小説:どの言語で、誰に向かって書くか
この夏翻訳をしていたガーナの作家ニイ・アイクエイ・パークスの「青い鳥の尻尾」(Tail of the Blue BIrd)の入稿が終わった。今月中にペーパーバックとキンドルの両方で発売の予定。
現在本の紹介ページをつくっているのだが、その中で著者ニイのインタビューを掲載する。インタビューをお願いしたいと頼んだら、喜んで応じてくれた。最初に訊いたのは、使用言語について。ニイはこの本を英語で書いている。わたしが疑問に思っていたのは、ニイは英語で誰に向かって書いているのか、ということだった。この本には英語以外に複数の言語が出てくる。ガーナの現地語であるガ語、トゥイ語などの他、ピジン英語も出てくる。そしてニイは、章タイトルを始め、英語以外の言葉で出てくる表現や単語をほとんど翻訳したり説明したりしていない。
もしこの本がガーナの人に向けて書かれたのなら、それで充分なのかもしれないが、そうとも思えなかったし、またガーナで普通の人が英語で小説を楽しんでいるのか、それもわからなかった。それで誰に向かって書いていたのか、という質問をしてみたのだ。詳しくはインタービューが掲載されたときに読んでいただくとして、簡単に言うと英語で書いたのは、それが著者にとって一番書きやすい言葉だから、ということらしい。またガーナの人は中学、高校と英語で勉強をするので、英語の本は日常的に読むとのことだった。
ニイの母語はガ語(首都のアクラ周辺で話されている言葉)で、生まれたとき両親がイギリスに留学していたため、英語も近い言葉だったそう。両親はイギリスに住んでいたけれど、子どもをガ語で育てた。これは多くの移民家族と同じような状況だと思う。ニイが四歳のとき、両親はガーナに帰った。ガ語が話せたので、言葉の問題はまったくなかったとニイは言う。大学に行くまで、ガーナで暮らし教育を受けたため、ニイは自分の英語はガーナの文化によって形つくられた、と言う。
「青い鳥の尻尾」には複数の言語が出てくると書いた。ガ語やトゥイ語は英語圏の人には未知の言葉だ。なぜ一つ一つ、小説の中で言葉を説明しなかったのか、についてはインタビューでいくつかの理由をあげていた。そして誰に向かって書いたのかについて言えば、ガーナ国内、国外そういうことは考えなかったそうだ。ガーナでは人々は、意識せずに言語をどんどんスイッチして話していくらしい。チャンポン。そういうガーナのリアルな言語状況を文学の中で表わしたかった、とも言っている。またマンゴーが大好きな、知りたがり屋の少年時代の自分に、語っているように書いたとも。ガーナでは、子どもも最低3つの言葉は話すそうだ。
そこで日本の読者人や作家のことを思った。インタビューをする際、日本では英語で本を楽しむ人はあまり多くないこと、作家も英語で小説を書く人は稀だだということを説明した。何語で書くかという問題は、作家自身の書く能力と関係している。しかしニイは英語で書くことによって、ガーナ国内の人、英語圏の人、英語圏以外の英語で読書する人、を結果的に読者対象に選んでいる。そのことのもつ意味は何か。ニイは「青い鳥の尻尾」は、ガーナ人の英語、ガーナ人のものの見方から書かれているから、文章レベルではガーナ国内の人の方がより理解し、共感する部分が多いだろうと言う。しかし一方で、シェークスピアやウンベルト・エーコの小説との共通性をあげ、そういったものを楽しんでいるより広い範囲の人々も読者として捉えている。それは英語という言語で書かれたから、より広い範囲に伝わる可能性をつくっているのだ。
日本語で書く日本の作家はどうだろう。それは日本語で書く外国の作家とは、多少事情が違うかもしれない。意識の上で。
日本語で書く日本の作家は、日本語で書くことを選択しているだろうか。能力として他の言語で書けるかどうかは、ここでは関係ない。選択の意識なしに日本語で書く作家と、(たとえ他に選択肢がなくとも)日本語で書くことを選んで書いている作家とは、根本が違う気がする。その意識はおそらく、読者対象にも及ぶ。選択の意識なしに日本語で書く作家は、対象となる日本語で読む読者に対しても、無意識な部分があるのではないか。考えてみるまでもない、というように。しかし、日本語で読む人は、日本人とは限らない。そういうことがどれくらい意識の中にあるか、そういったことが、作家の資質に大きく影響するのが今の時代だと思う。
日本語で書くことが、小説の発想や書き方の範囲を狭めてしまっているとしたら残念なことだ。たとえ日本語で書いていても、発想や視野、考え方は日本語の世界内に縛られない、そういう作品は可能だと思う。作品の世界を押し拡げ、新たな読者層を生み出していくような日本語の小説が読んでみたい。