作品にメッセージは必要か、
というトピックで最近話をしている人がいる。その人(ヨーロッパ出身の作家)はメッセージのない作品は読む(見る、聴く)に値しないと、言う。
一方わたしの方は、作品にとってメッセージが必須がどうかについて、迷いがある。作品をつくるにあたって、動機は必要だとは思う。動機なくものをつくるのは、人から頼まれてとか、商品だからとか、自分以外のところに理由があるということで、ときに辛い作業となる場合もある。
ことの始まりは、このジャーナルでも以前に書いた「Coffee and Cigarettes」(ジム・ジャームッシュ)の映画で、わたしがとてもこの映画を楽しんだのに対して、議論している相手(仮にP氏としよう)はまったく楽しめなかった、面白くなかった、というところにあった。P氏が楽しめなかった理由の大きなものが「この映画にはメッセージがない」(感じられない)であった。この映画にメッセージがあるかないかは、とりあえず置いておくことにして、作品にとってメッセージは必須か、という議論に発展した。
作品にとってメッセージとは何か、という問題もある。「その作品で何を受け手に伝えたいか」ということがメッセージだとするなら、そのメッセージとは揺るぎない一つ(あるいは複数)のものであり、作家に属するものである。ただ受け手の側は、必ずしも作家が送っているメッセージをメッセージとして受け取るとは限らない。まったく違ったことに心を動かすかもしれないのだ。ひょっとしたら作者自身も気づいていない、その作品のもつある側面に読者の側がアクセスしてくることだってあるだろう。もしそれを作家の側がさせまいとして、メッセージが思い通り伝わるように作品をつくったなら、受け手としてはずいぶんと堅苦しい、自由を奪われた気持ちになるかもしれない。
このあたりに話がきたときに、P氏は、メッセージとは「作品をつくる理由である」とも言える、と言った。こうなると「動機」とかなり近い。でも少し、違う気もする。動機というのは、作品をつくるという行動に走るきっかけのようなものだ。理由というのは、もう少し論理的なことだろう。なぜわたしはこの作品をつくるか、を説明できるということだ。
一般に、欧米の人々の論理構造は、ある行動や考えに対して明確な「理由」または「理由の表明」を必要とする。それに対して、日本人(日本語を話す人々)の傾向としては、感や直観を重視して、ときに論理を言い立てることを軽く見ることもある。わたしとP氏の議論の対立にも、こういった言語、文化の違いによる物事の捉え方の違いが表れている、と言えなくもない。
でもジャームッシュはアメリカ人である。あの映画は非西洋的なものなのか。あるいは西洋的、非西洋的、ではなくて、新旧とか、世代とか、なになに派とか、違うバイアスがあるのだろうか。
P氏といっしょにホンマタカシの写真をいくつか見た。P氏にとってそれはアマチュアの写真のように見えたらしい。なぜそれを、そのように撮ったのかが理解できない、何を伝えようとしているのかが、わからない、という。少なくとも、(撮る人のプライベートな好みはあるかもしれないが)社会的なスタンスは感じられないと。見ていた写真は、池袋の街並の写真だったり、ロスアンジェルスの街外れのフリーウェイの写真だったり、アルプスの山々の写真だったりする。確かに、ホンマさんがそれらの写真で何を伝えようとシャッターを切ったのか、を想像して言葉にするのは難しいかもしれない。そういう意味ではクリアな「意味づけ」がされている写真ではないと思う。むしろ逆で、意味づけをしない写真を撮っているように見える。対象をそこにあるがまま(なるべく余計な解釈やそのときの写真家の個人的気分は加えずに、現場、現状を写しとるということか)の姿に撮る、というような。
思いあたることがある。わたしの住んでいる東京郊外の丘陵地帯の風景を晴れた日にクリアに撮れるレンズを持つオートフォーカスの小さなカメラでパシャリ、と撮ると、出来上がりがホンマタカシの写真のように撮れる。そう気づいたことがあるのだ。アマチュアの写真に似ているというのも、そう遠くない話かもしれない。
ちなみにP氏は30代前半、コンサバな考えの人では全然ない。ただ写真の好みとしては、ある写真を見てそこから何かストーリーのようなものが汲み取れるものがいいという。そういう意味では、ホンマタカシの写真はストーリーがないだけでなく、ストーリーを拒否しているように見える。
かく言うわたしだけれど、先日、青山真治の「シェイディー・グローヴ」(1999)という映画を見て心底退屈した。あまりにつまらないので途中から飛ばし飛ばし見た。「メッセージ」も「動機」も見えない映画だった。「どうしようもない人々を、解釈を加えずに、ありのままに撮った」映画? そうなのかもしれない。
作品におけるメッセージについて、もうひとつ。今つくっている写真絵本「The little mark on my cheek/ぼくのほっぺのちいさなあざ」には、「クリアな社会的メッセージ」がある、と周囲のある人々は言う。だけれども、つくっている側にとってそれはちょっと的外れなところがある。作品にメッセージを込めたつもりはない。気分としては、口からこぼれ出た歌のようなものである。何を作品から受け取るかは読み手の自由だと思うけれど、メッセージのための作品ともし思われることがあるなら、心外なことだ。そうならないよう、本をどのように仕上げるか、プロジェクト全体をどのように見せていくかは、ポイントになってくるのかもしれない。
作品におけるメッセージとは。なかなか一筋縄ではいかないトピックだと思う。