土地とland
「雨の降らない土地」(The Land of Little Rain)というメアリー・オースティンの作品を葉っぱのサイトで連載している。この作品の主人公は題名が示すとおり「土地」である。シカやコヨーテ、ハゲワシやカラス、ウサギやネズミなど生きものもたくさん登場するし、サボテンをはじめとする沙漠地帯に自生する植物の話も多い。でもそれらの動植物はいつも生息地である「土地」との関わりの中で語られる。
動植物だけではない、人間も同じだ。沙漠地帯という自然環境の厳しい土地柄だから事がはっきりすることもあるだろう。土地を知らずして人も生きていけない。土地をよく知るのはインディアンであり、坑夫であり、羊飼いたち。土地と深くかかわって生きている人々だ。
ヨーロッパから新大陸にやって来た白人たちは、土地を開拓し入植するために、命がけの旅をしたという。題名は忘れたが西部開拓史を描いた昔のアメリカ映画を見たとき、ヨーロッパ人といえども、当時の生活は文明化されているとは言いがたいものだと思った。旅は厳しく、目的地にたどりつく前に息途絶えた人も少なくなかったようだ。
ヨーロッパ人が慣れない土地で生き延びるために、土地をよく知るインディアンの知恵や力を借りたという話も聞く。ニック・カサベテスの映画「ミルドレッド」に、主人公のミルドレッドが孫に「感謝祭はインディアンの人々に感謝する日」と教えているシーンがあった。感謝祭にそのような解釈があるのはそのとき初めて知った。
アメリカの人々が使う英語のlandという言葉からイメージされるのは、人間とは価値や利益を共有しない、異質の存在としての土地。オースティンが言うように、「土地の性質がここでの生活の仕方を決めているので、それ以外のやり方では何ものも生きられない」ことから、人は、そして野生生物も、生き残るために土地を知っていく。
日本語の中の「土地」という言葉からイメージされるのは、もっと人や生きものと親和的な存在として地。土地という言葉の中に、そこに住む人も含まれているようなイメージがある。たとえば「土地柄」といったとき、日本人は土地の気候や地形、土壌と同時に、そこに住む人間の暮らしぶりや性向も思い浮かべている。
「雨の降らない土地」ではlandの訳語としての土地という言葉がたびたび登場する。これは日本語ではあるけれど、もっと冷めた状態の客観的な響きをもった言葉、人間と距離を置く言葉として使っているつもりだ。
geographyー地理、地勢、地形などを表わすこの言葉と出会ったのはどれくらい前のことだったか。グランドキャニオン周辺を歩いた人の紀行文の中で、不思議な見映えの地形の成り立ちを説明する際に出てきた言葉だったかもしれない。自然界を知るときの糸口、あるいは切り口として、とても新鮮な言葉としてgeographyはインプットされた。
日本語のテキストの中で、この言葉の訳語が使われる機会(専門書など除いて)が少ないようにその当時感じた。高校の授業にある「地理」ではどんなことを学んでいたのだったっけ。「地学」という授業もあったな。でもある土地がどのような歴史を持って現在に至り、そこに住む野生動物、植物とどのような関係を築いてきたか、というような視点のものではなかったと思う。
natural historyー自然史という言葉もその頃覚えた言葉だ。人間の歴史とは別に、自然(とくに土地の成り立ち)にも歴史があるという視点だ。ニューヨーク自然史博物館をはじめ、アメリカにはそこに焦点をあてたmuseum(博物館)があるらしいということも知った。日本語ではnatural historyというと、博物学のことを指すことが多かったようだが、自然史と博物学では焦点がだいぶ違うのではないかと思っていた。最近になって、日本にも自然史博物館と名のつくmuseumが出来始めているらしい。
わたしの印象では、日本語の世界では、地球科学というと天文や惑星などとの関連の中で語られる地球のことを主に指しているような感じがあった。地球、中でもある土地の成り立ちとその歴史的経過については、あまり関心が持たれてこなかったのではとも思う。それでgeographyを一語で表わす言葉が日本語にはないではないか、と。
日本語になった(日本に輸入された)科学用語は自然科学に限らず、学問の翻訳時に生まれた言葉だろう。逐次アップデートはされているだろうけれど、基本の用語が輸入当時の日本の思想、視野、視点から大きな影響を受けていただろうことは想像できる。訳語がないというのは、その視点や思想、実体がないことの現われである。
最初にも書いたように、日本語の「土地」という言葉には人間の臭いがする。日本人は土地に神様が宿ると考えることからも、土地の成り立ちを科学で説明することは、神の成り立ちを科学にかけるようなもので、何か相容れない気持ちが働くのかもしれない、などと想像してみる。学問の世界でも、それが科学であったとしても、日本人の心性は反映するものだと思う。
今の時代の日本人の、自然やエコロジーに対する興味の持ち方についても、一般にgeographyの感覚があまりなく、野生動物や植物を単体で見ている気がすることがよくある。本当の面白さは、動物そのものの中にだけあるのではなく、どんな風に生息地との間でやりとりや葛藤があり、生き延びたり死滅したりしているかを知ることではないかと思うのだが。
たとえば子どもの絵本にしても、野生動物の特徴や習性を描写、説明するだけでなく、どんな成り立ちをもった土地にそれが住んでいる(きた)のかにもっと触れられていてもいいように思う。そしてある土地に住むことで、同じ動物でも違った習性を見せることがあることなどがわかれば更に、動物や自然界を見る目が深まり広がるだろう。
キャラクター的にライオンとはこんな動物、という知り方ではなく、生息地との関係の中に生きものの生を見ていくという道筋をたどる方が、子どもの知的好奇心に訴える力はむしろ強いのではないか。日本でふつうに見られる「小さく可憐な」スミレの花が、ハワイでは木に咲くたくましい花となる。植物が見せる多様性も土地との関わりが深い。そのことは子どもの想像力に、ものを見る目に「可能性の広がり」を付け加えるだろう。
こうした学び方をしていれば、野生動物の増減や絶滅に出会ったときも、にわかエコロジストのようになってやたら正義感を振りかざすのではなく、時間軸も含めた全体性の中で物ごとの因果関係を判断できるようになるかもしれない。
またgeographyの視点があれば、どこか特別な地形の名所旧跡に行かなくとも、自分の住んでいる土地(それが都市であっても)にもgeographyはあることに気づき、自然史的な土地の成り立ちを考え、想像し、何かを得ることもできるだろう。川が流れていた場所が今どうなっているか、宅地造成されている土地の地形はどんな変遷をたどってきたのか、森が伐採された後、カラスたちはどこへ行ったのか、地形や景観が大きく変わることと今の暮らしにどんな関係があるのか、などなど。
日本語でいうところの「土地」を、人間社会からいちど切り離して、自然史の中に置いて眺めてみると今までと違う風景が見えてくるかもしれない。
「雨の降らない土地/The Land of Little Rain」