非営利で出版することについて、改めて考える
葉っぱの坑夫は2000年4月の創設以来、非営利で活動してきた。非営利を表す.org(organization)がサイトのアドレスにもついている。何故非営利なのか、と当初からよく訊かれた。また2000年当時は、非営利団体という言葉はある程度流通していたものの、どこか慈善事業的なイメージがあり、アートとか出版とか創作の領域の言葉ではないと日本では思われていた。出版 ー 非営利??? という受けとめられかただったと思う。また非営利と言えば法人で、非営利法人として認可されるか、ということが注目されていたように思う。その場合、「非営利」よりもまずは「法人」資格を得るのが困難に見えた。
一方アメリカでは、当時から、個人や小さなグループの人々も、非営利の申請をして堂々「501(c) organization」のように税金免除の非営利として活動していた。出版などアートの領域の活動を非営利でしている人々がいた。そもそも日本では、非営利活動とは何か、ということが理解されていなかったのだと思う。非営利活動の要点は何かと言えば、活動によって得た利益をメンバーが私財として分配しないこと、である。通常の商業活動であれば、会社が得た利益の一部は、社長以下、給料として社員に分配される。しかし非営利では、活動に対する報酬はなしで、得た利益はその活動をより発展させるために蓄積され、次の事業の資金となる。(ただし活動メンバーではなく、活動を遂行するために雇われた人材には、対価が支払われる)
つまり活動している人は、お金のために何かしているのではない、ということ。では何のために、ただ働きしているのか。それは広い意味で世のため人のため、つまり自分が生きている社会あるいは世界を少しでもよくするためである。自由主義の世界で、人は何であれ好きなことができる、という前提はあるものの、経済に見合わないものは続けることが不可能だ。出版社であれば、売れる見込みのないものは出版は難しい。少数の者がその本を必要としていても、あるいは今後の世界に重要な意味をもつ先鞭をつける本であっても、マジョリティ(多数派)の興味を惹きそうもないものは出版されない。人々の興味を惹かないなら、それはそれほど必要なものではないのでは、と思う人もいるだろう。それはある言語で出版される本を享受する人々が、何を思って今生きているかと深く関係している。
葉っぱの坑夫では去年から今年にかけて、3冊の海外作家の本を出した。その内の2冊は難民、移民に関する本である。一つはベトナム戦争時に難民となった少女がアメリカに渡り、自伝的な小説を書いたもの。もう一つは、アフリカのスーダンで起きた長期の内戦から逃れた、ロストボーイズと呼ばれる男の子たちの回想録。アメリカのアマゾンのサイトでは、どちらの本にもたくさんのレビューがついている。それはアメリカが他国からの難民や移民を積極的に受け入れてきたことから、国は違っても同じような状況の人々やその周辺の人々がたくさん住んでいるからではないかと思う。一方日本は、難民、移民の受け入れには消極的であることから、「難民」「移民」といった言葉も、あまりなじみのない言葉として受けとめられている。
世界で起きていることは、直接日本の思想には影響しない、というのが現状だ。1998年に全世界で1200万枚のヒットとなったローリン・ヒルのアルバム「The Miseducation of Lauryn Hill」は、日本でもヒットした。しかしその受けとめ方は、はやりのヒップホップのスターの音楽というようなものだったかもしれない。アルバムタイトルのMiseducationが意味するもの、ヒルの意図はどれだけ日本の人に伝わっていただろう。Miseducationとは、教育が受けられない、あるいは間違った教育を受けている(黒人の)子どもたちの現状を表している。教育が得られないため、子どもたちが将来のない危険な立場に追いやられていることに異議をとなえているのだ。日本人がその意図を汲んでいなかったとしたら、それは日本には「黒人問題」や「人種差別問題」がないからだろうか。いや、ないと思っているからだろうか。
「The Miseducation」がヒットしたのは、世界中に彼女のメッセージをインパクトをもって受けとめる人がいたからだと思う。同じ意識を共有してる人々が、かなりの数いたからに違いない。日本では「黒人問題」「人種差別問題」「移民問題」「難民問題」などを扱った小説やノンフィクションは、売れる見込みがない。地球上に住む他の国や地域の人々と、こういった感覚を共有していないからだ。
葉っぱの坑夫が7月に出した「空から火の玉が・・・」は、この本をヒントにしたと思われる映画が、アメリカでこの秋公開される。大手ワーナーブラザースの映画なので、日本で公開される可能性もある。しかし何年か前、本の出版が日本で試みられたとき、出版社の「売れない」という判断で実現しなかった、という話を最近聞いた。商業出版では、売れる見込みの小さい本は出せない。おそらく出版社の使命として、こういうものが日本で読まれるようにしたい、という志は今は小さくしぼんでいるのではないか。生き残り競争が激しく、まずは商売としてやっていけなければ何も始まらない、という本音が見える。
そればかりか売れさえすればいいと、名のある出版社が、良識を疑われるような本を平気で出している例もある。最近、幻冬舎が「犯韓論」という本を出しているのを見つけて驚いた。角川書店の著名編集者だった見城徹さんが意気揚々と立ち上げた出版社で、山田詠美、村上龍、吉本ばなな(元)など人気作家の新刊6点を引っさげて登場したときのインパクトはよく覚えている。設立から20年、今も存在することは評価するものの、道義が疑われるような、しかもヘイトスピーチが社会問題になっている状況で、この本の出版を良しとしたのは、どんな考えからなのだろう。たとえ自費出版ラインである「幻冬舎ルネッサンス」から出たものであってもだ。因みにアマゾンのサイトで、この本にはたくさんの★★★★★マークがつけられたレビューが載っている。多くの日本語の読者から、この本が支持されているように見える。これがこの国の民主主義の姿だ。幻冬舎は読者の「ニーズ」を汲んで、売れる本をつくっただけ、道義的に非はない、という考え方もあるだろう。
売れることが第一使命の商業出版に対して、非営利出版の場合は、資金がゼロになってしまうと苦しいけれど、小さなお金で事業を動かすことができ、また利益を分配する必要がないから、売り上げを気にせずに出したい本、出すべき本が出せる。また最近はアマゾンの進出で、電子書籍やPOD(プリント・オン・デマンド)のペーパーバックなら、初期投資なしで新刊が出せるようにもなった。日本の読者層として今は土壌がないけれど、世界の潮流を見ても、こういうものが読まれるようになった方がいい、いずれそうなるだろう、という「売れない」本も、非営利+アマゾンの組み合わせで、日の目を見ることが可能だ。
もしかしたら日本人のものの考え方でいくと、誰も望まないものが世の中に存在しても意味がない、と思う人がいるかもしれない。しかしこれは間違った考えだと思う。ものの存在理由と、そこにいる人々の状況や視野のレベルは、まったく違うところから発生している。人々がどういう状況にあるかを考えることと、あるものの存在意義を考えることは全く別のことだ。
葉っぱの坑夫は非営利としてやってきたが、これまでの経験でいうと、その立ち位置が認められ、事業にとって優位に働いたのはすべて国外でだった。作品を翻訳させてもらう作家やエージェンシー、関連の出版社、ウェブサイトや写真などのアーカイブ機関など、非営利活動であることが証明できれば、作品提供や支払いの優遇などが考慮された。日本では「非営利活動」であると伝えても、怪訝な顔をされるか、「うちとは無関係」とけんもほろろな態度をされるのがほとんど。それはそういう経験が社会にも、企業にもないからだ。
葉っぱの坑夫をやってきた経験で言うと、非営利だから、あるいは非営利でないとできないことは世界にはけっこうあった。今、来年出す本のプランを練っている。売れるか売れないか、という見込みの基準は、葉っぱの坑夫では高く設定されていないので、作品の良さ、作品の存在の意味、それと現在の世界の状況(日本も含めた)を見据えて、何を本をにするか考えていくことになる。
一方アメリカでは、当時から、個人や小さなグループの人々も、非営利の申請をして堂々「501(c) organization」のように税金免除の非営利として活動していた。出版などアートの領域の活動を非営利でしている人々がいた。そもそも日本では、非営利活動とは何か、ということが理解されていなかったのだと思う。非営利活動の要点は何かと言えば、活動によって得た利益をメンバーが私財として分配しないこと、である。通常の商業活動であれば、会社が得た利益の一部は、社長以下、給料として社員に分配される。しかし非営利では、活動に対する報酬はなしで、得た利益はその活動をより発展させるために蓄積され、次の事業の資金となる。(ただし活動メンバーではなく、活動を遂行するために雇われた人材には、対価が支払われる)
つまり活動している人は、お金のために何かしているのではない、ということ。では何のために、ただ働きしているのか。それは広い意味で世のため人のため、つまり自分が生きている社会あるいは世界を少しでもよくするためである。自由主義の世界で、人は何であれ好きなことができる、という前提はあるものの、経済に見合わないものは続けることが不可能だ。出版社であれば、売れる見込みのないものは出版は難しい。少数の者がその本を必要としていても、あるいは今後の世界に重要な意味をもつ先鞭をつける本であっても、マジョリティ(多数派)の興味を惹きそうもないものは出版されない。人々の興味を惹かないなら、それはそれほど必要なものではないのでは、と思う人もいるだろう。それはある言語で出版される本を享受する人々が、何を思って今生きているかと深く関係している。
葉っぱの坑夫では去年から今年にかけて、3冊の海外作家の本を出した。その内の2冊は難民、移民に関する本である。一つはベトナム戦争時に難民となった少女がアメリカに渡り、自伝的な小説を書いたもの。もう一つは、アフリカのスーダンで起きた長期の内戦から逃れた、ロストボーイズと呼ばれる男の子たちの回想録。アメリカのアマゾンのサイトでは、どちらの本にもたくさんのレビューがついている。それはアメリカが他国からの難民や移民を積極的に受け入れてきたことから、国は違っても同じような状況の人々やその周辺の人々がたくさん住んでいるからではないかと思う。一方日本は、難民、移民の受け入れには消極的であることから、「難民」「移民」といった言葉も、あまりなじみのない言葉として受けとめられている。
世界で起きていることは、直接日本の思想には影響しない、というのが現状だ。1998年に全世界で1200万枚のヒットとなったローリン・ヒルのアルバム「The Miseducation of Lauryn Hill」は、日本でもヒットした。しかしその受けとめ方は、はやりのヒップホップのスターの音楽というようなものだったかもしれない。アルバムタイトルのMiseducationが意味するもの、ヒルの意図はどれだけ日本の人に伝わっていただろう。Miseducationとは、教育が受けられない、あるいは間違った教育を受けている(黒人の)子どもたちの現状を表している。教育が得られないため、子どもたちが将来のない危険な立場に追いやられていることに異議をとなえているのだ。日本人がその意図を汲んでいなかったとしたら、それは日本には「黒人問題」や「人種差別問題」がないからだろうか。いや、ないと思っているからだろうか。
「The Miseducation」がヒットしたのは、世界中に彼女のメッセージをインパクトをもって受けとめる人がいたからだと思う。同じ意識を共有してる人々が、かなりの数いたからに違いない。日本では「黒人問題」「人種差別問題」「移民問題」「難民問題」などを扱った小説やノンフィクションは、売れる見込みがない。地球上に住む他の国や地域の人々と、こういった感覚を共有していないからだ。
葉っぱの坑夫が7月に出した「空から火の玉が・・・」は、この本をヒントにしたと思われる映画が、アメリカでこの秋公開される。大手ワーナーブラザースの映画なので、日本で公開される可能性もある。しかし何年か前、本の出版が日本で試みられたとき、出版社の「売れない」という判断で実現しなかった、という話を最近聞いた。商業出版では、売れる見込みの小さい本は出せない。おそらく出版社の使命として、こういうものが日本で読まれるようにしたい、という志は今は小さくしぼんでいるのではないか。生き残り競争が激しく、まずは商売としてやっていけなければ何も始まらない、という本音が見える。
そればかりか売れさえすればいいと、名のある出版社が、良識を疑われるような本を平気で出している例もある。最近、幻冬舎が「犯韓論」という本を出しているのを見つけて驚いた。角川書店の著名編集者だった見城徹さんが意気揚々と立ち上げた出版社で、山田詠美、村上龍、吉本ばなな(元)など人気作家の新刊6点を引っさげて登場したときのインパクトはよく覚えている。設立から20年、今も存在することは評価するものの、道義が疑われるような、しかもヘイトスピーチが社会問題になっている状況で、この本の出版を良しとしたのは、どんな考えからなのだろう。たとえ自費出版ラインである「幻冬舎ルネッサンス」から出たものであってもだ。因みにアマゾンのサイトで、この本にはたくさんの★★★★★マークがつけられたレビューが載っている。多くの日本語の読者から、この本が支持されているように見える。これがこの国の民主主義の姿だ。幻冬舎は読者の「ニーズ」を汲んで、売れる本をつくっただけ、道義的に非はない、という考え方もあるだろう。
売れることが第一使命の商業出版に対して、非営利出版の場合は、資金がゼロになってしまうと苦しいけれど、小さなお金で事業を動かすことができ、また利益を分配する必要がないから、売り上げを気にせずに出したい本、出すべき本が出せる。また最近はアマゾンの進出で、電子書籍やPOD(プリント・オン・デマンド)のペーパーバックなら、初期投資なしで新刊が出せるようにもなった。日本の読者層として今は土壌がないけれど、世界の潮流を見ても、こういうものが読まれるようになった方がいい、いずれそうなるだろう、という「売れない」本も、非営利+アマゾンの組み合わせで、日の目を見ることが可能だ。
もしかしたら日本人のものの考え方でいくと、誰も望まないものが世の中に存在しても意味がない、と思う人がいるかもしれない。しかしこれは間違った考えだと思う。ものの存在理由と、そこにいる人々の状況や視野のレベルは、まったく違うところから発生している。人々がどういう状況にあるかを考えることと、あるものの存在意義を考えることは全く別のことだ。
葉っぱの坑夫は非営利としてやってきたが、これまでの経験でいうと、その立ち位置が認められ、事業にとって優位に働いたのはすべて国外でだった。作品を翻訳させてもらう作家やエージェンシー、関連の出版社、ウェブサイトや写真などのアーカイブ機関など、非営利活動であることが証明できれば、作品提供や支払いの優遇などが考慮された。日本では「非営利活動」であると伝えても、怪訝な顔をされるか、「うちとは無関係」とけんもほろろな態度をされるのがほとんど。それはそういう経験が社会にも、企業にもないからだ。
葉っぱの坑夫をやってきた経験で言うと、非営利だから、あるいは非営利でないとできないことは世界にはけっこうあった。今、来年出す本のプランを練っている。売れるか売れないか、という見込みの基準は、葉っぱの坑夫では高く設定されていないので、作品の良さ、作品の存在の意味、それと現在の世界の状況(日本も含めた)を見据えて、何を本をにするか考えていくことになる。