夢について(Town Dream / Dream Town)
6月に出す予定の新刊、「Town Dream / Dream Town」のせいもあるかもしれないけれど、「夢」という言葉を目にしたり、耳にしたりすることが最近多く感じられる。(自分が注目していることに、自然に目がいくようになるせいだろう、きっと)ある人と話していて、ある映画の話題が出て、さらにその原作に話が及んだ。その映画「存在の耐えられない軽さ」はずいぶん昔のものだけれど、とても印象深い映画で、見たあとすぐに原作を買っていた。ただ本棚に眠ったままで読んではいなかった。チェコ出身の作家ミラン・クンデラの小説である。思いついて家に帰ってから書棚を探したら、すぐに見つかった。1998年第1刷の集英社文庫。10年近く前のものなのに、色焼けもなく不思議にきれいなままだった。
読み始めて、すぐに静かな興奮状態に陥った。冒頭はいきなりニーチェの永劫回帰についての記述。これが小説?と思わせる記述がしばらくつづく。そこで語られる命題、あるいは定理のようなものはやがていったん、小説の中に身をひそめ、魅惑の物語がすべり出していく。いまこのとき読まれるためにこの本は書棚の影で待っていたのかもしれない、などと自分らしからぬことを一瞬思う。
第II部「心と身体」を読み始めて少しして、こんな記述に出会う。
夢は単なる伝達(場合によっては暗号化された伝達)ではなく、美的活動であり、それ自身が価値あるイマジネーションの遊びである。
夢とは、おこらなかったことを夢見る、ファンタジーの証拠であり、人間のもっとも深い要求に属するものである。
読むひとは、この夢をどう捉えるだろう。
夢には夜寝ているときに見る夢と、起きているときに心の中で見る想像力のはばたきとしての夢と、ふたつある。この二つははっきりと違うようでいて、境界がないようなところもある。
クンデラの小説の引用は、夜見る夢のことを書いている。けれども、ここだけ取り出して読むと心で見る夢のことを言っているようにも聞こえる。実際、わたしはこの文章に来たとき、心はパッと制作中の本、「Town Dream / Dream Town」へと飛んだ。「夢とは、おこらなかったことを夢見る、ファンタジーの証拠」「人間のもっとも深い要求に属するもの」なのだ、と。
写真集「Town Dream / Dream Town」は、東京・広尾にある建設中の住宅地を囲む仮囲いの壁画を撮ったものだ。絵はミヤギユカリさんのドローイングで、春夏秋冬の自然の風景や動物たちが300メートルにおよぶ長い囲いいっぱいに描かれている。工事期間中だけの、町の中に突如出現したアートギャラリー。観覧料無料、24時間オープン、ただしいつかまた(なんの断りもなく)ふっと消えてなくなる幻のような儚い存在、ほんとうにそんなものがあったのだろうかと心もとなくなるような、そんなあり方でしか存在しえない不思議な存在。仮の、非日常の、白昼夢のような存在。
そういうつかみどころのない存在としての壁を、ミヤギさんの絵は、面ではなく、生命力あふれる細く長くつづく線でおおいつくしている。白い壁にとけこむように、白い壁の中に初めからいたかのように、シカやウサギやシロクマやトンボたちが、歩道の並木の木陰からバス停のうしろからのぞいている。
Town Dream
Dream Town
ミヤギユカリの壁画アート
Murals by Yukari Miyagi
壁画の絵:ミヤギユカリ
写真撮影:田中均明
ブックデザイン: iamcoco
2007年6月下旬、葉っぱの坑夫より出版予定