20150928

集団の中に自己を確認する日本人(2)

わたしはサッカーやテニスの国際大会をテレビで観戦するのが好きだ。なぜ国際大会かと言えば、様々な国籍の優れた選手のプレイを見るのが楽しいからだ。スポーツのレベルで言うと、どの面から見ても(各協会なども含めて)、どの競技においても、日本および日本人は必ずしも高い方ではない。優れた面白いプレイや試合を見たければ、世界のトップレベルを体験したければ、やはり国際試合になる。そこにたまたま日本人が一人、二人、入り込んできても、大きな影響は感じない。日本人チェックをしているのではなく、スポーツを楽しんでいるからだ。

しかし残念なことに、ひとたび国際舞台に日本人が出ていくと、日本国民や日本のメディアは一斉に注目しはじめ、過剰な持ち上げや期待、賞賛、応援放送をはじめる。何をおいても日本人が出場する試合は、優先して放映する。実況では、試合の流れに関係なく、日本人選手の話ばかりすることもしばしばだ。しかしひとたびその日本人選手なり日本チームが敗退すれば、そんな大会などなかったかのように放送をやめてしまう、というような極端な対応も平気でする。あるいは、勝っていればすぐさま、繰り返し再放送する試合も、負けた場合は再放送なしか、ずっとあとになってひっそり番組に入れる(今回の女子サッカーW杯の決勝戦はそうだった。アメリカに無残な負け方をしたため、再放送はしばらく見送られた。数日後になってやっと放映された。また大会後にまとめられたハイライト番組では、決勝戦の日本の「連続失点シーン」はササッと数秒間でダイジェスト。これが日本の連続得点シーンであったなら、これでもかというくらい、違うカメラアングルの映像をつかって繰り返されたはず。このような処置は、国民のショックを配慮したということかもしれないが、スポーツの本質からは離れている。NHK-BS)。いずれにしても、興味は「日本人」の活躍のみ。それが日本人のマジョリティの心情だ、ということなのだろう。

これを異常だと思うかどうか。そうは感じないで、平気でいられるとすれば、それは日本だけに関心があり、日本だけを愛する偏狭で、不健康な愛国心のもち方ではないだろうか。

前回書いたように東アジア人としての意識をもって、たとえば、東アジア人としてスポーツを観戦してみてはどうだろう。中国や韓国、台湾のスポーツ選手にも興味をもってみるのだ。日本の報道では「アジア人枠」というものがあり、成績や記録がアジアで一番だったり、初だったりすると、それだけで大騒ぎする。ただし対象になるのは、日本人が活躍した場合のみ。だから多くの日本人は、中国や韓国のスポーツ選手の「アジアで一番」や「アジア初」を知らない。報道がほとんどないからだ。

たとえばこの夏、ドイツリーグからイングランドのリーグに移籍した韓国人サッカー選手がいた。その選手は3000万ユーロという「アジアで過去最高」の移籍金額でチームを移った。もしその選手が日本人であれば、「3000万ユーロ」「アジア最高額」などの文字が報道にあふれたことだろう。しかし日本の報道やスポーツ放送ではほとんど口にされることがなかった。やや不自然に見えるくらい「スルー」された。

あるいは、中国に李娜(リ・ナ)というテニス選手がいる。昨年33歳で引退したが、四大大会で優勝したことのある「アジア人唯一」のプレイヤーだ。全仏、全豪で1回ずつ優勝している。世界ランキング2位が最高位だそうだ。わたしは2011年に全仏で優勝したとき、この選手を知り、その後注目してきた。あまり報道されることがなかったので、おそらく中国系日本人以外の人は、存在を知らないのではないか。

こういったことは、スポーツに限らず、音楽や文学、科学など他のジャンルでも起きているのではと思う。辛うじて映画は、アジア圏のものも比較的知られているように思うが。「アジアで最高」といった評価が、日本人の場合のみ適用されることの問題点は、「ではアジア枠での評価とはどういう意味をもつのか」、という問いに答えられないことだ。もし「アジアで一番」ということに意味があるのなら、その対象になるのはアジア全域の人々であるはずだ。

想像してみてほしい。もし「日本一」と言いながら、常に東京人しか注目の対象にならなかったとしたら、他の地域の人々はなんと思うか。何で記録を出そうが、宮崎県や福井県の人は「日本一」として扱われなかったとしたら。東京人が一位になったときのみ、「日本一」と言われるとしたら。そうだとすると、「日本一」の意味は、「東京一」にしか過ぎない。

同じことが「アジア一」でも言えると思う。日本人しか「アジア最高」としてカウントされないとしたら、それは「日本一」の意味しかない。「アジア一」がもしすごいことだとすれば、そこには中国や韓国、台湾、インドネシアやベトナムなどの「アジア一」記録も含まれなければ、ほとんど意味がない。

普段から日本以外のアジアの記録保持者を同等に扱っていれば、「アジア最高」の意味は出てくるだろう。スポーツではそれぞれの国の活躍の場(ジャンル)自体がかなり違うかもしれない。しかしそれも、近隣の国の人々がどんなスポーツに励んでいるのかを知る、いい機会にもなる。日本が得意なジャンルだけでなく、少し広くスポーツを見ることができる。

東アジア人のスポーツ選手の活躍を知り、興味をもったり、応援する気持ちになれれば、それが日本人一辺倒の集団意識から、少し広げて東アジア人として生きる意識へのきっかけになるのではないか。そんな風に思っている。

20150914

集団の中に自己を確認する日本人(1)

葉っぱの坑夫を始めて10年以上の間に、様々な国籍の人々と、日本語や英語をつかって話をしてきた。多くはメールを通じてだが、会って話をしている人も何人かいる。わたしの会う人々は、作家であったりアーティストであったり、個としての自分というものを意識して生きている人が多いので、自分の属する集団と自分を同一視することで安心を得ている人は少ないと思う。しかし、もう少し広い範囲で日本の人々を見ていくと、自己と属する集団(学校や会社、国家など)を無意識のうちに「一つのもの」として見ている人が多い気がする。

いま、この21世紀という時代に、日本人として、日本に居住するということ、このことについて考えてみたい。

日本人であるというのは、日本の国籍をもつことで、それは日本人の両親から生まれたことを示す。片方の親が帰化していない在日外国人の場合、子は20歳になったとき、どちらの国籍を取るか選ぶことになる。日本では、二重国籍は、いまのところ認められていない。海外で生まれても、両親が日本人であれば子も日本人であるが、現地の国籍も同時にもてる場合(国)もある。また日本で生まれても、両親が外国人であれば、日本人ではない。

血統により国籍が決められているのが日本だ。最近は日本に住む外国人が増えてきたとはいえ、もともと移民や難民を受け入れることが少ない日本は、外国人との接触も日常的に多いとは言えない。結果、日本に住んでいるのは全員、自分と同じ日本人という意識が、潜在的に根強いように思う。日本には、日本人しかいないような発言は、日常的に広く見受けられる。

それと同時に、自分を「日本人」という集団的なアイデンティティの一部として認識している人も、日本では非常に多い。自分は日本人であり、日本に属する人間は誰でも自分と同族である、として同一視する傾向が強い。自分=日本人。日本人=自分。

あたりまえではないか、という人がいるかもしれない。そうじゃない日本人などいるのか、と。答えはいる、である。国籍上日本人であることと、集団としての「日本人」というアイデンティティとを、区別して生きている人間はいる。

違いを示すために、自分と国家を同一視している人々の具体例をあげよう。最近、テニスで力をつけてきた錦織圭選手がいる。去年の全米オープンでの決勝進出がきっかけであり、ピークだった。また日本代表の女子サッカーが、4年前W杯で優勝した。そのときの日本全国の熱狂ぶりは、日本のサッカー界が過去に経験したことのないものだった。特別テニスやサッカーに興味のない人々が、一斉に、大挙して、錦織や女子サッカーに飛びついた。その要因はなにかと言えば、自分の属する日本(=日本人である自分)が快挙を成したからだ。

選手としての資質や経歴、プレイスタイル、あるいは試合での戦いぶりに共感して熱狂していたわけではない。単に選手/チーム=日本人=自分だったからに過ぎない。日本人であれば熱狂する、日本人でなければ熱狂しない。実のところ、この熱狂はテニスともサッカーともあまり関係ない。興味の焦点は日本、または日本人なのだから。それは一般の視聴者だけではなく、中継をするテレビ局や報道をする新聞も同じだ。卵と鶏のどっちが先かわからないが、どちらも日本人応援ということで同調し、一致している。

日本人が日本人の活躍を見て熱狂して、そのどこが悪い?と思う人もいると思う。しかしそれが何であれ、日本人がいて活躍すれば集まって熱狂するが、いなくなれば興味を失いサッといなくなる、という状況は危うくないだろうか。

知らない人は驚くかもしれないが、サッカー日本代表戦の放送では、試合前の紹介で日本のチームメンバーのみを伝えるのが「習わし」だ。相手チームの選手については、試合中にメンバーリストをサッと出すくらい。誰(どんなチーム)と戦うかは問題じゃないのだ。これがスポーツの観戦と言えるかどうか。

日本人だけに興味があり、日本人だけに自分を同化できる、その心のありようは健康な精神状態とは言い難い。

自分が日本人の両親から生まれたために日本人である、という状況は、いわば偶然のできごとだ。たまたま日本人に生まれた、と考えるのが自然だ。その状況を引き受けて生きるのも、そうでない生き方(違う国に住み、そこで市民権を取るなど)を選ぶのも、自分次第。選択権は自分にある。日本人であることは、絶対的な運命ではない。また、国籍は日本のままでも、意識を少し広げて東アジア人として生きる、環太平洋人として生きる、あるいは地球人として生きる、ということも可能だ。

もし東アジア人として生きる、という心情をもてば、韓国や中国、台湾などのお隣りの国々を仲間として見て生きていくことができる。人種的に同じモンゴロイドであり、漢字や仏教、儒教など文化的にも同じものをベースにして暮らしてきたのだから、理解は深まりやすいはず。ところがいまは、同じ文化圏に生きる者としての共感より、領土や歴史認識の問題などで、反感や違和感の方が前面に出てくる場面が多いように思う。

そいういう日本人の心情の最近の傾向も、政治的な操作によるある種の誘導と見れないこともない。前回のポストで、日本には信じられないくらいの数の「戦前復帰願望派」がいることを書いたが、そういった一派(安倍首相もその一人)は軍備をもてるようになりたいので、北朝鮮や中国の脅威を何かにつけ強調して、仮想敵国として国民に知らしめたい思いがある。在日朝鮮人に対するヘイトスピーチを放置して、それを取り締まる法案を先送りにしたのも、その方が都合がいいからだと思える。

日本人が、日本人であるがゆえ日本人のスポーツ選手に熱狂し、視聴者とメディアが一体となって身びいき丸出しの応援をするのは、やはり精神の状態としては偏っているように思う。自分が日本の国籍をもつことと、スポーツをどのように楽しむかは、また別の問題だからだ。スポーツと愛国心を結びつけて「だからスポーツは嫌い」という人も、似たような精神状態に陥っている。どこかの国民であることと、スポーツの楽しみとは、根本的にまったく違うことだ。
(つづく)