見知らぬものに目をひらく
自分の身近にないもの、よく知らないこと、毎日の生活や周囲の環境、人間関係と離れたところにあるもの、そういうものに興味をもつことはどんな意味があるのだろう。あるいは、そういうことにはそれほど意味がないのか。最近よく考える問題のひとつだ。
べトナムやガーナ、インドの作家の作品を訳していて、こういった国の人々の体験や考えていることが、日本の読者に興味をもたれるか疑問に思うことは多い。なぜよその国の人やことを知らねばならない? 自分の身のまわりにいっぱい面白そうなことがあるときに、どうしてよく知らない世界に首をつっこむ必要がある?
ある編集者と話していたときに、日本の読者は「よく言えば」いろいろ知っていて成熟しているから、あえて外の世界を知る必要も欲求もないのでは、と言われた。昔であれば、音楽でも文学でも、レベルの高いものや新しい情報は海外(主として欧米)からやって来て、作り手はいかに誰よりも早くそれに接して、そのことを日本に紹介したり、自分の作品に取り入れることが重要で、それが商売にもなった。受け手もそういうものをありがたがる傾向があった。しかし今は自前で(日本国内で)同等のものが得られるのだから、作り手も受け手もわざわざ外のものに目をやる必要もない、というような。
確かに文学ということで言うと、近年は海外の作品があまり読まれなくなっているのではないかと思う。書店の棚を見ていて、そう感じることは多い。文学自体の地位が落ちたこともあるとは思うが。「世界文学」などという表現が出てきて、欧米に偏らないもっとグローバルなところで、あるいはローカルなところで、作品を書いている作家に注目する、というような視点もないわけではないが、日本では概ねうまくいっていないように見える。注目度も低い。「欧米文学」と言っていたものを、(それだと今の時代に合わないので)「世界文学」と言い直しただけのような。
実際、著名な作家が監修した世界文学全集や、人気翻訳家が編集した世界文学アンソロジーの中身を見てみると、そこには目をひかれるような、新しいアプローチや発見があるわけではなく、ときに限られた候補の中から選んだものを、なんとか主旨に沿ってまとめたように見えるものもある。商品ということで考えれば、そして想定される読者層を考えたとき、すでに折り紙つきの作品を提供するのが精一杯、リスクがないと考えるのは理解できる。でももう少し、パッと目の前に新しい世界が広がるのが感じられるような、知らなかった世界に出会えるような気分になれるものがあったらと思う。おそらく単発的には存在していても、川の流れのようになっていないため、またガイドになるものがないため、たとえそういう本が日本語になっていても、気づかれる率も低くなってしまうのかもしれない。
いずれにしても、受け手の側に、文学に限らず外の世界のことに興味がない、というベクトルが支配的であるのなら、どんな試みも難しいだろう。お腹いっぱいの人に、こんな珍しい料理があると言って皿を並べるようなものだ。
ただエンターテインメントの世界に目を向ければ、ハリウッド映画に限らず、様々なコンピューターゲームや、本の世界でもハリー・ポッターや村上春樹がグローバルに受け入れられている事実はある。国や言語を超えてヒットするものがあるのは確かで、日本のユーザーもその一員になっている。特に若い層は、生まれながらにして、世界共通の環境基盤に立っている面もあると思うのだが。
先日Grantaという英語圏の文学ジャーナルの編集による、ブラジル作家特集号を読んだ。40歳以下の若手作家を選んで、英語に翻訳し短編小説集として編んだものだが、監修者によると、ブラジル文学はポルトガル語という言葉の壁もあって、世界に紹介されることが少ないそうだ。ポルトガル語が話されているのは、ポルトガルとブラジルが主な国。その短編集特集号の作品をほぼ全部読んだが、いくつかとても面白いものがあった。監修者が、彼らはブラジル人であると同時に地球(世界)市民でもある、と言っているように、地域性や「お国柄」を強調している作品はない。それでも(ブラジルの作家だという先入観もあるかもしれないが)、作品にはどこか見知らぬ土地、見知らぬ世界の人間たちの息づかいを知るという知的な楽しみがある。それはそこで取り上げられていた多くの作家が、「外からの目」(つまり世界市民としての目)をまじえてブラジルを語っているせいかもしれない。
そういう目をもつためにも、(どんなジャンルで活動するにしても)外の世界を知るという知的好奇心は必要ではないか。旅をしたり、よその国に住んだり、そこで働いたりすることは大きな経験になるだろうが、本を読むことでもある程度取得することはできる。
いま、アフリカがつむぎだす物語とは
ガーナの作家の小説を翻訳している。ニイ・アイクゥエイ・パークス、1974年イギリス生まれ、ガーナ育ちの作家。小説のタイトルは「青い鳥の尻尾」(仮題)。
ガーナはアフリカの西部にある共和国で、イギリス連邦の加盟国。1957年の独立までイギリスの植民地下にあった。イギリス連邦というのは、植民地だった国々が宗主国のイギリスによって結ばれている、緩やかな国家連合だそうだ。アフリカではナイジェリアやケニアなど多数あり、アジアではインドやシンガポール、オーストラリが含まれている。イギリスを入れて54ヵ国あるという。
この作家、ニイがイギリスに生まれたのも、ガーナが連邦加盟国であることと関係があるのだろう。ガーナ、あるいはアフリカの作家と聞いて、どんな小説を日本の読者は想像するだろう。小説以前に、アフリカと聞いて想像するもの自体が、かなり限られたものになってしまうのかもしれない。マサイ族の写真とか、アフリカの民族音楽であるとか、サバンナの野生動物であるとか。国際マラソンの大会を見ていると、アフリカ出身の選手が上位入賞するところはよく見かける。でもレースをする彼らを見たからといって、アフリカでの暮らしぶりを想像するのは難しい。
ヨーロッパのサッカーを見る人であれば、ビッグクラブで活躍するアフリカ出身の選手を知っているだろう。スーパーな選手がたくさんいる。彼らの中には、イギリス、フランス、ベルギーなどヨーロッパの国の国籍を持つけれど、出身や育ちはアフリカという人もいる。サッカー選手であるアフリカ人を見慣れている日本のサッカーファンにとっては、アフリカと言われて、マサイ族やサバンナより、高額所得者でロンドンやパリでスターのように暮らすアフリカ人を思い浮かべるかもしれない。
「青い鳥の尻尾」の物語の舞台には、日本人が思い浮かべるようなアフリカの奥地の村と、朝夕のラッシュアワーにはひどい渋滞が起こる首都アクラと、その両方が選ばれている。この対照的な配置は、この物語の主軸(テーマ)とも深く関係していると思われる。主人公の若い監察医と、事件のあった現場の村の老猟師、あるいは呪医の対照は、現在と近代化以前のアフリカを象徴している。
また二十代後半と思われる監察医自身の出自、履歴を見たときも、祖父や父はアクラ郊外の地元の漁師であり、電気がやっと通るなど前近代的な環境で子ども時代を過ごしたのち、イギリスの大学に留学し監察医となり、その後国に戻ってくる、という一人の人間の人生の中に、二つの異質な文化が流れている。職業が監察医であることも、このことを象徴的にあらわす図式として機能している。そしてピカピカのイギリス帰りの知性あふれるこの青年医(地元の人から「大卒」とか「出戻り」などと呼ばれることもある)が、奥地の村の前近代に触れたとき、どのような態度をとるか、ここもこの小説の一つポイントになっている。
本はデータじゃない? <7>
葉っぱの坑夫では、去年「
動物の森」(大竹英洋著)と「
たった一つの、私のものではない名前」(温又柔著)をキンドルとコボの電子書籍で出した際、表紙デザインをお願いした宮川さんに、どのような使われ方をするかを説明して作っていただいた。
結果、出来てきたものは、大きく太めのタイトル文字によるもので、ショップの画面に小さな画像で並ぶことを想定したものになっていた。これこそが電子書籍の表紙だ、と思ったものだ。
このように、従来の本の要素も、その使われ方によって、意味が重くなったり軽くなったりする。紙の本では表紙のない本など、考えられなかったが、電子書籍では、店頭のチラシのような役割となっている。
本文だけでも本になる、ということであれば、いろいろな境界を接しているものが、わたしも本です、と主張してくるかもしれない。
もとより長さ(本のページ数)の多い少ないは、本かどうかの基準にはなり得ない。PODでは、24ページ以下の本は(綴じの問題からか)できないことになっている。最大ページ数は確か800ページくらいだったと思う。これは本の定義の問題ではなく、あきらかに印刷する機械の能力(許容範囲)の問題である。
Send to Kindleという機能がキンドルにはある。それはウェブで記事やブログを見ていて、キンドルであとで読みたいと思ったときに、キンドルにそのページを送っておくというものだ。写真や絵も表示する。いくつかのブログやジャーナルのようなものをキンドルに送ってみたが、きれいに表示される。辞書も使えるし、普通の文書と同じ扱いだ。
今のところ、受け手側が自由にSend to Kindleをできるのは、Chromeというグーグルのブラウザのみだったかもしれない。あるいは、情報の発信元が自サイトにSend to Kindleボタンを設置する方法もある。葉っぱの坑夫も、これを試してみたのだが、ページ上にボタンを作ることはできたものの、いざそのボタンを押すと、問題が発生したというアテンションが出てしまい、実行できなかった。これはもしかしたら、今のところアメリカのみのサービスなのかもしれない。
こうしてキンドルに送られたテキストを読むという行為、つまりウェブのデータをキンドルに適応させて、読めるようにしたわけだが、これは読書とは言えないのか。つまり、これは本なのか、そうではないのか。
と書いてきて思ったのは、どっちでもいい、ということだ。本であろうとなかろうと、本を読むのと同じように、同じデバイスで文字を読む、小説やエッセイやその他の記事を読む。自分のしている行為が、読書かそうでないのか、悩む必要はない。
音楽をアルバムで聴く、という行為が減ったとしても、音楽の楽しみは変わらない。本が「本のパッケージ」に収まっていなくても、読む楽しみは変わらない。
本はデータじゃない? <6>
さて、タイトルの「本はデータじゃない?」ということをもう一度考えてみたい。
本とは何か、と言ったとき、定義の仕方にはかなり巾があるかもしれない。電子書籍登場以前のことで言えば、一般的なイメージとしては、紙に刷られた文字や絵の束に表紙をつけて綴じて、一まとまりの手にとって読めるものにしたもの、といったところか。
そこでは「印刷」と「製本」が欠かせない過程となっている。印刷の出力方法は特に問われない。文字原稿をワープロやパソコンで打っていても、印刷段階ではそれを直接出すのではなく、版をつくって刷る方が主流だった。版をつくらずにデータから直接印刷する方法も徐々に増え、その方が料金的にも安くなってきた。それが出来るか出来ないかで、つまり印刷の設備があるかないかで、競争力に差がついてしまったりした。
PODもデータをそのまま印刷機に流すタイプの印刷システムである。そういう意味では、ウェブのHTMLや電子書籍のePubなどと、作業の流れとしては同じと言っていい。物理的な仲介物、版を通さず、データをそのまま紙に出すか、あるいはディスプレイ表示ができるフォーマットに落とすか、の違いだけだ。
紙に落とされたものも、ディスプレイ用に変換されたものも、どちらも「本」と呼ばれる。データから本へ。本はデータからできている。
さらには、本とは、表紙があって、目次があって、扉があって、本文があって、、、というのが定型スタイルだったが、そうでないものも、本と呼べるかもしれない。
表紙などなく、いきなり本文で始まるものを、本じゃない、ということはできるだろうか。
西洋言語の本では、必ずといっていいくらい献辞や謝辞が冒頭にあるが、日本の本にはない。序文、紹介文といったものも、西洋の本ではよく見かける。日本の場合は、文庫本の後ろなどに「解説」というものがついている場合はある。
このように、本のスタイルは必ずしも一つではなく、習慣や文化背景、さらには本の内容や意図によっても変わりうるものだ。
電子書籍においては、表紙の意味が変わってきたように思う。紙の本は、これまでは本屋さんの棚で手にとって選ぶものだったことから、表紙は重要な役割を果たしていた。内容をあらわし、売るための顔づくりとしても意味があった。また買った人の本棚でも、表紙は他の本と区別する意味で、意味あるものだった。
しかし、電子書籍では、表紙はほぼネット書店で購入するときにのみ、目にするものである。どんな本か表すという意味は一応変わらないが、画面に表示されるのは小さな画像である(今のところ、ほとんどが紙の本からの流用のようだ)。ひとたび本を買ってしまえば、表紙を見る機会は少ない。
キンドルでは買った本を開くとまず表示されるのは、扉ページにあたるものだ。目次で「最初のページ」を選んだ場合も、そこが基本となる。わざわざ「表紙」という項目を選んで、見にいかないかぎり、表紙を見ることはほとんどない。
そういうことを考えると、電子書籍の表紙は、もしそれに特化して作るなら、ネット書店の画面に表示されることを想定してデザインするのがいい、ということになる。(つづく)