イスラム革命、ほんとうは何だったのか(2)
前回はアーザル・ナフィーシーのエッセイを例に、一人のイラン人女性作家がイスラム革命をどのように捉えているかを書いた。彼女の見方では、100年くらい前からイランに起きていた民主化自由化運動が、1979年のホメイニの革命で一気に後戻りし、女性のヴェール着用規定など社会のあらゆる面で画一化が起きたということになる。今回はさらに他の作家や学者の見方に触れてみたい。日本語の翻訳版も出ている「ペルセポリス」というマルジャン・サトラピの自伝的コミックは、最初の章「The Veil」でイラン革命時のヴェール着用の混乱を描いている。著者は進歩的な両親のもとに育ち、フランス式の学校に通っていたが、革命政権にとって退廃的で資本主義的なそのような学校は閉鎖されることになり、学校で子どもたちはヴェールの着用が求められる。サトラピの母親はヴェール反対のデモに参加し、身分を隠すため髪を明るい色に染めサングラスをかけていたという。ホメイニの革命政権が資本主義や帝国主義を目の敵にしていたのは、イスラム原理主義が共産主義やファシズムを基盤にしたものだったことと関係がある。宗教的側面とは別に、左翼急進派を味方につけて、「帝国主義」に立ち向かおうとしていたのだ。その帝国主義とは、女性やマイノリティの権利を含む、個人や文化の自由が含まれたものだった。
イラン系アメリカ人レザー・アスランの「変わるイスラーム」(藤原書店、2009年)は、イスラム教やイラン革命を理解する上で役に立った本。1906年の立憲革命の後、イラン革命の前にもう一つ民族主義革命と呼ばれる出来事があった。1953年、インテリ、宗教指導者、バザール商人らがイランの独裁政権を転覆させのだ。が、数ヶ月後、CIAの肩入れで王は復権する。脱イスラム化と世俗主義による近代化政策は、婦人の参政権や識字率の向上を目指す一方で、イスラム教勢力の弾圧や市民の自由の抑圧もあり、国民の反発も抱えていたと思われる。アスランによれば、1979年のイラン革命は、民主主義者、学者、欧米で教育を受けたインテリ、レベラル派と保守派の両方の宗教指導者、バザール商人、フェミニスト、共産主義者、ムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒、、、とあらゆる層の老若男女から圧倒的な支持を受けた革命だった。2月のテヘランの街頭に溢れた数十万人の群衆は、パフラヴィー王の抑圧的で専制的な治世への軽蔑心で心を一つにしていた、と言う。政党政治を無視し、憲法を廃止し、腐敗した無能な統治をしていた国王にとことん嫌気がさしていたのだ。
イラン革命は革命後のプロパガンダで言われるような、ホメイニの命令で始まった一枚岩的な革命運動ではなかったと言う。反帝国主義、民族主義、打倒現政権を唱える、立ち場の違う様々な勢力の中で、「ホメイニの声が一番大きかったにすぎない」とアスランは書いている。ホメイニはこういう人々の反発心をうまく利用して一つにまとめ、革命につなげた。前述のアーザル・ナフィーシーのエッセイの中には書かれていない、王の政権への反発や革命への民衆の求心力がここでは指摘されている。
ただし、ナフィーシーの指摘する革命後の宗教的強制がなかったのかと言えばそうではない。あったのである。ナフィーシーはその点を強調しているだけである。革命の基本条項としては、1906年の立憲革命と変わらない理想主義が掲げられていた。男女の平等、宗教的多元主義、社会的正義、言論の自由、平和的集会の権利などなど。それらがなぜ、革命後に実行されなかったかと言えば、既成の宗教指導者階級が巧みな操作によって、自らを道徳的権威としてでなく、国家最高の政治的権威者に仕立ててしまったからである。憲法はこのイスラム法学者たちに、政治や司法のあらゆる権限をもたらした。宗教指導者による絶対的支配の制度化を可能にしてしまったのだ。国民はその「不吉な潜在的重要性に気づかず」、国民投票において98%以上の賛成で新憲法は承認される。その結果、イラン国民は、パフラヴィー王時代とはまた別の圧政の元に押し込められることになった。
そして革命の翌年に起きたイラン・イラク戦争の中、国家安全保障という名のもとに言論の自由が封じられ、宗教指導者による全体主義国家体制が現実のものとなる。アスランによると、1906年、1953年は外国勢によって、1979年は既成の宗教指導者階級によって、横取りされた悲運の革命ということになる。
こうしてイランのここ100年の歴史を見ていくと、近代化や民主主義、宗教や言論の自由のある社会は、王政の中でもイスラム政権下でも実現されなかった。100年の中で3回もの革命を経験してもである。最後のイラン革命について言えば、多くの国民によって、腐敗した王政政治から抜け出す道として、大きな期待と支援を受けながらも、最後には裏切られる結果となっている。アスランによれば、イスラム世界はいま、キリスト教における宗教改革と同じ事態が起きつつある時代にあたると言う。人々が宗教指導者という特権階級や地域の宗教施設に頼ることなく、ムスリムとして自律的に生き、コーランに接することが可能になってきたからだ。コーランはいまや一部の宗教指導者が独占するものではなく、原語のアラビア語が読めなくとも、翻訳書を読むことで自分で解釈ができるものになった。また特定の宗教施設に属さなくとも、インターネットで好みの宗教指導者を見つけ、日々の疑問をぶつけることができるそうだ。複数の宗教指導者に質問をし、その中から自分に合った答えを取り入れる、こうなるともう、一種の人生相談と変わりがない。宗教が権威から離れ、個人の手の元に渡っている。
その手だてとなっているのが、翻訳とインターネットだという事実は、何とも興味深い。今後イスラム世界がどのように解放されていくのか、あるいはそうはならないのか、は興味あるところだ。イランにおける立憲革命、民族主義革命、イスラム革命と3回に渡る改革運動が、どれも基本理念としては、自由で民主主義的な解放された社会を理想に掲げていたのであれば、イスラム教自体が悪弊を生む問題の核心ではない、という推測が働く。イスラム教は多分、思想としては、自由で公平な理念と相反しないのだろう。ただ現実としては、3回の革命が失敗したように、自由な社会を展開し運営していけるだけの国の基盤がないのだ。国の基盤がない、という中には、為政者のレベルだけでなく国民全体の文明度、社会理解度も関係してくると思われる。もちろん一人の人間の能力は、生まれた場所や所属する社会によって多くを規定されている。しっかりした国の基盤は国民が支えるものだが、その国民は国の基盤の範疇の中からしか生まれない。
Firoozeh Dumasというイラン人作家の「Funny in Farsi」にこんなエピソードが出てくる。著者が7歳のとき、家族はイランからアメリカへと渡る。最初の登校のとき、母親が教室についてきた。父親の考えで、少しの間、付き添うのがいいと思われたからだ。本人も母親も英語を理解しない。教室で先生が新入生である著者を紹介するとき、世界地図をみんなに見せて、イランの場所を教えてもらいましょうと言う。そして母親に、イランの場所を示してください、と頼む。先生に促されて、母親は前に出ていくが、答えることができない。「Iran? Iran? Iran?」身振り手振りも交えて先生は聞くが、母親は答えることができない。最後に先生が理解したのは、母親は英語がわからないのではない、地理がわからないのだ。世界地図の中で自分の国がどこなのか、どこにあるのかを知らないのだ。著者の母親の世代では、女性が教育を受けることはあまりなく、良い夫を見つけることが女の一大事で、お茶を入れたり料理ができることこそが覚えるべきことだったという。
このような状況を「後進性」という言葉で言い表すことはできるが、これはイランやイスラム社会に限ったことではない。日本も過去においてそうだった。ある程度の民主的な社会を実現するには、国民を構成する個々の人間の「個としての能力」が必要になるのではないか。村や家族といった社会に従属するだけの個ではなく、自身が意味ある構成要員であることを自覚する個であること、それが個としての能力だ。
宗教というのは、イスラム教にかぎらず、「完全なる個」の存在とは相反するものなのかもしれない。個が確立されていない集団や社会ほど、宗教が力を発揮できる。宗教は信仰に関することだけでなく、社会のきまりや習慣、教育、政治、制度などあらゆることを支配下に置くこともできる。イスラム革命よって起きた社会の画一化は、イスラム教そのものと無関係であるとは断言できないが、その不合理性の多くはどこの社会でも起きうる、国と国民の進度の反映として見るのがいいように思う。