20110927

フットボール、その文化的側面(1)

*この原稿はアメリカのオンラインマガジンに英語で書いたものを日本語訳したものです。日本語版では一部、説明を加えたり、日本向けに変更したところがあります。こうやって両言語で書いてみると、改めてそれぞれの言語の読者の姿(前提としなければならない知識の範囲や常識)に思い当たり興味深いです。


CNNのワールドスポーツをケーブルテレビで見ていて、気づいたことがあった。ワールドスポーツは一日に何回か放送している「世界のスポーツ」を紹介する30分番組。そこで扱うスポーツは様々だが、ヨーロッパのサッカーリーグのニュースが結構多く、シーズン開幕前でも、夏のツアーや移籍情報、選手へのインタビューなどほぼ毎日何らかのトピックを扱っていた。アメリカはサッカーより、アメリカンフットボールやバスケット、野球の国だと思っていたので少し意外だった。

確かにCNNは世界2億世帯に視聴されているニュース網で、しかも「ワールド」スポーツなのだから、自国の嗜好とは別の放送をしていても不思議はない。そうであっても、日本ではこういう立ち場(世界視野)からのニュースがないので、意外な感じがする。

この夏、マンチェスター・ユナイテッドとバルセロナの両フットボールチーム(どちらも昨シーズンのチャンピオンズ・リーグのファイナリスト:ヨーロッパのクラブチーム最高峰を決めるリーグ戦)が、それぞれ夏のアメリカツアーを行なった。6月、7月はヨーロッパサッカーのオフシーズンで、多くのビッグクラブが世界各地でツアーをやっている。昨シーズンのファイナリストは揃ってアメリカツアーをやっただけでなく、対戦もした(このゲームでは昨シーズンの敗者が勝っている)。アメリカにはMLSというサッカーのメジャーリーグがあるが、実はそこには、ヨーロッパでかつて活躍したスター選手の何人かが、最後の選手生活を送っていたりもする。デイヴィッド・ベッカム、ティエリ・アンリなどの選手だ。マンチェスター・ユナイテッドは今回の夏のツアーで、MLSオールスターズのチームとも対戦した。こういうニュースを聞いていると、アメリカにも結構なサッカーファンがいるのではないか、そういう土壌が育っているのではないか、と思えてくる。

いずれにしても、サッカーは、選手、観客、テレビ視聴者において世界最大の人口数を有しているスポーツだ。子どもから大人まで多くのファンがいる。あらゆるスポーツの中で、もっとも影響力の強い競技ではないだろうか。サッカーはごくシンプルなスポーツだ。サッカーをするのに道具はいらない。数人のプレイヤーとボール一個あれば(もしボールがなければソックスを丸めて使えばいい、と言ったのは元日本代表の中田英寿)どこでもできる。

わたしはサッカーファン、テレビで見るだけの観客ではあるが。Jリーグ創成期に、一度だけ競技場に足を運んだことがあるだけだ。そうであっても、1998年のワールドカップ・フランス大会からずっと、サッカーを楽しんできた一人だ。その年、日本代表は長年の苦労を超えて、初めてワールドカップに出場した。それでテレビでいくつかの試合が放映された。決勝戦のブラジル対フランスの試合を朝早く起きて見たことを覚えている。ここからわたしのサッカー観戦が少しずつ始まった。

といっても、日本代表の話をしようとしているのではない。正直に言えば、「我が(国の)」チームというものにはまったく執着していない。わたしは日本で生まれ、日本で育ち、今も日本に住んでいる。日本人であれば、そしてサッカーファンであれば、95パーセントくらいの人(在日朝鮮人などを除き)が、日本代表を応援しているのではないかと想像される。でも実際のところ、サッカーファンであることと、愛国者であることは何の関係もない。一般にスポーツを見るとき、たとえばオリンピックなどでは、たいていの人は日本の選手やチームを応援する。それが当たり前と思われているし、テレビなどのメディアもそれを前提に放送している。しかしながら、それはスポーツの本質とはあまり関係ないことだと思うのだ。スポーツを戦争にたとえて言う人がいるのは知っている。が、今のこの時代、21世紀において、わたしにはそうは思えない。スポーツは、わたしたちが考えてきたよりもっと、心の広い、可能性を秘めたものではないか。

スポーツには考えてみるに足る、様々な側面がありそうだ。中でもサッカーはいくつかの意味深い点を有している。なぜならまず、サッカーは世界中の国々でプレイされてきた。豊かな国から貧しい国、キリスト教国からイスラム圏、共産圏から資本主義国まで。サッカーは地球上のあらゆる種類の人々に、ずっと昔からプレイされてきた。それはサッカーがごく単純なスポーツで、ボール一つあればどこでも遊べる競技だからだ。スーダンの難民キャンプで、子どもたちがサッカーで遊んでいると本で読んだときは驚いた。10歳前後の子どもたちが、食べるものも満足にない中、サッカーで遊んでいるのだ。そこでは飢えや病気で毎日死んでいく子どもがいるというのに。これは何を意味しているのだろう。サッカーで遊ぶことは、人間の本質、あるいはそれに近い部分と何か関係しているのかもしれない。わたしたちは食べ、眠り、子孫を増やし、そして遊ぶ。

わたしの好きなサッカーチームと言えば、韓国代表チーム。プレイスタイル、ファイティングスピリット、何人かの才能あるプレイヤーに惹かれてのことだ。韓国代表が日本代表と対戦するとき、もちろんわたしは韓国代表を応援する。アメリカ代表チームも好きなチームだ。彼らはいつも素晴らしいプレイをするし、ランドン・ドノバンのような選手は、強いハートでしばしば印象的なプレイを見せてくれる。ワールドカップ南アフリカ大会で、ドノバンは信じられないような決勝ゴールをあげ、見ている者の心をわしづかみにした。アルジェリア戦の後半ロスタイムでのことで、アメリカはグループリーグを突破するためにぜひとも勝ちが必要だった。だから彼のゴールは値千金のものだった。わたしはドノバンがイングランドのプレミアリーグ、エバートンでプレイしていたときを知っている。アメリカのクラブからのローンでの、たった3ヶ月のことではあったけれど、ドノバンは素晴らしいプレイを披露し、エバートニアンから熱狂をもって受け入れられ、愛されていた。その後彼はアメリカに帰ったが、エバートンのファンはそれをとても残念がっていたようだ。(つづく)

20110912

英文法の本を買ってみた

ここ2、3年、英文法をもう少し勉強しようと思い、いくつか本を買ってみていた。が、なかなかこれというものに出会えず、あきらめかけていた。どういうものをイメージしていたかというと、英文に関する総合辞書のようなものだ。英和辞典や英英辞典は、単体の言葉についての解説書だが、英文の構造や名詞、動詞、前置詞などの各要素について、体系的に詳しくきっちりとした説明がなされているものが欲しかった。

どうして英文法に興味があるのかと言えば、英文を書くとき、読むときにわからなくていろいろ迷うことがあるからだ。英語を意図して、系統立てて勉強したことがないので、何かと知らないこともあり、知識に穴がある。パソコンと同じで使ったことのあるソフト以外の知識がポカッと抜け落ちていたりする。自分が何を知っていて何を知らないかも、きちんと認識できているとは言いがたい。つまり文法の、あるいは英語という言語の全体像や成り立ちを把握できていないということだろう。

英文の読解にしても、文法の知識が理解を助けてくれることは案外あるものだ。英文を読んでいて意味がとれないとき、その原因にはさまざまなケースがある。一つは文章自体は何の問題もなく、難しいところもないのだけれど、その文がいったいそこで何を言わんとしているのか、なんで、あるいはどんなつもりで書き手はその文を書いたのかがすぐにわからないことがある。それはその文章そのものというより、その段落で扱っている内容がうまく理解できていないときに起こる。たとえばある人がブログで、ロンドンに行ったときの話をしていて、アフリカに関するコンファレンスに参加して素晴らしいディナーのもてなしを受けた、さらに次の晩には新しいArsenal Emirates Stadiumに招待された、と書いていた。そして「You could just about imagine Henry and the boys doing their thing.」と続く。いきなりヘンリーって誰れ? まあスタジアムって前の文にあるのだから野球場に関係した人? いやロンドンなんだから野球ではないか、などと考える。「boysが自分らのことをする」、boysとは?と思うかもしれない。アーセナル・エミレーツと言えばロンドンにある著名サッカークラブのスタジアム。Henryはヘンリーじゃなくてアンリのこと。フランス人のサッカープレイヤーで、アンリは苗字。だからboysはチームメートということになる。別に子どもというわけじゃなくて。エミレーツの中に入ってひと気のないフィールドを見ていて、アンリやチームメートがプレイしてる姿が目に浮かぶよね、と言っているわけだ。

次のケースとしては、文章自体が解読できないとき。そういうときは文の構造を分解して考えるわけだが、そういうことをするときの基礎知識として文法書は役にたつと思う。倒置されていたり、省略があったりして文の構造がつかみにくいこともある。考えてもわからないときは、知らない慣用句がどこかに混ざっているかもしれない。慣用表現は見た目でそうかなとわかるときもあるが、出会ったことがなければ知り得ない、想像もつかない意味をもっていたりもするものだ。母語でない言葉というのは、出会う事例がその言葉で育った人と比べて、圧倒的に少ない。それを補うにはたくさんの事例に意識的に出会っていくしか解決法はないと思う。ただそれ以外に、文法書を読んで、全体的な基礎固めをしたり、さまざまな例外を知っておくと役にたつとは思う。

わたしが今回買った英文法書は、どちらも辞書のような厚さの本で、一つが「英文法解説」(金子書房)、江川泰一郎さんの書いたもので初版から40年もたっているロングセラー本。もう一つが「ロイヤル英文法」(旺文社)。これをパラパラと気ままに読んでいる。普段からいろいろ不明なことをどこかに溜めていたりするので、その謎が解けて面白い。あー、そうだったのか、と。何の疑問もないところで、文法書を読むのは確かに退屈かもしれない。ということは、読み書きの実体験をしながら、ときに文法書を読んで頭の整理をする、というのが効率的なのだろうか。

英語の文法は比較的はっきりきっちりしているので、他の言語話者が取得するのに適しているとも言える。コンマやセミコロンなどの用法である句読法も、ルールがあるので覚えれば使いこなすことができる。と言っても、やはり最初は事例の中で使い方をなんとなく感じていて、後にルールを知ってより確実に身につける、ということかもしれないが。ルールというのは覚えておけば使える、ということでもないのかもしれない。音楽の和声学(西洋音楽においてハーモニーを作り連結するときの様々な規則)を学んだことがあるが、それを知ったからといって作曲ができるわけではない。逆に作曲の実践をしていく中で、疑問がでたり、何か違う手法のヒントが欲しいときに、和声学をやると役立つ、というようなものだ。

子どもが母語としての言葉を成長の過程で学ぶのと、生活用語、環境言語とは別にある言語を身につけるのはかなり違う体験である。ただ母語が環境の中で繰り返し耳にすることで身につくのなら、後天的な言語も繰り返し、さまざまな事例に出会うことで成長の枝葉を広げていけるはずだ。そのときの母や父、いや祖父母かもしれないが、その役割を担ってくれるのがもしかしたら文法書なのかもしれない。