ヴェンダースの撮影日誌
11月も終わりに近づいて、いよいよ秋が深まっている。デスク脇の窓の外に広がる栗の木は、もう半分くらいまで目減りしている葉が黄色から茶色のグラデーションに染まっている。きれいな緑の葉っぱはもう見られない。ここのところ進行中の本とウェブによる企画の参考図書として、古いものも含めて写真集をあれこれ見返している。そんななか偶然みつけたヴィム・ヴェンダースの「『愛のめぐりあい』撮影日誌」を今朝から読みはじめた。副題に「アントニオーニとの時間」とあるように、この本はイタリアの映画監督ミケランジェロ・アントニオーニが「愛のめぐりあい」を撮ったとき随行した記録だ。ヴェンダースはこの映画のいわば助監督だった。1994年、そのときヴェンダースはすでに「パリ、テキサス」や「ベルリン天使の歌」も撮り、国際的に名の知れた今をときめく映画監督の一人だった。アントニオーニがなぜヴェンダースの助けを必要としたかという理由は、アントニオーニがその10年前くらいに脳卒中で倒れ、言語能力その他の身体能力を大きく損ねていたことにある。そのいきさつが、プロローグでまず語られている。ヴェンダースはその頃ちょうど自身の映画「夢の果てまでも」の企画が進行中だった。
「愛のめぐりあい」は四つのエピソードからなるオムニバス・ラブストーリーである。それにヴェンダースの撮る一人の監督をめぐる「枠物語」が全体を包むという構成。ミケランジェロの最初の撮影は北イタリア、ポルトフィーノで11月初旬にスタートする。「女と犯罪」。主演はジョン・マルコヴィッチとソフィー・マルソー。撮影期間の大半が曇天またはひどい荒れ模様だったことが日誌には書かれている。北イタリアでは何週間も続く雨による水害で100人もの死者を出したそうだ。秋晴れの日本の、光輝く栗の木のかたわらで、ミケランジェロとヴェンダースの豪雨の11月の撮影に「随行」する。
ミケランジェロは話すことができない。ほんのわずかsi(はい)、no(いいえ)などの数語と奥さんの名前エンリカが言える。だけれども、奥さん以外の人も「エンリカ」と呼ぶそうだ。「彼女」「彼」も言えるものの発音が明瞭でないため、「女と犯罪」の撮影時、ソフィーへの指示なのかマルコヴィッチへの指示なのかが誰も判断できない。やってみるしかないのだ。言語能力の喪失と言っても、発語は難しくとも、理解力は万全、精神も明敏、ユーモアも失っていない。そして創作意欲に満ち満ちている。多くのことが妻のエンリカの「通訳」と辛うじて動く左手で描く絵で、スタッフに伝えられる。文字を書く能力も失われているのだ。撮影中のエピソードに、プロデューサーが必要とする資金ぐりのための重要なサインを、ミケランジェロは左手で大変な努力をして描こうとするが、ANTONIONIの最後の2文字を描く手前で力尽き果てて眠り込んでしまう、というものがあった。
そんな状態でいったい映画監督が務まるのかと思うだろうが、ここが不可思議にしてこの本の感動的なところなのだ。助手をつとめるヴェンダースもふくめ、スタッフ、俳優全員がミケランジェロの思いを汲み取ることに大変な労力と困難にみまわれる。たとえば撮影の仕方、手順、カメラの位置やカットごとの撮り方にミケランジェロ独特のものがあるようで、それに監督は断固として固執するのだが、ヴェンダース他のスタッフから見ると辻褄が合わないことがたくさんあるように見える。映画の語法から外れている、編集のときに困るのではないか、などなど。最初の撮影の「女と犯罪」ではそれが顕著に出ているのだと思う。監督との意志の疎通がままならないだけに、誤解も多く発生し、監督以外の人間は雲をつかむような気持ちで作業を進めていく。
プロローグとポルトフィーノの章を読んだだけで胸打たれ、この本のもっているオーラのようなものを全身に浴びた思い、淡々とした日誌なのにそれ自体が映画のようでもある。映画そのものをぜひとも見てみたくなる。本は撮影地を移しながら、ミケランジェロの四つのエピソード、ヴェンダースの枠物語を章立てにしている。少なくともミケランジェロの二つのエピソードは本を読んだ後に映画を見るのがいいか。残りの三つは映画を見た後に、本を読む。と考え、「愛のめぐりあい」をTSUTAYAとamazonでチェックする。ツタヤの方は最近は古い映画(と言ってもたかだか10年、15年前の)を置いていないことが多いのは知っていた。ハリウッドのヒットもの、韓流などのTVドラマや映画などの勢いがすごくて、インディペンデントなものもぐっと減っている印象だ。問い合わせたところ、案の定、比較的近い数店舗のどこにもなかった。同じ沿線の下北沢あたりのレンタル店も考えたが、別の手を探ることにする。amazonは新品ではなく中古品にはあったが値が上がっていて7000円近くする。ネットのレンタルをいくつか探してみて、DMM.comという良さそうなところを見つける。そこに「愛のめぐりあい」はあった。登録すれば単品で借りることができる。月極め契約は避けたかったので。このDMM、少しマイナーめなものを検索してみたところ、扱いがあるものもあり、今後も利用できそうだ。たとえば梁英姫(ヤン・ヨンヒ)の「ディア・ピョンヤン」であるとか、サッカーの欧州チャンピオンズリーグの過去の記録とか、探していたものが見つけられた。DVDはどうしても見たいとき、買うことはたまにあるが、やはりレンタルで見れるのが一番だと思う。
話がそれてしまったけれど、これで「愛のめぐりあい」は無事、見られることになった。とても楽しみだ。
Wiki的世界、楽譜が楽しい!
インターネットを使うようになって10年以上になるけれど、今でもときどきびっくりするようなプロジェクトやサイト、技術に出会うことがある。それも探していて、というより何かの偶然で見つけてしまうことも多く、その出会い方も含めてインターネットの可能性を「未だに」感じるのである。
ある作曲家のウィキペディアからのリンクで、
ペルトルッチ楽譜ライブラリー(IMSLP: International Music Score Library Project)という非営利の楽譜図書館を見つけた。青空文庫、あるいはグーテンベルク・プロジェクトの楽譜版と言っていいだろう。パブリックドメインになった作品を中心に楽譜を収集し、インターネット上で公開している。2006年2月スタートだから、比較的新しいプロジェクトだが、2009年11月1日現在で42,000の楽譜がアップされているという。サーバーはカナダにあり、カナダは日本と同様、著作権保護期間が作家の死後50年なので、アメリカやヨーロッパの70年より短く、多分その理由で選ばれたのに違いない。アーカイブされている楽譜は、基本的に作曲家の死後50年を越えたものなので(著者が許可しているもので一定の条件を満たしていればそれらの楽曲も含まれる)、今年であれば1959年以前のものが対象となり、作曲家の年齢を逆算するとジャズやタンゴは含まれている可能性があるが、ポップスは今後のものとなるだろう。出発がバッハ協会のバッハ全集を網羅することだったそうで、現在はクラシック音楽の楽譜が大半である。因みにバッハ以外に全曲が収められている作曲家には、ショパン、ブラームス、フォーレ、シベリウスなどがいる。
試しに検索をかけて楽譜をダウンロードしてみた。楽譜はオーケストラ譜からパート譜、ピアノ譜など一つの楽曲でも様々な版を含んでいることが多い。そこもアーカイブとしてすばらしい。多くの楽譜はPDFで表示され、そのままプリントアウトできる。ちょっと古いところで16世紀イタリアの作曲家カッチーニの歌曲を閲覧、プリントしてみた。因みに作曲家リストを引くと、本人のジュリオ・カッチーニの次に、娘のセッティミア、フランチェスカの作品まであった。アーカイブにある楽譜は協力者(マサチューセッツ工科大など)や一般投稿者により、出版された本やピースからスキャンされたものが多いようだ。カッチーニはとてもきれいな楽譜だった。伴奏のピアノ譜を試奏してみたが、充分使えるし、まったく遜色ない。もう一つダウンロードしてみたスカルラッティのチェンバロソナタは、スキャンではなく、新たに楽譜を作成したものかもしれない。いくつかの注意書き(何小節目のg音のトリルは後で追加されたものかもしれない、などとあった)が最後に追記されている。こちらもとてもきれいな楽譜。この他に、楽譜を公開している他のウェブサイトからの移入という方法も取られているようだ。(それが著作権上問題ないらしいことも発見だった)
次にオーケストラ譜を見てみようと、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」を探した。これはオーケストラ譜、パート譜、アレンジ譜があり、ピアノ譜はチャイコフスキー自身による編曲版とタネーエフのものと2種類あった(市場でもこの二つが出ている)。オーケストラ譜には表紙や目次のページもあった。面白かったのは、楽曲の録音リストが非商業と商業に分かれて載っていて、商業の方はamazon.comのページに飛び、サンプルを聞いたりダウンロード購入ができるのだが、非商業の方はYouTubeのページにジャンプ、Neffさんという髭のおじさんピアノ弾きが、自宅のようなところで演奏していた。練習風景のようにごく気楽な演奏で、自分でページをシャーッと繰りながらの演奏。もちろん一瞬曲はとぎれる。が、これもピアニストの芸のうち。見ていて楽しい。インターネットというのはやっぱり様々な垣根なしに、必要とあればどことでも繋がっていくところが醍醐味。
この楽しい世界、つかえるアーカイブを支えているのは何か、と言えば基本的にボランティアである。言語は英語がベースになっているようだが、主要部分は日本語を始め多くの言語に訳されている。必要と思えば、自分が翻訳者として支援することももちろん可能だ。このプロジェクトに参加する方法として、楽譜の投稿、サイトの保持や支援、翻訳、寄付などがあり、フォーラムでは誰もが参加して提案や話し合いや議論ができる。「ストラビンスキーの楽譜はアップされないのか」などと言う質問に対して、著作権保護期間内にあるため今のところできない、などの返答があったりする。
楽譜の投稿法については、質を高めるため細かい説明がなされている。どういうものが投稿可能か、どのような方法でファイルを作成するか、高解像度でスキャンをする方法の詳細からゴミよけソフトの使用法に至るまで説明されている。投稿可能な楽譜は、著作権保護期間を過ぎたもの、あるいは著作権者がフリーなライセンスで公開するもの。著作権保護期間は、Wikipedeaの説明によると、サーバーのあるカナダと利用者の住む国(地域)の両方の法律を守ることが求められているそうだ。とするとアメリカやヨーロッパの70年組は利用できるものがぐんと減ってしまう。現実的には何らかの規制が技術的にかけられているのだろうか。2007年にペルトルッチは、オーストリアのある楽譜出版社から「法的脅威」を受け、約一年間閉鎖した。保護期間50年と70年の落差から起きた出来事らしいが、版元側から地域別のIPフィルタリングなどを施す要求が出され、現況はわからないけれど、2008年にライブラリーはめでたく復活した。その経緯もサイト内のフォーラムで公開されている。
ここで考えるのは、抗議したのが著者ではなく出版社だということ。もう死んでしまってこの世にいない著者本人やその遺族より、損害を被る可能性があるのが版元だからだろう。ただサイトが復活したこと、それから楽譜の投稿の仕方の説明から、版元には出版権のような形での権利の主張はできないのかもしれないと思った。なぜなら投稿の際の注意項目として、楽譜をスキャンした際、出典を記載することが薦められているが、版元への許可には触れられていない。楽曲を作った作曲家のみに権利の侵害が起きうるという判断なのだろう。楽譜の記述や体裁を整えるのはそれなりの技術がいり、今はコンピューターを使っている可能性が高いが昔は写譜屋さんというプロがいた。演奏時、楽譜は図案を読み取るように(目でスキャンするように)素早く読んでいくものなので、あるルールに従って読み取りやすい記述法で書かれていないと用を足さない。反射神経で読めなくてはいけない。その意味で出版社が出版に際して、作曲家の手描き楽譜の体裁を整えることの貢献度はそれなりに高いとは思う。なのでわたしも、楽譜に関しては、版元ごとの出版権がきっとあるのだろうと今まで思っていた。
コンピューターが流通するようになって、インターネットも広がり、という状況はここ10年くらいのことなので、上に書いたようなことも法律の解釈の問題になるのかもしれない。法律が作られたときは、未来の技術革新やその広がりまで予測できていないのだから。
ペルトルッチの楽譜ライブラリーは音楽というジャンルを扱うことで、目で楽譜を読むだけでなく、リンク先のamazonなどでその音符を耳で聞き、YouTubeなどで演奏を見て、とメディアとしての広がりを持っているところが面白い。アメリカのamazonには音のサンプルを聞くことのできるCDが多い。それだけペルトルッチとの親和性も高い(ただしamazonとペルトルッチの間にはいかなる利害、支援関係はない、とのこと)。音のサンプルを載せるかどうかは、多分、CDの版元、販売元の努力、労力、知識によるものと思われる*。商業の側にいても、人々の役に立って宣伝にもなる無料の音源公開法があるのだから、日本の版元ももっと利用することを考えたらいいと思う。1社だけでなく、たくさんの会社でそれぞれのCDに音源サンプルを置くことで初めて、データベースとしての価値が生まれる。その全体を理解していないとなかなか実行できないことではあるが。自分のところで出したCDをより適切な場、それを欲している人々がいる場で聴いてもらい、知られていない日本の演奏家の演奏を紹介する。そうやってペルトルッチのある作曲家のページの録音リストに、グールドやホロヴィッツと並んでリンクを載せることは、いろんな意味で広がりが期待できる。世の中のためになり、人々の役にたち、演奏家やそのCDも広く知られる、という合理性があるとわたしは思う。
*本の場合に、表紙や中身の画像や紹介文をどのように掲載するかは、版元次第であり版元自身が画像やテキストを用意して登録するので、CDのサンプル音源も同様と思われる。