起きていることの全体を見る実験
ワールドカップ南アフリカ大会が始まった。今日で11日目。ここまでのところ、全試合を見ている。一日3試合(初日のみ2試合)だから、3×9+2=29試合見たことになる。決勝戦を入れて全64試合なのでもうすぐ半分のところまで来た。グループリーグ第3戦の始まる22日からは一日4試合となり、また公平のため同時刻に2試合ずつ行なわれるので、録画や再放送を使って翌日まとめて見ることになり、見るだけでかなり大変かもしれない。
ワールドサッカーを見始めて10年くらいたつが、ワールドカップを全試合見るなんてことは初めてのこと。今年の4月頃に全試合見てみようかな、と思い立って調べたら、地上波では全試合見られないことがわかった。NHK総合、NHK BS、民放がそれぞれ試合の放映権を買っているが、いくつかの試合が漏れている。どういう基準で各テレビ局は放映する試合を選んだのかわからないが、20試合という少なくはない数の試合が外れていた。その中途半端さ加減を見て、全試合見てやろう、という気になった。
全試合の放映をするのは、スカイパーフェクTVである。普段ケーブルテレビで海外のサッカーを見ているが、その加入しているケーブルからはスカパーは見ることができない。そこでいろいろ調べて検討した結果、一時的にスカパーに加入することにした。チューナーはテレビに付属のもので受信できることがわかったので(スカパーe2)、アンテナだけ購入すればいい。そしてワールドカップ期間中だけアンテナを立て、スカパーに加入することにした。それほど大きな費用はかからなかった。
ではなぜそこまでして全試合を見ようとするのか、それにはいくつかの理由がある。ワールドサッカーが好き、と言っても、それほど詳しいわけでも情報通でもないので、普通であれば地上波で放映しているものの中から、面白そうだったり話題になっていたりする試合だけ見れば満足できそうだ。でもせっかく見るのなら、全世界から集まってきた国と地域のサッカーチームが1ヶ月という限られた期間の中で、集中して試合をするのを見てみたい、見たらどんなことを感じるだろう、そう思った。全部を見ることは、ひとつには生の素材を見るという側面があり、もうひとつには全体を相対化して見るという側面がある。
生の素材として触れることの意味は、素材に自分が直接アクセスすることである。実際に起きていることは、ここでは1ヶ月間の64試合である。地上波放映の試合は、放送局によって選ばれたものである。そこには放送局側の何を放映するかという選択意図が入っている。日本戦についてはNHKと民放が重複して放映するが、たとえばイタリア、パラグアイ戦やブラジル、北朝鮮戦はどこも流さない、ということが起きてくる。見る方が何を見るか選んでいるのではなく、放映する方が何を見せるか選んでいるのである。情報というのは元々そういうものであるが、もし全試合見ることを実行すれば、実際に起きていることを生に近い状態で知ることができる。
本当に面白いものを見つけたいと思えば、与えられたものの中で体験するのではなく、自分の側に選択権があった方がいい。たとえば旅行でも、パック旅行は日本では人気が高いが、いくら割安で便利であっても、与えられた制限の中での小さな可能性しか期待できない。映画でも面白いと保証されたもの、これは人気がありますよ、と評判のものだけ見ていたのでは、新しい出会いや発見は難しい。サッカーの試合でも、どこに面白さが待ち受けているのかは誰も言い当てられない。スター選手の揃った人気のゲームが、見るに値しないようなつまらないものに終わる場合もあれば、(その国の人々以外)誰にも興味を持たれていないようなアウトサイダーの試合が、好勝負であったりすることもある。それに自分が出会おうとすれば、先入観を持たずに、すべての試合を平等に見るしかない。
全試合を見ることで、ワールドカップを、世界のサッカーを俯瞰して見ることが可能になる。たとえば自分の国のチームはがんばっていい試合をした、と思っていても(あるいは自国のメディアが言いたてるのを耳にしても)、他の試合もたくさん見れば、その評価は変わるかもしれない。全体を見渡すことは相対化に役立つ。
まだ全体の半分近くにやっと来たところで、この大会がどんなものになっていくか、見えてこない。その姿がぼんやりと形を取りだしたところだと思う。何がこの先起こるか、誰にもわからない。同時進行で、ライブで、世界中の人々が注目しているものを、起ころうしていることの詳細を体験できるなんて、そうめったにあることではない。全部を見終わったとき、どんな感想が自分の中で生まれるか、楽しみにしている。
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ところでここまでのところ、地上波が放映権を取らなかった試合には、面白く意外性のあるものが多かった。1−1で引き分けたイタリア対パラグアイ戦、試合終盤でニュージーランドが衝撃的な同点ゴールを決めた対スロバキア戦、優勝候補イングランドを引き分けに押しとどめたアルジェリアの戦い、ブラジル相手に1点返して2−1とした北朝鮮の試合など、対戦カードを見ただけでは計れない好ゲームがあるということが証明された。
国を背負う、とは
元サッカー日本代表のラモス瑠偉さんが自身のブログで書いていた。「全員が一つになり 何よりも 国を背負って戦っていた」と。5月24日に埼玉で行われた日本と韓国のサッカー親善試合を見てのこと。ラモスさんは韓国チームのプレーと戦い方をたたえ、そして「国を背負って」と表現しているのだ。この試合は、どちらのチームにとっても、ワールドカップ前の最終合宿地であるヨーロッパへ旅立つ前の最後の試合であり、今年の2月に行われた東アジア選手権での試合につづく、いわば日韓対決の第2戦目と言ってもいいものだった。
ラモスさんはブラジル出身の日本人。32歳のときに帰化して日本代表のメンバーに加わった。ブラジル生まれのラモスさんにとって「国を背負って」というのはどのような心情で発せられる言葉なのだろう。サッカーをするときに「国を背負って戦う」とは具体的にはどういうことを指しているのか。
自分もふくめて、日本生まれ日本育ちの多くの日本人にとって、「国を背負う」という表現は気持ちにぴったりこないというか、心の底から出てくるような言葉ではない。「国を背負う」の「国」とは何か。背負うとはどうすることなのか。たぶん多くの日本の人は何であれ背負いたくなどないし、ましてや「国」を背負うなんて、という気分ではないだろうか。それはサッカー選手にとっても同じことだろうし、彼らだけに「国を背負え」とは誰も言えない。また、ラモスさんの言うように、本当に、国を背負って戦わないと強くなれないのか、チームが一つになれないのか、その真偽もわからない。
サッカーには「国を背負わない」戦いもある。クラブチームのゲームがそうだ。ヨーロッパの場合、クラブチームは町のものだ。バルセロナ、マンチェスター、ロンドン、リヨン、バイエルン、ミラノ、というようにそれぞれの町にいくつかのクラブチームがあり、そこに住む人々を主たるサポーターとして、いわば町の顔として存在している。一つの町にいくつかのクラブチームがある場合は、どちらのチームを支援するかで人々は分かれ、互いをライバルチームとして強く意識する。イギリスでダービーマッチと言われる試合、たとえばマンチェスター・ユナイテッドとマンチェスター・シティのゲームはおおいに盛り上がり、他の試合とは違った独特の緊張感と高揚にスタジアムは包まれるという。またヨーロッパのチャンピオンズ・リーグのゲームでは、それぞれのチームのサポーターたちにとって、「国」より「町」が優先されるため、たとえばマドリードで行われるバルセロナ対インテル・ミラノ戦では、マドリード(レアル・マドリード)のサポーターたちは、自国のバルセロナではなくインテルを応援するらしい。つまりスペイン・リーグの中で、バルセロナとマドリードは宿敵だからだ。スペインの場合、ダービーマッチの意味合いには、町同士の対立以上に、民族間の対抗意識の方が強いかもしれないが。
話を「国を背負う」戦いに戻そう。日本の人々にとってまずは国とは何だろう。国際試合にはつきものの「日の丸」と「君が代」は人々にとってどういうものなのか。マラソンの大きな大会を見ていると、沿道に連なる人々が揃って日の丸を振っている光景がある。前から不思議に思っていたのだけれど、あの旗はどこで手に入れたのだろう。想像するにどこかで誰かが配っているにちがいない(いったいどういう団体なのだろう)。有森裕子や高橋尚子を応援することは日の丸を振ることとイコールであり、何の違和感もないのだと思う。もらったものだし。みんなも持っているし。ある意味、無頓着に振っているのかもしれない。ただマラソン大会であっても、日の丸を振ることに抵抗がある人々はいる。学校行事での「君が代」と「日の丸」は、たとえば石原都知事の東京都では「国旗掲揚・国歌斉唱の義務」を各都立高校に通達し、それに違反した教師は処分された。沖縄の高校で卒業式の国歌斉唱や日の丸掲揚で大きく揺れたこともあった。そんなこともあって、多くの日本人の中には国歌や国旗に対してどこか後ろめたさがある。
「君が代」や「日の丸」は敗戦の時点で葬ったほうがよかったのかもしれない、とも思う。この二つが正式な国歌、国旗と法律で定められたのは1999年とごく最近のことだ。1999年の時点で一度国民の議論のテーブルに乗せるべきだったのかもしれない。新しいものが採用されるにせよ、古いものを引き継ぐにせよ、一度人々が真剣に考え、結論を下す場と時間が与えられ、そこを経過したのちの結論なら、国歌や国旗、ひいては自国に対してもう少し違う態度がとれるようになっていたかもしれないと思う。
まもなく南アフリカでサッカーワールドカップがはじまる。試合の前には両チームが整列しそれぞれの国歌が流され、歌われる。行進曲のような歌、軍隊っぽいもの、賛美歌風、校歌風、オペラ調、いろいろなスタイルの歌があり、歌の表す内容もそれぞれ、歌と国民との関係もいろいろだろうと想像される。自分の国の試合にまるで無関心、という人はそれほど多くはないだろうけれど、よその国に好きなチーム、応援しているチームがある、という人も今の時代ではぜんぜん珍しいことではない。好きなプレイヤーがいる、プレイスタイルが好き、など様々な理由で自分の国籍ではない国のチームを応援する。そういう人々が増え、選手たちも他国からの応援のことを知れば、「国を背負って戦う」ことの意味や濃度は変わってくるだろう。FIFAの公式ホームページの「南アフリカ大会」のところには、国ごとのニュースやレポートのページに、読者が自分の意見を日々投稿している。韓国チームのページに、イギリスやアメリカの人々が書き込み、アルゼンチンチームのページにはインドやマレーシアなどからのコメントもたくさん載っている。一人のプレイヤー、一つのプレイを互いに論じることで、サッカーという文化を世界中の人々が同じように楽しみ、共有している感じがする。ワールドカップは世界中の人間が、プレイヤーもサポーターも観客も、ひとつの競技会に集結して文化交流する場のひとつ、国を背負っても背負わなくても、素晴らしいパフォーマンスは人々をおおいに楽しませることだろう。
世界の国歌:音のファイル、原語の歌詞、日本語訳、解説などが掲載されている。
http://www.worldfolksong.com/anthem/index.htmlFIFAワールドカップ南アフリカ大会公式ページ:
http://www.fifa.com/worldcup/index.html