言葉に住む、とは?
年末から新年にかけて、言葉に関する興味深い本を2冊読んだ。一つは温又柔の「台湾生まれ 日本語育ち」、もう一つはジュンパ・ラヒリの「べつの言葉で」。温さんの本の帯にはこう書かれていた。「我住在日語/わたしは日本語に住んでいます。」 日本語に住む? あ、面白いと思った。台湾で生まれ、両親とともに3歳のとき日本にやって来た温さんは東京在住の台湾人作家。住んでいる国は日本であるが、その国籍をもっているわけではない。しかし第一言語であり、作家として使う言葉は日本語である。だから「日本語に住んでいる」のである。
一方、ジュンパ・ラヒリの方は、ベンガル人の両親のもとロンドンで生まれ、2歳のときにアメリカに移り住んでいる。第一言語及び作品の言葉は英語。そのラヒリが恋に落ちたイタリア語を20年間学んだのちに、「イタリア語に住みたい」と夫と子ども2人を連れてローマに移住した。ひょっとして夫はイタリア人か、と思うかもしれないがそうではない(TIME誌南米版の編集者を務めていたスペイン語が堪能なアメリカ人)。
言葉に恋をして学びつづけ、ついにはその言葉の国に移住してしまったラヒリの熱意と行動力には驚いた。そしてエッセイ集「べつの言葉で」は、なんとそのイタリア語で書かれたのだ! 彼女にとってはもちろん初めての英語以外の言語による著作。ローマに住むラヒリはこの先、何語で作品を書いていくのだろう。「低地」(日本語版2014年刊)という長編小説のあとがきで、ここまでラヒリの小説のすべてを訳してきた小川高義さんが、ひょっとしたら次の作品はイタリア語の翻訳者が訳すことになるのだろうか、と書いていた。ベンガル語の家庭に「住み」、英語の国に「住んで」作品を書いてきたラヒリが、すでにからだはイタリア語の中に「住んでいる」のだから、イタリア語で小説を書くときがきても驚くには当たらないのかもしれない。
「人の住む場所」 人と言語、人と国家の関係は、思っているより自由なものなのかもしれない。
自分が「どこに」生きているか、と考えるとき、通常は、というか日本では多くの人が、ためらいなく住んでいる場所=国籍を思い浮かべるだろう。日本です、と。そう言ったとき、日本というのは地理上の場所であり、国籍であり、また人種、民族、言語も「日本」で当然のように一つにくくられることが多い。日本人の顔、日本人の文化、日本語。確かに比率でいえば、日本のマジョリティはそこに属するかもしれない。しかし当てはまらない人もそれなりにいる。日本に住んでいない日本出身者で、なかでも移民1世の世代は、日本語がもっとも自由に使える言葉であることが多い。
温さんの本の中に、日本語で作品を書く台湾人作家のことが書かれていた。日本が台湾を統治していた時代に学んだ言葉、日本語が作品を書く際の言葉として選ばれたのだ。温さんはかつて日本語で書く作家が台湾にいたことを知り、同じ台湾人作家として、地理的に住む場所は違っても、日本語で書くという共通点に注目しその作家について調べはじめる。そして台湾人でありながら日本語で書くというスタンスのせいで、その作家が台湾、日本どちらの国からもほとんど無視されてきたことを残念に思う。民主化が進む前(1990年代以前)の台湾では、「奴隷教育」を被ったと理解されていた日本語による作品に光が当たるのは難しかった。また日本にも、日本統治下で日本語を学んだ日本語作家の作品を「日本(語)文学」として受け入れる素地があったとは思えない。
同じような立場にいた日本語作家は、朝鮮半島やアメリカ、ブラジルなど他の地域にもいるのかもしれない。地理的には日本の外に住んでいても、日本語に住んでいた作家やその予備軍たちが。
「べつの言葉で」の中で、ラヒリはイタリア語を愛しつつも、おそるおそる使っているところがある。常にイタリア語で書いたもの、しゃべったことに不安がつきまとう。前置詞や冠詞が間違っているのではないか、などという不安は、英語で書いたりしゃべったりする日本人と同じだ。ラヒリは本の中で、なぜ「風がある」というときは冠詞なしで「C'è vento」と言うのに、「日が出ている」のときはilという英語のtheに当たる定冠詞を使って「C'è il sole」というのか、などと具体的な疑問を示し頭を悩ませていた。確かによくあることだ。
わたしが思うに、言葉というのは基本は文法に支えられているかもしれないが、習慣(慣習)による使用法がかなりあるということ。母語というのは文法によってではなく、習慣の中で身につけるものだ。小さなときから、その言い方をずっとしてきただけで、なぜそう言うのかは考えない。幼少の頃に移住した人は、行った先の言葉が第一言語となるケースが圧倒的で、母語とほぼ同義だ。大人になってから移住した人は、住むうちにかなりの部分を習得したとしても、母語としてその言葉を話す人から見ると、ややぎこちなく聞こえることがある。あるいは思わぬところに「穴」があったりする。たまたま経験的にその言葉に出会ったことがないと、意味や使用法がわからないのだ。わりに一般的な言葉でもそういったことは起きることがある。
温さんは作品は日本語で書くが、両親や台湾の親戚は中国語や台湾の言葉も(を)話す。温さん自身にとっては第二、第三の言語である台湾語、中国語は、小説やエッセイにたびたび登場する。育った家庭では、日本語、台湾語、中国語がチャンポンで話されていたそうだ。昔、スペイン人の友人からSpanglishという言葉を聞いて、二つの言語を混ぜて話す人たちがいることを知った。ラヒリの家庭でもBenglishが話されていたのだろうか。ひょっとしてラヒリは、親が使うベンガル語、移民先で移植された英語、と与えられた言葉に対して、自ら選び取った言葉としてイタリア語の住人になろうとしているのかもしれない。第三の言葉として。自由の境地として。
一方、ジュンパ・ラヒリの方は、ベンガル人の両親のもとロンドンで生まれ、2歳のときにアメリカに移り住んでいる。第一言語及び作品の言葉は英語。そのラヒリが恋に落ちたイタリア語を20年間学んだのちに、「イタリア語に住みたい」と夫と子ども2人を連れてローマに移住した。ひょっとして夫はイタリア人か、と思うかもしれないがそうではない(TIME誌南米版の編集者を務めていたスペイン語が堪能なアメリカ人)。
言葉に恋をして学びつづけ、ついにはその言葉の国に移住してしまったラヒリの熱意と行動力には驚いた。そしてエッセイ集「べつの言葉で」は、なんとそのイタリア語で書かれたのだ! 彼女にとってはもちろん初めての英語以外の言語による著作。ローマに住むラヒリはこの先、何語で作品を書いていくのだろう。「低地」(日本語版2014年刊)という長編小説のあとがきで、ここまでラヒリの小説のすべてを訳してきた小川高義さんが、ひょっとしたら次の作品はイタリア語の翻訳者が訳すことになるのだろうか、と書いていた。ベンガル語の家庭に「住み」、英語の国に「住んで」作品を書いてきたラヒリが、すでにからだはイタリア語の中に「住んでいる」のだから、イタリア語で小説を書くときがきても驚くには当たらないのかもしれない。
「人の住む場所」 人と言語、人と国家の関係は、思っているより自由なものなのかもしれない。
自分が「どこに」生きているか、と考えるとき、通常は、というか日本では多くの人が、ためらいなく住んでいる場所=国籍を思い浮かべるだろう。日本です、と。そう言ったとき、日本というのは地理上の場所であり、国籍であり、また人種、民族、言語も「日本」で当然のように一つにくくられることが多い。日本人の顔、日本人の文化、日本語。確かに比率でいえば、日本のマジョリティはそこに属するかもしれない。しかし当てはまらない人もそれなりにいる。日本に住んでいない日本出身者で、なかでも移民1世の世代は、日本語がもっとも自由に使える言葉であることが多い。
温さんの本の中に、日本語で作品を書く台湾人作家のことが書かれていた。日本が台湾を統治していた時代に学んだ言葉、日本語が作品を書く際の言葉として選ばれたのだ。温さんはかつて日本語で書く作家が台湾にいたことを知り、同じ台湾人作家として、地理的に住む場所は違っても、日本語で書くという共通点に注目しその作家について調べはじめる。そして台湾人でありながら日本語で書くというスタンスのせいで、その作家が台湾、日本どちらの国からもほとんど無視されてきたことを残念に思う。民主化が進む前(1990年代以前)の台湾では、「奴隷教育」を被ったと理解されていた日本語による作品に光が当たるのは難しかった。また日本にも、日本統治下で日本語を学んだ日本語作家の作品を「日本(語)文学」として受け入れる素地があったとは思えない。
同じような立場にいた日本語作家は、朝鮮半島やアメリカ、ブラジルなど他の地域にもいるのかもしれない。地理的には日本の外に住んでいても、日本語に住んでいた作家やその予備軍たちが。
「べつの言葉で」の中で、ラヒリはイタリア語を愛しつつも、おそるおそる使っているところがある。常にイタリア語で書いたもの、しゃべったことに不安がつきまとう。前置詞や冠詞が間違っているのではないか、などという不安は、英語で書いたりしゃべったりする日本人と同じだ。ラヒリは本の中で、なぜ「風がある」というときは冠詞なしで「C'è vento」と言うのに、「日が出ている」のときはilという英語のtheに当たる定冠詞を使って「C'è il sole」というのか、などと具体的な疑問を示し頭を悩ませていた。確かによくあることだ。
わたしが思うに、言葉というのは基本は文法に支えられているかもしれないが、習慣(慣習)による使用法がかなりあるということ。母語というのは文法によってではなく、習慣の中で身につけるものだ。小さなときから、その言い方をずっとしてきただけで、なぜそう言うのかは考えない。幼少の頃に移住した人は、行った先の言葉が第一言語となるケースが圧倒的で、母語とほぼ同義だ。大人になってから移住した人は、住むうちにかなりの部分を習得したとしても、母語としてその言葉を話す人から見ると、ややぎこちなく聞こえることがある。あるいは思わぬところに「穴」があったりする。たまたま経験的にその言葉に出会ったことがないと、意味や使用法がわからないのだ。わりに一般的な言葉でもそういったことは起きることがある。
温さんは作品は日本語で書くが、両親や台湾の親戚は中国語や台湾の言葉も(を)話す。温さん自身にとっては第二、第三の言語である台湾語、中国語は、小説やエッセイにたびたび登場する。育った家庭では、日本語、台湾語、中国語がチャンポンで話されていたそうだ。昔、スペイン人の友人からSpanglishという言葉を聞いて、二つの言語を混ぜて話す人たちがいることを知った。ラヒリの家庭でもBenglishが話されていたのだろうか。ひょっとしてラヒリは、親が使うベンガル語、移民先で移植された英語、と与えられた言葉に対して、自ら選び取った言葉としてイタリア語の住人になろうとしているのかもしれない。第三の言葉として。自由の境地として。