20101122

ハ・ジン(哈金)、外から母国を書く作家

ここでいう「外から」には、国外に住んでいてということと、母語ではない言葉で母国について書く、その二つの意味がある。

ハ・ジンについては先月もこのブログで書いた。いま最も興味をもち、集中的に読んでいる作家だ。ハ・ジンは中国出身のアメリカ人作家、こう書くとなんだアメリカ人なのかと思うかもしれないが、帰属国はアメリカでも、中国人である(あった)ことがこの作家の創作の根底を支えている。ただ将来的には、創作がもっと普遍的な方向へと進んでいく可能性はあるが。ジュンパ・ラヒリがインド系であることが問われないように、アン・リーが南北戦争を題材にした映画を撮っているように。

1956年、中国北東部の遼寧省に生まれたハ・ジンは、1970年をはさんだ数年間、つまり文化大革命(Cultural Revolution)の時期に、人民解放軍に参加していた。13歳から19歳までのことだと言う。その後大学で英語学や英文学を学び、1985年にアメリカに渡り、ブランダイス大学奨学生だった1989年、天安門事件を経験している。それが契機となり、アメリカに帰化。作品を英語で書きはじめる。英語で作品を書く理由を、自分の作品に誠実さを保つため、と述べているそうだ。(Wiki英語版)

長編小説「自由生活」(A Free Life, 2007)の主人公ウー・ナン(武男)は、著者の経歴や思想を思わせる人物だが、生活のために中華料理店を営みながらも、詩を書くことに執着し続け、しかし書くことができない苦悶の中にある。ニューヨーク在住中は、中国語の詩の雑誌の編纂にかかわったり、中国語で書く同郷の詩人や作家との交流があった。アトランタに越してすべての精力を店の維持にそそぐようになってからも、本屋に行くことや詩の本に集中することに喜びを見いだす姿が映し出される。読んでいるのは英語の本だ。ウー・ナンは英中辞書、あるいは英英辞書を常に持ち歩き、英語という言葉の獲得に余念がない。まわりの中国人の誰よりも語彙は豊富で、息子のタオタオの使う新しいスラングもたいていは知っているほどだ。(6歳のときにアメリカにやって来たタオタオは、中国語や漢字を両親の努力にもかかわらず、どんどん忘れ去っていくのだが)

そんなウー・ナンであるが、英語で詩を書くことに対しては、果たして作品と言えるようなレベルのものが書けるのかどうか、大きな躊躇がある。新たな挑戦のきっかけとなったのは、クリスマスイブに、生まれて初めて妻のピンピンに向けて書いた詩だった。「書き始めた途端に自然と言葉が生まれ、苦もなくでき上がっていった。紙に書き落とされた文字を見て、彼の心は動いた。同時に畏怖の念を感じて、視界がわずかに曇った。」 この日本語版で900頁を越える小説は、主人公が英語で詩を書き始めたところで終わっている。そして驚くべきことに、つづくページには「ウー・ナンの詩」として、20編を越える詩が掲載されているのだ。

「自由生活」を日本語版で読み進めながら、平行して二つの違った種類のハ・ジンの本を英語で読んでいた。ひとつは短編集"Bridegroom"、もうひとつはエッセイ集"The Writer as Migrant"。"Bridegroom"は中国を舞台にした12の短編からなる本で、あと三つを残すところまできた。現代の中国を舞台にしているが、やや寓話的な語り口と抑制された品のいいユーモアで、わたしはおおいに楽しんで読んでいる。寓話的と書いたのは、内容がときに荒唐無稽で本当のこととは思えないからだ。いやこれは物語なのだから、本当(あり得ること)である必要はない。短編というスタイルから考えても、架空の町Muji Cityを舞台にしていることからも、書こうとしている内容から見ても、嘘のような話の展開は暗喩や皮肉の表現なのだろう。ただ暗喩であれば、誇張や象徴的表現はあったとしても、本当につながる何かが表されていることになる。

たとえばこんな話がある。新婚旅行の帰り道に、警察にいいがかりをつけられて逮捕された男が、最後には押しつけられた嘘の調書にサインをして釈放されるが、その町を去るときに本当の犯罪(その町への破壊行動、見当違いの復讐)を犯してしまう。あるいは、商用で町を離れた男がそこで大地震に遭い、記憶を失う。たくさんの死傷者が出て町は多くの避難民で溢れる。省政府は町を再建し秩序を保つため、そして孤児や老人を保護する目的で「新家族」という政策をうち出す。男と女、それに子どもや老人を加えた即席の家族をつくろうというのだ。愛や個人の生き方は問題ではない。社会を再建するための結婚であり家族だ。主人公の男も、若い女と小さな男の子と家族になる。しかしあるとき記憶が戻り「元家族」のもとへ帰ろうとする。また別の話では、虎を倒すというヒーローものテレビシリーズの制作者たちが、省政府が求める革命的な大衆の手本となる「虎退治」役を仕立てるため、撮影現場に本物の虎を連れてくる。虎は演技前に麻酔を打たれていたのだが、ヒーロー役の俳優は本物の虎と一対一で対面し、激しい恐怖から撮影終了後に精神の異常をきたしてしまう。

物語のひとつひとつを、何のメタファーだろうかと思って読む必要はない。たぶん、具体的な何かというよりは、社会を構成する仕組のもつ空気感や人々が感じている圧迫感、政府や権力者が取り仕切る中での、ものごとの成りゆきへの不安や不信感といったものを受けとればいいのだろう。また舞台が中国だからといって、中国の話に限定して読む必要もないのかもしれない。社会の状況、戦争や経済の状態によっては、どこの国でも起こりうることかもしれないからだ。

"The Writer as Migrant"は移民者としての作家についてのエッセイ集。「スポークスマンとその民」「裏切りの言語」「個人にとっての母国」の三つの部分からなる。こちらは短編集のあいまに少しずつゆっくりと読んでいる。まだ最初の章を読み終えたところだが、ハ・ジンの考えをより身近にくっきりと感じられるところが素晴らしい。またこの作家の世界観の中で、ソルジェニーツィン、コンラッド、ナイポールなどの、今では「世界文学」と言われるかもしれないジャンルの移民作家たちが、共感をもって語られていることも興味深かった。なかでもソルジェニーツィンについては、一党独裁の社会主義国家が母国という共通点からか、より深い関心をもって書かれている。旅の道すがら、昔ソルジェニーツィンが住んでいたアメリカの家を訪ねたりもしている。

また移民作家としてハ・ジンに先立つ中国のリン・ユータンについても詳しく書かれていて興味深かった。同じく中国出身のアイリーン・チャンの名も出てきて、調べてみるとアン・リー監督の「ラスト、コーション」の原作「色・戒」の著者であることがわかった。アン・リーは台湾出身のアメリカ在住の映画作家、年齢もハ・ジンに近い。リン・ユータンが晩年は台湾に迎えられ、台湾政府に提供された家に住み、今はこの作家の博物館として公開されているということからも、中国と台湾は中国語という共通言語によって、特に第三国を通して媒介されたとき、非常に深い関係を持ち得ると感じた。ハ・ジンの中国語訳の本も、母国で出版できないため、台湾が肩代わりしている。

ハ・ジンは日本では「自由生活」をふくむ、3冊の長編小説が翻訳されている。その他の本はオリジナルの英語版でないと読めない。日本でもこれからもっと知られていく作家ではないかと思う。ハ・ジンの最初の出版物は詩集だった。"Between Silences"は最も早い出版年で1990年、ハ・ジンが渡米してからわずか5年後のことだ。嬉しいことに、その初期詩集をはじめ三つの詩集すべてがまだアメリカでは手に入る。小説としては去年出版の短編集"A Good Fall"が最新のもの。この新旧二つの作品をいま、手に入れようとしているところだ。

20101108

Google Mapsと本を読む

地図を見るのは好きで、インターネットの地図がこんなに便利で精細になる前は、Atlasと呼ばれる世界地図の地図帳をもっていた。旅のプランを漠然と考えるときや本の中に出てくる場所を確かめるのにつかっていた。ただ紙の地図帳には限界があって、都市の詳細地図などは主要な街に限られているし、ある地域を拡大して見ることもできない。そこへいくとインターネットの地図は質、量ともにかなり程度の高いものだ。とくに目的なく、Google Earthを起動して、知らない国の知らない町の様子を上空から眺めたり、Google Mapsのストリートビューでどこかの道をさまよい歩くのも楽しく、不思議な体験だ。

本を読んでいて、Googleの地図で場所を確認したくなることがときどきある。最近では、ハ・ジンの小説「自由生活」を読んでいるとき、ボストンからアトランタへのドライブウェイをGoogle Maps上で、主人公の足取りをたどりながら見ていった。またアン・モロー・リンドバーグの「翼よ、北に」という本を読んでいて、川についての印象的な文章に出会い、長江の上空をGoogleで探索した。

その文章とはたとえばこんな風だ。

地球上の地勢はさまざまだが、上空から見る眺めがいちばんいのはまず川だろう。山は横顔がいちばんいい。上から見ると高さがわからないから蟻塚のように矮小に見える。(略)森林は一時的に大地を覆っている薄い皮膜にも似て、石の上にむした苔のように、こすればすぐはげ落ちそうに見える。ところが川は地上ではふつうリボンの見本のように断片的に見えるだけだ。見渡すかぎり悠々と流れている大河は、空から見るときに初めて真の姿を見せる。

リンドバーグは飛行家で作家、これは中国の揚子江の上を飛行しているときのことを書いた文だ。1931年7月、夫のチャールズ・リンドバーグ(飛行家)と二人で、ニューヨークをシリウス号に乗って旅立った。カナダからノースウェスト・テリトリーズ、アラスカ、カムチャッカを経て、根室に到着。その後大阪、福岡まで飛んで、そこから南京に向かっている。

揚子江というのは長さ6300kmに及ぶ長江(Chang River)の河口付近の呼称で、水源はチベット高原から始まり重慶、武漢などを通って東シナ海に流れ込んでいる。河口の街は上海。上海からGoogleマップを川沿いにたどって西に進み上流へ、上空からの眺めを見てみる。

川は山腹をほとばしり下り、平坦な農地を縫うように曲がりくねって流れる。谷間を走り、町の裾をまわり、沿岸に農地をひらく。道路や線路は川の後を追い、川はひとり永久的、独占的である。川と並ぶとき、人間が苦労してこしらえたセメントの道路は丘のあちこちに立っている紙の吹き流しのように、ヒト吹きの風にも吹き飛ばされそうに危うい感じがする。鉄道にしてもペンナイフで引っ掻いた線のようだ。それにくらべて、川は何世紀にもわたって地球の表面に水路を彫りこんできた。川は永遠に残る。

地勢についての力強い文章。そうか川とはそういうものなのか、と思いながらマップの上をたどっていく。上海を出たばかりのところでは、小屋の前に布団とともに大きな動物が解体されて干されているのを目にする。さらに進むと巨大な工場の内部の写真、緑の水田、江明市(Jiangyn)付近では雄大な野山の眺めが、江市(Zhenilian)ではイギリス庭園のような花咲く川辺の風景、南京市(Nanjing)ではビル群とビルボード、三山市(Sanshan)では古びた土壁の家の間の路地を自転車でいく人を見た。

川はたいてい飛行家にやさしい。川と飛行家の関係はときには同じ地方を行く旅人どうしが目礼をかわすといった程度の関係にしかすぎないこともある。(略)しかし川はときにはかりそめの道づれ以上の存在だ。それは暗闇のうちに差し出されている救いの手だ。西部の名もない荒野で、川が確固たる道しるべとなってくれたことが幾たびあったろうか。「あれはシマラン川よ! だったら州境を超えたわけよね。よかった! ここはもうオクラホマ州なんだわ」

リンドバーグ夫妻が長江を訪れたとき、揚子江下流域は大きな洪水の被害に見舞われていた。夫妻は洪水の被害を受けた地域の地図をつくることを洪水救済委員会に申し出ている。洪水の影響がどれくらいか、視察のための長距離飛行が可能な飛行機が当時の中国にはなかったという。9月20日から10月2日まで、二人は調査飛行を続けた。

初めのうち、わたしたちは水をかぶった川岸の田畑を見て、これが洪水だと考えていた。晩生の緑色の作物が水の下に見えていた。しかしなお飛ぶうちに、このあたりにはばかにたくさん湖水があるなと思うようになった。その数がだんだんふえていって、ついにはだだっぴろい湖になった。見渡すかぎり水面がひろがり、見ているうちにハッとした。湖ではない、これこそが洪水なのだ。

リンドバーグのものがアメリカ人の書いた中国の川なら、「自由生活」には中国人の書いたアメリカのハイウェイが描かれる。

I-95号線にほとんど車はなかった。道の両側に広がる土地に、わずかに霧がかかっていた。三人が乗る車のヘッドライトに照らされると、霧は煙のように渦を巻いた。道沿いの森はまだ暗く、まるで岩壁のようだった。(略)これから三人でジョージアへ向かうということは、ナンがピンピンと一緒に住み、タオタオを一緒に育て上げたいと思っていることに他ならなかった。みんなで一緒にいる限りどこに行っても心配はない、とピンピンは自分に言い聞かせた。動けば動いた分だけ、自分は強く成長できる、根を切られたらそれまでという、一本の木とは違った。

中国から幼い子どもを連れてアメリカにやってきた武(ウー)一家。東海岸の街でしばらく暮らした後、アトランタに小さな店を買った。中華料理店を開くためだ。夫のナンは中国とアメリカで大学教育を受けたインテリ、詩を書きたいとも思いつづけている。でもアメリカで中国人が暮らすには、まず生活だ。ナンはニューヨークの中華料理店で下働きとして働く中で、料理人としての仕事を覚えた。その腕をたよりに、物価の安い南部で自分の店を持つという夢を実現しようとしている。

ニューヨークの渋滞に巻きこまれたくなかったので、コネティカットとの州境を越えるとすぐに、I-287号線へ路線を変更した。そして西を目指して一二マイルほども走ると、ハドソン川が現われた。あまりにも大きくて穏やかで、まるで海を見るようで息を呑んだ。

Google Mapsでたどると、ニューヨークとコネチカットの州境は川で、そこ越えて95号線で海沿いの道を走り、実際に287号線に道を乗り換えてその道を行ってみた。道の両側にそれほど高くない木がまばらに生えていた。そしてハドソン川が現われた。料金所を通過して少し行くと片側三車線の橋が走っている。道の両側をLook left、Look rightで見渡すと、太陽に輝くハドソン川の川面が見え、確かに川幅は広かった。

川に広がる光景をもっと見ようと、ナンは外側に車線を移してから速度を落とした。こんな清らかで穏やかな場所に住めたらどんなにいいだろうと、ナンは思った。(略)「この風景は揚子江(ヤンズジアン)よりも上ね」と、ピンピンが言った。「黄河でも勝てないね」と、ナンも同意した。

I-78号線に道を変えても、風景にはまだ自然の荒々しさが残っていた。(略)牧草地がところどころワイヤーのフェンスで無骨に囲われているものの、土地そのものは豊かでよく手入れされていた。この風景を見ていると、ナンは六年まえに初めてアメリカに来たときの印象を思い出した。彼はそのとき中国の友人たち宛に手紙を書き、アメリカの自然はあまりにも寛大であると書いた。それに比べれば我が国土は酷使されて荒れ果てて見えると。I-78号線を走った先は、I-81号線へと入った。もし何百エーカーもの農地を手にしたら何を栽培しようかと、ピンピンとナンは話をした。


95号線、287号線、78号線、81号線それぞれ道を乗り換えるポイントを確認、まわりの風景も見る。Google Mapsを見ていて気づいたのだが、各ナンバーの前についている I はInterstateのことで、州間をつなぐハイウェイのこと。Interstate 95のように言う。この後、三人を乗せた車は77号線、85号線と走り、ジョージア州グインネット郡に夕方到着する。

著者のハ・ジンはまるまる一つの章をつかって、この移動の旅を書いた。インターステートのナンバーやまわりの風景、有料橋(トールブリッジ)や昼食を取ったサービスエリアについてなど書き綴っている。母国の揚子江とハドソン川を比べてみたり、この土地の地形や田畑が見せる風景について主人公たちに語らせている。ある土地の地勢や気候というのは、そこに住む生き物にとって大きな条件となる。そんなことも表したくて作者はこの距離を(多分1000kmはあるのではないか)、飛行機で飛ばずに車を走らせたのか。いやきっとウー家の経済事情もあっただろうし、アメリカではこれくらいの距離を車で走るのは特別なことではないのかもしれない。「ガタガタと音を立て、他の車に追いつけない古いフォード」ではあっても。朝の4時に起きて、夕方着いたのだから12時間くらいかかってのドライブだった。Google Mapsを意識して書いたかのように、詳細な記述のおかげでこうして読みながら、いっしょに旅することができた。

小説やノンフィクションで、ネット上の地図や航空写真、ストリートビューを参照させながら読ませる、というものがあっても面白い。電子書籍(端末、パソコンどちらでも)ならリンクひとつで飛ばすことができるかもしれない。紙の本でも元ソースと検索語を書いておくだけでも用は足りそうだ。Google Earthはときどき更新もしているので、何年かのうちに風景ががらっと変わってしまうこともありえるけれど。いずれにしても地図がもともと持っている想像力の喚起、拡大という側面を、ネットの実写地図はあますところなく表現している。


写真1:揚子江
写真2:上海から西にいった常熱市(Changshu)付近の揚子江
写真3:ハドソン川を西岸に渡っているところ(287号線)
写真4;シャーロットを過ぎたあたり(85号線、サウスカロライナ州)