集団の中に自己を確認する日本人(2)
わたしはサッカーやテニスの国際大会をテレビで観戦するのが好きだ。なぜ国際大会かと言えば、様々な国籍の優れた選手のプレイを見るのが楽しいからだ。スポーツのレベルで言うと、どの面から見ても(各協会なども含めて)、どの競技においても、日本および日本人は必ずしも高い方ではない。優れた面白いプレイや試合を見たければ、世界のトップレベルを体験したければ、やはり国際試合になる。そこにたまたま日本人が一人、二人、入り込んできても、大きな影響は感じない。日本人チェックをしているのではなく、スポーツを楽しんでいるからだ。
しかし残念なことに、ひとたび国際舞台に日本人が出ていくと、日本国民や日本のメディアは一斉に注目しはじめ、過剰な持ち上げや期待、賞賛、応援放送をはじめる。何をおいても日本人が出場する試合は、優先して放映する。実況では、試合の流れに関係なく、日本人選手の話ばかりすることもしばしばだ。しかしひとたびその日本人選手なり日本チームが敗退すれば、そんな大会などなかったかのように放送をやめてしまう、というような極端な対応も平気でする。あるいは、勝っていればすぐさま、繰り返し再放送する試合も、負けた場合は再放送なしか、ずっとあとになってひっそり番組に入れる(今回の女子サッカーW杯の決勝戦はそうだった。アメリカに無残な負け方をしたため、再放送はしばらく見送られた。数日後になってやっと放映された。また大会後にまとめられたハイライト番組では、決勝戦の日本の「連続失点シーン」はササッと数秒間でダイジェスト。これが日本の連続得点シーンであったなら、これでもかというくらい、違うカメラアングルの映像をつかって繰り返されたはず。このような処置は、国民のショックを配慮したということかもしれないが、スポーツの本質からは離れている。NHK-BS)。いずれにしても、興味は「日本人」の活躍のみ。それが日本人のマジョリティの心情だ、ということなのだろう。
これを異常だと思うかどうか。そうは感じないで、平気でいられるとすれば、それは日本だけに関心があり、日本だけを愛する偏狭で、不健康な愛国心のもち方ではないだろうか。
前回書いたように東アジア人としての意識をもって、たとえば、東アジア人としてスポーツを観戦してみてはどうだろう。中国や韓国、台湾のスポーツ選手にも興味をもってみるのだ。日本の報道では「アジア人枠」というものがあり、成績や記録がアジアで一番だったり、初だったりすると、それだけで大騒ぎする。ただし対象になるのは、日本人が活躍した場合のみ。だから多くの日本人は、中国や韓国のスポーツ選手の「アジアで一番」や「アジア初」を知らない。報道がほとんどないからだ。
たとえばこの夏、ドイツリーグからイングランドのリーグに移籍した韓国人サッカー選手がいた。その選手は3000万ユーロという「アジアで過去最高」の移籍金額でチームを移った。もしその選手が日本人であれば、「3000万ユーロ」「アジア最高額」などの文字が報道にあふれたことだろう。しかし日本の報道やスポーツ放送ではほとんど口にされることがなかった。やや不自然に見えるくらい「スルー」された。
あるいは、中国に李娜(リ・ナ)というテニス選手がいる。昨年33歳で引退したが、四大大会で優勝したことのある「アジア人唯一」のプレイヤーだ。全仏、全豪で1回ずつ優勝している。世界ランキング2位が最高位だそうだ。わたしは2011年に全仏で優勝したとき、この選手を知り、その後注目してきた。あまり報道されることがなかったので、おそらく中国系日本人以外の人は、存在を知らないのではないか。
こういったことは、スポーツに限らず、音楽や文学、科学など他のジャンルでも起きているのではと思う。辛うじて映画は、アジア圏のものも比較的知られているように思うが。「アジアで最高」といった評価が、日本人の場合のみ適用されることの問題点は、「ではアジア枠での評価とはどういう意味をもつのか」、という問いに答えられないことだ。もし「アジアで一番」ということに意味があるのなら、その対象になるのはアジア全域の人々であるはずだ。
想像してみてほしい。もし「日本一」と言いながら、常に東京人しか注目の対象にならなかったとしたら、他の地域の人々はなんと思うか。何で記録を出そうが、宮崎県や福井県の人は「日本一」として扱われなかったとしたら。東京人が一位になったときのみ、「日本一」と言われるとしたら。そうだとすると、「日本一」の意味は、「東京一」にしか過ぎない。
同じことが「アジア一」でも言えると思う。日本人しか「アジア最高」としてカウントされないとしたら、それは「日本一」の意味しかない。「アジア一」がもしすごいことだとすれば、そこには中国や韓国、台湾、インドネシアやベトナムなどの「アジア一」記録も含まれなければ、ほとんど意味がない。
普段から日本以外のアジアの記録保持者を同等に扱っていれば、「アジア最高」の意味は出てくるだろう。スポーツではそれぞれの国の活躍の場(ジャンル)自体がかなり違うかもしれない。しかしそれも、近隣の国の人々がどんなスポーツに励んでいるのかを知る、いい機会にもなる。日本が得意なジャンルだけでなく、少し広くスポーツを見ることができる。
東アジア人のスポーツ選手の活躍を知り、興味をもったり、応援する気持ちになれれば、それが日本人一辺倒の集団意識から、少し広げて東アジア人として生きる意識へのきっかけになるのではないか。そんな風に思っている。
しかし残念なことに、ひとたび国際舞台に日本人が出ていくと、日本国民や日本のメディアは一斉に注目しはじめ、過剰な持ち上げや期待、賞賛、応援放送をはじめる。何をおいても日本人が出場する試合は、優先して放映する。実況では、試合の流れに関係なく、日本人選手の話ばかりすることもしばしばだ。しかしひとたびその日本人選手なり日本チームが敗退すれば、そんな大会などなかったかのように放送をやめてしまう、というような極端な対応も平気でする。あるいは、勝っていればすぐさま、繰り返し再放送する試合も、負けた場合は再放送なしか、ずっとあとになってひっそり番組に入れる(今回の女子サッカーW杯の決勝戦はそうだった。アメリカに無残な負け方をしたため、再放送はしばらく見送られた。数日後になってやっと放映された。また大会後にまとめられたハイライト番組では、決勝戦の日本の「連続失点シーン」はササッと数秒間でダイジェスト。これが日本の連続得点シーンであったなら、これでもかというくらい、違うカメラアングルの映像をつかって繰り返されたはず。このような処置は、国民のショックを配慮したということかもしれないが、スポーツの本質からは離れている。NHK-BS)。いずれにしても、興味は「日本人」の活躍のみ。それが日本人のマジョリティの心情だ、ということなのだろう。
これを異常だと思うかどうか。そうは感じないで、平気でいられるとすれば、それは日本だけに関心があり、日本だけを愛する偏狭で、不健康な愛国心のもち方ではないだろうか。
前回書いたように東アジア人としての意識をもって、たとえば、東アジア人としてスポーツを観戦してみてはどうだろう。中国や韓国、台湾のスポーツ選手にも興味をもってみるのだ。日本の報道では「アジア人枠」というものがあり、成績や記録がアジアで一番だったり、初だったりすると、それだけで大騒ぎする。ただし対象になるのは、日本人が活躍した場合のみ。だから多くの日本人は、中国や韓国のスポーツ選手の「アジアで一番」や「アジア初」を知らない。報道がほとんどないからだ。
たとえばこの夏、ドイツリーグからイングランドのリーグに移籍した韓国人サッカー選手がいた。その選手は3000万ユーロという「アジアで過去最高」の移籍金額でチームを移った。もしその選手が日本人であれば、「3000万ユーロ」「アジア最高額」などの文字が報道にあふれたことだろう。しかし日本の報道やスポーツ放送ではほとんど口にされることがなかった。やや不自然に見えるくらい「スルー」された。
あるいは、中国に李娜(リ・ナ)というテニス選手がいる。昨年33歳で引退したが、四大大会で優勝したことのある「アジア人唯一」のプレイヤーだ。全仏、全豪で1回ずつ優勝している。世界ランキング2位が最高位だそうだ。わたしは2011年に全仏で優勝したとき、この選手を知り、その後注目してきた。あまり報道されることがなかったので、おそらく中国系日本人以外の人は、存在を知らないのではないか。
こういったことは、スポーツに限らず、音楽や文学、科学など他のジャンルでも起きているのではと思う。辛うじて映画は、アジア圏のものも比較的知られているように思うが。「アジアで最高」といった評価が、日本人の場合のみ適用されることの問題点は、「ではアジア枠での評価とはどういう意味をもつのか」、という問いに答えられないことだ。もし「アジアで一番」ということに意味があるのなら、その対象になるのはアジア全域の人々であるはずだ。
想像してみてほしい。もし「日本一」と言いながら、常に東京人しか注目の対象にならなかったとしたら、他の地域の人々はなんと思うか。何で記録を出そうが、宮崎県や福井県の人は「日本一」として扱われなかったとしたら。東京人が一位になったときのみ、「日本一」と言われるとしたら。そうだとすると、「日本一」の意味は、「東京一」にしか過ぎない。
同じことが「アジア一」でも言えると思う。日本人しか「アジア最高」としてカウントされないとしたら、それは「日本一」の意味しかない。「アジア一」がもしすごいことだとすれば、そこには中国や韓国、台湾、インドネシアやベトナムなどの「アジア一」記録も含まれなければ、ほとんど意味がない。
普段から日本以外のアジアの記録保持者を同等に扱っていれば、「アジア最高」の意味は出てくるだろう。スポーツではそれぞれの国の活躍の場(ジャンル)自体がかなり違うかもしれない。しかしそれも、近隣の国の人々がどんなスポーツに励んでいるのかを知る、いい機会にもなる。日本が得意なジャンルだけでなく、少し広くスポーツを見ることができる。
東アジア人のスポーツ選手の活躍を知り、興味をもったり、応援する気持ちになれれば、それが日本人一辺倒の集団意識から、少し広げて東アジア人として生きる意識へのきっかけになるのではないか。そんな風に思っている。