<11>安倍晋三首相の「愛国心教育」を基点に、これからの日本を考える
愛国、という言葉には、どうしても排他的な響きがつきまといます。なぜあえて「国」と限定して言わなければならないのか。人を愛し、この世界を愛する、というだけでは足りないのでしょうか。「愛国」という言葉は、戦争が世界を動かしていた時代の名残り、あるいはその時代にに最も機能する言葉、と考えることもできます。
このシリーズの<4>で発言の一部を取り上げた、安部首相の教育基本法改正についての講演(YouTube:「一般財団法人 日本教育再生機構 大阪」での講演:前政権時)で、安倍首相のこういう発言がありました。
旧法は、「日本の教育法であるという、日本の香りがしてこない。まるで地球市民をつくるような、そんな基本法であった」
戦後つくられた教育基本法には「日本の香り」が足りない、と言っているわけです。そのあとにくる「まるで地球市民をつくるような」という言葉と合わせて考えると、安倍さんがどんなことを目指していて、何を言いたかったかが少し見えてきます。
地球市民という言葉は、確かに以前はSF小説の中にしか出てきそうもない現実味の薄い言葉でした。「地球」対「宇宙」のような視野の中で。しかし21世紀の今、それほど「夢のような」あるいは「バカげた」空想的な言葉ではなくなっています。地球主義(グローバリズム)という言葉が、流通しているのが何よりの証拠です。そして地球主義の世界に住むのは「地球市民」です。
今がどういう時代かと言えば、どの国の、どんな国籍の人も、地球全体の自然環境について真摯に考えなければならない時代です。また経済の「地球化」によって、モノと人が地球レベルの大移動をし続けている時代です。
こういう時代に、一国のことに、つまり自国のことにばかりこだわりすぎるのは、後退を生みます。方向性としてあまり良いとは思えません。安倍さんにとっては「日本の香り」の方が、(おそらくイメージとして無味乾燥な、あるいはあれこれ混ざりあって雑多な)「地球市民」より好ましく、親しみがもてるのでしょう。でもそれは一種の「晩年の懐古趣味」です。現実は違うところにあります。
<10>安倍晋三首相の「愛国心教育」を基点に、これからの日本を考える
英語版のウィキペディアでは、『多重国籍は、それぞれの国が市民権取得に関して違う法律を持ち、それが他国の法律にまで影響を及ぼさないことから生まれた。』とあります。どこにも基本原則は単一国籍などと書いてありません。さらに、『いくつかの国では、様々な状況に応じて、多重国籍は好ましくないとしたり、それを防ぐ手だてを施している』として、アゼルバイジャン、中国、チェコ、デンマーク、インド、インドネシア、カザフスタン、ネパール、オランダ、ノルウェーとともに日本をあげています。これらの国では、.他の国籍を取得すると自動的に、以前のものが失効するという説明です。
一方日本語版ウィキペディアでは、多重国籍を認めている国として、アメリカ合衆国、ロシア、カナダ、メキシコ、コロンビアなどをあげています。イギリス、アイルランド、フランス、イタリアなどEU諸国も含まれています。ここで表示された数字が正しいのであれば、日本版ウィキペディアの『国籍単一の原則が基本原則』やその方が一般的、という表現は少し問題があるように思えます。英語版に記されている、認めていない国の方が11ヵ国と少ないのですから。
日本版ウィキペディアの「多重国籍」の項がなぜ、「基本原則」や「一般的」などの言葉を使って、認めていない方が普通であるかのような書き方をしているのかはわかりません。
世の中の流れとしては、「国の縛り」が緩和される傾向にあります。EUの27ヵ国はEU圏内であれば期限の制約なく、どこにでも自由に住み、仕事をすることができます。国政選挙権や防衛など国の高位な省庁での公的な仕事は、国籍のある国でしかできないようですが。
このような世界の大勢から考えても、国家に対する個人のあり方や国籍に関する権利を、厳しく狭めたり限定したりする考え方、方向性は時代遅れのように見えます。ある国に生まれ、そこの言葉や文化を基盤にものを考えながら成長し、その過程で近隣の国々や少し離れた国の言葉や文化も知って、いいところは取り入れたりしながら、人間性を高めていく。その方がこれからの子どもには相応しいのではないかと思います。
<9>安倍晋三首相の「愛国心教育」を基点に、これからの日本を考える
日本において、愛国心とか伝統の話をするとき、家族の絆や血縁、血筋、といったことが言葉の裏に見え隠れします。愛国心を語るとき、郷土愛という言葉も同時に使われるケースも多いです。愛国心とは、日本人である(日本人の顔を持ち、日本語が話せ、日本の血筋であることを前提としている)ことに誇りを持ち、日本の国を愛し、郷土を愛すること、と言われています。
郷土と血縁、血筋は昔であれば、自然に一致するものでした。故郷、実家、家族、親戚一族、神社、寺、祭り、そういうものが一繋がりになって地域を郷土にしてきたわけです。
一方、移民や亡命などによって、郷土や血縁と切り離されたところで生きる人々もいます。日本では「移民」という言葉自体、ごく最近まで馴染みのない言葉でした。移民といって思い浮かぶのは、古い時代にブラジルやハワイへ渡っていった日系一世、二世のことでした。ここ十年、二十年の間に、アメリカの移民の話を耳にしたり、また日本でも海外からの移民者が増えて、「移民」という言葉が少し馴染みあるものになってきました。
これまで日本は日本人だけでできている、と信じていた社会に変化が現われたのです。以前は愛国心や伝統の話をするとき、自分も、親戚も、まわりの知人友人たちも、「まぎれもない」日本人である、ことが基本になっていました。
しかし現代においては、愛国心の出発点となるであろう国籍も、多様化しています。二つ以上の国籍を有する人も少なくありません。ウィキペディアで「多重国籍」で調べてみて、ちょっと驚いたことがありました。日本語と英語の記述に大きな違いがあったのです。
最初に読んだ日本語版の説明では、「人は必ず唯一の国籍を持つべき」という国籍単一の考え方が原則だ、と書かれていました。そしてグローバリゼーションに伴い、やむを得ず制限付きで許容する国家もある、と。何か変だな、と思い英語版の解説を読んでみました。(つづく)