20130722

本はデータじゃない? <2>


新しい世界、より民主的で自由度の高い社会、というものをイメージしたとき、「誰もが」出版できることは理想であり、目指すべき状態だと思う。現にインターネットはそれを実現している。多くの人が自分の体験や知識、あるいは創作を不特定多数の人々に配信し、読者はそれを共有している。料理のレシピなども、役立つ情報として重宝されている。それを可能にしているのがGoogleなどの検索システムである。種々雑多な情報の大海を、シンプルな検索ワードを入れるだけの1ページによって、グーグルは統合している。本と呼ぶかどうかは別にして、これも出版=publishの一つの形だと思う。

日本語の出版と英語のpublishとは少しだけ定義が違うように思う。日本語の出版は「版」を「出す」で、「版」とは、本の始まりとも言える活版印刷が、金属性の版をつくることで成り立っていたからだろう。また第一版、第二版というようなeditionの意味もあるかもしれない。いずれにしても、何か形あるものを「出す」というところにポイントがありそうだ。

一方英語のpublishの方は、ものを作る、形にするというよりも、何か情報なり知識なりを公表する、公開する、一般に知らせるという意図が強い言葉。金属版であろうと電子データであろうと、その方法や手段には関わらない。

どこの国にも、どこの世界にも、本とは紙の出版物のことであり、紙の本で読むのが一番いい、という人々はいる。日本に限ったことではないと思う。ただアメリカなどで電子書籍が広まるスピードと、日本での電子書籍をめぐる様々な逡巡を見ていると、「出版」と「公開」の間には大きな溝があるのかもしれない、と思う。

最近読んだ新聞記事で、日本のある作家が、次のようなことを言っていた。読書というのは全身運動のようなもので、ただ情報を得るだけでなく、手でさわり、ページを繰り、線を引き、付箋を貼る、という行為だから、ハウツー本はともかく、文芸作品では普及しないと思う、と。確かに電子書籍の場合は、手にもつのは読書のための電子機器であり、手ざわりという点では何を読んでも一緒だ。味気ない、まあ、わからないこともない。

日本では書籍は、いっしゅ工芸品的なものとしての意味あいもあり(たとえ工業製品であっても)、装丁なかでも表紙まわりのデザインには心がくだかれ、お金もかけられる。紙の選択や加工も重要で、ただ印刷するのとは違う。また多くの新刊本がハードカバーで出され、伝統的に「帯」とか「腰巻き」と呼ばれるものが、本体にカバーをかけた上に更にかけられている。こういうものを慈しみ、楽しみ、称賛してきた日本の読書人にとっては、電子データを入れた味気ない電子機器で本を読むなんて、と思うのはしょうがないことだ。時代が変わり、いずれこの習慣に慣れる時が来るにしても、時間がかかることは理解できる。(つづく)

20130715

本はデータじゃない? <1>

わたしたちの言う「本」とか「出版」の意味するものは本当は何なのか。電子書籍の時代に入った今、一度基本的なことから考え直してみたいと思った。

今年から来年にかけて出版する予定の三冊の本の準備を進めてきた。出版形態は電子書籍とプリント・オン・デマンド(以下POD)によるペーパーバック。葉っぱの坑夫はウェブ出版からスタートし、それと平行する形で、オンデマンド印刷機をつかった紙の本、オフセット印刷のアートブック、フォトムービーを収録したCD-R作品、キンコーズのコピー機によるzine、ネット印刷屋でつくった絵と写真の本、とここまで様々な「出力」方法を試してきた。

出版とデバイス(紙も入る)の関係は、この十年、十五年でずいぶんと変わってきたように思う。パソコンやインターネットが一般的になってきた時期と、だいたい重なると思う。本などの印刷が写植からDTP(デスクトップパブリッシング)へと定着したのもこの時代ではないか。葉っぱの坑夫もスタートが2000年なので、ぴったりこの時期におさまる。

デスクトップパブリッシング(DTP)という言葉には、新鮮な響きがあった。パソコンさえあれば、誰もが出版できるというイメージだ。最近、出版や組版についての専門家の本を読んでいたら、この夢のようなDTPができてから何年もたつけれど、個人が活用する例はそれほど多くなかったのではないか、とあった。どうなのだろう。同人誌などの非商業的活動では、個人のユーザーによってある程度使われてきたのではないか、と想像する。でもその場合も、デザイナーの手によって作られているかもしれず、おそらくこの専門家が言っているのは、必ずしもデザイナーではない者がDTPで本をつくる、という意味なのかもしれない。

DTPで本をつくる(組版する)には、専用のアプリケーションがいる。葉っぱの坑夫でも、当初アドビのPageMakerというソフトを購入し、組版の実験はしていた。その頃のアドビ製品は今と違って、プロではない個人ユーザーも範疇に入れていたようで、ウェブをつくるソフトも1、2万円程度であった。PageMillというソフトは後にGoLiveとなり、そのどちらも葉っぱの坑夫は活用していたが、2008年に終了してしまった。

おそらくその頃くらいから、アドビ製品はプロ仕様のみに転向し、個人が気軽に使えるソフトがほとんどなくなってしまった。DTPが当初目指していたものとは、違う方向に展開するようになったのだと思う。

そしてここ最近になって、電子書籍という本の形態が現実的なものとして市場に現われた。電子書籍のスタンダードはePubという形式のものだとされている。世界標準の規格ということだ。このePubの基本構成要素は、ウェブにつかわれているHTMLなので、それほど複雑なものではない。海外ではePubをつくるためのソフトウェアが開発され、フリーでダウンロードできるようになっている。パソコンとインターネットがあって、ソフトの使い方を学べば、誰もが電子出版をできる。
(つづく)

20130709

書評の世界

本が生まれ、流通し、読者の手元に渡る。それで本の世界が終わるわけではない。

その本にまつわる話がされ、批評され、誉められたりけなされたりする場が必要だ。わたしの印象では、日本ではこの書評の場というものが、侘しく寂しく、一方通行な感じがする。

日本で一番活発な書評の場と言えば、アマゾンのサイトのレビューではないだろうか。
アマゾンジャパンができたばかりの頃は、レビューがほとんどなく、ああこの文化はアメリカやヨーロッパのものなのか、、、とさびしく思っていたら、だんだん書く人が増え、中でもマイナーな本ほど活発なレビューがあったりして嬉しく思った。

余談だが、この頃、ノブナカヤマさんの「ハワイアン・ライト」という写真集のレビューを、アマゾンのサイトに書いたら、その年のベストレビュアー賞みたいなものをもらってしまった。ジェフ・ベゾスCEOの直筆の賞状(額入り!)が送られてきた。。。当時いかにレビューを書く人が少なかったかの証明のひとつ。

さて、アメリカのアマゾンのサイトでは、一般の人のレビューの他に、アマゾンのスタッフ(もしくはアマゾンが依頼した書評家)によるレビューが載ることもある。良い試みだと思うし、アマゾンが本や書評の世界を後押ししているイメージが伝わる。

今では当たり前のようになったこの企業側が設置したレビューサイト(もしくはスペース)だけれど、最初アメリカのアマゾンで見たときは驚いた。こんなに自由に一般人の書いたものを載せて、大丈夫なんだろうか?と。一つ星、二つ星をつけられて、さんざんなことを書かれたら、「商品に傷がつく」などと心配はしないのだろうか?というようなことだ。

まず日本の企業では無理だろう、と確信した。が、アメリカでやっていることは日本でも、ということなのか、アマゾンに関しては、日本でもレビューが始まった。おそらくアメリカで、一定の効果が上げられていたからだろう。そういう前例があれば、日本でもびくびくせずに始めることができる。他社がやって成功したことは、真似してもOKなのだから。

本を好きな人、ベストセラーだけでなく、マイナーな本も読み、わざわざレビューを投稿する人たちがちゃんと日本にもいる、ということがわかった。アマゾンの力である。

だけれども、アマゾンの外ではどうかというと、なかなかうまくはいっていないようにも見える。

ちょうど新刊を出したところなので、本を紹介したり、批評してくれるところを探していた。一般に、英語圏では、詩や文学に関するネット上のジャーナルのようなものは盛んだ。編集者や作家の顔が見えるようなスタイルで、マガジン形式で発行していたりする。日本は、となると、いろいろ当てをつけて探してみても、なかなか見つからない。コンテンツとお金が、結びつかないと登場するのが難しいのか。英語圏では、もっとパブリシティ的な役割や、作家を発掘する場として、文学ジャーナルは機能しているように見える。

「すばる」とか「新潮」とかの紙の文芸誌は、サイトをもっていても、紙の雑誌の宣伝(それもタイトルのみ)に終始しているように見える。それ自体で、コンテンツを紹介したり、書評を載せたり、受け入れたり、という姿勢はなさそうだ。ジャーナルと言えるようなものではない。これらの文芸誌はどれも刷り部数が少なく、読者が本屋さんで手にするのもままならないのだが、ネットをもっと活用すればいいのに、と以前から思っていた。

たとえば小説なり評論なり、書評やエッセイなど、プロの書くものと同居させる形で、一般から募集してもいいのではないか、と思う。広く開くことによって、文学にもっと活気をもたらすことだって可能だろう。

ところがこの「一般に募る」というところが、日本の社会では(あるいは企業では)いちばん苦手なのだ。理由はよくわからないが、面倒なことを引き受けたくない、ということかもしれない。あるいは、「消費者」は一生、消費者のままでいてほしい、という願いなのかもしれない。決して作り手や売り手の側には、来てほしくないのだ。あなたは買うだけ!

朝日新聞が大々的に宣伝して始めた、書評サイトBOOK asahi.comも侘しいサイトだ。「みんなのレビュー」という一般の人が投稿できる書評欄がある(ただし、はっきりと他と区別された区画で)。先日試しにここに登録してみた。最初にあった説明はごく簡単なもので、かなり不親切。

[アップロードはcsv形式のみ対応しています。ダブルクオートではさまれた、カンマ区切り10項目です。(ISBN13桁、ジャンル、★の数、読書ステータス、タイトル、レビュー本文、キーワード、作成日、更新日、読了日)日付はyyyy/mm/dd形式です。]

とあって少し例文が載っている程度。csvを知らない人はもうここであきらめるしかない。
試しに子ども用の洋書を登録してみた。何回もアラートが出る。タイトルに半角文字を使うなとか、キーワードは1つの単語で25文字以下にするように、など。

タイトルは、本のタイトルを書くのかと最初思って、英語で書いた。だめとわかり日本訳したものを入力した。するとキーワードの文字が25文字以上だからだめ、と出てきた。?? いや25文字以下ですが。でもキーワードの数が多すぎるのかな、と思い、減らしたりしていたら、突然! アップロード完了、と出てきた。

あとでわかったことだが、キーワードは「スペースを挟んで書くこと」と「レビューを編集する」のところへ行って、初めてわかった。ここに来るには、最初の登録を成功させなければ行き着けないのだから、不親切としかいいようがない。キーワードの区切りは、セミコロンなどでする場合もあり、スペースで切るのが常識ではない、と思う。最初のところでちゃんと説明するべきだろう。

また普通なら、ISBN13桁を入力すれば、自然に本のタイトル、著者名、出版社名が出るはずだが、この本に関しては、すべて空欄だった。洋書だから? でもアマゾンでも売ってるのだけれど。試しに別の本、東洋経済から出ている本をアップしてみたら、こちらはちゃんと表紙の画像も含めて、すべて正常に表示された。

そこで葉っぱの坑夫の新刊「私たちみんなが探してるゴロツキ」を登録してみた。ISBNを入れたにもかかわらず、表紙の画像も、タイトルも著者名も何も出ない。空白のままだ。おかしい。。。

ISBNという規格は世界的なもので、番号一本で、個別の本を特定できるはず。Book asahi.comは、ISBNを書け、と言っているけれど、サイトに反映させるのはどこかの(たとえば取次店)データベースに乗っているものだけ、とか? これについては、質問を朝日新聞にメールで送っているが、未だ返事はない。(すべての質問にお答えできるわけではありません、と確かに書いてあった。が、わたしが思うに、これは一種のバグだと思う。なにか原因を推測できる説明がほしい*)

とにかく、登録がしにくい、データベースがいいかげん、ということで、レビュアーが増えないのが現状のようで、みんなの本棚やレビューは、かなり寂しいムード。天下の朝日新聞が鳴り物入りで始めた書評サイトなのに。

日本で本を出版した場合、どうやってその存在を広く知らせたらいいのか。その方法はどれくらいあるのか、各サイト、メディアは、それに対してどれくらい開かれているのか。

いろいろサイトを見ていたら、個人の書評ブログがそれなりにあるらしいことがわかった。それを連携する場もあるみたいだ。そういうサイトの中から、本と相性のよさそうなところを探していくのも一つの方法、と思った。インターネットはフラットな世界だから、名のある大メディアが有効な場とは限らない。そこには希望がもてる。

*Book asahi.comでISBNを入れても、本のタイトルや著者名が出てこない理由が少しわかった。ISBNと本のタイトルを結びつけてデータベース化しているところ、たとえばBooks.or.jpに登録しておく必要がある。Book asahi.comではアマゾンが書店として書かれていたから、なんとなくアマゾンに本があればOKと思ってしまっていたが、それではダメなのだろう。試しに、すでにBooks.or.jpに登録してある本を、登録してみたら、本のタイトルなどが出てきた。そういうことだったのか。で、さっそく新刊もBooks.or.jpに登録をした。まだ反映されていないが、2、3日うちに認証されるのでは、と思う。そうしたらBook asahi.comで再登録すればいい。洋書はこの登録がどこにもされていない、ということなのだろう。それはそれで何とかした方がいいと思うが。洋書の書評だって必要だ。日本人だって、英語の本くらい読む。なにしろ小学校から英語の授業をする国になったのだから。

*朝日デジタルの担当者から返信のメールが届いた。本のタイトル等は、商用の書誌データベースを使用している、洋書は扱っていない、との返事だった。が、今日、書評サイトを見てみたら、、、洋書のタイトル、著者名も入っていた。洋書も扱えるようにしてくれたのだろうか???

ただ和書のタイトル、著者名、書影などが反映された登録の本も、キーワード検索にかからない。「経済援助」「ベトナム戦争」などのワードに対して出てくる本の中に、登録した本が含まれてこない。なぜなのだろうか。届いたメールに返信して訊いてみた。




20130701

ヴァージョンアップされた本づくり、出版の仕組



技術が進み、社会のシステムが整うと、個人の力が発揮されやすい世の中になる、はずである。実際、ここ10年くらいの間で、ずいぶん進歩があったと思う。特にデジタルツールやインターネットの世界では、昔では考えられないようなことが、個人でも実現できるようになっている。

さあ、道具は揃った、技術や知識を得る場所も探せばみつかる。あとは動機とやりたいという意志。資金や資材? パソコンとインターネット環境があれば、それほどのものはいらない。

今日、ここ何ヶ月間かかけて準備してきた本の入稿を済ませた。まずはPOD(プリント・オン・デマンド)の入稿を、明日は電子書籍の入稿をする。どちらもAmazon.co.jpに入稿する(間に、代理店が入ってはいるが)。

アマゾンでのPOD、Kindle用の本の出版は、今回で3回目。最初は既刊の本を新版として3冊まとめて出し、次にはキンドルの本を2冊出した。今回は1冊だけれど、海外作家の小説だったこともあり、内外のエージェントとの著作権交渉に始まり、最終の本の組版やデザインにも深く関わった。つまり本の制作のほぼ全行程を体験したと言ってもいいと思う。

使った道具は、Mac2台、Windows1台。今回の制作でメインマシンとなったのは、MacBook Proの13インチ。1年くらい前に、Power Mac G5がなにかと古くなってしまったため、サブマシンとして購入した。10万円ちょっと。昔はノートは割高だったので、買ったときはその安さに驚いた。それに高機能、高性能でもある。

テキスト原稿を書いたり、ワードやエクセルを使うのはG5。モニター画面が大きいし、マウスをつかって作業している。Windowsは自分のマシンではなく、間借り。パーティションで区切ったスペースを借りている。何に必要かというと、エクセルの新しいバージョンを使うときや、フリーやシェアウェアのソフトを探すとき、Macではあまりないので、必要になることがある。

今回、MacBookは、アドビ製品で組版するなど、本の実制作をする際につかった。今までは、マウスなしのトラックパッドでは作業が辛いだろう、と思っていたが、やってみればば特に不便なく使えた。

これまで紙の本のデザインは、デザイナーの人にお願いしていた。試みに、ページメーカーという組版ソフトをつかってみたこともあったが、実際にそれで本をつくり、出したことはない。

今回の本づくりでは、アドビのクラウド製品をつかった。前回の出版時にはクラウドシステムはまだなかったと思う。クラウド製品とは、ソフトウェアを購入するのではなく、月ぎめや年契約で使用権を得てソフトをダウンロードし、自分のローカル上でつかう。

昔はアドビ製品でも、個人レベルで買えるものが多くあったが、ここ最近はほとんどなくなり、10万円以上払わないと手にできなくっていて、不満がたまっていた。クラウドの場合は、購入ではないので、必要な期間のみ、契約すればいい。葉っぱの坑夫の場合は、今回、InDesignという組版、デザインソフトを1ヶ月単位で契約した。1ヶ月3200円。最初30日間の試用版で試し、その間におおよその操作を覚えた。これなら使えそう、ということで、1ヶ月の契約をし、その間に1冊の本の組版をやった。

クラウドは試してみる価値のあるシステムだと思う。ただし、不満がないわけではない。これについてはまたあとで書こう。