20090519

イギリス人による北朝鮮のサッカー・ドキュメンタリー映画

ワールドカップ・サッカー南アフリカ大会が来年に迫り、アジア地区の予選も最終予選の何試合かを残すところとなっている。今のところ日本はグループAでオーストラリアに次ぐ2位、グループBでは韓国、北朝鮮が1、2位で入っている。ワールドカップに北朝鮮が参加しているとは知らなかったし、韓国と僅差で出場枠に収まっていることにも驚いた。先月1日にソウルで行なわれた韓国対北朝鮮戦は、日本のテレビでも放映された。結果は1−0で韓国が勝ったが、初めて見る北朝鮮のサッカーの戦いぶりはなかなか迫力あるものだった。中でも川崎フロンターレに所属する、在日三世の鄭大世(チョン・テセ)が放った強烈なシュートは、ビデオ画像では確かにゴールラインを割っており、審判は韓国キーパーのセーブと見なしたけれど、ゴールでもおかしくなった。

この試合について、当の鄭大世は、「韓国は強く、守備重視で戦ったけれど最後にやられてしまった。本大会に韓国とともに出場したい」と述べている。Wikipediaによると鄭は愛知県生まれで韓国籍、なぜ北朝鮮代表で出られるのか、そのあたりの事情はよくわからない。4月1日の試合ではモヒカン風のヘアスタイルで登場、そのときは在日コリアンとは知らなかったので、北朝鮮にもこういう若者がいるのか、と興味をもって見ていた。北朝鮮代表ということでいうと、もう一人、安英学(アン・ヨンハッ)という在日、朝鮮籍のサッカー選手がいる。新聞のインタビュー記事などで見る安選手は、広い視野でものを見る好青年という印象で関心をもっていたが、4月1日の代表戦には出場していなかった。ソウルでの4月1日の代表戦については、韓国代表の、そして現在ヨーロッパ最強と言われるイギリスの名門クラブチームで活躍する朴智星(パク・チソン)選手も朝日新聞のインタビューにこう答えている。「政治的なことは忘れて戦った。北朝鮮とはしゃべる言葉が同じで、家族みたいな感じもある。W杯に一緒に行ければいいとは思う」 何気ない言葉の中に、日本、オランダ、イギリス、と言語、文化の違う国々をサッカーで渡り歩き、多国籍の選手の中でもまれ、かつ成功してきたアスリートのセンスを感じる。また鄭、朴二人の話から、アートや文学と同様、スポーツというものが現実の世の中でどのように作用しているか、そこに関わっている一人一人は何を考えているのか、をかいま見る思いがした。

さて前置きが長くなってしまったが、北朝鮮を取材した2002年のサッカー映画「The Game of Their Lives/奇蹟のイレブン」について。これは1966年、ワールドカップ・サッカー、イングランド大会での、北朝鮮の活躍と当時のメンバーのその後を追った80分のドキュメントである。プロデューサーであり監督であるダニエル・ゴードンはシェフィールド出身のイギリス人映像作家。子どもの頃からのサッカー好きが、地元クラブについての本を出版したり、衛星テレビ、スカイ・スポーツでプレミアリーグなどのドキュメンタリーを制作する中で、この企画を実現した。8歳くらいのとき、父親から贈られた1966年のW杯のビデオ、その中で見た、まったく未知の国、顔つきも違えば言葉も違う北朝鮮チームが巻き起こした旋風、奇蹟的な出来事、そのことがずっと心に残っていた、とDVDのインタビューの中で語っている。

そしてもう一人のプロデューサー、ニコラス・ボナー、北京在住のイギリス人アーティスト、この人の1993年の北朝鮮への旅が映画のもうひとつのキーポイントになっている。ボナーは北京のイギリス大使館がつくる草サッカーチームで当時プレイしていた。そのときのチームメンバーに北京在住の朝鮮人がいて、ボナーともう一人のイギリス人ジョッシュ・グリーンは彼と交遊をもつ。それがきっかけとなって、ボナーとグリーンは北朝鮮への旅を企画する旅行会社をつくる。何度かの北朝鮮への旅の最中でボナーは、1966年のW杯ベスト8進出のエピソードを耳にする。1997年、ボナーはTVプロデューサーのダニエル・ゴードンから連絡を受け、1966年W杯のときのメンバーを探せないか、との依頼を受ける。二人のサッカー好きのイギリス人が、別々に出会った1966年の出来事、そして30年後に起きた二人の出会い。それがこの映画制作の始まりとなった。

ここからチームメンバーを探し、映画を撮影するためにクルーが平壌入りする許可を得るまで、4年の歳月が流れる。ダニエルは言う。北朝鮮についてはまったく無知だった。分断国家であることは知っていたが、歴史的なことや政治的なこと、朝鮮戦争についても映画を撮ることになってから学んだ。そしてこの映画で何を語るべきか考えたが、スポーツ・ドキュメンタリー作家として、中立的なスポーツ映画として撮ることが最善だと思ったし、そういうものとして撮ったことがいい結果を生んだのだと思う、と。1966年と言えば朝鮮戦争からわずか13年後。朝鮮戦争の映像は映画の冒頭で流されるが、その惨状には目を奪われた。戦後復興の中でのW杯出場がいかに市民に希望を与えたかは想像できる。ヨーロッパからの真夜中の実況放送に熱狂した市民のエピソートも語られている。ダニエルはこの映画が南北朝鮮の両方の国で公開されることも重要なことだった、と言う。朝鮮戦争後、というか停戦中のまま、平和条約が結ばれることなくここまで来てしまった両国。とくに北朝鮮は冷戦構造が崩れた中で、世界からの孤立度を深めている。

わたしはたまたま読んでいた「北朝鮮の人びとと人道支援」(2004年/日本国際ボランティアセンター)という本でこの映画のことを知った。そしてDVDが出ているのを見つけ、購入して見た。映画は日本でもシネカノンで公開されたようだ。映画のあらましを言うと、W杯最終予選の対オーストラリア戦の模様を当時の映像で紹介するところから始まり、7人のチームメンバーの現在のインタビューを折り込みながら、本大会の模様へと進んでいく。北朝鮮チームはまずイギリスへの入国許可のところでつまずくが、FIFA(国際サッカー連盟)が開催地の変更を検討し始めたところで、イギリスは国交のない北朝鮮の入国を許可する。1966年当時、世界は冷戦構造下にあり、北朝鮮をどう扱うは多くの問題を含んでいた。国家の対応というのは常にそのようなものだけれど、北朝鮮チームを迎えたホストタウン、ミドルスブラの人々は違った。地元チーム「ミドルスブラ」はイングランドでは上位のチームではなかったが、サッカーに愛情をもつ人々は、アジアからやって来たW杯初出場の北朝鮮チームを暖かく迎え、途中からはそのプレイに感嘆し、熱狂をもって応援、サポートしたという。ミドルスブラというイギリス中東部の小さな町の人々との間にチームメンバーは友情を築き、ミドルスブラの人々にとってもこのW杯は語り継がれるエピソードとなった。

7人のチームメンバーは、映画制作終了後の平壌でのバーベキューパーティで、イギリスを懐かしく思う気持ちが膨らみ、再訪したいとプロデューサーに夢を語り、それは実現する。映画には北朝鮮のメンバーだけでなく、当時を知るミドルスブラの町の人々(全員のサインをもらったと誇らし気に語る、元少年など)や当時記事を書いたジャーナリスト、放送関係者たち、また対戦相手でベスト8進出を北朝鮮に阻まれた優勝候補の一角イタリアの当時の監督などがインタビューに応じている。北朝鮮、イギリス、どちらの人々の話からも、1966年当時、そこで起きた語るに足る出来事、サッカーが起こす奇跡をともに体験した熱気のなごり、そして人と人の結びつきが残したもの、友情、希望、、、そういったものが伝わってくる。

DVDのインタビュー映像の中で、ダニエルは最後にこう結んでいる。この映画のメッセージは、パク・トゥイク選手の言葉に集約されていると思う、と。「サッカーは互いに見知らぬ人々を親密に結びつけることができる」

参考:
1.「奇蹟のイレブン 1966年W杯 北朝鮮VSイタリア戦の真実」(2006年/東北新社)のDVDはamazonで扱っています。
2.Nicholas Bonner and his North Korean films(英語)
http://www.danwei.org/people_nicholas_bonner_and_his.php
3.ダニエルがこの映画を作るために会社をやめ創立した映画会社VeryMuchSo Productionsのウェブサイト。
http://www.verymuchso.co.uk/

20090502

粟津潔さんのこと

グラフィックデザイナーの粟津潔さんが亡くなられたという記事を読んだ。80歳だったそうだ。新聞記事に川崎市内の病院で、とあったので、多分いまも生田の星の見える天井の家に住んでおられたのだろうと思った。

もう随分前のこと、わたしが20歳をちょっと越えたくらいの駆け出しコピーライターだった頃、不動産会社のPR誌の編集をいくつかしたことがある。当時不動産業は上り調子で景気がよかったが、土建屋的なイメージがダサイということからか、環境破壊の元凶というありがたくない印象を払拭するためか、こぎれいで文化的なPR誌をつくるのが企業のはやりだったからか、いくつものPR誌が次々に創刊されていた。そのページを構成する一要素として、巻頭で文化人、作家、アーティストなどにインタビューしたり、原稿を書いてもらったり、という客寄せ的なことがよく行なわれていて、もしかしたらそれはその頃のPR誌の発明品だったのかもしれない。

というのも、当時席を置いていた銀座の広告代理店で、作家年鑑などの住所録をたよりに無手勝流に作家の自宅に電話しまくる二十歳そこそこの駆け出しは、まわりのクリエーターたちからやや奇異な目で見られていたから。なんだコイツは、と。粟津さんにインタビューをお願いした経緯は、たしか建築雑誌に載っていた粟津邸を見てのことだったと思う。小田急線の生田だったか読売ランドだったか、最寄りの駅は当時、新宿から3、40分の距離にもかかわらずかなり田舎のイメージで、駅を降りてからもこんなところに家があるのかという山道をえんえん同行のカメラマンと登っていった記憶がある。

そうやって辿り着いた粟津邸は、建築雑誌に載るくらいだから当時建って間もなかったと思われ、外からドーム型のガラス天井が見えるモダンな白い建物だった。粟津さん自ら迎え出てくれて、玄関からリビンクに向かう廊下の天井が星が眺められるガラスのドームになっていることを楽し気に話してくれた。今考えれば、粟津さんはまだ40代だったのかもしれない。もちろんすでにデザインやイラストレーションで世に認められた人ではあったけれど。

印象的だったのは、ソファに座って話し出す前に、窓の外を見せながら、あそこは木々のきれいな森だったけれど、伐採されて造成地になってしまって窓からの景観が変わってしまった、と話されたこと。なぜかそのことはよく覚えている。コーヒーを出してくれた奥様もまじえて、いろんな話を気さくにしてくれた。その内容は当時のPR誌でも引っ張り出してこないことには覚えていないが、とてもカジュアルな雰囲気の中で質問のひとつひとつに真摯に答えてくれて、また温かみと優しさを感じさせる人柄にも感銘を受けた。何十年もたった今も、そのときの粟津さんの雰囲気はふんわりと記憶の中に残っていて消えることがない。川崎の同じ多摩丘陵に越してきた何年か前に、散歩の折りに粟津邸を記憶の地図をたどりながら探したことがあった。直線距離なら徒歩30分圏かと思われたが、辿り着けなかった。

不動産のPR誌の取材というと、進歩的な文化人やアーティストからはときに蔑みの目で見られたり、依頼の電話口で説教のような講義を受けることもあった。そのどれもが面白かったし、断られる場合もそれぞれの作家のものの言いように個性があって興味深かった。そんな中で粟津さんは、借りものではない自分の視点で社会を鋭く見据える人であると同時に、現在進行形の「現実」、今起きていることのあり方に対してもある種の敬意を払っている人のように見えた。だからなのだろうか、森の伐採の話が心に残っているのは。窓の外の森の話をされたとき、残念そうではあったが、強い非難の調子はなかったと思う。不動産業者のいわば太鼓持ちをするPR誌編集者に対しても、現在という点の中からではなく、もっと広い視野からの話をしてくれていたのかもしれない。

粟津さんのオフィシャルHPを見ていたら、こんな文章があった。

作品をつくるということは、何を見ていたかということである。ここでいう見るということは、記憶と、これからあろうとする情動の衝突である。

Thinking EYE=「思考眼」 ......ものを創りだす仕事は、ひとつの作業であり労働でもある。思考は、その中で生れてくる。

この二つは、わたしの中でピタリと収まりどころがある。二番目のものは、この文章を送ってあげたい人のことを思い起こさせた。
粟津さんはまたこうも書いている。

私はこれまでに幾度か、「出合い」という言葉を用いてきた。これは二つ以上の因子が交叉するという意である。ある人は、これを偶然性とよんでいる。何かひとつのものを見つめていきたい。そうすると、ひとつの事情は、見つめれば、見つめるほどあてどなく広がって行く。出合いはそんな時現われてくる。

出合いはそんな時現われてくる。か。わたしが今日、粟津さんの死によってこうして粟津さんの文章に触れているのも、出合いによるものなのだろうか。

粟津潔さんのHP
Kiyoshi AWAZU .com

*contactのページにある写真は、粟津邸の廊下の「星が見える」ドーム型の天井だと思います。Englishページには、アーティストのものとしても珍しく、長いエッセイに至るまですべての英訳が揃っています。さすがですよ、粟津さん!!