透明な翻訳とは?
先日書店で「すばる」という文芸誌を立ち読みしていたら、翻訳についての対談があった。「日本語と英語のあいだで」というタイトルの水村美苗(作家)と鴻巣友季子(翻訳家)の対談で、翻訳にまつわる様々な話や、二人がこの企画のために試訳した文芸作品の翻訳文が、原文とともに載っていた。
話の中で、「透明な翻訳」と言ったとき、日本とアメリカでは意味が違う、と鴻巣友季子さんが指摘していたのに興味をもった。日本で透明な翻訳と言えば、原文の姿、書き方が透けて見えるようなものを言い、アメリカでは翻訳先の言語で元々書かれたかのようなもの言うとのことだった。それを聞いて、たとえば本の題名にしても、村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のような訳は、日本で言うところの「透明な翻訳」なのだろうと思った。
原文の書き方が透けて見えるような訳文、というのは、一方で「原文に忠実に」、という日本で提唱されている翻訳の作法とどこか繋がっているようにも思えた。前者は原文の、あるいは原作者の発語の感覚をより強く出し、原文に近い語法で記述することであり、後者は書かれている文を、あまり解釈を交えないで日本語に置き換える、ということだと思う。目的意識は違うが、結果としては似たものになる可能性を含んでいる。
これに対して思い浮かべるのは、映画の字幕だ。英語など他の言語でつくられた作品のセリフを、日本語に訳したものを画面内に入れる。字幕の場合、本の翻訳と違って、進んでいく映画のコマと同時に進行しなければ役に立たないので、訳は短く、省略も多い。あまり長い文章を、映像を見ながら読んで理解するのは、苦痛がともなうことだ。映画を、その映像を十分に楽しみながら、意味も理解するためには省略は必要なことなのだろう。
それでも、一般に映画の字幕はよくできている印象がある。どういう意味か考えないといけないような訳は少なく、読んですぐわかり、状況が判断できるものが大半だ。映画の場合は、映像があるので、言葉にして訳さなくても、理解される部分が多いからとも言えるだろうが。その意味で、日本でも映画の字幕は、アメリカで言うところの透明な翻訳に近いのではと思う。
すばるの対談の中で、鴻巣さんはこんなことも言っていた。アメリカの出版社の人と話していて、「翻訳はとてもむずかしいものだ」と言ったところ、そんなもの原文が長いと思えば短くしときゃいいのよ、的なことを言われたそうだ。やや乱暴な言い方ではあるが、ここにもアメリカの翻訳に対する考え方が出ているように思う。要するに読み手(訳されたものを読む人)中心なのだろう。読み手中心ということでいうと、現在葉っぱの坑夫で連載中の「南米ジャングル童話集」のアメリカ人英訳者リヴィングストーンは、このタイプの典型である。
それに対して、[この作品はこれこれこういう成り立ちで、それでこんな風に書かれていて、こんな香りがします]と逐一伝えるのは、どちらかと言うと、訳者の立場から出ているように思う。訳者中心。
以前に読んだ翻訳に関するある学生の論文では、日本式、アメリカ式の違いを「起点言語志向」「目的言語志向」と分類していた。その論文ではフィッツジェラルドの「The Great Gatsby」の訳を、野崎孝、村上春樹、小川高義の三者の訳本で比較していた。野崎、村上が日本式、あるいは「起点言語志向」で、小川がアメリカ式、あるいは「目的言語志向」であることがわかった。小川高義の訳は、ジュンパ・ラヒリの作品などの読書体験から、個人的に以前からすぐれていると感じていた。
日本の読者がどちらを好むのか、好んできたのかわからないが、日本式透明な翻訳が一般には浸透し、主流となっているのは事実だろう。翻訳文学は読みにくい、と言われながらも、一方で日本語にはないものの言い方や、外国風な香りを楽しむことが、海外ものを読む楽しみの一部だったのかもしれない。
しかし、海外文学の地位が地に落ちた(日本で人気が非常に低くなり、読まれない)今、この透明性に関する判断を一度、考え直してみてもいいのかもしれない。海外文学が読まれないことの理由として、日本にはもう自前でいい作品がたくさんある、なにも海外ものをありがたがって、あるいは教養として読む必要などない、という意見をよく聞く。たしかに、60年代~90年代くらいまでは、最新の海外文学の情報を知っていたり、読んでいたり、その本を小脇に抱えていることがかっこよかったのかもしれない。その意味で、今は反動期なのだろうか。
しかしアフリカやアジアや南米の若手作家の本を読んできた者から見ると、今や作家が地球のどこに住んでいようと、そしてローカルな読者を想定して書いていたとしても、その作品は十分に普遍性をそなえており、それは作家の生活背景や思想がローカル限定ではなくなっていることと関係があるのだと思う。中国製のスニーカーを履き、トルコ産のグレープフルーツを買い、ロシア沿岸で獲れた鮭でお茶漬けしている日本人も、同じような感覚の中で生きているはず。
であれば、「あえて海外のものを読む必要など感じない」などと言ってないで、「読んでいて気づいたら、ブエノスアイレスの作家の本だった」でもいいではないか。東京に住む者、高知に住む者、小さな差異は日本人同士だってある。一息つくときに主人公が飲むのがマテ茶だったとしても、話の大筋には影響ない。
そういう観点から考えると、文学の翻訳も、少しアメリカ式の透明な翻訳方向に進んでいってもいいのではないか、と思えてくる。それは翻訳するときに、「妻と母親の関係」を「嫁姑の関係」と日本化して、あるいは矮小化して言うことではない。そういうローカル化ではなく、原文の意図を汲みながら、日本語で書かれる作品とさほど変わらない表現法で(原文の構文にこだわらず、現地の香りは控えめにして)訳文にしていけばいいと思う。
話の中で、「透明な翻訳」と言ったとき、日本とアメリカでは意味が違う、と鴻巣友季子さんが指摘していたのに興味をもった。日本で透明な翻訳と言えば、原文の姿、書き方が透けて見えるようなものを言い、アメリカでは翻訳先の言語で元々書かれたかのようなもの言うとのことだった。それを聞いて、たとえば本の題名にしても、村上春樹訳の「キャッチャー・イン・ザ・ライ」のような訳は、日本で言うところの「透明な翻訳」なのだろうと思った。
原文の書き方が透けて見えるような訳文、というのは、一方で「原文に忠実に」、という日本で提唱されている翻訳の作法とどこか繋がっているようにも思えた。前者は原文の、あるいは原作者の発語の感覚をより強く出し、原文に近い語法で記述することであり、後者は書かれている文を、あまり解釈を交えないで日本語に置き換える、ということだと思う。目的意識は違うが、結果としては似たものになる可能性を含んでいる。
これに対して思い浮かべるのは、映画の字幕だ。英語など他の言語でつくられた作品のセリフを、日本語に訳したものを画面内に入れる。字幕の場合、本の翻訳と違って、進んでいく映画のコマと同時に進行しなければ役に立たないので、訳は短く、省略も多い。あまり長い文章を、映像を見ながら読んで理解するのは、苦痛がともなうことだ。映画を、その映像を十分に楽しみながら、意味も理解するためには省略は必要なことなのだろう。
それでも、一般に映画の字幕はよくできている印象がある。どういう意味か考えないといけないような訳は少なく、読んですぐわかり、状況が判断できるものが大半だ。映画の場合は、映像があるので、言葉にして訳さなくても、理解される部分が多いからとも言えるだろうが。その意味で、日本でも映画の字幕は、アメリカで言うところの透明な翻訳に近いのではと思う。
すばるの対談の中で、鴻巣さんはこんなことも言っていた。アメリカの出版社の人と話していて、「翻訳はとてもむずかしいものだ」と言ったところ、そんなもの原文が長いと思えば短くしときゃいいのよ、的なことを言われたそうだ。やや乱暴な言い方ではあるが、ここにもアメリカの翻訳に対する考え方が出ているように思う。要するに読み手(訳されたものを読む人)中心なのだろう。読み手中心ということでいうと、現在葉っぱの坑夫で連載中の「南米ジャングル童話集」のアメリカ人英訳者リヴィングストーンは、このタイプの典型である。
それに対して、[この作品はこれこれこういう成り立ちで、それでこんな風に書かれていて、こんな香りがします]と逐一伝えるのは、どちらかと言うと、訳者の立場から出ているように思う。訳者中心。
以前に読んだ翻訳に関するある学生の論文では、日本式、アメリカ式の違いを「起点言語志向」「目的言語志向」と分類していた。その論文ではフィッツジェラルドの「The Great Gatsby」の訳を、野崎孝、村上春樹、小川高義の三者の訳本で比較していた。野崎、村上が日本式、あるいは「起点言語志向」で、小川がアメリカ式、あるいは「目的言語志向」であることがわかった。小川高義の訳は、ジュンパ・ラヒリの作品などの読書体験から、個人的に以前からすぐれていると感じていた。
日本の読者がどちらを好むのか、好んできたのかわからないが、日本式透明な翻訳が一般には浸透し、主流となっているのは事実だろう。翻訳文学は読みにくい、と言われながらも、一方で日本語にはないものの言い方や、外国風な香りを楽しむことが、海外ものを読む楽しみの一部だったのかもしれない。
しかし、海外文学の地位が地に落ちた(日本で人気が非常に低くなり、読まれない)今、この透明性に関する判断を一度、考え直してみてもいいのかもしれない。海外文学が読まれないことの理由として、日本にはもう自前でいい作品がたくさんある、なにも海外ものをありがたがって、あるいは教養として読む必要などない、という意見をよく聞く。たしかに、60年代~90年代くらいまでは、最新の海外文学の情報を知っていたり、読んでいたり、その本を小脇に抱えていることがかっこよかったのかもしれない。その意味で、今は反動期なのだろうか。
しかしアフリカやアジアや南米の若手作家の本を読んできた者から見ると、今や作家が地球のどこに住んでいようと、そしてローカルな読者を想定して書いていたとしても、その作品は十分に普遍性をそなえており、それは作家の生活背景や思想がローカル限定ではなくなっていることと関係があるのだと思う。中国製のスニーカーを履き、トルコ産のグレープフルーツを買い、ロシア沿岸で獲れた鮭でお茶漬けしている日本人も、同じような感覚の中で生きているはず。
であれば、「あえて海外のものを読む必要など感じない」などと言ってないで、「読んでいて気づいたら、ブエノスアイレスの作家の本だった」でもいいではないか。東京に住む者、高知に住む者、小さな差異は日本人同士だってある。一息つくときに主人公が飲むのがマテ茶だったとしても、話の大筋には影響ない。
そういう観点から考えると、文学の翻訳も、少しアメリカ式の透明な翻訳方向に進んでいってもいいのではないか、と思えてくる。それは翻訳するときに、「妻と母親の関係」を「嫁姑の関係」と日本化して、あるいは矮小化して言うことではない。そういうローカル化ではなく、原文の意図を汲みながら、日本語で書かれる作品とさほど変わらない表現法で(原文の構文にこだわらず、現地の香りは控えめにして)訳文にしていけばいいと思う。