ノンフィクションって何だろう? [2]
前回自分の書棚(電子書籍も含む)にあるノンフィクションと思われるものを列記してみた。ランダムに選んだ本で、ほんの数例ではあるが。これらに共通する特徴は何か、それを考えることでノンフィクションとは何か考えてみた。
まずあげられるのは、主題として扱われる題材と書き手の関係が、非常に密接だということ。『被差別の食卓』の上原善広は、自身が被差別部落の出身者である。この本を書くきっかけとなったのは、子ども時代に食べていた「あぶらかす」という食べものにあるという。著者はこれが好物だったが、中学生のとき一般的な食べものではないことに気づく。「むら」の食べものだったのだ。その後アメリカの黒人たちが、自分たちの食べものをソウルフードと呼んでいることを知る。そこから著者の「被差別」たちの食べものへの旅が始まる。
この本を読んだとき、日本国内の「部落問題」の名で扱われてきた様々な(いくぶん暗いイメージの)議論や著作が、パッと広い外の世界につながった気がして、大きな解放感を味わった。あぶらかすを食べて育った者でなくとも、興味とワクワク感をもって読める名著となっている。まさしく著者の出自とその視点から生まれた著作だと思う。
Denise L. Herzingの『イルカ日誌』は、12歳のときから興味をもっていたイルカを、そのまま学生時代の研究課題とし生物学者となった著者の25年間の記録であり回想録だ。動物と人間のコミュニケーションをつなぐ翻訳者を著者はめざしていた。『木琴デイズ』の著者通崎睦美はマリンバ奏者。あるコンサートで(本の題材となっている)平岡養一のオリジナル木琴を演奏する機会に恵まれる。その後平岡の遺族からこの木琴を譲り受けるのだが。『イルカを食べちゃダメですか?』の関口雄祐は、水産庁調査員として捕鯨調査のため、和歌山県太地町に出向いたのが最初だったが、その後も現地に通いづつけ、のちに動物行動学者となった。
このように著者の存在自身が、本の題材と密接につながっているのがノンフィクションの一つの特徴と言えるかもしれない。もちろんそうではない著作もあるとは思うが。記者などが勤務先から派遣されて、現地の見聞を書いたものなどは、著者と題材のつながりは強くない。
ジャーナリストや記者が書いたものでも、その人本人の興味や使命感から取材地に出向き、それをルポルタージュにしたものは、書き手と題材の関係が密接だ。フリーのジャーナリストたちは、自分の特徴を出して記事を売り込むためにも、題材を選んでいるのではないだろうか。フリーの報道写真家たちも、自分の興味ある主題、得意分野で勝負していると思われる。
『援助じゃアフリカは発展しない』を書いたダンビサ・モヨは、ザンビア出身のグローバル・エコノミスト。旧態依然とした先進国からのアフリカに対する援助の仕組や元になる思想を、イキのいい言葉で指摘、分析し世界中に大きな反響を巻き起こした人だ。最近読んだネット版アルジャジーラのオピニオン記事(書き手はアフリカ系女性コメンテーター)によると、アフリカでは女性作家たちが多く世に出るようになってきたが、ノンフィクションのジャンルでは活躍の場が少ない、とのこと。それは小説と違い、ノンフィクションは実社会の仕組や現状を批判的に書くことが多いので、女性作家がそれをすることは問題視されるらしい。たとえば女性性器切除について批判した女性が、家族から縁を切られるなどの例もあるそうだ。その意味で、ダンビサ・モヨが世界を相手に、アフリカへの援助の思想はまちがっているとズバリ問題点を突いたことは、(彼女がエリートであったとしても)本の内容のユニークさとともに注目に値する。
『援助じゃアフリカは発展しない』は日本語への翻訳も非常によかった。たしか経済学の学者が自分と近い関係にある複数の学者を含む書き手と、手分けして訳していたと思うが、全編通してまったく違和感なく「一つ声」で語られていた。
ノンフィクションでは書き手の「声」が非常に重要な要素に思える。その声はどこで特徴づけられるのかと言えば、題材との関係性が大きな要因と思われる。題材と書き手が抜き差しならないくらい密接なつながりをもったとき、書かれた文章の一つ一つに命がこもる。一見淡々と書かれた文章であっても、そのコンテキストから強い意志が伝わってきたりもする。
8月からスタートさせる『世界消息:そのときわたしは』のタイトルにも、わたしが考える「ノンフィクション」が現れているかもしれない。この企画をはじめようと思ったのは、今地球上で起きていることを、どのような方法で知っていくのがいいのか、を個人的に考えていたことに始まる。紙の新聞(朝日)は取ってはいるものの、最近はざっと眺めるだけになっている。テレビはほぼCSしか見ないので、地上波などのニュースもまったく見ることがない。これは2011年3月の原発事故後少したってから続いている習慣。
紙の新聞のヘッドライン以外に出来事を知るソースは、デジタル版の毎日新聞のニュースから少し、シノドスの記事や田中宇の国際ニュース解説などがあるが、十分ではない。ニューヨークタイムスのコラムニスト、ニコラス・クリストフのブログをのぞいたり、話題に応じて海外の新聞も読むが、大きな流れを読むというより、個別の、書き手の関心に沿った記事の購読と言えると思う。まあ、そもそも大きな流れを読むということが、可能なのかはわからないが。
そんな日々のニュースへの不満が、今回のノンフィクション企画へと発展した。大きなこと(マスメディア = conventional mediaが取り扱うという意味で)を見るメガネではなく、小さな(限られた地域や、マイノリティの利害に関する)ことを発見するアンテナを一本立てることで、世界を知る糸口が見つかるのではないか、という希望をもっている。
「世界消息」というタイトルはわたしの造語だが、これを英語に訳すとしたら何と言ったらいいか、考えてみた。世界はthe worldとして、消息とは? 辞書で引くとnewsとかinformationになるけれど、どうもそれでは足りない。消息、という言葉には、目の前から消え去ったものを見つけたい、という気持ちが含まれていると思う。「消えた」「息」をたどる、というような意味合いが。息というくらいだから、人の匂いがする。こんな風に訳してみたが、どうだろうか。
世界消息:そのときわたしは = finding a trace of the world; what happened actually was
まずあげられるのは、主題として扱われる題材と書き手の関係が、非常に密接だということ。『被差別の食卓』の上原善広は、自身が被差別部落の出身者である。この本を書くきっかけとなったのは、子ども時代に食べていた「あぶらかす」という食べものにあるという。著者はこれが好物だったが、中学生のとき一般的な食べものではないことに気づく。「むら」の食べものだったのだ。その後アメリカの黒人たちが、自分たちの食べものをソウルフードと呼んでいることを知る。そこから著者の「被差別」たちの食べものへの旅が始まる。
この本を読んだとき、日本国内の「部落問題」の名で扱われてきた様々な(いくぶん暗いイメージの)議論や著作が、パッと広い外の世界につながった気がして、大きな解放感を味わった。あぶらかすを食べて育った者でなくとも、興味とワクワク感をもって読める名著となっている。まさしく著者の出自とその視点から生まれた著作だと思う。
Denise L. Herzingの『イルカ日誌』は、12歳のときから興味をもっていたイルカを、そのまま学生時代の研究課題とし生物学者となった著者の25年間の記録であり回想録だ。動物と人間のコミュニケーションをつなぐ翻訳者を著者はめざしていた。『木琴デイズ』の著者通崎睦美はマリンバ奏者。あるコンサートで(本の題材となっている)平岡養一のオリジナル木琴を演奏する機会に恵まれる。その後平岡の遺族からこの木琴を譲り受けるのだが。『イルカを食べちゃダメですか?』の関口雄祐は、水産庁調査員として捕鯨調査のため、和歌山県太地町に出向いたのが最初だったが、その後も現地に通いづつけ、のちに動物行動学者となった。
このように著者の存在自身が、本の題材と密接につながっているのがノンフィクションの一つの特徴と言えるかもしれない。もちろんそうではない著作もあるとは思うが。記者などが勤務先から派遣されて、現地の見聞を書いたものなどは、著者と題材のつながりは強くない。
ジャーナリストや記者が書いたものでも、その人本人の興味や使命感から取材地に出向き、それをルポルタージュにしたものは、書き手と題材の関係が密接だ。フリーのジャーナリストたちは、自分の特徴を出して記事を売り込むためにも、題材を選んでいるのではないだろうか。フリーの報道写真家たちも、自分の興味ある主題、得意分野で勝負していると思われる。
『援助じゃアフリカは発展しない』を書いたダンビサ・モヨは、ザンビア出身のグローバル・エコノミスト。旧態依然とした先進国からのアフリカに対する援助の仕組や元になる思想を、イキのいい言葉で指摘、分析し世界中に大きな反響を巻き起こした人だ。最近読んだネット版アルジャジーラのオピニオン記事(書き手はアフリカ系女性コメンテーター)によると、アフリカでは女性作家たちが多く世に出るようになってきたが、ノンフィクションのジャンルでは活躍の場が少ない、とのこと。それは小説と違い、ノンフィクションは実社会の仕組や現状を批判的に書くことが多いので、女性作家がそれをすることは問題視されるらしい。たとえば女性性器切除について批判した女性が、家族から縁を切られるなどの例もあるそうだ。その意味で、ダンビサ・モヨが世界を相手に、アフリカへの援助の思想はまちがっているとズバリ問題点を突いたことは、(彼女がエリートであったとしても)本の内容のユニークさとともに注目に値する。
『援助じゃアフリカは発展しない』は日本語への翻訳も非常によかった。たしか経済学の学者が自分と近い関係にある複数の学者を含む書き手と、手分けして訳していたと思うが、全編通してまったく違和感なく「一つ声」で語られていた。
ノンフィクションでは書き手の「声」が非常に重要な要素に思える。その声はどこで特徴づけられるのかと言えば、題材との関係性が大きな要因と思われる。題材と書き手が抜き差しならないくらい密接なつながりをもったとき、書かれた文章の一つ一つに命がこもる。一見淡々と書かれた文章であっても、そのコンテキストから強い意志が伝わってきたりもする。
8月からスタートさせる『世界消息:そのときわたしは』のタイトルにも、わたしが考える「ノンフィクション」が現れているかもしれない。この企画をはじめようと思ったのは、今地球上で起きていることを、どのような方法で知っていくのがいいのか、を個人的に考えていたことに始まる。紙の新聞(朝日)は取ってはいるものの、最近はざっと眺めるだけになっている。テレビはほぼCSしか見ないので、地上波などのニュースもまったく見ることがない。これは2011年3月の原発事故後少したってから続いている習慣。
紙の新聞のヘッドライン以外に出来事を知るソースは、デジタル版の毎日新聞のニュースから少し、シノドスの記事や田中宇の国際ニュース解説などがあるが、十分ではない。ニューヨークタイムスのコラムニスト、ニコラス・クリストフのブログをのぞいたり、話題に応じて海外の新聞も読むが、大きな流れを読むというより、個別の、書き手の関心に沿った記事の購読と言えると思う。まあ、そもそも大きな流れを読むということが、可能なのかはわからないが。
そんな日々のニュースへの不満が、今回のノンフィクション企画へと発展した。大きなこと(マスメディア = conventional mediaが取り扱うという意味で)を見るメガネではなく、小さな(限られた地域や、マイノリティの利害に関する)ことを発見するアンテナを一本立てることで、世界を知る糸口が見つかるのではないか、という希望をもっている。
「世界消息」というタイトルはわたしの造語だが、これを英語に訳すとしたら何と言ったらいいか、考えてみた。世界はthe worldとして、消息とは? 辞書で引くとnewsとかinformationになるけれど、どうもそれでは足りない。消息、という言葉には、目の前から消え去ったものを見つけたい、という気持ちが含まれていると思う。「消えた」「息」をたどる、というような意味合いが。息というくらいだから、人の匂いがする。こんな風に訳してみたが、どうだろうか。
世界消息:そのときわたしは = finding a trace of the world; what happened actually was