20150522

著作権とシェア

著作権のあり方は、おそらくこの先50年、100年の間にずいぶん変化するのではないか、と思っている。人々の意識(常識)が変わるのだ。すでに変化はインターネットが生まれて以降、始まっているとも言える。それは著作権の法律が変わってというのではなく、技術の進歩とその受け入れによって起きている。多くの人がそれを「著作権」の変化とは感じていなくとも、である。

たとえばYouTubeの存在。YouTubeの動画は知り合いだけでなく、不特定多数の人々と作品やコンテンツを「共有」するところに大きな意味がある。初期の頃はYouTubeのサイトに行って動画を見るのが普通だったが、ある時期から「埋め込み」によって、他のサイトやメール内でも表示できるようになった。これを知ったときはすごいことが起きた、と思ったものだ。葉っぱの坑夫のサイトでも、音楽のPVやインディーズ映画の動画を埋め込みタグを使用して、サイト内で表示している。

著作権に引っかからずに、なぜこのようなことができるのか。それは対象になる動画はその発信元(YouTubeやVimeo)のサーバーにあり、使用者は埋め込みタグと呼ばれるコードを自サイトのページに書き加えるだけだからだ。つまり参照させているだけで、使用者のサーバーにコンテンツを置いて表示しているわけではない。著作権で問題になるのは作品の「複製」なので、その意味でこの仕組は複製にはあたらない。

YouTubeは動画投稿サイトであり、作品を投稿して人々に見てもらうための仕組だ。少しでも多くの人に見てもらうことこそが、元々の目的。視聴者がYouTubeのサイトで見ようと、訪問した先のサイトで見ようと、どちらでも同じという考え方だと思う。シェアする、共有するという思想から生まれたものだ。使用者はコンテンツを参照させるだけなので、作品の中身に手を加えることはできない。よって著作権侵害にあたる作品の改変も不可能。

何でもないことのようだが、著作権という面から見ると、画期的な出来事だと感じた。ある意味、現在の著作権法のボーダーラインぎりぎりのところにある仕組かもしれない。仕組を知らない人が見れば、友だちのブログや知り合いのサイトに、本人がつくったものではない、ときに著名な映画や音楽ヴィデオが(無断で)掲載されているように見える。

とは言え、今ではYouTubeで有名無名の様々なコンテンツを見ることは日常のことだから、特別不思議にも思わなくなっているのかもしれないが。過去に著作権侵害のため、大規模なコンテンツ削除や裁判もあり、権利者側の企業から目の敵にされていたYouTubeだが、今では音楽、映画産業もプロモーションや予告編などでなくてはならない存在となり、使い倒している感もある。

YouTubeに見られる著作権のありよう、受け止められ方は、これまでの著作権の考え方に広く深く影響を与えてるように思う。なにしろ多くの一般ユーザーが、こういったコンテンツのあり方を楽しみ、自分でも広めているからだ。YouTubeは動画投稿サイトであり、そこに自分の作品を投稿することは、公開を認める行為。したがってコンテンツは「一般公開情報」となる(特定の友人だけに公開するなど、プライバシー設定をすることは可能だが)。

もう少し広げて考えると、YouTubeの動画に限らず、あらゆるコンテンツはインターネットに掲載された時点で、一般公開情報となる。他人に見られたくない作品は、掲載をしないというのが基本の考え方だ。公開した以上、それはパブリックなものになる。インターネットの基本は無料視聴だから、お金のやりとり、損得勘定はない。その自由さによって広まっている。FaceBookなどのSNSも、シェアすることでそのコンテンツを広め、活性化している。

また最近は著名人本人が、FaceBookやTwitter、Instagramに自分のページをもち、自らの発言や写真などを公開している。著者と視聴者はダイレクトにつながっている。代理人や中間業者はそこにはいない。サッカーのスター選手たち、たとえばレオ・メッシやロナウドもInstagramにプライベートな家族写真などをたくさん載せている。ファンにとっては嬉しいかぎりだろう。こんなものは以前にはなかったのだから。Instagramにも、YouTube同様埋め込みタグがあり、気に入ったスター選手の写真を自分のブログやサイトに掲載できる。それは楽しいことではないだろうか。このようなものは以前にはなかったのだから。

当のスター選手にしても、こうしてファンたちに自分の日常や家族のことをダイレクトに伝えられるのは、きっと楽しいことなのだ。よく「ファンに感謝している」と言っているが、こんな形でファンを喜ばせることができるのだから。写真やヴィデオの力はやはりすごいのか、文字から入るTwitterをすでに超えて、Instagramの利用者は3億人を突破、1日の共有される写真やヴィデオは7000万とか。地球規模で伝達できるインターネットの威力とも言える。

ここには著作権同様、肖像権などのメンドウな問題は起きない。なにしろ本人が認めた仕組を利用して、本人が投稿しているのだから。とすると、これまで著作権や肖像権がうるさくて、、、とエクスキューズしていたのは、その問題の本質は、どこにあったのだろう。「権利問題」と言っていた障壁の多くは、中間業者(代理人や出版社など)の抱える(あるいは彼らが生み出す)問題だったのかもしれない、とまで思えてくる。正当な仕組の中では、著作権者本人はいやがるどころか、大判振る舞いしている。

こういった動きは、グーテンベルクに始まり20世紀に至る著作権問題全般に影響を及ぼす可能性がある。インターネットというインフラがあってこそだが、自由な「公開」「配布」を拒むのは、商売上の問題が最も大きそうだ。

おそらくコンテンツは閉じているより、開放した方が活気を増すのだ。商売にとって活気は大事。損をしやしまいかと、ビクビクしながらであっても、商売上のバランスを見ながら、公開&共有→活気を得る、の方向にじょじょに考えを変えていかざるを得なくなるかもしれない。

著作権というと、日本では権利者がそれをいかに守るか、侵されないようにするかが問題になるが、インターネットの発明元であるアメリカなどでは、著作権をいかに開いていくか、という行為も並行して行われてきた。ひとたび発表され公のものとなった作品をどのように扱うのが人類にとって幸せか、世界を豊かにするか、という思索があるように思う。

クリエイティブ・コモンズ(共有地)という仕組もその一つ。インターネットの発生(一般化)のあと間もなく(2002年12月)生まれた仕組で、著作者が、著作物の使用に対して条件づけを明文化して、再利用を許可するものだ。著作者の名前を表示すれば利用していいとか、著作者の名前を表示し改変はしないとか、商用使用はだめとか、もし改変した場合は同じ条件で他者に公開すること、など細かな制限ができる。現在CCのマーク表示で、この仕組は(主として海外で、公的な組織や大学も含め)広く利用されていることが確認できる。

一番身近であり、おそらくクリエイティブ・コモンズを広めたきっかけとなっているものの一つが、写真投稿サイトのFlickrかもしれない。Flickrの上級検索にはクリエイティブ・コモンズに限定して選ぶ、というフィルターがある。これにチェックを入れて検索すれば、クリエイティブ・コモンズに参加しているもののみ表示される。その他のものはすべてAll RIghts Reservedだ。写真を投稿する際に、著作者がどのような条件下に作品を置くか、決めているのだ。20世紀にはなかった著作権のあり方を再考しテストする、非常に合理的で有用な仕組だと思う。

ひとたび公開されたものは、広く読まれるために、見られるために、楽しまれるために存在する、という著作物の公共性の根幹に触れる思想だ。「商業」という意味では、自分の著作を広く読まれたい見られたいが、見返りなしではだめだ、というのは派生的に発生したものなのかもしれない。職業作家が生計をたてるために、自分の才能を利用して、書きたくもないものを必死で書いている、という例もあるかもしれないが。そうであれば、見返り(金銭による報酬)は最優先事項となる。

一般的な感想として、日本では著作物の扱いがやや固い印象がある。公開されている有益な、あるいは楽しめる著作物が非常に少ない。インターネットが日本に来て以来、作家たちの多くは自分の著作物の権利が侵されはしまいかと、ビクビク汲汲としてきた。作品の公共性より、著作権侵害の方が重大問題という日本的個人主義が蔓延しているように見える。

作品はわたしの子供、所有物。産み、育て、世に出しはしたが依然わたしの所有物には変わりない。公共性? これはわたし個人の所有物だ! という声を聞こえてきそうだ。聞くところによると、日本では、amazonのなか見!検索(本の内容を10%程度閲覧できる仕組)させることさえ「著作権侵害」と捉える作家がいると聞く。

なぜ著作物を個人の所有物であるという主張の元、頑なに守ろうとするのか。一面的な見方しかできないのか。おそらく日本の社会には、パブリック=公共というものへの理解が低いためではないか。

日本でもよく知られるピュリッツァー賞の作品を最近、ピュリッツァー賞のウェブサイトで読んだ。年次ごとに、カテゴリーごとに細かく分けられた作品が、PDFでずらりとリストされている。誰もが、特に登録もなく、無料で好きなだけ読むことができる。ここに載っている受賞作は、作家やジャーナリストたちが書いたり撮ったりしたものだ。小説など本として商業出版されたものは、出版社からの紹介のみで作品自体はない。ジャーナリストや作家の書いたルポは、新聞などで過去に発表されたものである。賞はそれに対するものだ。ここで公開されていなければ、多くの人がそれを読むことは難しい。

こういう作品公開の例を見つけると、人類の歴史の、人間が生みだした社会の豊かさをひしひしと感じる。作品は作家個人が生み出したものかもしれないが、人類の財産でもある。

20150508

ゴーストライティングの秘密

最近あるサッカー選手の自伝を読んだことで、ゴーストライターの職能に興味をもった。現存の著名人の自伝はわりに好きで、日本語でも英語でもよく読む。昔はタレント本と言われるものも結構読んで、それぞれ面白かった記憶がある。タレント本も多くはゴーストライターが代筆していると思われる。

今回読んだのは、現役のサッカー選手で、ウルグアイ代表であり現在FCバルセロナに所属のルイス・スアレス、28歳の自伝。一般的な常識からいうと、こんな若いのに自伝か、と思うかもしれないが、最近は現役のスポーツ選手の自伝は多く出版されている。スポーツ選手の場合、人生におけるファーストキャリアの大半が20歳代にあり、そこにメインイベントが集中しているという事情もあると思う。普通の人の30年分、50年分の重大事が、最初の10年~20年の間に起きていることも珍しくない。スアレスの場合もそれに当てはまる。

スアレスの自伝の日本語タイトルは「理由」、英語のタイトルは「Crossing the Line」。最初にあれ?と思ったのは、この本は最初にイギリスで出版され、つまり記述言語は英語だったのだ。スアレスの母語はスペイン語である。2014年のW杯ブラジル大会前までは、イングランドのリバプールに所属していたので、その頃すでに自伝の企画はあったのだろう。イギリスでの出版は2014年11月。

ルイス・スアレスはフォワードと言われる攻撃的ポジションの選手で、これまでのキャリアでゴールを量産してきており、サッカー選手としての能力は広く認められている。また世界中にたくさんのファンをもつ、人気の高いスター選手でもある。しかし、スアレスはことあるごとに世間を騒がせてきたことでも有名だ。ウルグアイ代表、クラブキャリアの両方で、大きな問題を引き起こしマスメディアの「餌食」になってきた。そのこととこの自伝は大きな関係がある。「理由」というタイトル、「Crossing the Line(一線を越える/ゴールラインを割る)」もそこから来ている。

最初に大きく騒がれることになったのは、2010年のW杯南アフリカ大会のとき。決勝トーナメント、ベスト8でウルグアイはガーナと対戦した。1-1で迎えた延長戦終了間際、ガーナの選手のシュートを、ゴールマウスに陣取っていたスアレスが手で止めた。スアレスはゴールキーパーではないので、手を使えば反則。レッドカードで一発退場となった。その反則でガーナはPKを得たが、失敗。試合は1-1のまま終わることになり、PK戦に突入した。結果はウルグアイの勝利。スアレスが手で止めていなければ、ガーナが準決勝に進んでいた。スアレスは反則後のPKをガーナが失敗したとき、ピッチの外で大喜びしていたこともあり、世の中の大きな反発をかった。反省してない、と。(ハンド=得点ということで、ウルグアイでは英雄視されていたようだが)

それがスアレスが大々的に世の中に、あるいはサッカーファンに悪童ぶりを見せた最初だと思う。そして2014年のブラジル大会でもスアレスは騒動を起こし、試合中はレフェリーに見逃されたものの、試合後に大会から「追放」された。その騒動とは、イタリア戦での試合中、相手選手に噛みついたのだ。ゴール前でポジションを争っているとき、イタリアのディフェンダーの肩をがぶり。それが映像にはっきり捕らえられていた。スアレスはその前年のシーズンにも、プレミアリーグの試合で、チェルシーの選手の腕に噛みついて騒動を起こしていた。噛みつきそのものは、相手に怪我を負わすほどではなく、実質は無害に近い行為(とスアレスは主張している)。相手に怪我をさせるようなファールとは違うものだから、その意味では処分の仕方には議論があるかもしれない。しかし西洋社会では(と個人的に思うのだが)、噛みつくなどという行為は人間ではない、人間としての「一線を越える」行為だとみなされるようで、重い処罰が下された。それは出場停止処分にとどまらず、あらゆるスタジアムへの入場停止にまで及んだ。

このようなキャラクターのサッカー選手の自伝であるから、読む前からある程度の予測はあった。面白いだろう、という。しかし読んでみると、そういう騒動の裏側の話とは別に、全体として、語り手のパーソナリティーが存分に表現された魅力あふれる著書となっていた。ウルグアイでの少年期にどのようにサッカーをやっていたか、15歳のときに出会った13歳のガールフレンド(のちの妻)との心の交換、彼女からの支援、ヨーロッパのクラブに移籍したときのエピソード、所属したクラブのチームメート評や交流の様子、監督の特徴、そういったことがたぐいまれな率直さで語られていた。びっくりするようなことも、スアレスの口を通して語られると、なるほど思わされてしまうような、語りの魅力があった。わたしが読んだのは、山中忍さんによる日本語訳であるが、訳を通してもスアレスという人間の魅力、正直でホットで愛情深い個性が存分に感じられた。

450ページの本の中に、いっぱいいっぱい激しく熱いスアレスの28年間が詰まっている印象だった。すべてを率直に語り、主張はするけれど言い訳や弁解はしない、他人を責めたり悪口は言わない。そして楽しくて、面白い、びっくりするような、特筆すべきエピソードが次々に、ページを繰るごとにあらわれる。出してくるエピソードや、チームメートの細部にわたる評や裏話がすごくいい。いったいどうやってこの本は出来上がったんだ? 読んでいる間から気になっていた。

大扉の著者名のすぐ下に、小さな文字で二人の名前があった。英語版でも同様にwith という言葉とともに、ピーター・ジェンソン、シド・ロウとあった。この二人がゴーストライターなのだとわかった。ネットで二人の名前を調べてみると、どちらもイギリスの新聞のスポーツ記者のようだった。イギリス人で、スペインリーグを中心に、あるいはスペインを拠点に記事を書いている人のようだった。スペイン語が扱えることで、インタービューも大半はスペイン語だったのかもしれない。スアレスはイングランドで3年間プレーする間に、英語でインタービューを受ける程度にはなっていたようだから、スペイン語と英語のちゃんぽんだった可能性もある。

おそらくスアレスはこの二人の記者に、好意を抱き、信頼感をもち、心打ち解けて、少年時代から騒動にいたる話をしたのではないか。言葉がスアレスの口からほとばしるように溢れ出たであろうことが、本を読むと容易に想像できる。スアレスにとっても、この著書を出すことで、世間が自分に貼りつけたレッテルや先入観を違ったものに変えたい、という切実な願望があったと思う。それには記者を信じて、できる限り真摯な態度でこのプロジェクトに挑む必要があった。そういう状況の中で、取材やインタビューは行われ、最後に二人の記者が自分の母語である英語で書き落とした。そのように想像する。聞くところによると、スアレス本人も、この本の出来に非常に満足しているようだ。

ゴーストライティングにおける手法やプロセス、仕事ごとに起きるであろう様々な困難、その解決法など、その内側がライター「本人」の口から語られることはない。ゴーストライターは世間の目から見えないところで仕事をする人だからだ。しかし、このスアレスの本に限らず、わたしがこれまで読んできた他の自伝にも、優れた著作はけっこう多い。著者となる人物の魅力はもちろん大きいが、それを具現化するライターたちのスキルや創作の能力も重要なはず。ゴーストライターの名前は、本に記されないことも多いと思う。現時点では、ゴーストライティングは翻訳より地位が低いのではないか。

ゴーストライターの自伝、というものがあれば読んでみたい気がする。