南部スーダン、子どもたちの逃亡の旅
南部スーダンで、北部からの分離独立を問う住民投票が終了した。予想された通り、今月15日に始まった開票で、圧倒的多数の住民の独立支持が判明し、今年の7月には新国家が誕生する見通しだという。住民投票をきっかけに、スーダン南部の事情、中でも「ロストボーイズ」と呼ばれる難民化した子どもたちの過酷な旅のことを知った。12日の朝日新聞スーダン特派員の報告記事を読んでのことだ。スーダンはアフリカ北東部の国で、エジプトやケニア、エチオピアと国境を接し、紅海を挟んでサウジアラビアと向かい合っている。スーダン北部にはアラブ系イスラーム教徒が、南部には非アラブ系先住黒人(アニミズム、一部キリスト教徒)が住み、2005年までの約20年間、南北内戦が続いた。わたしが新聞の記事で読んだのは次のようなことだ。
後に"What is the What"という米国人の書いた小説のモデルになったバレンチノ・デンさんの話。1987年7月、馬に乗ったアラブ民兵に村が襲われた。当時8歳だったデンさんは、両親や家族とはぐれ、民兵が村人を殺すのを見て村から逃げ出した。同じように逃げてきた子どもたちと途中で合流し、800キロ近くを歩き、5ヶ月後にエチオピアの難民キャンプにたどり着く。途中で飢えや野生動物に襲われ多くの子どもたちが死んでいった。こうした親とはぐれた子どもたちは3万人にのぼり、「ロストボーイズ」と呼ばれるようになる。その中からケニアなどの難民キャンプで教育を受けた後、アメリカに渡った子どもたちもいた。デンさんもアメリカへ渡ったが、内線が沈静化した2003年に16年ぶりに故郷に戻り、両親や親戚と再会したという。今回の独立でも、一役買いたいと海外から当時のロストボーイズたちが相次いで帰国しているらしい。
以上が新聞記事で知ったこと。スーダンでの内戦に注意を払ったことはこれまでなかったし、ロストボーイズの存在も初めて知った。何よりも、追われて村から逃げ出した子どもたちが、自分たちだけで5ヶ月もの間、荒野をさまよって生き延びたこと、そして難民キャンプにたどり着いたこと、そのことに衝撃を受けた。前述の米国人が書いた小説をamazonで調べていたら、関連の他の本の存在にも気づいた。レビュアーの一人が、小説も素晴らしいがロストボーイズ本人が体験を書いたノンフィクションの方がより真実味があって読み応えがある、と書いていたのだ。そのレビュアーがあげていた数冊の本の中には、ブラット・ピットがプロデューサーとして関わったドキュメンタリー映画"God Grew Tired Of Us"(2006年)の原作本もあった。が、わたしはLook Insideで中身を読んで、"They Poured Fire on Us from the Sky"という本を読んでみることにした。
この本はロストボーイズだったデン兄弟とそのいとこのベンジャミンの3人、そしてアメリカで彼らのメンターとなるジュディ・バーンスタインによって書かれた。ジュディがスーダンのロストボーイズ3人に出会ったのは、サンディエゴのInternational Rescue Committee(アメリカに本部を置く無派閥、NGOの国際救済組織)でのこと。自身もスーダンからの難民であるケースワーカーのジョセフから、この少年たちのメンター(良き助言者、指導者)になってくれないかと相談を受ける。ジュディはロストボーイズとの出会いには興味をもったものの、メンターという言葉におじけづく。自分にそんなものが務まるのかと。ジョセフの「動物園とか、シーワールドとか、あの子たちにはこの国への順応が必要なんだよ」という励ましに背中をおされて、ジュディは少年たちに会うことにする。最初の出会いの日、ジュディは12歳になる息子とともにIRCのオフィスに行く。そこでベンソン、アレフォの兄弟と、そのいとこのリノと会う。5人は車でまず腹ごしらえのため、レストランに向かう。3人は3日前にアメリカに着いたところだ。母語は生地のディンカ語だが、英語の他アラビア語やスワヒリ語も話せる。
今は21歳になるベンソンが、家族の住む村を離れたのは7歳のときだ。そのとき弟のアレフォはまだ5歳だったという。いとこのリノも5歳だった。また来月アメリカにやってくるいとこのベンジャミンも5歳だったという。5歳のベンジャミンとリノがアフリカの沙漠を徒歩でさまよったのだ。どんな想像力も及びようもない、胸を突かれる事実。ベンジャミンにも会いたいな、というジュディにベンソンは言う。"He is very very tall now and the most black. He talks a lot too." ベンソン、アレフォ、リノの3人も180cmはある長身で、肌の色は(ジュディにとっては)見たこともないくらい黒く美しい肌をもつ。ディンカの人々の特徴なのかもしれない。
ディンカの村では、牛を飼って牧畜を営む人が多い。牛の角は危険だ、という話をしているときに、ジュディがでは何故角をとってしまわないのか、と聞くと、ベンソンは「牛はライオンと戦うのに角がいる」と答える。12歳のクリフ(ジュディの息子)は目を輝かせて聞く。"Lions! Real lions?"
食事を済ませた5人はジュディの提案で近くのお店に行く。"This is like a king's palace."とベンソン。それは街道沿いのウォールマートで、古くてしかも小さな店舗だった。クリフは3人に店の中を案内してまわる。「これは銃なの?」「違うよ。髪を乾かすものだよ」「どうして? 髪の毛は自然に乾くのに」 クリフが何か説明すると、3人はまわりを取り囲んで興味深げに耳をかたむける。彼らが最も強い関心を示して目を輝かせたのは、学用品のコーナーだった。69セントのどこにでもあるノートが、中でも一番3人を夢中にさせるものだったという。何に使うの、というジュディにアレフォは答える。"Write down what we see." そして後に、ベンソンとアレフォは自分の体験を書きつけたノートをジュディに渡す。しばらくしてアメリカに到着したいとこのベンジャミンも、アフリカのこと、自分の体験を書き記してジュディに渡す。
この本はベンソン、アレフォ、ベンジャミンの3人がそうやってアメリカに来てから、自分のこれまで体験をノートに書きつけて、ジュディに手渡したもので構成されている。3人の書いたものが、順繰りに出てくる。アフリカの村でどんな風に暮らしていたか、そんな話から始まる。まだごく最初の方を読み始めたばかりだ。ベンソンの話には、ライオンと戦った父親の話や、父が殺したライオンの連れが仕返しにくる話もある。まるで民話を聞いているような不思議な話だ。いったいいつの時代の話だ、という感じ。
ジュディはロストボーイズとの出会い後に、スーダンの内戦について調べていて、北部勢力が村を襲い、女の子たちを連れ去り奴隷として売りさばいた、という記事にいきあたる。Slavery? In our time? と驚愕する。ジュディはこうも言う、新聞2紙に週刊ニュース誌三つを読んでいるが、ボスニアのことはたくさん聞くけれど、スーダンのことと言えばオサマ・ビン・ラディンが5年間そこにいたということくらい。いったいどうしてなのか?
ニュースというのは不思議なものだ。最近はとくに、知るべきことを知る機会が失われているのではないか、と感じることも多い。いまだ紙の新聞をとっている理由のひとつは、何か拾えるものがあるかもしれないと思うから。特に署名入りの現地からの報告など。日本の放送局のテレビのニュース番組やネットの日本語のニュースでは、肝心なことが知り得ないという危機感がある。NHK BSの「世界のニュース」は別にして、通常のニュース番組は国外ニュースがほとんどない。海外の事故のニュースでは、「日本人観光客の被害者はいませんでした」というメッセージが、第一優先事項であることをわたしたちはよく知っている。スポーツ報道でも、日本人選手やチームの周辺事項であればどんなくだらないことでも、競技や大会とは何の関係もないことでも、第一優先報道として扱われる。視野が狭く、好奇心が弱く、自分の国にしか関心をもたない、貧しい国民性が露になっている。
何か「ソト」のことを知りたいと思えば、自分で意識的になるしかない。今わたしが読んでいるロストボーイズの記録も、新聞やニュースでは知り得ないことが記されていることに価値がある。ベンソンやアレフォは、自分の体験を書きたいという明確な欲求をもっていた。書いて記す、人に知らせたいと思う、そういう彼らの情熱に心を動かされた。人間の本質のなかには、「書いて未知の人に伝える」という欲望があるのかもしれないと思う。
***
「村がイスラム過激派に襲われたとき、ぼくは7歳だった。ぼくらはスーダンからエチオピアへの1700キロの道のりを徒歩で逃げた。旅はいつも夜の間に行われ、それがつらかった。眠ることができないし、暗闇の中で何だかわからないもの、刺とか、小枝とかを踏んづけて、足がいつもひりひりと痛んだ。でもぼくは一人じゃなかった。ぼくと同じくらいの年の25人もの子どもたちが、共にこの苦境をわけあった。だからぼくは文句を言ったり、泣いたりしなかった。ぼくはシャツも上着も何も着ていなかった。エチオピアまでの道のり、着ていたのは下着のパンツだけだった。」("They Poured Fire on Us from the Sky"より)