緊急事態はつづいている
3月、4月にスタートしたり、印刷出版しようと思っていた二つのプロジェクトが現在停止している。どちらも作業が佳境に入って発表のめどが見えたあたりのところで、東北関東地震が起きた。続いて起きた長野や静岡の地震や今も続く東北地方の余震、と広域にわたる不安定な地質活動に加えて、福島第一原発事故後の先の見えない悪夢のような状況により、緊急事態からいまだ日本は抜け出せない状態が続いている。
今後しばらくの間、大きな余震や関連して起こる別の系列の地震の可能性は否定できないし、福島原発の状況は被災から数日後に、アメリカやフランスの機関により国際原子力評価尺度が「レベル6」に引き上げられ、当初の予測より危険度が増していると考えられる。この評価は放出された放射能の推定量によるもので、日本の原子力安全・保安院では「レベル4」と発表していたものだ。現在も原発施設周辺は高濃度の放射能におおわれ、高濃度の放射能を含む水の処理という新たな問題にも直面していて、危険を迂回するための作業にも支障が出ている。
テレビ放送を見ていると、民放はすでに通常の番組を流しているようだし、国営放送であるNHKも毎時のニュースで状況を伝えるくらいで、ドラマや高校野球中継など通常の番組を流している。その感覚から見ると、緊急事態の継続という空気はあまり感じられない。しかし事実は、「緊急事態をまだ脱していない」と見るほうが正しいように思う。原発事故の状況は日々変化しており、予測できない事態も考えられることを思えば、どこか1局でいいから「原発事故の現時点の状況」をライブで伝えるところがあってほしい。被災後すぐのときも、原発の状況と被災地のレポートが番組の中で入り混じり、苛立たしい思いをもった。視聴者にメディアリテラシー(放送などを見てそれを自分の中で評価、順位付けする能力)がなければ、この放送の見え方からは今起きている事態を正しく判断することは難しい。被災地を取材し、被害にあって避難所にいる人々の困窮状態を広く世に伝えることにも意味はあるが、一刻の猶予もない原発事故の状況とそれが与える莫大な影響力を考えれば、最優先事項として監視、公開の必要があると思った。
直接の被災地ではない東京やその周辺の地域に住む人々も、計画停電や放射能の拡散で多少の影響は受けているわけだが、福島原発が福島の人々のためではなく、首都圏など関東を中心とする地域への電力供給源であることを考えれば、今、この機会をとらえて考えてみた方がいいことはたくさんあるはずだ。この原発事故の成りゆきを逐一監視するとともに、今後の都市生活の基盤について、自分の暮らし方について、日本の社会や世の中の仕組について、考えるポイントは数限りなくあるだろう。今回の地震、津波の被害状況、原発事故をつうじて、わたしの目のからは、日本人のもっているあまりよくない面が噴出してしまっているように見えてしかたない。
災害というのは自然現象に人間の存在が加わったとき初めて起こる。地震や津波も、人の住まない果ての地で起これば、たとえ地割れや水の進出などがあっても「災害」とは呼ばない。人間の生存や生活に影響を及ぼさないかぎり、単なる地質活動であり自然現象である。そう考えると、あらゆる災害は人災であると言えないこともない。もし三陸の海に近い地域に町や村がなかったなら、原子力発電所がなかったなら、今回の被災もなかった。この地域は869年に起きた貞観地震に始まり、江戸、明治、昭和と数十年から二百年余りの間隔で地震とそれによる津波の大被害が出ている。元来、日本は大きな地震が起こる地域であり、歴史的に見て多大な被害を受けてきた記録もある。一般に日本に住む人々の地震に対する知識や備えはそれなりにはあったと思うが、過去に大きな被害のあった地域に変わらず人々が住みつづけている状況を見ると、それがどのような理解であったかまでは想像が及ばない。市民だけでなく、電力会社のような企業もまた、地震国であることを自覚しながらも、危機管理において前時代的なところがあったのかもしれないと思える。
日本語の中の「NO」の心性
なんで英語の勉強をしたいの? と聞かれて、「英語だと、NOというのが楽に言えるから」と昔答えたことがある。相手はアイルランド系のイギリス人の女の子だった。自分でそう答えてみて、案外これは的を得ているな、と後々も思った。
No, I don't think so. いいえ、わたしはそうは思わない。
これが心理的ストレスや圧迫を感じることなく、率直に言える。それが嬉しかった。日本語だとそう言いづらかったのは、子どもの頃の内気さの名残りも多少あったかもしれない。今なら、日本語でも、いや、わたしはそうは思わないよ、と言えるようになったとは思う。でも相手や状況によっては、「そうねぇ、どうなんだろうね」と言って、やんわりNoの方向性を示すにとどめるかもしれない。
なぜ英語ではNOが言いやすいのか。わたしの分析では以下のようなことである。
英語において、No, I don't think so. と言うことが示している意味は、「わたしはそのことに関して、賛成ではない。そうは思わない。」という、そこで問題に上げられているコトに対しての、自分の態度の表明だと思う。問題の焦点は、そのコト自身にある。それに対して、日本語で「いいえ、わたしは賛成できません。そうは思いません。」と言うことが示しているのは、そこで問題になっているコトへの態度の表明であると同時に、その問題の発信者への不賛成も含んでしまうところがある、そのように思う。
たとえば、Aさんという人が社内会議で「この商品は、Xデパートでぜひ売りましょう」と言ったとする。それを聞いた同僚のBさんが「いや、それはダメだ。Xデパートは外した方がいい」と答えたする。そこではXデパートで売るべきかどうかが問題になっているわけだが、日本語でのやりとりでは、「いや、ダメだ」と言ったBさんの否定は、ときに、発言者であるAさんの存在や人格そのものまでを否定しているかのように、受けとられる。
何を考え、何を言うか、が発言者である人間にぴったりくっついていて、発言内容と人格を分けて考えることができにくいのが日本語ではないかと思う。思想や発言は、進化したり退化したり、何かの影響を受けて変わっていくもの、というのが英語の中での理解とするなら、日本語では、思想や発言は人格そのもので一生ついてまわるもの、変えることは難しい、という理解があるのかもしれない。だから「Xデパートで売りましょう」という意見へのBさんの反対は、Xデパートで売ろうと言うAさん自身に対しての不賛成にも見られてしまう。Aさん自身はもとより、それを聞いているまわりの人々にもそう受けとられる場合がある。
と、このように思うのだ。Xデパートで売るか売らないかの議論に入っていった場合も、日本語の世界では、問題そのものをいろいろな面から検討して議論しあう、という風になかなかならず、Aさんに付くのか、Bさんに付くのか、他の人はそれを見極めながら発言をする、という風になりがちだ。これは会社の会議だけでなく、PTAの会合での話し合いや、その他日本社会のあらゆる場面で見られることだと思う。子どもたちの世界でも、(大人を見習って)そうなっているかもしれない。
英語の世界ではそういうことがない、とは言わない。どこの国でも同じようなことは起きうる。ただ言葉の側面から見ていくと、何かを議論していく道具として、英語の方が言葉自身の自律性を保っているように感じるのだ。弁証法というのは、西洋の思想の典型のひとつだと思うが、弁証法を機能させるには、絶対的な言葉の自律性、あるいは言葉への信頼が必要だ。あの人が言っているということは、Aと言ってはいるが実はBのことなんだ、というような日本語の言葉の「含み」、あるいは言葉の「裏切り」は、弁証法には使えない。論を鋭く進めていくことが、不可能になるからだ。
弁証法は、ソクラテスの対話で言えば、異なる意見の主張を議論を重ねる中で、より真実に近づけようとする方法を指すらしい。またマルクス、エンゲルスの考える弁証法で言えば、「自然、人間社会および思考の一般的な発展法則についての科学」とされているらしい。いずれにしても、疑問や主張を重ねることで、議論が展開、発展し、真理や法則に近づいていくことを指すのだろう。論は論として自立できる。そこでは話し手の人格や属性ではなく、論自体、つまり言葉自体が問題なのだ。
では日本語では、弁証法的な議論はできないのか。論を論として扱うことは不可能なのか。そうは思わないと言ったとき、話の中味に対して異論を唱えているだけだと、相手にわからせることはできないのか。
そんなことはないだろう。日本語も言語の一つであり、道具なのだから。ただ、ある言葉ができるようになるということは、取得した人間がその言葉のもつ世界が理解できるということでもある。日本語が自由に扱えるようになったイギリス人は、日本人社会にも馴染んだ人である。だから仕草も含めて日本人的になっているだろうし、日本社会に違和感のない物言いをするはずだ。それとは反対に、日本語を生まれたときから話しながら、日本語の言葉としての自律性のなさに違和感を感じている日本人は、日本語を英語のような論法と表現で話すかもしれない。そういう人は実際には少ないだろうが、会社の中にいれば異彩を放つのではないか。あの人は原理主義者だ、と言われるかもしれない。日本社会では原理原則を基に話す人は、扱いにくい人となり、あまり好まれない。
将来、日本社会の中に、非日本人率がもっと増えてくれば、日本語の心性も変わってくるかもしれない。言葉は使う人間とその社会によって、変化するものだから。