他人の宗教、隣人の慣習
社会生活を送るということは、意識していなくとも、たくさんの決まりごとと感じられる要件や事情をある程度受け入れて生きることだ。どれだけ受け入れるかは人によるだろうが。
人は毎日のなかで、やるべきことを自分の生き方に照らし合わせて、いちいち検証したりはしない。法事があると聞けば都合をつけて出向き、結婚式の招待状が届けばいくら祝儀を用意するべきか考え、子どもが3歳、5歳、7歳になれば神社に行って祝う。正月の祝いをするかどうかとか、お盆休みをとって里帰りすることを、自分の生き方と照らし合わせて考えたりはしない。
これらのことは仏教行事であったり、神道の習わしであったりするが、他の宗教の行事がそうであるのと同様、宗教性というより生活慣習や風習に属している。だから自分の人生に照らし合わせて考えることもない。多くの人はそうやって生きている。世界各地で起きている宗教の違いによる部族対立も、宗旨そのものというより、そこから導き出される生活習慣の異質さが、違和感を増長させているのかもしれない。
一般にその地域(国)の多数派のやっている生活慣習は「常識」となり、そこから外れる者の習慣は「特異」となる。日本では仏教と神道に従っていれば、とくに信者の自覚はなくとも、常識の範囲で暮らせる。誰からも「後ろ指」さされることはない。しかし兄弟や親の法事に行かなかったり、近い関係の縁者の結婚式の出席を特別な理由なく断ったり、行っても「常識」とされる決まった額の祝儀を渡さなかったら、何を言われるかわからない。仏教の教えとしてどうなのか、というより、「常識という宗教」とその信者たちに、「異端者」として裁定されるのだ。極端な言い方をすれば、一種の宗教的圧力だ。従っていればなんともないが、ひとたび拒否(従わない)すれば、後ろ指さされる存在になる。
こう書いても理解できない人が多数いるのは想像できる。多数派の常識というのはそういうものだ。自分がなにも考えずに従っていることは、(人間として)当然のことで、従わない人はおかしな人、あるいはなにか欠けているのである。自分の従っていることに疑問をもったことのない人は、他人がそれに従わないことに対して威圧的である。従わない人がどんな考えをもっているかには無頓着、それは自分がどんな考えをもっているかにも無頓着だからだ。あるいは自分の行動は多数派に支持されている「常識」だから間違いはない、という信念だ。こういう人間の集まりによって、ときに宗教対立は起きる。
親、兄弟の法事(近親者を集め、お金も集め、それをお寺に払って死んだ人の供養をしてもらう)に行かない、という選択肢は日本の常識に照らせば、あまりないことだ。参加しなければ、どうしたのかあの人は、変な人だ、人間性を疑う、くらいは言われるかもしれない。しかし仏教の行事に参加しないという行為は、人間として異端だ、ということにはならない。単に仏教的行事という生活習慣に従わないだけの話。自分が従うものを選ぶ基準は、独裁政権下でもないかぎり誰にも許されている。原発事故後に、西日本産の野菜しか子どもに食べさせない、という母親の行為とそれほど違っているわけではない。ひとたびなにかに疑問をもち、選択の意識をした人間の行動であるだけだ。原発事故前であれば、放射能検査したものしか子どもに食べさせないと言えば、変わった人になっただろうが、状況が変わった今では、特に異端者というわけでもない。それくらい「異端」の基準は自発的な思考から発せられるものではなく、また状況の変化で容易に変わるものだ。
おそらくこれからの世界で平和に暮らしていくためには、たとえ自分が無意識の多数派に属していたとしても、他人の宗教や隣人の慣習に理解を示す努力を忘れないことが必要とされるだろう。それは自分が「当たり前」としていることを、ちょっと立ち止まって考えるチャンスにもなるはずだ。多額の金額をかけて結婚式をプランし、それを回収するために祝儀の計算をしながら招待客の顔ぶれと人数を決める、というような業者と市民が一つになって盛り上げてきた仕組も、作られた習慣、「今だけの」常識に過ぎない(すでにこの常識は下火かと思いきや、どうもそうでもないらしい)。
少なくとも、自分が多数派としてただ従っているだけの慣習を、違う考えの者にも押しつけたり、従わないという理由で糾弾することへの自制は求められてもいいと思う。
人は毎日のなかで、やるべきことを自分の生き方に照らし合わせて、いちいち検証したりはしない。法事があると聞けば都合をつけて出向き、結婚式の招待状が届けばいくら祝儀を用意するべきか考え、子どもが3歳、5歳、7歳になれば神社に行って祝う。正月の祝いをするかどうかとか、お盆休みをとって里帰りすることを、自分の生き方と照らし合わせて考えたりはしない。
これらのことは仏教行事であったり、神道の習わしであったりするが、他の宗教の行事がそうであるのと同様、宗教性というより生活慣習や風習に属している。だから自分の人生に照らし合わせて考えることもない。多くの人はそうやって生きている。世界各地で起きている宗教の違いによる部族対立も、宗旨そのものというより、そこから導き出される生活習慣の異質さが、違和感を増長させているのかもしれない。
一般にその地域(国)の多数派のやっている生活慣習は「常識」となり、そこから外れる者の習慣は「特異」となる。日本では仏教と神道に従っていれば、とくに信者の自覚はなくとも、常識の範囲で暮らせる。誰からも「後ろ指」さされることはない。しかし兄弟や親の法事に行かなかったり、近い関係の縁者の結婚式の出席を特別な理由なく断ったり、行っても「常識」とされる決まった額の祝儀を渡さなかったら、何を言われるかわからない。仏教の教えとしてどうなのか、というより、「常識という宗教」とその信者たちに、「異端者」として裁定されるのだ。極端な言い方をすれば、一種の宗教的圧力だ。従っていればなんともないが、ひとたび拒否(従わない)すれば、後ろ指さされる存在になる。
こう書いても理解できない人が多数いるのは想像できる。多数派の常識というのはそういうものだ。自分がなにも考えずに従っていることは、(人間として)当然のことで、従わない人はおかしな人、あるいはなにか欠けているのである。自分の従っていることに疑問をもったことのない人は、他人がそれに従わないことに対して威圧的である。従わない人がどんな考えをもっているかには無頓着、それは自分がどんな考えをもっているかにも無頓着だからだ。あるいは自分の行動は多数派に支持されている「常識」だから間違いはない、という信念だ。こういう人間の集まりによって、ときに宗教対立は起きる。
親、兄弟の法事(近親者を集め、お金も集め、それをお寺に払って死んだ人の供養をしてもらう)に行かない、という選択肢は日本の常識に照らせば、あまりないことだ。参加しなければ、どうしたのかあの人は、変な人だ、人間性を疑う、くらいは言われるかもしれない。しかし仏教の行事に参加しないという行為は、人間として異端だ、ということにはならない。単に仏教的行事という生活習慣に従わないだけの話。自分が従うものを選ぶ基準は、独裁政権下でもないかぎり誰にも許されている。原発事故後に、西日本産の野菜しか子どもに食べさせない、という母親の行為とそれほど違っているわけではない。ひとたびなにかに疑問をもち、選択の意識をした人間の行動であるだけだ。原発事故前であれば、放射能検査したものしか子どもに食べさせないと言えば、変わった人になっただろうが、状況が変わった今では、特に異端者というわけでもない。それくらい「異端」の基準は自発的な思考から発せられるものではなく、また状況の変化で容易に変わるものだ。
おそらくこれからの世界で平和に暮らしていくためには、たとえ自分が無意識の多数派に属していたとしても、他人の宗教や隣人の慣習に理解を示す努力を忘れないことが必要とされるだろう。それは自分が「当たり前」としていることを、ちょっと立ち止まって考えるチャンスにもなるはずだ。多額の金額をかけて結婚式をプランし、それを回収するために祝儀の計算をしながら招待客の顔ぶれと人数を決める、というような業者と市民が一つになって盛り上げてきた仕組も、作られた習慣、「今だけの」常識に過ぎない(すでにこの常識は下火かと思いきや、どうもそうでもないらしい)。
少なくとも、自分が多数派としてただ従っているだけの慣習を、違う考えの者にも押しつけたり、従わないという理由で糾弾することへの自制は求められてもいいと思う。