是枝監督「そして父となる」の真意は?
先日、地上波民放で映画「そして父となる」を見た。是枝さんの作品は、「幻の光」以来、「誰も知らない」「空気人形」などいくつかを見ていて、それなりに関心をもっていた。今回の映画は、出生児の子どもの取り違え事件がテーマになっている。
内容についての感想を書く前に、見ていて、カルチャーショックを受けたことがあったので、そのことを少し。地上波の民放なので、商品宣伝映像(CM)が挿入されることはわかっていたが、その頻度と量には驚かされた。昔(どれくらいかと言うと、かなり昔。10年単位か)は、最初の20~30分はCMなしで、ある程度ストーリーに視聴者が入りこんだあたりから、頻繁に入るというのが通常のスタイルだったように思う。しかし「そして、、、」では、もうのっけからCMがバンバン入ってきた。その後は、部分的に少し間があくところがあったかもしれないが、概ねCMの嵐で、印象としては本編とCMを交互に見せられたような感じだ。
この放送が特別なのか、今はどこでもこうなのか、わたしには判断がつかない。地上波の民放を見ることがほとんどないからだ。この映画は「地上波初」とあったので放映料が特別高かったとか、あるいは、最近はテレビのCMが昔より価値を下げているので、量でこなす必要があるからなのか。CSのシネフィルイマジカという映画専門チャンネルの場合、映画の中にはCMは入らない。スターチャンネルなど他の映画専門チャンネルでは、長編映画の間に3、4回はCMが入るが、まあ我慢できる程度、限度を超えているとは思わない。
もちろん、地上波民放とCSの有料チャンネルでは、視聴料の取り方が違うので比較はできない。タダで見れるだけありがたいと思え、ということかもしれない。そうわかっていても、やはり、あのCMの入り方はやや異常だと感じた。実際、最初の15分くらいのところで、見るのをやめようかとさえ思った。しかしリアルタイムではなく、録画で見ていたので、CMは早送りでやり過ごした。録画機に自動のCMカット機能がないので、リモコン片手に本編 → リモコン早送り → 本編 リモコン早送り、を繰り返した。
映画をタダで見れることはありがたいが、この見方だと不満が残る。おそらく、今後どうしても見たい映画を見る場合は、地上波では見ないだろう。せっかく自分の時間をつかって、期待する作品を見るときに、何を見ていたかわからなくなるような見方はしたくない。ネットなり、DVDレンタルなりでお金を払って見るだろう。まだまだ選択肢が少ないが、オンデマンド方式で過去の映画を有料で見るのが、一番理にかなっているかもしれない。
さて前置きが長くなってしまったが、「そして父となる」について。実は見終わって、よくわからないすっきりしない感じが残った。是枝監督はこの映画で何を表そう、伝えようとしていたのだろう。そこのところがわたしには、よく理解できなかった。リモコン片手の落ち着かない視聴ではあったが、全編それなりに集中して(何かほかのことをしながらではなく)見たのだが。
物語は、二つの家族のそれぞれの息子(6歳)が、産院で取り違えられたことが判明したところから始まる。病院側からの連絡で、その事実が二家族に伝えられる。一方の家族は、電気店を営み三人の子持ち、もう一方の家族はエリート社員の夫に専業主婦の妻、子ども一人の家庭。それぞれの家庭内環境や子どもへの接し方の違いが描写される。二つの家族の祖父母も出てくる。
子どものDNA鑑定をして事態がはっきり証明されると、二家族の困惑は最高潮に達する。「6年間育てた子どもが、他人の子だった」、あるいは「自分の子どもが、6年間他人に育てられていた」というショック。そして二つの家族は、交流をしながら解決策をさぐるが、「早いうちに」なんとかした方がいい、という気持ちに突き動かされていく(ように見えた)。そして二人の子どもは、ある日、交換される。二度目の交換だ。一度目は病院のミスで、二度目は両親の手で。子ども自身の気持ちは、まったく無視されているように見えた。まあ、そういう親の身勝手さを、是枝監督は描きたかったのかもしれないが。
人間の場合、親が子どもの面倒をみる期間は、15、6年から20年くらいだろうか(30代後半になっても、まだ親に面倒をみられている「子ども」も、最近は増えているかもしれないが)。そうであれば、すでに6歳の子は、あと10年もすれば、親の庇護から逃れていくはずだ。この映画で問題になっているのは、どちらの家族と暮らすか(住むか)ということのようで(もちろん親権をどうするか、はあるが)、そのことで言えば、対象となる年月は長い人生の中で見れば、短い期間とも言える、永遠というわけではない。そのことを頭において、解決法を探った方がいいのではないか、と感じた。なぜこの人たちはそのことに気づかないのか、そんな疑問がわいた。
もしそのことが頭にあれば、少なくとも「早いうちに」なんとかしなければ、という焦りからは解放される。この「早いうちに」という思想は、「まだ6歳なのだから、一個の人間としての意識が芽生える前に」なんとかしてしまえば、あとに影響が少ない、ということなのかもしれない。しかし6歳というのは、自意識もあり、自分の親やそれまで過ごしてきた家族との関係を、感情とともに充分蓄積している年齢だ。
この二つの家族の親が、まず考えなければならなかったのは、この6歳という時期の、それぞれの子どもに与える影響ではなかったか。どうやったら子どもに衝撃を与えずに、大人になるまでの一定期間(6歳から16歳くらいまで)を通過させるか、ということを一番に考えるべきだったと思う。そしてその間に、親とはなにか、子とはなにか、血のつながりとは、血縁のない親子とは、、、と自分たちに降りかかった問題の外に広がる、普遍的なことをもっと深く考え、探ってみてもよかったのではないか。親がそのように考え生きることは、必ず子どもたちにも伝わるはずだ。そして真実を告げる時期、どのように話すか、などの答えも、そうして暮らす10年くらいの経験から自ずと出てくるのではないだろうか。
この二つの家族の親たちがこだわっていたのは何か、というと、真実つまり血のつながりの有無に集中しているように思えた。確かに、血のつながりに強くこだりを見せる日本の社会を考えると、この映画は事実を描写した「リアルな」映画なのかもしれない。そこが食い違うことが、最大の衝撃であり、問題である、というような。
最近読んだ日本の小説で、こんなシーンがあった。東京に住む5人家族が、父親が関係した犯罪のせいで家を追われ、西表島に引っ越すことになる。主人公は小学6年生の男の子、二郎。突然、母親から東京を離れることを告げられ、二郎は言葉をなくす。すると母親がこう言うのだ。「もちろん、あなたたちは永遠に親のものではないので、自立できると判断した時点で、独り立ちしてもかまいません。ただ十五歳までは、おとうさんおかあさんと一緒に暮らしましょう。だから今現在の友だちとは、一旦お別れです」(奥田英朗「サウスバウンド」)
この母親の言葉の中には、親が絶対的存在という価値観は感じられない。小学6年生であれば、15歳まであと3、4年のことだ。今、友だちと別れるのは辛いだろうが、それも「一旦」のことなのだ。このように子どもの人生を見ることができれば、「そして父となる」の家族にも、もう少し広がりのある解決法が思い浮かんだのではないか。
映画も小説も現実に対しての真摯な態度は求められると思うし、リアリティは大事だ。しかし現実がこうだからと、その通り描く必要もないように思う。たとえば、「そして、、、」の映画の中のエリート社員の妻の方は、『母親なのに、なぜ産んだときに、自分の子ではないと気づかなかったのか』という罪悪感にさいなまされる。夫はやや自分勝手で自信過剰ぎみなエリート社員で、妻は夫に従い自分を低く見ているふしがある(昔風のではないが)。こういう夫婦関係の中で、なぜ自分の子ではないと気づかなかったのか、という妻の悩みは発生する。
少なくとも、現実にありそうな夫婦設定をしたとしても、映画全体に監督がそれに対してどう思っているのか、が現れていてほしい。是枝監督は現実の日本の社会とそこで生きる人間をリアルに描くことで、満足していたのだろうか? 映画には、その先の何かが求められるべきだと思う。それとも、わたしのこの映画の見方になにか足りないところ、見逃しているところや勘違いがあるのだろうか。カンヌ映画祭では、この映画は聴衆から多くの拍手を受けたと報道されている。しかし日本の聴衆と同じ受けとめ方をしているとは限らない。日本の外の国では、親子あるいは実子や養子に対する考え方が違うからだ。
一つだけ印象に残ったシーンがある。二つ家族が交流しはじめた頃、遊技場のようなところで、子どもたちを遊ばせる場面があった。四人の子どもたちが夢中になって一緒に遊んでいる。それを見つめる親たちの解放されたような、楽しげな表情。ドキュメンタリータッチで描かれたこのシーンは、人間が生きることがどんなものかを活写しているように思えた。親役の俳優たちは、この場面では素のようにも見えた。子どもが楽しげに転げまわっているのを、大人が(親であれそうでなかれ)見て喜んでいる、笑っている。子どもが心から楽しそうに遊んでいるのを見ることの喜び。それは人間の一つの真実だ。この場面で表されているようなことを、映画全体で表現できていたら、もっと素晴らしい作品になっていたのではないかと思う。
内容についての感想を書く前に、見ていて、カルチャーショックを受けたことがあったので、そのことを少し。地上波の民放なので、商品宣伝映像(CM)が挿入されることはわかっていたが、その頻度と量には驚かされた。昔(どれくらいかと言うと、かなり昔。10年単位か)は、最初の20~30分はCMなしで、ある程度ストーリーに視聴者が入りこんだあたりから、頻繁に入るというのが通常のスタイルだったように思う。しかし「そして、、、」では、もうのっけからCMがバンバン入ってきた。その後は、部分的に少し間があくところがあったかもしれないが、概ねCMの嵐で、印象としては本編とCMを交互に見せられたような感じだ。
この放送が特別なのか、今はどこでもこうなのか、わたしには判断がつかない。地上波の民放を見ることがほとんどないからだ。この映画は「地上波初」とあったので放映料が特別高かったとか、あるいは、最近はテレビのCMが昔より価値を下げているので、量でこなす必要があるからなのか。CSのシネフィルイマジカという映画専門チャンネルの場合、映画の中にはCMは入らない。スターチャンネルなど他の映画専門チャンネルでは、長編映画の間に3、4回はCMが入るが、まあ我慢できる程度、限度を超えているとは思わない。
もちろん、地上波民放とCSの有料チャンネルでは、視聴料の取り方が違うので比較はできない。タダで見れるだけありがたいと思え、ということかもしれない。そうわかっていても、やはり、あのCMの入り方はやや異常だと感じた。実際、最初の15分くらいのところで、見るのをやめようかとさえ思った。しかしリアルタイムではなく、録画で見ていたので、CMは早送りでやり過ごした。録画機に自動のCMカット機能がないので、リモコン片手に本編 → リモコン早送り → 本編 リモコン早送り、を繰り返した。
映画をタダで見れることはありがたいが、この見方だと不満が残る。おそらく、今後どうしても見たい映画を見る場合は、地上波では見ないだろう。せっかく自分の時間をつかって、期待する作品を見るときに、何を見ていたかわからなくなるような見方はしたくない。ネットなり、DVDレンタルなりでお金を払って見るだろう。まだまだ選択肢が少ないが、オンデマンド方式で過去の映画を有料で見るのが、一番理にかなっているかもしれない。
さて前置きが長くなってしまったが、「そして父となる」について。実は見終わって、よくわからないすっきりしない感じが残った。是枝監督はこの映画で何を表そう、伝えようとしていたのだろう。そこのところがわたしには、よく理解できなかった。リモコン片手の落ち着かない視聴ではあったが、全編それなりに集中して(何かほかのことをしながらではなく)見たのだが。
物語は、二つの家族のそれぞれの息子(6歳)が、産院で取り違えられたことが判明したところから始まる。病院側からの連絡で、その事実が二家族に伝えられる。一方の家族は、電気店を営み三人の子持ち、もう一方の家族はエリート社員の夫に専業主婦の妻、子ども一人の家庭。それぞれの家庭内環境や子どもへの接し方の違いが描写される。二つの家族の祖父母も出てくる。
子どものDNA鑑定をして事態がはっきり証明されると、二家族の困惑は最高潮に達する。「6年間育てた子どもが、他人の子だった」、あるいは「自分の子どもが、6年間他人に育てられていた」というショック。そして二つの家族は、交流をしながら解決策をさぐるが、「早いうちに」なんとかした方がいい、という気持ちに突き動かされていく(ように見えた)。そして二人の子どもは、ある日、交換される。二度目の交換だ。一度目は病院のミスで、二度目は両親の手で。子ども自身の気持ちは、まったく無視されているように見えた。まあ、そういう親の身勝手さを、是枝監督は描きたかったのかもしれないが。
人間の場合、親が子どもの面倒をみる期間は、15、6年から20年くらいだろうか(30代後半になっても、まだ親に面倒をみられている「子ども」も、最近は増えているかもしれないが)。そうであれば、すでに6歳の子は、あと10年もすれば、親の庇護から逃れていくはずだ。この映画で問題になっているのは、どちらの家族と暮らすか(住むか)ということのようで(もちろん親権をどうするか、はあるが)、そのことで言えば、対象となる年月は長い人生の中で見れば、短い期間とも言える、永遠というわけではない。そのことを頭において、解決法を探った方がいいのではないか、と感じた。なぜこの人たちはそのことに気づかないのか、そんな疑問がわいた。
もしそのことが頭にあれば、少なくとも「早いうちに」なんとかしなければ、という焦りからは解放される。この「早いうちに」という思想は、「まだ6歳なのだから、一個の人間としての意識が芽生える前に」なんとかしてしまえば、あとに影響が少ない、ということなのかもしれない。しかし6歳というのは、自意識もあり、自分の親やそれまで過ごしてきた家族との関係を、感情とともに充分蓄積している年齢だ。
この二つの家族の親が、まず考えなければならなかったのは、この6歳という時期の、それぞれの子どもに与える影響ではなかったか。どうやったら子どもに衝撃を与えずに、大人になるまでの一定期間(6歳から16歳くらいまで)を通過させるか、ということを一番に考えるべきだったと思う。そしてその間に、親とはなにか、子とはなにか、血のつながりとは、血縁のない親子とは、、、と自分たちに降りかかった問題の外に広がる、普遍的なことをもっと深く考え、探ってみてもよかったのではないか。親がそのように考え生きることは、必ず子どもたちにも伝わるはずだ。そして真実を告げる時期、どのように話すか、などの答えも、そうして暮らす10年くらいの経験から自ずと出てくるのではないだろうか。
この二つの家族の親たちがこだわっていたのは何か、というと、真実つまり血のつながりの有無に集中しているように思えた。確かに、血のつながりに強くこだりを見せる日本の社会を考えると、この映画は事実を描写した「リアルな」映画なのかもしれない。そこが食い違うことが、最大の衝撃であり、問題である、というような。
最近読んだ日本の小説で、こんなシーンがあった。東京に住む5人家族が、父親が関係した犯罪のせいで家を追われ、西表島に引っ越すことになる。主人公は小学6年生の男の子、二郎。突然、母親から東京を離れることを告げられ、二郎は言葉をなくす。すると母親がこう言うのだ。「もちろん、あなたたちは永遠に親のものではないので、自立できると判断した時点で、独り立ちしてもかまいません。ただ十五歳までは、おとうさんおかあさんと一緒に暮らしましょう。だから今現在の友だちとは、一旦お別れです」(奥田英朗「サウスバウンド」)
この母親の言葉の中には、親が絶対的存在という価値観は感じられない。小学6年生であれば、15歳まであと3、4年のことだ。今、友だちと別れるのは辛いだろうが、それも「一旦」のことなのだ。このように子どもの人生を見ることができれば、「そして父となる」の家族にも、もう少し広がりのある解決法が思い浮かんだのではないか。
映画も小説も現実に対しての真摯な態度は求められると思うし、リアリティは大事だ。しかし現実がこうだからと、その通り描く必要もないように思う。たとえば、「そして、、、」の映画の中のエリート社員の妻の方は、『母親なのに、なぜ産んだときに、自分の子ではないと気づかなかったのか』という罪悪感にさいなまされる。夫はやや自分勝手で自信過剰ぎみなエリート社員で、妻は夫に従い自分を低く見ているふしがある(昔風のではないが)。こういう夫婦関係の中で、なぜ自分の子ではないと気づかなかったのか、という妻の悩みは発生する。
少なくとも、現実にありそうな夫婦設定をしたとしても、映画全体に監督がそれに対してどう思っているのか、が現れていてほしい。是枝監督は現実の日本の社会とそこで生きる人間をリアルに描くことで、満足していたのだろうか? 映画には、その先の何かが求められるべきだと思う。それとも、わたしのこの映画の見方になにか足りないところ、見逃しているところや勘違いがあるのだろうか。カンヌ映画祭では、この映画は聴衆から多くの拍手を受けたと報道されている。しかし日本の聴衆と同じ受けとめ方をしているとは限らない。日本の外の国では、親子あるいは実子や養子に対する考え方が違うからだ。
一つだけ印象に残ったシーンがある。二つ家族が交流しはじめた頃、遊技場のようなところで、子どもたちを遊ばせる場面があった。四人の子どもたちが夢中になって一緒に遊んでいる。それを見つめる親たちの解放されたような、楽しげな表情。ドキュメンタリータッチで描かれたこのシーンは、人間が生きることがどんなものかを活写しているように思えた。親役の俳優たちは、この場面では素のようにも見えた。子どもが楽しげに転げまわっているのを、大人が(親であれそうでなかれ)見て喜んでいる、笑っている。子どもが心から楽しそうに遊んでいるのを見ることの喜び。それは人間の一つの真実だ。この場面で表されているようなことを、映画全体で表現できていたら、もっと素晴らしい作品になっていたのではないかと思う。