日本人の読み書き能力
日本語について言えば、全体として、日本語を母語とする日本人の読み書き能力は上がっているのではないか、と思う。インターネットの普及以降、中でもメールやブログ、ツイッターを多くの人が普段の生活の中で使うようになってから、その傾向は高まっている気がする。ネットを使う人にとって読むこと、書くことは日常の遊びや習慣になっている。手紙とメールを比べてみると、手紙の時代では手紙を書くことはそれほどしょっちゅうすることではなく、それなりの非日常感や特別感があったと思う。メールにはそういうものはないし、時間の感覚がほぼリアルタイムなのでチャットと変わらないやりとりもできる。書いたり読んだりする機会が増えれば、当然「書く言葉(書き言葉ではなく)」の精度やバラエティが増すだろう。実際、ネットの様々な場面で読む日本語は、ブログであれ、料理のレシピであれ、スポーツ批評であれ、面白いものが多い。内容もユニークなものがあるし、書き方も適度なサービス精神があって読む人のことを意識して書かれているものもそれなりにある。やはり言葉は使うことで発展、進化していくものなのだろう。
日本語以外の言葉についてはどうなのだろう。日本語が母語であれば当然日本語の読み書きが最初にくるとは思うが、その他の言葉、たとえば日本人にとって最も習得率の高い英語についてはどんなものなのか。今の日本の学校教育でいえば、最低でも義務教育の3年間(小学校での英語学習も含めればもっとか)、多くはその先の数年間も英語を学ぶ機会がある。それほど短いとも思えない学習期間である。一般に中学、高校卒業程度の英語をマスターしていれば、ある程度の読み書き能力の基本は備わっているはずだ。
ただ多くの人が他の学科(生物や物理、地理、算数など)と同様、英語をただの学校の習得科目とみなして、普段の生活で利用していないように思う。周囲に英語を話す人がいないから機会がない? 確かに会話の英語はそうだろう。わたしの場合も毎日英語に触れているといっても、それは読み書きの英語である。実際に英語をつかって話す機会は年にわずかだ。使わなければその部分では当然衰えていく、あるいは上達しない。日本に住んでいるかぎりは、特別な環境にいる人でない限り、英語をつかってコミュケーションをとらなければならない機会は多くはない。
読み書きの方はどうか。少なくとも読むことついては、英語および英語の世界観に興味があれば、日常的に機会を得ることはできる。本、新聞、いろいろあるだろうが、インターネットをつかう人にとっては一番身近で安いのがウェブの英語を読むことだろう。そもそも英語で語られる世界観に興味がなければ、英語を習得することは難しい。日本語のうまい外国人の多くは、単に言葉ができるというのではなく、日本人や日本文化に興味をもっている。またそうでなくては様々な場面での日本語の用法を理解するのは難しいだろう。同じことが英語についても言える。その世界に興味なくして、ものを学び習得することは難しい。逆に言えば、英語の授業では、英語そのものを学ばなくても、英語の成り立ちや歴史、地理(地球上のどういう地域で使われているか)、世界における英語の扱われ方を知ることが、英語をよりよく知る道筋になるかもしれない。それは日本語での授業でかまわない。そうやって英語というものを理解することは、英語を身につける際に大切なことだと思うし、学ぶ意味や興味もそこから湧いてくる気がする。
小学校からの英語の授業、会話中心の英語、英語の授業は英語で、というのが最近の日本の学校英語教育における方向性だと思う。その目指すところは「グローバル社会」において誰もが英語能力を「身につけなければならない」が、その中心はコミュケーションが英語でできること、と言われているようだ。その際のコミュニケーションできる能力とははどんなものを指しているのか。挨拶ができる、外国人に道を聞かれたとき答えられる、旅行でホテルを予約したいとき役立つ、そういった日常会話的やりとりを想定しているような気がしないでもない。そうでないとするなら、どんなコミュニケーションをイメージしているのだろう。最初に書いたように、日本に住んでいるかぎり、特別な環境にいる人以外は英語を普段話す機会は今後もそれほどは増えないと思う。
道で外国人に呼び止められたときによどみなく英語で話せるようになることを目指すよりも、多くの人にとっては英語の読み書きが楽しめるようになった方が利益は多いのではないか。書く方は読むことが進んでいけば、自然にできるようになる。まずは読むことを通して英語の世界の周辺を興味をもって見ていくこと、英語を母語とする人だけでなく、英語を第二、第三の言葉として使っている人々ともアクセスできるので、ものを見る視点は確実に広げられる。日本のウェブサイトでは今でも一般に少ないが、他の言語圏では英語が母語でなくてもウェブサイトに英語版をつけるところは多い。いくつもの言語を習得するのは簡単ではないが、とりあえず英語がある程度の仲立ちをしてくれる。
今月末に葉っぱの坑夫でスタートさせた新しいプロジェクトでは、英語圏出身ではない作家たちの英語の文学作品を集めていく。英語圏へ移住した人々、過去に英語圏植民地だった国の出身者たち、そういう人々が今第二、第三の獲得した言語でたくさんの作品を紡ぎ始めている。インターネットの数ある英語文学ジャーナルを見ていると、ネットの普及によってもその数は爆発的に増えていくのではないかという気がする。英語は習得するのがそれほど難しくない言語、と言われているように、短期間に言葉を習得し作品を書くまでになる人もいるようだ。
書くことは人間の欲望の一つなのかもしれない、と思ったのは、スーダンの難民化した子どもたちの手記を読んだときだった。スーダンの内戦を生き延びるために、子どもだけで逃避行、難民キャンプ暮らしを送ったLost Boysと呼ばれる子どもたちの何人かは、後にアメリカに渡ってからそのときの体験を書き綴った。ケニアやエチオピアの難民キャンプの木の下の学校で、地面をノート代わりにしたり、破って分け合ったノートに半分に折った鉛筆で書きつけて覚えた英語が、本を書くときの言葉になった。ロスト・ボーイズたちは英語を取得するために、図書館から放出された本があれば熱心に読んだ。英語が生き延びるための道具になると考えていたからだ。アメリカに渡ったばかりの少年たちが(そのときはもう20代になっていたが)、スーパーマーケットの文房具売り場で目を輝かせて、ノートが欲しいと言った場面が印象的だった。ノートがあれば自分のアフリカでの体験が書き綴れると思ったのだ。書くことがそれほど大切なことだった。そしてキャンプで学んだ英語が本を書くために使えると思ったのだ。
英語で書く作家となった様々な出自の人々は、ロスト・ボーイズとはもちろん状況が違う。でも全く違うかと言えば、そうとも言えない。ロスト・ボーイズと同じように、英語で書くようになった作家たちは、故郷のことをときに故郷の言葉を交えながら書くことが多い。亡命作家でなくても、故郷の窮状が、そして故郷と外の世界とのギャップが書く動機になっている人も多く見られる。世界に未だ知られていない自分たちの実情を、自らの手で書かずにはいられない、という意味でロスト・ボーイズと共通点がある。そのときに英語という言葉を選択するのは、ひとつには読み手の数とバラエティが他の言語と比べて格段に豊富だということがあるだろう。彼らはネイティブ英語を話す人々のみに向けて書いているのではない。英語を解する、読める人々に向けて書いているのだ。その中にもちろん日本人も入っている。そのことを認識すれば、中学高校程度の英語であっても、英語でものを読むことに慣れようとすることは、意味あることに思える。その輪の中にもっと入っていっていい。
よく英語による世界覇権などという言い方がされるが、そしてエスペラント語のような特定の文化集団や歴史に依らない言語の存在も大きな意味があると思うが、現実的な手段として、地球上の広い地域で基本となる英語を元にした地域ごとのローカル英語が使われ発達し、あるいは移民たちの口を通して再構築された英語が広まり、様々な出自の作家たちが作品を書くことによって新たな英語が広められていくのは、素晴らしいことだ。同じ英語でも多様性を含んだ言葉が自律性をもって広がっていくかぎり、「覇権」のイメージはそれほどないし、世界に知られることの少ない地域言語、部族言語が世に知られる機会にもなっている気がする。
*4月末スタートの新しいプロジェクト:
「Birds Singing in New Englishes / とり うたう あたらしい ことば」(英語・日本語)
第一回寄稿作家:ハ・ジン、チカ・ウニグェ、タン・ドン・ホワイ
http://happano.org/birdsong/html/index.html