わたしのMOOC(ムーク)体験記<6>(4月~11月/感想まとめ)
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今年の4月からここまで八つの講座をコーセラで受けてきた。このブログでは個々の授業について具体的に書いてきたが、最後に全体としてのコーセラあるいはムークというものについて記しておこうと思う。
コーセラ以外のムーク体験があまりないので比較して、ということでは書けない。他のムークがどのようなレベルなのかわからないが、コーセラに関して言うと、仕組づくりは概ねよく出来ている印象だった。まず基本となる各講座のウェブページは、一つの方法論と様式できちんと統一されていた。クォリティも同一に保たれている。ムークではビデオによるレクチャーが基本だが、まずそのビデオのクォリティが、どの講座でも一定以上に保たれていた。たとえばページ内に表示されるビデオ画面の大きさや英語字幕などの機能、カメラワーク。YouTubeなど他のビデオ素材も補強素材や先生のオルタナティブ・セッションとして、ときにライブで放映されたが、基本講座はコーセラ独自のビデオ表示システムを使っている。横長のかなり大きな画面で、ディスプレイの8~9割くらいあるサイズ。大変クリアな映像で、音声も安定していて、気持ちよく見ることができる。学習環境として大切なことだ。
カメラワークは一定にしている(正面に据えている)ものが多く、やたら動かすこともなく、これも落ち着いて見ることができてよかった。近代詩の講座では先生の他に数人の生徒がいたので、左右に振って端にいる人を映したり、話者にズームすることはあったが、それも必要最小限だった(つまり正面の定位置で撮っているときは、両端の各2名ずつくらいはフレーム外だった)。この講座は、ケリー・ライティングハウスというペンシルベニア大学内の「詩の家」で開かれていたこともあり、毎回授業の最初の数秒間には、その建物周辺の木々や家の壁、バルコニーなどが美しく映像化され、教授の冒頭のしゃべりに乗って映し出されていた。
他の授業、たとえばソングライティングやビートルズの音楽に関する講座では、教授を正面にほどよい大きさで据え黒バックの背景で、話をじっくり聞けるようになっていた。カメラワークはほとんど据え置きだった。また、「スポーツと社会」の講座では、教授の背後に棚があり、そこにバスケットボールとかスポーツに関係した小物や用具類が飾られていた。この講座では教授のスタ―ンが週ごとに、どこかのチームユニフォームを着て現れ、それ以外にも教授のセレクトしたユニフォームがもらえる応募もあったようだ。授業の中で先生が何か重要なことをしゃべった場合、それが文字として表示されることもよくある。その文字の表示の仕方も過不足なく、また美しかった。写真や動画をビデオレクチャーの中で表示する場合も同様である。つまり映像に関して、プロによってきちんと細部まで管理されていたということだ。各講座の教授の服装は、概ねカジュアルなものが多く、「背広」姿の人はいなかった。スタイリストがついてるのかどうかまではわからないが、コーセラスタッフとのミーティングである程度話し合いがあったのではと想像される。週ごとに着替える場合も、統一感があった。たとえばスタンドカラーのシャツを着ている教授は、だいたいそのスタイルでシャツの色だけで変化をつけるなど。小さなことだが、落ち着いて気を散らさずに学習するのに必要なことだし、先生のパーソナリティを知るヒントにもなった。(一つ、二つ、日本のムークの授業をのぞいた感じでは、ビデオ映像に関してはコーセラのレベルにはないように見えた。)
授業のマテリアルはどうか、と言えば、講座によって差はあるが、それぞれ工夫があり全体としてかなり豊富だったと思う。どの講座もメインのページに、中心となるビデオレクチャー以外に、資料のアーカイブ(教授が薦める関係書籍や映画など)、グーグルハングアウトをつかったライブ放送、ディスカッションフォーラム、クイズ、提出課題、そしてコースの情報やスケジュールなどの項目が並んでいる。中でもディスカッションフォーラムは重要視されていた。わたし自身は時間がなくてなかなか参加できなかったが、クラスメートと授業内容について話し合い、わからないところや困ったことを教えあうことが推奨されていた。学校の勉強とは、ただ席にすわって受け身で聞いていればいいというものではない、ということだろう。実際の学校の反映と思われる。
教授が薦める本や映画も参考になったし、ネット上の無料で読める資料テキストやYouTubeで見れる映像作品も紹介されていた。多くの先生が授業に熱心で、コーセラを通じて世界中の学生とつながっていることに喜びを感じているように見えた。だから資料の提供も多く、ライブでのセッションもよく開いていて、そこにネットの学生がリアルタイムで参加できる工夫をしていた。何より先生自身が、こうしてネットで教えることに将来性を感じているのが感じられた。先生からのメールでのお知らせも多く、新しい週の始めには今週はこんなことをやりますからね、ライブでのセッションがあれば、何時から何をやるからぜひ参加して、という調子でかなりの数のメールがやって来た。先生がコミュニケーションを生徒とまめに取ろうとしていた(これもコーセラ自体の仕組や方針の一部と思われる)。
先生の教授法で気づいた点としては、どの先生もそれなりの(ときにかなりの)パフォーマーだということ。勉強を教えるというのは、ある種のパフォーマンスなんだ、と気づかされた。どんな言葉で授業を始めるか、身振り手振り、声の出し方、説明するときの言葉の選択。すべてがよく意識されたもののように見えた。無表情に何年も同じ内容のテキストを読み上げるだけの教授、というような人はいないようだった。非英語圏の生徒もかなりの数いると思われることから、概ねクリアなしゃべり方を心がけているように見えた。しゃべった言葉はそのままテキスト化され、生徒がダウンロードできるようになっているので、そのためにも、ある程度クリアにしゃべる必要がある。モゴモゴしゃべったりすれば {inaudible}(聞き取り不能)という文字が入ってしまう。二人以上の人がいっぺんに話すと {crosstalk}(混信)と出てくる。音声を自動でテキスト化しているのではないかと思うが(あるいはボランティアの手によるものか)、このテキストはレクチャーのあと、何か確認するのにとても役立つ。また英語を中心に(授業によっては中国語、韓国語、スペイン語などもあった)字幕として表示する仕組みもあった。
近代詩の講座では、世界各地の受講生が近隣に住む人とミートアップ(オフ会)する、どこかで会って授業について話し合ったりする会ももたれていたようだ。そこにビデオレクチャーでおなじみの学生の誰かが合流することもあった。講座のウェブページに写真入りで、どこの町で誰と誰がミートアップした、というようなお知らせが時々載っていた。これも受講生にとってライブ感、参加感を高めるものだ。
以上がここ数ヶ月、コーセラの授業を受けて感じたことだ。各授業の内容、各先生のレベルや熱意とともに、コーセラがプランしデザインしている仕組そのものが優れている、という印象が強かった。こういうものを高いレベルで生み出すことのできるアメリカという国、国力や経済が下り坂と言われながらも、まだ(たとえば)日本のような国ではやりおおせることではない。
これを書いたあとで、日本のムークでウェブデザイン関係の講座を二、三覗いてみた。Photoshopの使い方のヒントなど実生活にすぐに役に立つものがいろいろあって、なかなかいいと思った。生放送を主体としていて、生徒が一緒に授業を受けることに価値を置いているように見えた。リアルタイムのチャット機能を使い、授業中に生徒が感想を書き込んだりしていた。先生側がそれを読んで応答する場面もある。「着席しました」ボタン、「なるほど」ボタンなど、日本人が好きそうな「インタラクティブ性」も盛り込まれていた。
実用的な日本のムーク、アカディミック(学究的)なアメリカのムーク、それぞれの国民の知に対する要求の特徴が出ているのかもしれない。
コーセラ以外のムーク体験があまりないので比較して、ということでは書けない。他のムークがどのようなレベルなのかわからないが、コーセラに関して言うと、仕組づくりは概ねよく出来ている印象だった。まず基本となる各講座のウェブページは、一つの方法論と様式できちんと統一されていた。クォリティも同一に保たれている。ムークではビデオによるレクチャーが基本だが、まずそのビデオのクォリティが、どの講座でも一定以上に保たれていた。たとえばページ内に表示されるビデオ画面の大きさや英語字幕などの機能、カメラワーク。YouTubeなど他のビデオ素材も補強素材や先生のオルタナティブ・セッションとして、ときにライブで放映されたが、基本講座はコーセラ独自のビデオ表示システムを使っている。横長のかなり大きな画面で、ディスプレイの8~9割くらいあるサイズ。大変クリアな映像で、音声も安定していて、気持ちよく見ることができる。学習環境として大切なことだ。
カメラワークは一定にしている(正面に据えている)ものが多く、やたら動かすこともなく、これも落ち着いて見ることができてよかった。近代詩の講座では先生の他に数人の生徒がいたので、左右に振って端にいる人を映したり、話者にズームすることはあったが、それも必要最小限だった(つまり正面の定位置で撮っているときは、両端の各2名ずつくらいはフレーム外だった)。この講座は、ケリー・ライティングハウスというペンシルベニア大学内の「詩の家」で開かれていたこともあり、毎回授業の最初の数秒間には、その建物周辺の木々や家の壁、バルコニーなどが美しく映像化され、教授の冒頭のしゃべりに乗って映し出されていた。
他の授業、たとえばソングライティングやビートルズの音楽に関する講座では、教授を正面にほどよい大きさで据え黒バックの背景で、話をじっくり聞けるようになっていた。カメラワークはほとんど据え置きだった。また、「スポーツと社会」の講座では、教授の背後に棚があり、そこにバスケットボールとかスポーツに関係した小物や用具類が飾られていた。この講座では教授のスタ―ンが週ごとに、どこかのチームユニフォームを着て現れ、それ以外にも教授のセレクトしたユニフォームがもらえる応募もあったようだ。授業の中で先生が何か重要なことをしゃべった場合、それが文字として表示されることもよくある。その文字の表示の仕方も過不足なく、また美しかった。写真や動画をビデオレクチャーの中で表示する場合も同様である。つまり映像に関して、プロによってきちんと細部まで管理されていたということだ。各講座の教授の服装は、概ねカジュアルなものが多く、「背広」姿の人はいなかった。スタイリストがついてるのかどうかまではわからないが、コーセラスタッフとのミーティングである程度話し合いがあったのではと想像される。週ごとに着替える場合も、統一感があった。たとえばスタンドカラーのシャツを着ている教授は、だいたいそのスタイルでシャツの色だけで変化をつけるなど。小さなことだが、落ち着いて気を散らさずに学習するのに必要なことだし、先生のパーソナリティを知るヒントにもなった。(一つ、二つ、日本のムークの授業をのぞいた感じでは、ビデオ映像に関してはコーセラのレベルにはないように見えた。)
授業のマテリアルはどうか、と言えば、講座によって差はあるが、それぞれ工夫があり全体としてかなり豊富だったと思う。どの講座もメインのページに、中心となるビデオレクチャー以外に、資料のアーカイブ(教授が薦める関係書籍や映画など)、グーグルハングアウトをつかったライブ放送、ディスカッションフォーラム、クイズ、提出課題、そしてコースの情報やスケジュールなどの項目が並んでいる。中でもディスカッションフォーラムは重要視されていた。わたし自身は時間がなくてなかなか参加できなかったが、クラスメートと授業内容について話し合い、わからないところや困ったことを教えあうことが推奨されていた。学校の勉強とは、ただ席にすわって受け身で聞いていればいいというものではない、ということだろう。実際の学校の反映と思われる。
教授が薦める本や映画も参考になったし、ネット上の無料で読める資料テキストやYouTubeで見れる映像作品も紹介されていた。多くの先生が授業に熱心で、コーセラを通じて世界中の学生とつながっていることに喜びを感じているように見えた。だから資料の提供も多く、ライブでのセッションもよく開いていて、そこにネットの学生がリアルタイムで参加できる工夫をしていた。何より先生自身が、こうしてネットで教えることに将来性を感じているのが感じられた。先生からのメールでのお知らせも多く、新しい週の始めには今週はこんなことをやりますからね、ライブでのセッションがあれば、何時から何をやるからぜひ参加して、という調子でかなりの数のメールがやって来た。先生がコミュニケーションを生徒とまめに取ろうとしていた(これもコーセラ自体の仕組や方針の一部と思われる)。
先生の教授法で気づいた点としては、どの先生もそれなりの(ときにかなりの)パフォーマーだということ。勉強を教えるというのは、ある種のパフォーマンスなんだ、と気づかされた。どんな言葉で授業を始めるか、身振り手振り、声の出し方、説明するときの言葉の選択。すべてがよく意識されたもののように見えた。無表情に何年も同じ内容のテキストを読み上げるだけの教授、というような人はいないようだった。非英語圏の生徒もかなりの数いると思われることから、概ねクリアなしゃべり方を心がけているように見えた。しゃべった言葉はそのままテキスト化され、生徒がダウンロードできるようになっているので、そのためにも、ある程度クリアにしゃべる必要がある。モゴモゴしゃべったりすれば {inaudible}(聞き取り不能)という文字が入ってしまう。二人以上の人がいっぺんに話すと {crosstalk}(混信)と出てくる。音声を自動でテキスト化しているのではないかと思うが(あるいはボランティアの手によるものか)、このテキストはレクチャーのあと、何か確認するのにとても役立つ。また英語を中心に(授業によっては中国語、韓国語、スペイン語などもあった)字幕として表示する仕組みもあった。
近代詩の講座では、世界各地の受講生が近隣に住む人とミートアップ(オフ会)する、どこかで会って授業について話し合ったりする会ももたれていたようだ。そこにビデオレクチャーでおなじみの学生の誰かが合流することもあった。講座のウェブページに写真入りで、どこの町で誰と誰がミートアップした、というようなお知らせが時々載っていた。これも受講生にとってライブ感、参加感を高めるものだ。
以上がここ数ヶ月、コーセラの授業を受けて感じたことだ。各授業の内容、各先生のレベルや熱意とともに、コーセラがプランしデザインしている仕組そのものが優れている、という印象が強かった。こういうものを高いレベルで生み出すことのできるアメリカという国、国力や経済が下り坂と言われながらも、まだ(たとえば)日本のような国ではやりおおせることではない。
これを書いたあとで、日本のムークでウェブデザイン関係の講座を二、三覗いてみた。Photoshopの使い方のヒントなど実生活にすぐに役に立つものがいろいろあって、なかなかいいと思った。生放送を主体としていて、生徒が一緒に授業を受けることに価値を置いているように見えた。リアルタイムのチャット機能を使い、授業中に生徒が感想を書き込んだりしていた。先生側がそれを読んで応答する場面もある。「着席しました」ボタン、「なるほど」ボタンなど、日本人が好きそうな「インタラクティブ性」も盛り込まれていた。
実用的な日本のムーク、アカディミック(学究的)なアメリカのムーク、それぞれの国民の知に対する要求の特徴が出ているのかもしれない。