図書館に何を期待するか
ここ最近、日本では、出版社や作家たちから出版不況の原因として風当たりが強くなっている図書館。一方で商業施設型のツタヤ図書館は、のちに蔵書についての批判が出たものの、当初の「受け」はよかったと聞く。地元にはなかったスターバックスが図書館内にできて嬉しいなど、市民から好評だったと伝えられていた。
一般に本をよく読む人は、書店で本も買い、図書館も利用するという。わたしの場合も、両方を利用している。図書館については、インターネットが発達する前までは、突っ込んだ調べものをするときは、地元の図書館ではなく、都の中央図書館や国会図書館などにもよく出向いていた。蔵書や資料が格段に豊富だからだ。マイクロフィルムで古い時代の新聞を調べたこともある。また豊富な資料の中で調べごとをしている間に、アイディアが浮かぶこともあった。
ここ最近は地元の図書館へ本を借りるために行く。何か読みたい本、調べたい本が出ると、amazonと図書館の両方で検索をかける。本がキンドル本になっていれば、それを購入することが多い。しかし日本では、キンドル本での出版が著しく立ち遅れている。新刊でもキンドルにならない本が多いのは、紙の本と同時には出版しない、というルールが版元側にあるのかもしれない。まず紙の本を売って元を取ってから、というビジネスのやり方だろうか。残念なことだ。
amazonで調べてキンドルになっていない場合は、図書館(地元の川崎市)のウェブサイトで検索をかける。余談になるが、この図書館の検索の精度が非常に低い。データベースというものの基本、使われ方がよくわかってないのではないか、と疑いたくなる。川崎市の図書館のデータベースでは、書名検索の際、一字一句間違ってはいけない。漢字がひらがなだったり、カタカナがひらがなになっていてもハネられる。検索結果に出てこない。副題をタイトルと一緒に入れると結果が出てこない。などたくさんの不備がある。通常、検索というのは、多少違う箇所があっても、周辺の結果を出さないとあまり意味がないと思うのだが。キーワド検索も使いやすいとは言い難い。データベースはamazonの方が優れているかもしれない。
このように精度が低い検索機能ではあるが、なんとか検索はできる。一番確実なのは、著者名を一字一句間違いなく入れることだ。するとその著者が出した本の一覧が出てくる。図書館のいいところは、過去の出版物も揃っていることだ。1970年代くらいまでの過去の本なら普通にある。書庫に入っている貴重本も、検索では確かめられるし、借りるための予約もできる。わたしの場合、ここで検索をかけて目ぼしい本が見つかれば、予約をしておく。1週間か10日くらいの保管期間内に出向いて取りに行く。
図書館にも本がない場合(流通の関係と思われるが、オルタナティヴな版元の本は少ない)、そしてamazonにも新刊としてない場合(版元が重版しないので、出版時期が古い本はないことも多い)、マーケットプレイスにあるものを確認する。図書館に本があっても、マーケットプレイスで買うこともある。割によく利用する。手元に置いておきたい本、長期にわたって必要な本などは購入を選ぶ。図書館の本の場合、最大でも4週間しか手元に置けない。ただ紙の本を買うことは、心理的に負担ではある。整理、処分しても本は増えつづけ、書棚からあふれてしまうからだ
図書館に期待することの一つとして、検索機能の向上のほかに、自分の借り出し履歴が残せるマイページのようなものがあったらと思う。個人情報上の問題があるのであれば、残したい人だけ選択できるようにすればいい。過去に借りた本を再度見たいときに役立つし、データ上にその履歴があれば、本そのものは自宅になくとも、半分所有しているのと同じだ。(すでにこういう仕組みがある公立図書館もあるのだろうか? オンライン上の機能やデータベースのレベルを全国の公立図書館でいつか比べてみたい)
ベストセラーも含めた新刊を貸し出すことは、図書館の役割のごく一部だと思う。実際、20年くらい前の日本で、「ベストセラーの新刊本をただで読みたい」から図書館へ、という人がどれくらいいただろう。あるいは「税金を払っているのだから、図書館は住民の希望するベストセラー本を借りやすいよう数を揃えておくべき」と考える人が果たしていたか。図書館の貸本屋化という現象があるとしたら、それは読書人にも責任の一端があるかもしれない。
図書館への期待というものは、ここ何年かの間に変わってきたのだろうか。わたしのイメージでは図書館とは、棚の間を歩いて探索しながら、思いもかけない本に出会う(そこには古い本も新しい本もある)、というクラシックとも言えるもの。自分では高価で買えない専門書や、大型の美術本も借りて帰ることが可能だ。図書館では本の価値はフラットで、古い本も新しい本と同様に、それを借りる人の目的や興味によって価値あるものになる。
街の書店には、出版時期の古いものはほとんど棚にない。日本の出版業界の特殊事情(自転車操業的に新刊を次々出さないと事業が成り立たない)の影響を消費者はもろに受けている。本屋とは、ここ3ヶ月〜6ヶ月に出版された話題の新刊を並べる店、という風になっている。
出版社や作家が、図書館のせいで本が売れなくなるから、出版後1年間は貸し出さないでほしい、と図書館に求めることも、「ベストセラーの新刊はただで図書館借りたい」という読む側の人と同じくらい低いレベルの要求である気がする。本をめぐる主要な存在として寂しい気がするし、どちらもあまり文化的には見えない。もし本というものが貴重な存在であるのなら、それを扱ったり、享受したりする人間はもっと文化レベルが高くてもいいはずだ。1冊の本が世に出ることを祝福し、その本の生涯を見守り、一度出て話題になったら終わりという消耗品のような扱いではなく、重版という形で後世に受け継がれることにも多くの人が価値を見出してほしい。
図書館で過去に出版された良書を見つけ手にすることは、本というものの価値を再認識する機会となる。街の書店では到底扱っていないような、よくぞその時代に出版したなというような本を見つけられるのは図書館だ。「新刊本をただで読みたいから」だけでは、図書館の利用価値としてもったいない。
本というのは今、「従来型の本」ではない本に似たメディアと境界を接しながら、複数の環境の中で生き延びようとしている。図書館も新刊書店も古書店も読書人も、本を共に支える存在のはずだ。目の前の自分の利益のみに目を奪われて、囲い込みをしたり、卑しい振る舞いをする時ではない。
図書館を考えるとき、もう少し視野を広げる糸口として、「未来をつくる図書館 ーニューヨークからの報告ー」(菅谷明子著、2003年)を紹介したい。このような文章があった。
市民の活動基盤を形成する基礎的施設のことをインフラと呼ぶならば、図書館こそ今の日本に最も必要なインフラではないだろうか。市民のための「知的インフラ」。
著者はこの本で、普通図書館といってイメージされるもの以上の「知的インフラ」を提供し、市民の生活や活動を支援する存在として、ニューヨーク公立図書館を紹介している。ここにはビジネスや舞台芸術に特化した専門館もあり、一般市民からその道のプロフェッショナルまで幅広い層に利用されているという。この図書館で資料として「蔵書」されているのは、紙の本ばかりではない。マーケットリサーチに役立つ高度なデータベースや様々なセミナー活動(科学産業ビジネス図書館シブル)、オペラの公演記録など音声や映像のメディア、台本、舞台衣装、舞台セットのミニチュア、プログラムなどの「生素材」(舞台芸術図書館)も図書館の「蔵書」活動領域となっており、「知的インフラ」とは何かをその幅広さと深さで表している。