地球上のさまざまな英語、そこから生まれる文学
日本に住む日本人にとって、母語の日本語の次に親しみのある言葉といえば英語である。現時点をとれば、おおむねどの世代にとっても当てはまるのではないか。日本には中国文字(Chinese Character=漢字)があるので、文字的には中国語のそばにいるとも言えるが、たとえ文字が同じでも読みが違うし、中国語が理解できるとは言いがたい。世界の中でいちばん話されている言葉は何か。ウィキペディア英語版によると、多い方から、標準中国語、スペイン語、英語がそれを母語とする人間の三大言語であるそうだ。ある学者は、母語でない話者の数も含めれば、英語はおそらく地球上で最もよく使われている言語ではないか、としながらも、中国語も様々な地域語話者を換算すれば、英語話者を上回ると想定している。おおざっぱな見方をすれば、中国語と英語、この二つが地球で最も話されている言葉ということになりそうだ。
地球上で英語を母語とする話者の数は3億5千万人程度、ネイティブではないが公用語や第二言語として使っている人の数も含めれば、読み書き能力や言語習熟度によってカウントは変わるが4億7千万〜10億という報告もあるらしい。最大の英語話者国はアメリカの2億5千万、人口の96%に当たる。次がインドで人口比は12%に過ぎないが、人口が10億を超えるのでその数は1億人を超える。3番目がナイジェリアで7900万人、人口の約半数。ここで思ったのは、アフリカの中でも英語で作品を書く作家の数がだんとつのナイジェリア、英語話者が多いところから来ているわけだ。4番目にやっとイギリスが来る。5900万人、国民の98%が英語話者である。そしてもう一つ意外だったのは、5番目に来るのがフィリピンで、カナダやオーストラリアはその次である。これは元の人口がフィリピンは8400万と多いせいで、ただそれでも英語話者58%という高い比率を示している。
中国語の場合、広東語、福建語、上海語、北京語、、、など数あると思われるが、各方言間でどの程度違いが大きいのかは、中国語を理解しないのでわからない。想像するに、英語の方が、地域で違いはあっても、その核となる部分はおおむね近いものがあるのではないか。シンガポールは、元の人口が470万人と少ないので英語人口も比例して総数は多くないが、国語であるマレー語や標準中国語、インド系の言葉タミル語とともに公用語として使われている。これはイギリス統治時代の名残りと考えられる。ビジネスや政治では英語が主として使われているそうだ。ただ国民の比率でいうと、中華系が76%と最も多く、マレー系、インド系がそれにつづく。中華系の人の多くが英語と中国語のバイリンガルなのかもしれない。若い世代では2カ国語、3カ国語を話す者も多いが、古い世代では中国語しか話さない人もいるという。またシンガポールにはシングリッシュと言われる、地域英語がある。発音や語彙、文法にマレー語や中国語の影響が見られる英語である。国としてはシングリッシュではなくイングリッシュを話すよう、国民に求めているとそうだ。
ネットでSinglishと引くと、いろいろ面白いサイトが出てくる。たとえばシングリッシュとはこういうものだ、というムービーがある。「Singaporean Singlish kills the English language, Funny Talk」と「Singlish Chat on Phone」はほぼ同じシナリオを元にしたアニメーション。パーティをするのだけどどんなメニューがある?とレストランに客が電話をする、というシチュエーション。店主はバリバリのシングリッシュ・スピーカーのおばさん。その英語は「we haf de flu joos」というもので、fried riceを「Fly Rice(ハエごはん)」と言い、コーラを「Cock(鶏)」と発音して、いったいどんな飲み物だ、と客を戸惑わせる。どういう意図で作られた作品かわからないが、シンガポール人がみずからのおかしな英語を笑い飛ばし遊ぶジョークなのかもしれない。ジャパングリッシュというのはここまで確立されてないし、なにより日本人自身に自覚がないので、こういうジョークが生まれるにはまだ時間がかかるだろう。
Singaporean Singlish kills the English language, Funny Talk
Singlish Chat on Phone
英語を話す人の広まりの原因として、ひとつは移民によるものが考えられる。何らかの理由でアメリカやイギリスなどに移住し、そこで現地の言葉を話すようになる。中国人の移民のお年寄りの中には中国語しか話さない人もいると聞くが、その子どもや孫の世代では、英語が第一言語になっていくようだ。たとえ家庭では中国語を話しても、学校をはじめ外の世界では英語しか話さなくなるのだ。一世の世代は子どもに中国語を学ばせるため、週末に塾のようなところに行かせたりもするらしいが、本人たちは何故そんなものを学ばねばならないのかと、不満をもっていたりする。インド系のアメリカ人の様子は、ジュンパ・ラヒリの小説でよく描かれているが、ベンガル語の補習校に通って文字や言葉を学ぶ、という話はあまり聞かない。ただ同郷の人々はなにかと集まってパーティをしたり、コミュニティのようなものを作ってはいるようだ。
中国系のアメリカ移民で作家になった人はそれなりの数があるようだ。移民第一世代として作家になった人として、わたしがこのところ興味をもって読んでいるハ・ジンがいる。ハ・ジンは中国の大学で英語学を学んだ後、アメリカの大学に留学する。渡米後わずか5年の1990年には、英語による最初の詩集をアメリカで出版している(Between Silences)。それは10代の頃、人民解放軍の兵士として従軍していたときの経験を綴ったものだ。初期の小説や短編集は主に中国を舞台にしたものである。最新作の小説「自由生活」や短編集「A Good Fall」はアメリカに移民として住む中国人がモデルになっている。数々の文学賞をアメリカで受賞しているハ・ジンだが、最初の受賞は渡米後わずか10年のフラナリー・オコナー短編作品賞。カリフォルニア生まれのコミック作家Gene Luen Yangは「American Born Chinese」で知られる、子どもの世代の中国人作家。移民ではなく、赤ん坊の頃に養子としてアメリカに渡って来て、アメリカ人両親の元で育った中国人作家も出てきている。そういうケースだと、元の親や中国人コミュニティとの関係がなく、母語も英語となり、容姿だけ東洋系の普通のアメリカ人として育つ。中国からアメリカへの養子は多いようで、ハ・ジンの小説にも登場するし、わたし自身もそういう人を知っている。
移民や養子によるアメリカへの移住に対して、イギリスの影響が大きいのが旧植民地の国々である。ボツワナ、ジンバブエ、ケニアなどのアフリカ諸国、インド、パキスタン、バングラディッシュ、マレーシア、パプアニューギニア(オーストラリアの信託統治)などの国々は、第一言語ではないものの公的な言葉として英語が広く使われている。中南米諸国にもイギリスの統治の影響で、英語が第一言語として使われている国は多い。ハイチやジャマイカなどの国々では、英語の他にクレオール語(アフリカやインディオの言葉とヨーロッパからの言葉が混合した言葉)も使われているようだ。南米で唯一英語が第一言語の国、ガイアナは国民の約半分がインド系、残りが黒人、混血、インディオなどで、ヒンディー語やインディオの言葉も一部使われているようだ。こういった他の言語の共存もありつつ、英語を主要言語とする国々からも、英語で作品を書く作家は生まれている。
文学の世界では、こういう出自の作家の作品をポストコロニアル文学、あるいはNew English Literature(s)と呼んでいるらしい。移民文学(migrant literature)とは成立がまったく違うが、複数の言語や文化集団の中に身を置き、そのギャップがその人間の感性や思想に影響を及ぼしているという意味で、この二つには共通するものがあるように思う。日本=日本人=日本語、それ以外、それ以上の状況を想像しにくい文化集団に住む人間からは、簡単には理解できないものがある。ポストコロニアル文学や移民文学を読むこと、そこで描かれている世界を知ること、そういう作家の視点に気づくこと。ここ何十年かの間に、世界のあちこちで体験された個人の歴史が大きなうねりとなって、今、文学の中に吐き出されているようなイメージがある。
一つ言語や一つの文化集団に収まりきらない人間のありようを文学を通じて体験していきたい、そのような意図から、葉っぱの坑夫では、新しいプロジェクトをスタートさせようと、今準備を進めている。タイトルには「Birds Singing in New Englishes/とり うたう あたらしい ことば」というものを考えている。birdには移動する生きもの、境界を越える鳥、渡り鳥、というイメージを、new Englishesには旧英語圏の外にある様々な文化の香り漂う英語のイメージを託している。Englishが複数形になっているのはそのバラエティを表現している。どういう作家を選ぶかを検討する中で、だんだんプロジェクトの輪郭が形をとるようになってきた。スタートは3月以降になると思う。
*Singlishのアニメの中で、シンガポール人の客は「auntie」という言葉でレストランのおばちゃんに話しかけている。親戚でもない人に「おばちゃん」と話しかけるのは彼らの生活習慣から来ているものと思われる。日本でもテレビの取材などでよく「おばあちゃん、お元気そうですね」などと呼びかけるのと一緒だ。現代の英語圏、もしくは西洋語圏ではあまりないことだろう。ナイジェリア人がヨーロッパで年配の女性に対して、ファーストネームの呼び捨てにするのがどうしても抵抗感があって、名前の前に「mama」と付けて相手に不審がられる、という話もある。同じ英語を使っていても、使う人の心情や文化環境によって、使用法が変わってくることの例だろう。