalianまたはItalian language(イタリア語)、ということだ。ただこれは比較的最近のことではないかと想像している、とのこと。イタリアだけでなくヨーロッパ諸国では昔、多様性をきらって、あるいは経済的中央集権をねらって、「language」のように呼んでいた可能性もあるだろうと。また語彙が必ずしも整備されていない方言などの中には、フランス語、ノルマン語、アラブ語、スペイン語などを混ぜて使っているところもあり、そういうところでは「language」にあたる言葉で呼んでいるのではないかと言う。

アルザス(フランス)のドニからは、「French」と呼んでおり国家主義的思想はまったく含まれていないですよ、との解答が来た。そういえば先日テレビで、アルザスはフランス、ドイツの国境地帯にあるためその中心的都市ストラスブールは、昔からドイツになったりフランスになったりと戦争のたびに所属国家の変更をしいられてきたと言っていた。国の変化にともなって、言語もそのたびに変わったのだろうか。それとも現在のスイスのように地域言語として、同じ言葉が使われ続けてきたのだろうか。

イギリスのアレックスからは「English」ですよ、の返事。イギリス文学と英語文法の授業を区別するために、「English Literature」「English Language」のようにも言うそう。アレックスは日本の中学で英語を教えていたことがあるが、最初に日本に来たとき「国語」という言い方を見て、変な感じがしたそうだ。国、っていうのはいっぱいあるのにね(日本だけじゃない)、という理由らしい。

エルサレムの大桑さんからは、「ヘブライ語」と呼んでいると教えてもらった。イスラエル語とは言わないし、国語のような言い方もしないと思うとのこと。エルサレムは英語圏からの移住者が多いことと観光客や巡礼者が海外から来るので、ヘブライ語と同時に英語もよく使われるそうだ。市場のおじさんたちも英語が通じるそう。みんなかなり上手で、それは文法とか間違えても全然気にしないでどんどん使ってるからかもしれない、とのこと。なるほどなるほど。ビジネスの街でありもっと都会のテルアヴィヴでは、逆にヘブライ語が中心だそう。ちなみに大桑さんはハイテクなどの仕事関係では英語を、日常の会話は相手によってヘブライ語と英語のミックス、あるいはそこにイディッシュ語(ユダヤ人の言葉)が混ざったりと、二つ、三つの言葉の混合で表現することも多いそう。興味深い。

というわけで、スペインの「language(英語訳)」以外、中東、ヨーロッパでは「国語」に準ずる言い方はされていないところが多いようだ。で、思ったのは、日本もそう遠くない将来に、「日本語」の言い方に変わるかもしれないと。そのほうが実際的だし、対応の幅も広く使いやすいのではないか。心理的にまだ多くの日本人には、なじみにくい感覚かもしれないが。国語を日本語と呼ぶことで芽生えるだろう(外部の存在を意識する)感覚にも期待したいところだ。
また、調べたわけではないが、日本の朝鮮学校では「日本語」「朝鮮語」のように言っているのではないかと想像される。どうなんだろう。