わたしのMOOC(ムーク)体験記<4>(9月~11月/近現代のアメリカの詩1⃣)
前回紹介した「音楽家としての能力を延ばす」が終わる8月末くらいから、新たな四つの講座の受講を始めた。9月の始めに、ビートルズの講座と同じジョン・コヴァチ教授のHistory of Rock(ロックの歴史)、デューク大学のSports and Society(スポーツと社会)、ペンシルベニア大学のModern & Contemporary American Poetry(近現代のアメリカの詩)がスタートし、その後少ししてサンジャシント山大学のCrafting an Effective Writer(効果的な書法を学ぶ)が始まった。
今回はペンシルベニア大学のModern & Contemporary American Poetry(近現代のアメリカの詩)について書いてみたい。実はそれほど大きな期待をもって始めたわけではなかったが、最初の授業からグッと惹きつけられた。授業は11月まであるのでまだ半ばだが、大きな影響を毎回のクラスで受けている。
この講座は略してModPo(モドボ=モダンポエトリー)と呼ばれている。先生はAl Filreisという中年の男性で、体格のいい声がよく響く、精力的な教授。大学敷地内にあるケリー・ライティングハウスという「詩を楽しみ、学ぶための家」で、数人の学生とともにディスカッション形式の授業が行なわれる。ケリー・ライティングハウスは教授のアルも、創設者の一人らしい。大きなテーブルを囲んでいっしょに学ぶのは、マックス、モリー、アンナ、デイブ、アマリス、アリー、エミリーらのクラスメート。
さて、わたしはコーセラの授業をビデオレクチャーを中心に受けているのだが、この授業では、それだけでは済まない感じで、Google Hangoutを利用したライブのセッションがしょっちゅう開かれている。メールで東海岸時間の〇〇時からどこそこでやります、というお知らせがよく来る。日本からだと14時間くらい時差があるので、開始時間が向こうの夜だったとき、1回だけ参加したことがある。主にケリー・ライターズハウスで開催されているが、他の場所のこともある。近くに住んでいるいる人は、会場に行って参加することもできる。
ビデオレクチャーは、この講座ではビデオディスカッションと呼ばれていて、実際先生が一人で話すのではなく、毎回生徒とテーブルを囲み、取り上げた詩について、ディスカッションを繰り広げる。先生は道案内という感じ。声のよく響く朗読向きの、やや剛腕にも見えるアル先生だが、もちろん民主的に授業を進める。一つの詩を解釈するのに、先生が自分の持論を繰り広げるのではなく、そこにいる学生に考えさせ、それぞれの見方や意見を言わせることで、課題になっている作品に迫ろうという趣向だ。それぞれのビデオディスカッションごとに、ネットの学生たちが参加できるボード上のディスカッション・フォーラムも設定されている。これも(わたしはなかなか時間がなくて、行く暇がないが)、どうも生徒がやるべき基本のセットアップのように見える。いかに詩について議論することが、つまり生徒がそれぞれ考え、意見を言い合うことが大事か、ということなのだろう。
さてこの授業の題目は、アメリカの近現代詩だ。最初の週に登場したのはエミリー・ディキンソン(1930 - 1986)とウォルト・ホイットマン(1819 - 1892)。ここからアメリカの近代詩はスタートした、ということだろうか。まず最初にディキンソンの "I dwell in possibility"を読んだ。可能性の家に住んでいる、という詩だ。ここでワクワクしたのは、詩を読んでいくときに、一つ一つの言葉の意味を入念に探っていくことだった。詩の言葉として、そしてわたしにとっては母語ではない言語の言葉として、どちらの意味でも冒険だった。possibilityとは何のことだ、fairとは、windowとはdoorとは、chamberとは何か、cedarは何を意味するのか。そうやって一語一語見ていく。これがまたとない勉強になる。詩の言葉の、そして英語という言語の。
たとえばchamberには部屋という意味があるが、この詩で言ってるchamberとは寝室のことらしい。それはわたしも読んだとき感じた。英和辞典には、私室から集会場までたくさんの意味が載っている。過去に日本語に訳されたこの詩を見ると、無難に「部屋」としているものが多いようだった。cedarはヒマラヤ杉だが、このクラスでの解釈では、部屋の壁であったり、チェストといったものに(防虫効果があることからよく使われるという)まで目を広げている。
第二週はタイトルが「Whitmanians & Dickinsonians」となっていて、ウィアム・カルロス・ウィリアムズ、アレン・ギンズバーグ、ロリーン・ニーデッカーなどの詩人の作品が取り上げられた。しかしここでは、タイトルにあるように、ホイットマンとディキンソンの詩というコンテクストを基に詩を読んでいくことになる。この授業では、それぞれの詩人の作品を、単独に、その作家の個性として読んでいくというより、アメリカの近現代詩という大きな流れの中で、その詩が何を果たしたか、何をしようとしたか、それは抵抗だったり革命だったりするのだが、そのことが重要事項として扱われる。
ディキンソニアンやホイットマニアンの対比として置かれるもの、それはそれ以前のビクトリア時代のものの考え方だったり、作品のあり様だったする。いわゆるトラディショナルなものへの異論であり、抵抗や革命なのだ。このあたりのものの見方、歴史観は西洋がいつも基本とする弁証法的な論理ということになるだろうか。日本ではあまり根づいていない考え方だと思う。しかしこのことがわかっていないと、近代以降のアメリカのどんな詩も、理解を間違う恐れがある、と気づいた。
第三週、四週のウィアム・カルロス・ウィリアムズ、ガートルード・スタインの詩を読んだ際には、それらが前の時代への違和感から生まれたものだという認識がないと、全く違った作品として読んでしまう可能性があると感じた。イマジスムの詩人として知られるウィアム・カルロス・ウィリアムズの詩は、第三週のほとんどを使って解析された。
中でも印象的だったのは、その作品がメタ詩として解釈されていたことだ。授業もそこがポイントだったと言ってもいい。メタ詩(meta poem)という言葉が、そもそも日本語で使われることがあるのか。グーグルでざっと調べた感じでは適切なものが出てこない。メタ小説というのは聞く。メタフィクションという言い方もある。それは小説についての小説、小説を括弧でくくってそれを批評するという態度から書かれた作品、ということになると思う。メタ詩というのも同じで、詩についての詩、詩というものをその書き方やスタイルを批評的な目で見て、詩という形にした作品ということになるか。
ウィリアムズの詩を授業でいくつか読んでいるときに、日本語に訳されたものがあるか、ネットで調べてみた。そしてのメタ感覚が、訳にどれくらい生かされているか見たいと思った。たとえばThe Red Wheelbarrow(赤い手押し車)という詩がある。最初にいきなり、so much depends / uponというフレーズがあった。何を言い出すのか、という感じだ。これがメタ詩であることを知れば、なるほどと思う。このフレーズのあとに、雨に光る赤い手押し車の短い描写がある、そういう詩だ。わたしが一行目、二行目を訳すとしたら、「こうも効果 / 的なのは」とでもするだろうか。つまり最初にそう言うことで、そのあとに出てくる描写を括弧でくくっている。しかしいくつかの日本語訳を見てみたら、「思わず / 見とれる」(思潮社『ウィリアムズ詩集』)、「こんなにも かけがえの / ないものなんだ」(京大の生徒か先生の論文)というように、 そのあとに出てくる描写を強調する、作者のエモーションの表現になっている。新潮社『現代詩集Ⅱ』では「あまり沢山 / のっかっている」とあり、それはまた別の解釈(depends uponの)ではあるが、次に出てくる赤い手押し車を描写しているという点では同じだ。
一つだけ違っていたのは、評論社『アメリカの現代詩 1900̶1950』で、そこでは「こんなにも 周囲(まわり)がひき立つものか」と、最初の二行がそのあとの内容を括弧でくくる役割を果たしている。もし日本語にメタ詩という言葉や考えがないとすれば、訳者が詩の「内容」を訳すことに専念したとしても無理はないと思う。しかしアメリカの近現代詩を日本語で読む上で、大きな問題をはらんでいる可能性がある。それはウィアムズのThis Is Just To Sayという詩でも感じた。いくつかの日本語訳を見た感じでは、やはり内容を括弧でくくる意識はあまりないように思った。この詩は妻が冷蔵庫にとってあったプラムを書き手の詩人が食べてしまった、ということを妻にメモ書きした風の(キッチンのメモのように)詩で、こういうスタイルでも詩は成立するか、という問いの作品ではないかと思う。わたしが見つけたいくつかの日本語訳は、どこか二人の関係性に注目している風で、その関係の甘さを表現したいように見えた。訳がほとんど昔のものなので、当時の日本人からするとわざわざメモを妻に残すなどというのは特別なことで(新婚の夫婦という解釈もあるようだった)、その内容こそが言いたいこと、と解釈したのかもしれない。しかしわたしの受けた印象で(そしてモドポの授業の流れで)言うと、言葉自体はメモ書き文体、あまりニュアンスが込められたものではなさそう。キッチンのメモなのだから。
メモ書きのようであっても、題材が美しい山や川、きれいな娘や愛でなくとも、つまりプラムや鍋やスコップでも詩は成立する、ということをモダニストの詩人たちは言っているのだと思う。(今では当然すぎることではあるが)
この授業では、詩というものを単独の作品として見ていくだけでなく、詩の歴史、詩人の歴史の中に作品を置いたとき、どのような意味と位置づけになるかを理解する、その方法論を学んでいる。詩というのは内容を読むもの、と思っていたところがあるので、目を覚まされたような気になった。また詩を書くという意味でも、詩はなんらかの感情を書くものだと思っていたが、アメリカの近現代詩では主として、詩のあり方も含めた思想を伝えるメディアなのだ、という印象を受けた。それはかなり新鮮な発見だった。