20070329

デモクラシーの国、日本?

自分のことや自分の国がどういうものなのか、一番よくわかるのは外の人から相対化されたときではないかと思う。小泉政権がアングロ・サクソン系新自由主義の典型だったのだと気づいたのはつい先日のこと。フランスの思想家レジス・ドゥブレという人の「あなたはデモクラットか、それとも共和主義者か」というエッセー(樋口陽一などとの共著「思想としての<共和国>」/2006年、みすず書房刊)を読んでいてのことだ。ドゥブレがエッセーを発表したのは1989年、フランス革命200周年のときで、日本のことをデモクラットの国であるとは言っているけれど、もちろん小泉政権はまだなかった。

ドゥブレはこのエッセーの中で、共和国(共和制)とデモクラシーそれぞれの定義と2者の違いをさまざまな論法で説明している。共和国という言葉はここ最近よく耳にすることがあって興味はもっていたが、定義は知らなかった。言葉の発生的に言うと、フランス革命のときに、君主制、王政に対して出てきた言葉で、王ではなく市民が主権を持ち国家の秩序や運命を決めていく思想や制度のことを言うらしい。おや、それって民主主義=デモクラシーではないのか、と思うわけだが、共和主義も民主主義の一形態、そして「デモクラシー」も民主主義の一形態、とドゥブレは言うのだ。

ここでいう「デモクラシー」とは自由で消費主義的な社会を成り立たせている政治形態のこと。大半の先進諸国がこの分類に入り、アメリカを筆頭にヨーロッパ諸国、日本ももちろんデモクラシーの国ということになっている。ではフランスはどうか。フランスは名前もフランス共和国だし、元々の思想もそして制度も共和主義を基礎に置いているけれど、現実はデモクラシーの波に飲み込まれんばかりで、現在思想は瀕死の状態だと言う。

この2者の違いでもっとも面白いと思ったのは、宗教に対する考え方。デモクラシーの国は神あっての国家であること。宗教、信仰の影響を国家が多大に被っている。特にアメリカのようにプロテスタントの国ほどその傾向は強いという。対して共和制は非宗教であることが基本だ。人類にとっての普遍性を厳しく求める思想で、宗教の多様性はこれに反するものと考えるのだろう。フランスで起きた「イスラム・スカーフ事件」は象徴的なできごとだ。公共的な場所である公立学校に、宗教の印であるスカーフをまとってきた女子生徒が教室に入れてもらえなかった。これはイスラム教だからではなく、たとえば教師も自分の信仰するカトリックの印である十字架を、教室に入る際はしまうという。フランスは2004年にこの要件を法制化している(公立の小、中、高校における「宗教的帰属を顕示するサインや服装を規制する法」)。デモクラシーの考え方からいうと、多様性を認めない偏狭な考えに見えるが、一方公立学校に十字架が掲げられているスペイン、国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン」が歌われるイギリス、聖書の詩編を朗読することから授業が始まるデンマーク、大統領が宣誓の際、聖書に誓うアメリカなどのことを考えると、どちらが偏っているとも言いがたい。

そこでふと思ったのは、第二次大戦後、アメリカが日本の天皇を温存したのは、日本人にとって天皇は神であったからではないかと。デモクラシーが必要とする「神」的存在としての天皇。そして小泉前首相が靖国神社参拝に、石原都知事が学校における国歌斉唱、国旗掲揚に執拗にこだわるのも、デモクラシーが必要とする宗教性のせいではないのかと。

宗教以外にも、デモクラシーと共和制には際だった違いが見られる。そこからデモクラシー国としての日本の姿もよく見えてくる。そしてデモクラシーの傾向は日本において加速的に進んでいるように思える。市場経済優先主義の進化とともに。

*ノート
レジス・ドゥブレ <Regis Debray>、1940年パリ生まれのフランスの思想家、作家。20代のときにキューバ革命に共鳴して南米に渡り、チェ・ゲバラとも接触する。その後フランスに帰国し、ミッテラン大統領の外交顧問をつとめるが、後に袂を分かつ。近年は宗教についての考察を深めているという。共和制は経済の仕組に対する言葉ではないので共和国=社会主義、共産主義ではないが、キューバ、中国、北朝鮮のように社会主義国には共和国の名前が冠されていることも多い。20代のドゥブレがキューバ革命に共鳴したことと、フランス革命の国「フランス共和国」に生まれたことは無関係ではないのだろう。「思想としての<共和国>」はドゥブレのエッセーを中心において、日本の憲法学者、樋口陽一とフランス文学者の三浦信孝、水林章の3人が、日本の政治、社会状況をも分析しつつ、幅広い考察を行なっている好著。共和制にもデモクラシー同様さまざまな欠点、たとえば中央集権的であることから専制政治が生まれやすい、思想が抽象的で大上段的、など多々あるようだが、いま世界中を圧巻している新自由主義(ネオ・リベラリズム)に疑問をもつ者にとっては、そこから抜け出す考え方のヒントになるのではないか。個人的にはそういう興味で共和制を見ている。

20070304

スモールプレスを取材した本

葉っぱの坑夫を始める前後、内外のスモールプレスについて調べたり、機会があればそこで作られた本を取り寄せたりしていた。どんな人がどんな規模で、何を目的にどんな本を出しているのか興味をもって見ていた。また作った本をどうやって流通させているかの方法論を参考にしたりもした。スモールプレスまたはインディペンデントプレスとは、個人または小さなグループなどで、(特に日本では)利益を主たる目的としていない小さな出版活動のことを呼んでいる(ように思う)。主宰者の興味に従った万人向きではない出版が多く、出版に関する興味の範囲が限られているせいもあってか、スモールプレス同士が知り合ったり、連携して何かをすることは割にまれな気がしていた。

そんな中、日本のスモールプレスの活動を、自身もスモールプレスの主宰者である8plusの芳賀八恵さんが1冊の本にまとめた(「本づくりのかたち」)。1年以上かけて企画から取材(インタビュー、写真撮影)、原稿書き、本のデザイン、印刷管理までを一人でこなし、12の出版者たちを紹介している。葉っぱの坑夫も芳賀さんから声をかけていただいて、12のスモールプレスの一角をしめている。12のプレスは詩人だったり、写真家だったり、デザイナーだったり、画家のグループだったり、本屋さんだったりとそのベースはさまざま。葉っぱの坑夫は何か、と考えれば、広い意味でのtranslator(あるいはtranslationの可能性)か。

小さな活動は各々の焦点がはっきりしていて、それが活動の動機と重なっているため、自分のことに集中する。せっかく的を定めたことをやっているのだから、読者もそれぞれ違うことだし、他者といっしょにやって妥協する必要もない、、、。葉っぱの坑夫も基本的にはやりたいことの方向性があるのでそれを優先している。が、ときに、協力という形や、共同出版という方法論の選択をして、他のスモールプレスの人たちと共同作業をすることもある。それも楽しい。勉強にもなる。出版物の広がりやコストという面でのメリットもある。本当は、本の流通の便宜性のところで、もっと互いに協力しあえることがあるのかもしれない。本を作った後の流通とその後の管理(在庫管理や清算など)は一人で何でもやるスモールプレスにとって大きな負担になっているから。でもこれも、それぞれのプレスが出版に対して近い考えを持ち、システム(流通や在庫管理)の合理化ができていないと、統合した仕組の元でやるのは至難の技だろう。その可能性を考えることは意味あることだとわたしは思うが。*1

これからのスモールプレスの可能性について、「本づくりのかたち」の中では、シェアード出版というわたしも初めて聞く出版システムの紹介があった。著者も編集者もデザイナーもクリエーターのすべてが自主的に出版活動に加わり、出資や報酬に関して平等に参加するシステムといったらいいか。詳しくは本を読んでいただくとして、これにより、著者と他の制作者、出版社を隔てていた境界が消失したように思った。このことは著者自身が出版者である芳賀さん他のスモールプレスの思想と同じ土壌から生まれたもののように思える。


*1 既存の仕組を利用して、見え方だけ変えるという方法もあるかもしれない。たとえば、amazonのジャンル分けの中に「スモールプレス」という項目を作ってもらう。本を販売登録する際、版元は「スモールプレス」であることを申請する。amazonの読者には、スモールプレスの本ということで何があるのか見にくる人もいるのではないか。読む人と書く人の数の差が縮まりつつある現況においては。