著作権とシェア
著作権のあり方は、おそらくこの先50年、100年の間にずいぶん変化するのではないか、と思っている。人々の意識(常識)が変わるのだ。すでに変化はインターネットが生まれて以降、始まっているとも言える。それは著作権の法律が変わってというのではなく、技術の進歩とその受け入れによって起きている。多くの人がそれを「著作権」の変化とは感じていなくとも、である。
たとえばYouTubeの存在。YouTubeの動画は知り合いだけでなく、不特定多数の人々と作品やコンテンツを「共有」するところに大きな意味がある。初期の頃はYouTubeのサイトに行って動画を見るのが普通だったが、ある時期から「埋め込み」によって、他のサイトやメール内でも表示できるようになった。これを知ったときはすごいことが起きた、と思ったものだ。葉っぱの坑夫のサイトでも、音楽のPVやインディーズ映画の動画を埋め込みタグを使用して、サイト内で表示している。
著作権に引っかからずに、なぜこのようなことができるのか。それは対象になる動画はその発信元(YouTubeやVimeo)のサーバーにあり、使用者は埋め込みタグと呼ばれるコードを自サイトのページに書き加えるだけだからだ。つまり参照させているだけで、使用者のサーバーにコンテンツを置いて表示しているわけではない。著作権で問題になるのは作品の「複製」なので、その意味でこの仕組は複製にはあたらない。
YouTubeは動画投稿サイトであり、作品を投稿して人々に見てもらうための仕組だ。少しでも多くの人に見てもらうことこそが、元々の目的。視聴者がYouTubeのサイトで見ようと、訪問した先のサイトで見ようと、どちらでも同じという考え方だと思う。シェアする、共有するという思想から生まれたものだ。使用者はコンテンツを参照させるだけなので、作品の中身に手を加えることはできない。よって著作権侵害にあたる作品の改変も不可能。
何でもないことのようだが、著作権という面から見ると、画期的な出来事だと感じた。ある意味、現在の著作権法のボーダーラインぎりぎりのところにある仕組かもしれない。仕組を知らない人が見れば、友だちのブログや知り合いのサイトに、本人がつくったものではない、ときに著名な映画や音楽ヴィデオが(無断で)掲載されているように見える。
とは言え、今ではYouTubeで有名無名の様々なコンテンツを見ることは日常のことだから、特別不思議にも思わなくなっているのかもしれないが。過去に著作権侵害のため、大規模なコンテンツ削除や裁判もあり、権利者側の企業から目の敵にされていたYouTubeだが、今では音楽、映画産業もプロモーションや予告編などでなくてはならない存在となり、使い倒している感もある。
YouTubeに見られる著作権のありよう、受け止められ方は、これまでの著作権の考え方に広く深く影響を与えてるように思う。なにしろ多くの一般ユーザーが、こういったコンテンツのあり方を楽しみ、自分でも広めているからだ。YouTubeは動画投稿サイトであり、そこに自分の作品を投稿することは、公開を認める行為。したがってコンテンツは「一般公開情報」となる(特定の友人だけに公開するなど、プライバシー設定をすることは可能だが)。
もう少し広げて考えると、YouTubeの動画に限らず、あらゆるコンテンツはインターネットに掲載された時点で、一般公開情報となる。他人に見られたくない作品は、掲載をしないというのが基本の考え方だ。公開した以上、それはパブリックなものになる。インターネットの基本は無料視聴だから、お金のやりとり、損得勘定はない。その自由さによって広まっている。FaceBookなどのSNSも、シェアすることでそのコンテンツを広め、活性化している。
また最近は著名人本人が、FaceBookやTwitter、Instagramに自分のページをもち、自らの発言や写真などを公開している。著者と視聴者はダイレクトにつながっている。代理人や中間業者はそこにはいない。サッカーのスター選手たち、たとえばレオ・メッシやロナウドもInstagramにプライベートな家族写真などをたくさん載せている。ファンにとっては嬉しいかぎりだろう。こんなものは以前にはなかったのだから。Instagramにも、YouTube同様埋め込みタグがあり、気に入ったスター選手の写真を自分のブログやサイトに掲載できる。それは楽しいことではないだろうか。このようなものは以前にはなかったのだから。
当のスター選手にしても、こうしてファンたちに自分の日常や家族のことをダイレクトに伝えられるのは、きっと楽しいことなのだ。よく「ファンに感謝している」と言っているが、こんな形でファンを喜ばせることができるのだから。写真やヴィデオの力はやはりすごいのか、文字から入るTwitterをすでに超えて、Instagramの利用者は3億人を突破、1日の共有される写真やヴィデオは7000万とか。地球規模で伝達できるインターネットの威力とも言える。
ここには著作権同様、肖像権などのメンドウな問題は起きない。なにしろ本人が認めた仕組を利用して、本人が投稿しているのだから。とすると、これまで著作権や肖像権がうるさくて、、、とエクスキューズしていたのは、その問題の本質は、どこにあったのだろう。「権利問題」と言っていた障壁の多くは、中間業者(代理人や出版社など)の抱える(あるいは彼らが生み出す)問題だったのかもしれない、とまで思えてくる。正当な仕組の中では、著作権者本人はいやがるどころか、大判振る舞いしている。
こういった動きは、グーテンベルクに始まり20世紀に至る著作権問題全般に影響を及ぼす可能性がある。インターネットというインフラがあってこそだが、自由な「公開」「配布」を拒むのは、商売上の問題が最も大きそうだ。
おそらくコンテンツは閉じているより、開放した方が活気を増すのだ。商売にとって活気は大事。損をしやしまいかと、ビクビクしながらであっても、商売上のバランスを見ながら、公開&共有→活気を得る、の方向にじょじょに考えを変えていかざるを得なくなるかもしれない。
著作権というと、日本では権利者がそれをいかに守るか、侵されないようにするかが問題になるが、インターネットの発明元であるアメリカなどでは、著作権をいかに開いていくか、という行為も並行して行われてきた。ひとたび発表され公のものとなった作品をどのように扱うのが人類にとって幸せか、世界を豊かにするか、という思索があるように思う。
クリエイティブ・コモンズ(共有地)という仕組もその一つ。インターネットの発生(一般化)のあと間もなく(2002年12月)生まれた仕組で、著作者が、著作物の使用に対して条件づけを明文化して、再利用を許可するものだ。著作者の名前を表示すれば利用していいとか、著作者の名前を表示し改変はしないとか、商用使用はだめとか、もし改変した場合は同じ条件で他者に公開すること、など細かな制限ができる。現在CCのマーク表示で、この仕組は(主として海外で、公的な組織や大学も含め)広く利用されていることが確認できる。
一番身近であり、おそらくクリエイティブ・コモンズを広めたきっかけとなっているものの一つが、写真投稿サイトのFlickrかもしれない。Flickrの上級検索にはクリエイティブ・コモンズに限定して選ぶ、というフィルターがある。これにチェックを入れて検索すれば、クリエイティブ・コモンズに参加しているもののみ表示される。その他のものはすべてAll RIghts Reservedだ。写真を投稿する際に、著作者がどのような条件下に作品を置くか、決めているのだ。20世紀にはなかった著作権のあり方を再考しテストする、非常に合理的で有用な仕組だと思う。
ひとたび公開されたものは、広く読まれるために、見られるために、楽しまれるために存在する、という著作物の公共性の根幹に触れる思想だ。「商業」という意味では、自分の著作を広く読まれたい見られたいが、見返りなしではだめだ、というのは派生的に発生したものなのかもしれない。職業作家が生計をたてるために、自分の才能を利用して、書きたくもないものを必死で書いている、という例もあるかもしれないが。そうであれば、見返り(金銭による報酬)は最優先事項となる。
一般的な感想として、日本では著作物の扱いがやや固い印象がある。公開されている有益な、あるいは楽しめる著作物が非常に少ない。インターネットが日本に来て以来、作家たちの多くは自分の著作物の権利が侵されはしまいかと、ビクビク汲汲としてきた。作品の公共性より、著作権侵害の方が重大問題という日本的個人主義が蔓延しているように見える。
作品はわたしの子供、所有物。産み、育て、世に出しはしたが依然わたしの所有物には変わりない。公共性? これはわたし個人の所有物だ! という声を聞こえてきそうだ。聞くところによると、日本では、amazonのなか見!検索(本の内容を10%程度閲覧できる仕組)させることさえ「著作権侵害」と捉える作家がいると聞く。
なぜ著作物を個人の所有物であるという主張の元、頑なに守ろうとするのか。一面的な見方しかできないのか。おそらく日本の社会には、パブリック=公共というものへの理解が低いためではないか。
日本でもよく知られるピュリッツァー賞の作品を最近、ピュリッツァー賞のウェブサイトで読んだ。年次ごとに、カテゴリーごとに細かく分けられた作品が、PDFでずらりとリストされている。誰もが、特に登録もなく、無料で好きなだけ読むことができる。ここに載っている受賞作は、作家やジャーナリストたちが書いたり撮ったりしたものだ。小説など本として商業出版されたものは、出版社からの紹介のみで作品自体はない。ジャーナリストや作家の書いたルポは、新聞などで過去に発表されたものである。賞はそれに対するものだ。ここで公開されていなければ、多くの人がそれを読むことは難しい。
こういう作品公開の例を見つけると、人類の歴史の、人間が生みだした社会の豊かさをひしひしと感じる。作品は作家個人が生み出したものかもしれないが、人類の財産でもある。