20151130

パリのテロ:なぜニュースは間違いを犯したのか

  パリで11月13日に起きた多発テロ事件。わたしは日本時間14日の午前中、毎日新聞のデジタル版からの速報メールで知った。「フランステロ:パリのレストランなどで銃撃 120人死亡」と題した記事で、サイトではサンドニのサッカー場の写真とともに、事件のあらましが書かれていた。写真のキャプションは、「付近で爆発のあった競技場。観客はピッチに下りて避難に向かった=パリ近郊のサンドニで、AP」。記事では、フランスとドイツの親善試合が行われている最中に爆発音があった、となっていたので、その試合はどうなったのか気になって調べてみた。

検索で「サッカー親善試合、フランス、ドイツ」で引くとすぐに結果が出てきた。フランス2ードイツ0。なんだ、試合は終わりまでやったんだ。新聞を見た印象では、試合は中断され、スタジアムの観客は避難のためピッチに降りて逃げた、という感じだった。「試合中断」とは書かれていなかったが。サッカーの試合結果とともに、試合のハイライト動画もあったので、どんな様子だったのか見てみた。2分くらいの縮小版と7分くらいのロングヴァージョンがあり、とりあえず短い方を見た(あとで長い方も見た)。試合は普通に進んでいるように見え、2回の得点シーンを中心に、通常のハイライト映像となんら変わりなかった。ピッチに降りて逃げ惑う人の姿はない。

サッカーの試合中にファンがスタンドから飛び降りて、ピッチを駆けまわることはたまにある。そうした場合、ピッチのそばで待機している警備員が、すぐに駆けつけて不届き者を捕まえる。しかしこの日の試合では、そんな様子もなく、ハイライトを見ている限りでは、何かが起こったようには見えなかった。その後、別の動画で、「爆発音がしたときの選手の反応」を見たが、ボールを保持していた選手は音に反応して一瞬ビクッとしたが、すぐに試合に戻った。サッカー場では爆竹が鳴らされたりすることはよくあるので、そのように解釈したのかもしれない。

それから少しして、毎日新聞の追加記事「パリ同時多発テロ:『これは大虐殺』 やまぬ銃声、悲鳴」と題された記事を読んだ。サイトでは、サッカー場のピッチを走る人の写真とともに、記事が掲載されていた。キャプションは「険しい表情で観客席から避難する人たち」(同じくAP)。その記事には、「会場周辺で数度にわたり爆音がとどろくと、多くの観客がピッチに飛び降りた。恐怖にかられた人々は避難指示の放送がかかる前に、幾つかの出口に殺到。会場は大混乱した。」とあった。この「ピッチを逃げ惑う観客」の写真は、同じアングルのほぼ同一もの(大きく映っている人物も同じ。ピッチに選手の姿はない)が、その日の朝日新聞夕刊にも掲載された。そちらのキャプションは「サッカーの国際親善試合が行われていたスタジアム周辺での爆発音を聞き、ピッチに逃げる観客」。

写真を見て、キャプションと記事を読んだら、何万人も入ったスタジアムで、大変な混乱が起きたことを想像するのが自然だろう。しかし実際はどうもこうではなかったようだ。サッカー関連の記事によれば、試合中に爆発音がしたが試合は続行され、試合が終了した時点で、安全が確認できるまで場内にとどまるよう観客に指示が出たようだった。30分程度、観客は外に出るのを待ったらしい。その記事には大きな混乱があったとは書いてなかった。

サッカーの試合の動画と合わせて考えると、どうもそちらの方が事実に近いのではないか、と感じた。少なくとも、試合中に爆発音を聞いて、多くの観客がピッチに降りて走りまわった、という事実はなさそうだ。毎日新聞、朝日新聞が使用していたAPによる写真は、試合後にピッチが開放され、観客が場内で待機していたときのものと考えられる。

朝日、毎日、どちらもAPからの第一報をそのまま鵜呑みにして載せたのだろうか。毎日のデジタル版では、現在もそのままの記事と写真が掲載され、訂正は特にない。「パリでテロ」のニュースが入った途端、日本の新聞社はどこも全社をあげて「大混乱のパニック」に陥っていたのかもしれない。たとえスポーツ部の記者が「試合は最後までやり、ジルーとジニャックのゴールでフランスが勝ちました」と言ったとしても、聞く耳もたずだったのかもしれない。一般人であるわたしが、試合の経過に興味をもち調べたら、最後まで試合が行われていたことはすぐに確認できた。事実確認が重要な仕事である(はずの)新聞記者であればなおのこと、赤子の手をひねるように容易いことだ。

報道とはいったい何なんだろう、と考えさせられた。単なる稚拙な誤報だったのだろうか。それとも「扇動」に近い意図されたものがあったのだろうか。先進国フランス、花の都パリがイスラム過激派に襲撃された、傷つけられた!!! 許しがたい大虐殺!!! 先進国はみな手をつなぎ連帯してテロに立ち向かおう、絶対に許してはいけない!!! ただちに制裁だ!!! という強い思いのために、どれだけ酷いことが、いかに衝撃的なことが起きたかを写真で見せつけなければならない、だからあの写真をあのキャプション付きで(たとえ事実とズレがあっても)載せなければ、ということだったのだろうか、と勘ぐりたくなる。

戦争をめぐる新聞記事などに誤報や扇動が含まれることはみんな過去の事例では知っている。しかしこれは現在進行中の世界に影響を与える出来事だ。誤報や扇動があったとしたら、(たとえ小さな誤差であったとしても)衝撃的なことに思える。

わたしが最近ときどき読んでいるMuftahという中東・北アフリカ関連の英語ニュースサイトでは、「中東もパリのテロを追悼している」というタイトルの記事を掲載していた。ヴァルキアニという記者は、その記事でこう書いていた。「同じ13日にバグダッドで、1日前にベイルートで、同じような恐ろしいテロが起きたことに対して、西洋社会は目立った関心を示さなかったとしても、中東の人々はパリのテロを厳しく非難し、フランスの人に哀悼の意を表しています」 そしてバーレーン、エジプト、ヨルダン、クゥエート、イランなどの国々からの追悼の言葉を紹介していた。

世界はこのような不均衡の中に成立しているのだ。なぜフランスの人々の命は重く、中東の人々の命は軽いのか。これは世界がずっと変わらぬ価値観のままであることを示している。こういった意識の中で、常識の中で、ある者は酷い目にあっていても見向きもされず、ある者は世界中から悲しまれ、同情され、哀悼され、フィイスブックのプロファイル画像が三色旗に染まるのだ。ある中東の人は、ツイッターで「プロファイル画像を変えたいけれど、どの国旗を選べばいいかしら?」とたくさんの国旗を並べて皮肉っていた。

日本の新聞社が、「パリで酷いことが起きたこと」を「もっとリアルに」伝えたいために、事実ではない説明で写真を大きく掲載していたとしたら、それこそが世界の不均衡をさらに促進させる間違った姿勢であると糾弾されるべきだ。そしてそれに同調し共感する「ふつうの」「良き」人々の不均衡な意識も、中東やムスリムの人々をいらだたせ、今の世界を不安なものに陥れていく要因となるはずだ。

*パリの事件に関して、参考になったニュースサイトを三つ紹介します。
1.Newsweek 日本版:2015.11.16 パリとシリアとイラクとベイルートの死者を悼む(酒井啓子)

2.SYNODOS:2015.11.24「中東のパリ」で何が起きているのか――2015年11月12日のベイルートのテロ事件を考える(末近浩太)

3.Muftah:2015.11.17 The Middle East Also Mourned with Paris After the Attacks(Adrienne Mahsa Varkiani)


20151116

夫婦別姓:戸籍制度とマイナンバー

「夫婦は同じ姓を名乗る」とする民法が、「個人の尊重」を保障した憲法13条に反するのではないか、という訴訟が現在進行中だ。事実婚の夫婦が、別姓を選択できる制度を求めて提訴している。調査などでは、若い層を中心に結婚の際、別姓を選択できることに賛成する人が多いらしい。当然だろう。同姓でも別姓でも選べる(選択肢が増える)のは、今の時代にかなっている。反対派の人々は「家族の一体感が失われる」「離婚が増える」などを理由にあげているようだが、根拠あってのことではないようだ。

今回提訴している人は、結婚した夫婦の96%が夫の姓を選んでいることから、この法は間接的な女性差別を生んでいる、と考えている。反対派の方は「どちらの姓を選ぶこともできるのだから、法律として差別はない」としている。これについては、確かに、結婚する当事者どうしが相談して、どちらの姓を名乗るか決めればいいことで、男女間の差別はない、と言っていいと思う。しかし現実は、96%が夫の姓を選んでいる。そのことから「間接的な」差別の元になっているというわけだ。これは法そのものに欠陥があるというより、社会通念や慣習、人々の普段からの考え方が影響したものだ。

何年か前に、20代の女性と話をしていて、わたしの結婚前の姓は何か、と訊かれた。今と同じだけど、と答えると、飛び上がって驚いていた。「ええっ、法律で夫の苗字にするって決まっているんじゃないですか?」 こんどはこちらが驚く番だ。「そんなことないよ、どっちでも好きな方を選べるんだよ」 社会通念だけでなく、法律で決まっている=絶対、と思っている人もいるんだ、とそのとき考えこんでしまった。

日本ではなぜ、どちらの姓を選べてもほとんどの人が夫の姓にしてしまうのだろう。知識の不足? みんながやっていることと同じにしておいた方がいい? 結婚したのだから、むしろ夫の姓に進んでしたい? 自分の家族(実家)から距離を置きたいとか? 夫自身(あるいは夫の親族)が苗字を変えることを許さない? 夫が会社や同窓会で、苗字が変わるなどということがあると居心地が悪くなる? 

確かに、夫が苗字を変えれば、妻が変えるより周囲の反応は強いものになるだろう。妻側が結婚で苗字が変わったと言っても、ああそう、で済む。昔の知り合いに連絡するときは、名前の脇に「旧姓◯◯◯◯」と書くのだ。しかし夫の側の苗字が変わったとなれば、どうしたの、婿養子にでもいったの、などと思われるかもしれない。仕事上の名刺やらさまざまな名義を変更せねばならず、面倒だな、なんで奥さんの苗字にしたの、と勤め先で嫌味を言われるかもしれない。夫が「旧姓◯◯◯◯」と書かねばならないのは格好悪い、とか。

おそらく一言では言いがたい事情で、夫の姓に96%の人がしているのだ。しかし、と思う。別姓の選択は認められた方がいいし、だいたい世界的に見ても、同姓しか認めていない国は日本以外にあまりなく(アジア圏も含め)、過去にそうであった国の多くも、1980年代くらいから法改正により「姓の自由化」が進んでいるのだから、時代の趨勢としては、日本でもいずれ姓を選べるようになるのは間違いない。

その問題とは別に、同時進行で、妻の姓を選ぶ夫婦がもっと普通に出てきてもいい、とも思う。妻の姓を夫が名乗るようになれば、夫の姓を名乗らざるを得ない妻の側の不平不満、不便さについて、(男性優位に立つ)社会がもっと認知するようになるだろう。妻側がじっと不満をためている、あるいは法的には結婚をせず事実婚とする、という方法より、社会的なアピール度は高いのではないか。そのことにより、姓のもつ意味が「家父長的」でなくなり、どちらでもいい風潮が広まれば、別姓へもすんなり進めるかもしれない。

そもそも名前とは何か。ある個人を特定する身元認証タイトル(アイデンティティ)だ。また互いを呼び合うときの呼称でもある。日本では平民にも姓が認められるようになったのは、明治になってからのこと。当時の政府が、中央集権化を進める中で、人口を把握するために戸籍法を制定した。その後、国民皆兵制度の導入にともない、軍の要求によって苗字をつけることが義務化された。結婚による姓をどうするかが検討された際、それぞれの「家」の存在を優位に置いて、夫婦別姓となった。そう、苗字導入の直後は夫婦別姓だったのだ。その後に「夫婦同姓」案が出された際は、「日本古来の家父長制度に反するとして」反対意見が多かったらしい。そこで家父長制を元にした戸籍(戸籍は家父長制を体現するもの)という考え方を定めた上で、夫婦同姓(同氏)を規定した。(日本語版ウィキペディアを参照)

この歴史の流れを見れば、日本における姓の扱いは、家父長制と密接な関係にあり、戸籍制度も、元は人口を把握したり、兵役の際の資料としての役割だったが、家父長制が強かった時代を反映して、戸籍の性格も家父長制的なものとして位置づけられるようになっていったようだ。そのような理由から、いまも日本名の苗字には、どこか家父長制のにおいがつきまとう。夫の姓を妻の姓に変えられない、変えにくい事情も、そういった心理がいまも働いているからではないか。

現在日本では国民総背番号制(マイナンバー/個人番号)の番号割り当てが進行している。これは個人を特定するアイデンティティ証明であり、明治期以来の出自や家族の関係性に重点が置かれた戸籍制度とは異なる性質のものだ。今後は、国や公共制度による個人の管理はこのマイナンバーで行われることになる。住民票をもつ人すべてに番号が付されるので、日本国籍をもたない外国人もその対象となっている。日本国民でなくとも(条件が合えば留学生なども)マイナンバーを所持し利用できるという意味で、制度としてよりフラットなものに見える。実質的に、今後は戸籍は実用性が薄れ、存在の意味は狭まっていくのではないか。それは家父長制と深い関係がある制度の終焉、とも言える。

戸籍制度や家、家父長制、といったものが存在意義を小さくしていく中で、姓の選択の問題(夫婦同姓にこだわる傾向)も、弱まっていくことが考えられる。日常の生活(主として人間関係)では、姓名は個人を特定する呼称としていままで通り機能するが、マイナンバーの導入によってその意味が少し軽くなるかもしれない。姓名は人間関係における呼称であり、本名もふくめて「通称」的な意味合いが強くなれば、名前は個人をあらわすプレート(表札)的な役割になっていく。個人名とマイナンバーが結びつくことによって、これまで強固だった戸籍における家族関係の枠組がほぐれていくことにつながるかもしれない。

いずれにしても、婚姻の際、同姓を名乗らないと「家族の一体感が失われる」などという「氏族中心主義」の思想は、やがて廃れるだろう。別姓の選択だけでなく、両方の姓を残すようなやり方(複合姓)、「花子・斉藤・橋本」方式も検討されていいだろう。子どもの姓を選ぶ際、両親の二つの姓を名乗ることができるし、家族全員が同じ姓を使う場合も問題が少ない。この場合姓名の順序は、「斉藤・橋本・花子」ではなく、「花子・斉藤・橋本」の方がスムーズだと思う。個人特定の名前をまず最初にもってきた方が、名前の構造としてはわかりやすい。その意味で、ここ10年くらいで日本人の間で一般化してきた、Saito Hanakoのようにあえて日本式で表記する欧文の姓、名の順も、いま一度検証されてもいいかもしれない。

Saito Hanakoの日本式記述は「日本の伝統」に則っていると思うかもしれないが、それは家父長制の強かった時代に、個人より家(氏)が大事という思想を反映しているだけなので、21世紀のいま、従わなければならない必須事項とも思えない。

20151102

なでしこ女子とポスト・フェミ

前回のポストで書いたジュリー・デルピーが、監督、主演した映画「パリ、恋人たちの2日間(2 days in Paris)」についてのインタビューで、「わたしはポスト・フェミニスト世代だから、、、」と言っていた。なるほど、そういう表現があったかと納得した。前回のポストでデルピーといっしょに論じたレナ・ダナムも、年齢はかなり違うもののポスト・フェミニスト世代であることは間違いない。

ポスト・フェミニストとはなにか。デルピーはインタビューで「男と女がequal(同等)というのは、もう言う必要もないこと、当たり前すぎて」というようなことを言っていた。その後に立っているのが自分たちの世代だ、というわけだ。プレ・フェミニストたちは男女平等こそが争点だった。それが社会の中で達成されたかどうかは別にして、たしかに今だにそこを争点にしていては始まらない。

そのインタビューの中で、映画の主人公マリオンを演じていて、デルピーは「レイジング・ブル」の主人公となんと似ていることか、と思ったという。マリオンは女だし、ボクサーでもないけれど、主人公の男を思い出さずにはいられなかったと語っている。そのように、人間を見るとき、他の要素と比べれば、男女差はまったくもって小さなことだ、というところにデルピーの感性はあるらしい。「ポスト」ゆえの感覚だろう。

日本に目を転じれば、ポスト・フェミと言える世代は発生しているか、育っているだろうか。いやその前に、そもそもフェミニストは存在したか、という問題はある。それがなければポストも発生のしようがない。日本の数少ないフェミニストといえば、上野千鶴子とか田嶋陽子とか、作家の富岡多恵子*も入れてもいいかもしれない。みんな1950年以前生まれの人々だ。それに続く世代のフェミ群は、男も含めていたのだろうか(もちろん男にもフェミニストはいる。そういえば昔々、女性に優しい男のことを日本ではフェミニストと呼んでいた時代があった)。

2002年のアメリカ映画に「デブラ・ウィンガーを探して」というドキュメンタリーがある。俳優のロザンナ・アークエットが発案、監督したハリウッド映画界で働く俳優、女性34人にインタビューした作品だ。ホリー・ハンター、メグ・ライアン、シャロン・ストーン、ウーピー・ゴールドバーグ、シャーロット・ランプリングなど現役の売れっ子俳優たちが出演している。インタビューの他に、パーティで喧々諤々の議論&憂さ晴らしをする場面があって、かなり痛快だった。ハリウッドで「女優」として仕事することが、いかにプレッシャーとハラスメントに満ちているかを語りあう。そして人間として自分の信念を通して生きることと、男性優位の映画界で働くことの難しさを指摘する。

こういった視点が日本の俳優に(男であれ女であれ)あるか、と考えれば、かなり馴染みにくいものではないか。もしこれと同種の映画が日本で撮られたとして、出演をOKする俳優の顔が思い浮かばない。「お世話になっている映画界の方々の悪口を言うわけにいかない」「わたしはいい監督さんやスタッフに恵まれましたので、、、」などと言って出演を辞退するのではないか。ちなみに、「デブラ・ウィンガーを探して」の日本語版ウィキペディアでは、映画の説明として『女優として、女として、母親としての自身の体験や悩みを語っていく。』と書かれている。この受け止め方自体が、なんとも日本的で映画の主旨や意図を正確に汲んでいない。「自身の体験や悩み」を語りあうのが目的ではない、社会に対して問題を提起しているのだ。

日本の女たちは多くの問題を「自身の悩み」にしてしまう傾向がある。「夫が長時間労働でうちは母子家庭状態です」などと言うときも、自分の悩みとしてしか話さない。これは自分の家庭だけの問題ではなく、日本の会社や社会の問題である、という認識が薄い。要するにどれほど悩みが深くとも、「自分さえ我慢すれば」となるのだ。これが模範的な日本の妻の姿であり、大和撫子(やまとなでしこ)の見本である。

サムライとやまとなでしこ。今でも使われている日本人の好きな、美意識に沿った呼称だ。スポーツでも、サムライ・ジャパン、なでしこ・ジャパンと言われ人気を呼んでいる。しかしいまどき、侍と撫子か?と誰も思わないのだろうか。

そういえば最近、「なでしこアクション」という市民団体のことを知った。第二次大戦時に、韓国の女性が、日本軍に強制連行され性奴隷にされたとされる「従軍慰安婦問題」を事実無根だと主張し、抗議活動をしている団体である。「なでしこ」という名前が団体名についているところに、妙に納得した覚えがある。もともとはただの花の名だったが、日本の社会では「なでしこ」とは、このような文脈の中にもよく馴染むのだ。

「なでしこ」女子が麗しいイメージをもつ日本は、もともと男たちのロリコン趣味的傾向が強い社会でもある。漫画やポルノの描写、1980年代のアジア買春ツアー、JK(女子高生)ビジネス、AKB48にハマる中年男たちと、同じ土壌から発生しているように見える。一部のある趣味傾向をもつ人々というより、社会全体をおおっている日本の男たちの願望傾向のように見えてしまう。なぜそうなのかはわからない。深層心理になにかあるのだろうか。たとえば太平洋戦争の敗北とか。

「日本のロック名盤ベスト100」の著者・川崎大助は、この本の中で「….こうした女性像や日本的なアイドル・システムの価値観が、いともたやすく、日本のロックをも侵食してしまった」と書いている。こうした女性像とは、「頑張っている女性を応援、でもなんでもいいが、そんな物言い(が)憤懣やるかたないおためごかしでしかないのは、『システム』に参加させられた当事者である女性たちには、そもそもなんのイニシアチブも与えられていないからだ。(略)『外には出られぬ』囲いの中で、統制された行動をとる女性の『献身』を鑑賞したり、ときに賛美したりする、というゲームが現出することになる。これが男性原理を駆動エンジンとして使用した、日本特有のひとつのシステムの全容だ。」

こういう発言を男性の書き手がするのをあまり見たことがなかったので驚いた。そして拍手した。1、2ヶ月前にアイドルグループの少女が、「交際禁止」のルールを破ったとして、所属事務所から損害賠償の訴訟を受けた事件が話題になった。判決が「アイドルとは投資を回収するビジネスモデルであり、ファン獲得には交際禁止の規約は必要」として、少女に65万円の支払いを命じたのには、びっくりした。

要するにアイドルには、人間だれもがもっている普通の人権は与えられていないのだ。とすると、AKB48に入れあげている中老年の文化人たち(小林よしのり、中森明夫、宇野常寛など)も、アイドルのそのような位置づけを肯定し、ファンであることを楽しんでいるのなら、メンバーの恋愛にはきっと渋い顔をしてしまうのだろうな。


*富岡多恵子:「現代思想/総特集:鶴見俊輔」(2015年10月)の中で、次のように述べている。<年長の男が女と対座し対談するとき、「ものを教える」か「ものを知っているのをホメる」かの態度になることが多いが、鶴見さんはちがった。>と書いている。このような意識は、フェミニストの思考と一致する。また「男流文学論」(上野 千鶴子、小倉 千加子との鼎談集/筑摩書房/1992年)という村上春樹や三島由紀夫の作品を、フェミニスト目線で論じた著書もある。