20131224

小説:どの言語で、誰に向かって書くか


この夏翻訳をしていたガーナの作家ニイ・アイクエイ・パークスの「青い鳥の尻尾」(Tail of the Blue BIrd)の入稿が終わった。今月中にペーパーバックとキンドルの両方で発売の予定。

現在本の紹介ページをつくっているのだが、その中で著者ニイのインタビューを掲載する。インタビューをお願いしたいと頼んだら、喜んで応じてくれた。最初に訊いたのは、使用言語について。ニイはこの本を英語で書いている。わたしが疑問に思っていたのは、ニイは英語で誰に向かって書いているのか、ということだった。この本には英語以外に複数の言語が出てくる。ガーナの現地語であるガ語、トゥイ語などの他、ピジン英語も出てくる。そしてニイは、章タイトルを始め、英語以外の言葉で出てくる表現や単語をほとんど翻訳したり説明したりしていない。

もしこの本がガーナの人に向けて書かれたのなら、それで充分なのかもしれないが、そうとも思えなかったし、またガーナで普通の人が英語で小説を楽しんでいるのか、それもわからなかった。それで誰に向かって書いていたのか、という質問をしてみたのだ。詳しくはインタービューが掲載されたときに読んでいただくとして、簡単に言うと英語で書いたのは、それが著者にとって一番書きやすい言葉だから、ということらしい。またガーナの人は中学、高校と英語で勉強をするので、英語の本は日常的に読むとのことだった。

ニイの母語はガ語(首都のアクラ周辺で話されている言葉)で、生まれたとき両親がイギリスに留学していたため、英語も近い言葉だったそう。両親はイギリスに住んでいたけれど、子どもをガ語で育てた。これは多くの移民家族と同じような状況だと思う。ニイが四歳のとき、両親はガーナに帰った。ガ語が話せたので、言葉の問題はまったくなかったとニイは言う。大学に行くまで、ガーナで暮らし教育を受けたため、ニイは自分の英語はガーナの文化によって形つくられた、と言う。

「青い鳥の尻尾」には複数の言語が出てくると書いた。ガ語やトゥイ語は英語圏の人には未知の言葉だ。なぜ一つ一つ、小説の中で言葉を説明しなかったのか、についてはインタビューでいくつかの理由をあげていた。そして誰に向かって書いたのかについて言えば、ガーナ国内、国外そういうことは考えなかったそうだ。ガーナでは人々は、意識せずに言語をどんどんスイッチして話していくらしい。チャンポン。そういうガーナのリアルな言語状況を文学の中で表わしたかった、とも言っている。またマンゴーが大好きな、知りたがり屋の少年時代の自分に、語っているように書いたとも。ガーナでは、子どもも最低3つの言葉は話すそうだ。

そこで日本の読者人や作家のことを思った。インタビューをする際、日本では英語で本を楽しむ人はあまり多くないこと、作家も英語で小説を書く人は稀だだということを説明した。何語で書くかという問題は、作家自身の書く能力と関係している。しかしニイは英語で書くことによって、ガーナ国内の人、英語圏の人、英語圏以外の英語で読書する人、を結果的に読者対象に選んでいる。そのことのもつ意味は何か。ニイは「青い鳥の尻尾」は、ガーナ人の英語、ガーナ人のものの見方から書かれているから、文章レベルではガーナ国内の人の方がより理解し、共感する部分が多いだろうと言う。しかし一方で、シェークスピアやウンベルト・エーコの小説との共通性をあげ、そういったものを楽しんでいるより広い範囲の人々も読者として捉えている。それは英語という言語で書かれたから、より広い範囲に伝わる可能性をつくっているのだ。

日本語で書く日本の作家はどうだろう。それは日本語で書く外国の作家とは、多少事情が違うかもしれない。意識の上で。

日本語で書く日本の作家は、日本語で書くことを選択しているだろうか。能力として他の言語で書けるかどうかは、ここでは関係ない。選択の意識なしに日本語で書く作家と、(たとえ他に選択肢がなくとも)日本語で書くことを選んで書いている作家とは、根本が違う気がする。その意識はおそらく、読者対象にも及ぶ。選択の意識なしに日本語で書く作家は、対象となる日本語で読む読者に対しても、無意識な部分があるのではないか。考えてみるまでもない、というように。しかし、日本語で読む人は、日本人とは限らない。そういうことがどれくらい意識の中にあるか、そういったことが、作家の資質に大きく影響するのが今の時代だと思う。

日本語で書くことが、小説の発想や書き方の範囲を狭めてしまっているとしたら残念なことだ。たとえ日本語で書いていても、発想や視野、考え方は日本語の世界内に縛られない、そういう作品は可能だと思う。作品の世界を押し拡げ、新たな読者層を生み出していくような日本語の小説が読んでみたい。

20131209

重訳から伝播訳へ


南アメリカの文学作品を集めて訳すプロジェクトを始めた。題して「文学カルチェ・ラタン」。ラテン語系の言葉が話されている地域、という意味で名づけた。南米では、ブラジルのポルトガル語に始まり、ほとんどの国がスペイン語圏。言葉の壁も多少問題となってか、南米文学が日本語に訳されるのは、それほど多くはない。それは英語圏でも同様のようで、元の言語がポルトガル語やスペイン語の場合、読者の広がりは英語ほどには伸びにくい。それでも南米の文学を英語に訳して、より多くの読者を獲得しようという試みは少しずつされ始めているようだ。

葉っぱの坑夫のプロジェクト「文学カルチェ・ラタン」は、そういった英語訳された南米文学から日本語に訳していこうという試みだ。ポルトガル語やスペイン語から直接訳すことができれば、それに越したことはないが、英語を通しての翻訳がよくないかと言えば、一概にはそうも言いきれない。少なくとも、そんな「重訳」をするくらいだったら、訳さないほうがまし、とは思わない。

確かに「重訳」という言葉にはあまり肯定的な響きはないのかもしれない。「オリジナル」から、どんどん離れていってしまうという恐れからくるものだろう。翻訳はいかに原著を忠実に訳すかが課題とされているからだ。

去年、パラグアイの作家の俳句集を日本語訳して出版した。スペイン語(一部現地語のグアラニー語)で書かれたものだが、著者の助けを借りて訳し終えることができた。スペイン語から直接訳したのだが、スペイン語があまり出来ない上に、俳句という極端に省略された言葉から意味を汲み取るのは、ときに難しかった。逆に俳句という単語を並べただけのような短い詩だからこそ、スペイン語ができなくとも、辞書を引き引き訳せたとも言える。

そのパラグアイの作家とは英語でやりとりをしていた(メール)。その人はアクラ(ガーナ)で2年ほど仕事してこともあり、英語が達者だったのでそういうことが可能だった。意味の取りにくい箇所や、確信がもてない俳句は、ひとつひとつ作者に訊いて丁寧に説明してもらった。パラグアイや南米の事情もそれほど知っているわけではなかったので、おおいに助かった。そうやって訳した100句は、内容的にはほぼ心配のないものに仕上がったと思う。スペイン語であるという壁は、決定的な障害にはならなかった。訳すことができて本当によかったと思う。著者も喜んでくれた。

そう言えば、本のタイトルを決めるとき、こんなことがあった。原題は"En Una Baldosa"というものだが、直訳すれば「一枚の敷石(タイル)の上で」というような意味。それはサッカーが盛んな南米らしく、サッカーでよく使われる表現だと言う。つまりゴール前の狭い場所で、超絶技巧をつかってディフェンダーたちがつくる防御壁をくぐり抜け、なんとかボールをゴールマウスに押し込むときの動きを表わしているらしい(ジダンのゴール前のプレイの動画を送ってくれたりした)。俳句は極端に少ない言葉数で、大きな世界を描くのが特徴。ゴール前で超絶技巧をつかうように、狭い限られた場所で、言葉の技をつかう、そういうところから思いついたタイトルだったらしい。

小さな敷石を何と言ったものか考えていて、「枡」がいいと思った。マス目の枡である。四角くて、小さくて、スペースを表わしているから。それで「一枡のなかで」、というタイトルにしようと思っていた。作者にそれを告げると、「踊る」という言葉のアイディアが出てきた。やはりゴール前の超絶技巧のダンスのような動きが頭にあったのだろう。なるほど! と思い、最終的に「一枡のなかで踊れば」という題に決めた。狭い場所で、男女が絡み合って踊るタンゴのようでもあり、イメージとして近いものが表現できたかなと思う。

このように翻訳というのは、言葉から言葉への単純な移し替えだけではないものが多く含まれている。そこに難しさもあり、面白さもある。

さて、最初の話に戻って、重訳だ。重訳という言葉のイメージには、ある言葉を別の言葉に移し、その移し替えられたものをさらに他の言葉に移し替える、そんな感じがある。それは確かなのだが、翻訳では言葉そのものだけに意味があるのではなく、そこで表わされている世界やビジュアルが重要だったりもする。作者は何をそこで言い、どんな絵を描いているのか。それを汲み取るのがポイントだ。

わかりやすい例として、以前に訳した「ヤールー川はながれる」のことを書いてみよう。著者は朝鮮半島出身の人だが、若いときにドイツに渡り、その小説はドイツ語で書かれた。わたしが読んだのはその英語訳だった。原著の中には、東アジアの文化を知っていれば、すぐに想像がつくものがいくつかあった。ドイツ語では、ヨーロッパ人に説明するために、それがどんなものかを丁寧に説明していたが、こちらは日本人なので、それに当たる直接の言葉をすでにもっている。たとえば習字のときの墨と筆とか。墨をするための道具について長々と説明しなくとも、硯(すずり)の一言で済んでしまう。こういうとき、「原文に忠実にせねば」と言って、そのまま訳す必要はない。原文がドイツ語で書かれ、ドイツの人に朝鮮のことを説明している、ということが自体が重要であれば別だが。

重訳の例として、ウィキペディアには宗教書のことが載っていた。「仏典の場合はサンスクリット・パーリ語の版から漢訳し、さらに日本語へ重訳されている。新約聖書の場合はギリシア語から他言語を経た版が日本語へ重訳されている。」 聖書や仏典に関して、重訳されたものだから信頼性がない、というようなことはあまり聞かない気がする。重訳されている、という意識が読む人にどこまであるのか、それもわからない。

重訳という言葉にはやや否定的なイメージがあるので、別の言葉をつかってはどうだろう。たとえば「伝播訳」とか。宗教書に限らず、翻訳は元々、原著の内容が広く世界に伝わることを目的としている。伝播するするために訳すのだ。よいこと、役に立つこと、世の中のためになること、面白いこと、美しいことを伝えるために翻訳は存在する。

伝播という言葉は、文化人類学の用語だそうだ。二つの文化が接触した際、一方の文化がもう一方に伝わること、受けた側がそれを受容することを指すらしい。翻訳はまさにその伝播作用だ。よいことを広く伝えること、伝わったものを受け入れること、それをまた別のところに伝えていくこと。伝播という言葉には、一回伝わったらもう終わりという二者の関係ではなく、次々に伝わっていくイメージがある。

文学カルチェ・ラタンを始めるために作品にあたっていて、何人かの海外の翻訳者とやりとりをしている。これまでは著者かその代理人と話すことが多かったが、今回は翻訳者たちと接触することが多い。地球上に散らばる様々な国籍の翻訳者たちのまわりには、二つ以上の文化と日々接していることからくる、豊かな世界が広がっているように見える。