20160328

いまアラブ、イスラム世界を知る楽しみ(1)

最近、フランスの経済学者トマ・ピケティ氏が、ヨーロッパ社会におけるイスラム嫌いのエスカレート具合について述べているコラムを読んだ(ル・モンド誌/朝日新聞)。ピケティ氏は「ヒステリー」「ヒステリック」という言葉で、状況の極端さを表していた。

フランスでは、イスラム系の名前をもつ者が就職時の審査で高い確率で落とされる、といったことはもちろんここ最近の「テロ」と関係していると思われる。日本にはそれほど多くのイスラム教徒やアラブ人がいるわけではないので、テロと関連してそういった人々が差別を受けたり、排斥されるという話はまだあまり聞かない。

しかしイスラム教徒に対する差別感がない、というわけではないと思う(韓国人や中国人に対するものほど現実的ではないとしても)。わたし自身、イスラム教に対してある種の偏見をずっと持ち続けてきた。ベールの着用や女性に対する戒律の厳しさ、女性蔑視、一夫多妻制など男性に都合のよさそうな制度や慣習、といった印象があった。またムハマンド(モハメッド)が実在の人物であるなら、大天使と出会って開祖した話などは荒唐無稽に思えた。

しかし自分が何かに偏見をもっている、というのはあまり気持ちのいいものではない。多くの人間は、自分は偏見などないと思って暮らしている。しかし偏見はどこにでも、いくらでもあると思う。まずはそれを認めないことには話が進まない。わたしは自分がイスラムに対して偏見がある、と自覚した時点から、まずその世界を知る努力をしてみようと思った。多くの偏見は無知から発生している。気長に少しずつ、興味がもてそうなものから手をつけてみることにした。

Mutahという非営利のネットジャーナルがある。ミーナ(MENA=Midle East North Africa=中東、北アフリカ)を中心に、中央アジアや東ヨーロッパも含めた地域のニュースやコラムを集めたサイトだ。欧米の伝統的(既存の)大メディアが扱わない、あるいは避けて通るトピックをMutah独自の視点から取材して載せている。文学の話題やブックレビューも多く、アラブ系作家の短編小説がコレクションされていることもある。アラブ系現代作家の作品を英語で(日本語ではもちろん)読める機会は多くないので、これは大変貴重だ。

チュニジアで活動する作家Atiaf Alwazirの“I Just Can’t Understand You”という短編小説を読んだ。その中で印象的だったのは、サナア(イエメンの首都)の西洋風のこじゃれたカフェテラスで、主人公のアハメド(電気店に勤めている)が、注文したお茶に文句をつけるところ(顧客に呼ばれてその店に行った)。その店は入口にガードマンがいるような店で、アハメドはカート(覚醒作用のある葉っぱで、この地域の嗜好品の一種)をくちゃくちゃ噛んでいたので呼び止められ、やめるよう言われる。注文したお茶へのアハメドの不満はこうだ。「普通の4倍もする料金をとって、お湯に浸したリプトン・ティーバッグか? コリアンダーも、カルダモンも、ブラックペッパーも、クローブも、シナモンもなしなのか。こんな高いお金を取られて馬鹿にされて、みんなよく平気だな」

小説のストーリーとは別に、このアハメドのセリフに妙に感じ入ってしまった。そうか、紅茶にこういうスパイスを入れて飲むのだな、彼らは。それでさっそくやってみた。カルダモンはシードを割って少し砕き、シナモンスティックも縦に割り、ブラックペッパーは粒をナイフで刻んだ。他にドライジンジャーやベイリーフを入れてもいい。うーん、香る、美味しい、ビリっとする(ペッパー)。どこかアラブの香りがする。ただの紅茶は味気ない、というのがなんとなくわかる気がした。以降、毎朝コーヒーを飲む前に、このようなスパイス&ハーブティーをブレンドして楽しんでいる。

Mutahは女性の記者やコラムニストも多く、ジェンダーや性的少数者の話題も多い。ここでは一般的な用語LGBTではなくLGBTQと言っている。Qはqueer(クィア)でLGBTに入らない性的少数者を指しているのではないかと思う。そういった用語の使い方にも、このメディアの視点やセンスを感じる。

今苦労しながら少しずつ読んでいるイスラムの女性についての本「Women and Gender in Islam」は、エジプト人学者レイラ・アハメド(イスラム・フェミニズムの専門家)の著作。副題にHistorical Roots of a Modern Debateとあるように、近年論議の対象となっているイスラムの問題について、新石器時代にまで遡って、イスラム教が誕生する以前からのメソポタミア、アラブ、ギリシアに広がる地域の社会や習慣、思想を探ることで、新たな見解を示している。今読んでいるところまでの感じでいうと、現在イスラム教の戒律と思われているものの多くは、ベールの着用も含めて、イスラム以前のこの地域や都市で優勢だった法や思想を源にしているように見える。中でも都市のはじまりと興隆によって、女性の地位が低下していったというアハメドの指摘には目を開かされた。(この項、次回につづく)

*Women and Gender in Islam:1992年イェール大学出版刊(最近のMutahのブックレビューで紹介されていた本。出版年は古いものの、今読むにふさわしい本として書評されていた)

20160314

種差別と人種差別

差別はさまざまな集団間で起こる。人種差別、性差別、階級差別、宗教差別などは人間社会では一般的なものであり、差別の歴史は古い。民主的な国、先進国と言われる国は、これらの差別が表だって出ないよう近現代になってから努力してきたし、法整備もある程度は整えてきた。しかし差別の歴史は長く、社会の根本から正されるには、あるいは社会の構成要員の大半が差別感覚をなくすまでには、多大な年月がかかると思われる。

1960年代のアメリカはまだ黒人差別の真っただ中で、バスや公共のトイレなど白人と黒人は区別されていた。まだそこからたった半世紀である。それでも公共の場で、黒人を差別する発言をしたり、同性愛者を非難したり、障害者をバカにしたりすることは、今の時代、どこの国でも難しくなっているのも事実だ。どんな地位にあろうと、表だって直接的な差別はしにくくなっている(日本の政治家にはその感覚のない人がときどき出現するが)。

では種差別についてはどうか。種差別=スピーシーシズムとは、人間以外の種の生きものを下位に見て、虐待したり一方的に利用することだ。人間は動物の中でもっとも知能が高く、万物の頂点にいるからその高い地位を利用して、人間に有利な世界をつくってもいいという考えだ。意識してそのように考えていなくとも(自分がそのような考えの持ち主だという自覚がなくとも)、多くの人間は今の時代にあってもそれを当然と見なしている。人間は他の動物とは違う、特別な存在だというわけだ。これを人間中心主義と言う。

これは一時代前の、あるいは奴隷貿易時代の黒人差別の論理とまったく同じだ。白人は知能が高く優秀な人種であるから、知能の低い黒人を家畜や物品のように売り買いして、白人の利益のために利用していいという合意があった。黒人に限らず、今も世界から人身売買がなくなったわけではないが、少なくとも現在は犯罪行為として認識はされている。しかし動物はどうか。

動物を人間の利益のみのために利用することは普通に行われており、犯罪であるという認識はそれほどされていない。イギリス発のBody Shopという動物実験を行なわない化粧品メーカーは、1990年代に世界的に知られるようになった。化粧品に限らず、医療や医薬品の世界でも動物実験は普通に行われており、今もそうだ。畜産業はある時期から工場生産的になり、牧歌的な放牧による家畜の生産・飼育はごく一部の牧畜業者を除いて現在はないと言われている。日本でも一昔前に「ブロイラー」という言葉が出まわり、鶏が狭い鶏舎で短期間に食肉になるよう育てられていることが問題になった。今も同じ状況で変わりはないが、豚や牛も同じような環境の中にいるからか、この言葉をつかって問題視されることはなくなった。しかし問題が解消したわけではない。

ピーター・シンガーという哲学者の「動物の解放」という本を読んだが、畜産に関する章は読むに耐えなくなって途中で放棄した。わたしは今のところ鶏も豚もたまに牛も(たくさんは食べないものの、そして入手先を選んではいるが)、食材にして食べている。この章をひとたび読んだら、肉を食べることは不可能になるかも、と思ったこともあるが、それだけではなく、家畜たちが受けている扱いの詳細報告は読むだけでも耐え難かったのだ。

市販の豚肉に抗生物質が含まれていることや、病気の豚の肉も出荷されていることはよく聞くことだ。人間の食料として大量に豚を飼育するには、工場的な環境での飼育しかないのだ。抗生物質を使う理由は二つあるそうだ。家畜を早く太らせることと、病気が広がりやすい過密状態の不衛生な条件下での飼育でも何とか健康を保つことだ(2015年3月、ハフィントンポストの記事による)。また高級とされる牛肉の霜降りは、牛にビタミンを多く含む牧草を食べさせないことで脂肪部ができると言う。ビタミン不足から一定の割合で盲目や弱視の牛が出たり、関節などに異常が現れたりもするらしい。そうなった牛も出荷はされる(2011年6月、信濃毎日新聞の記事による)。

こういった不健康な家畜を食べる人間への影響ももちろん問題だが、そのような過酷な状況で飼育されている鶏や豚、牛を食べている自分たち人間をどう考えたらいいのだろう。家畜にも人生があると考えれば、人間に食べられるだけのために効率を優先した無理な飼育をされ、他には何もない、苦痛ばかりで何の楽しみもない一生であり、とても悲惨なものだ。それを人間は動物に強いている。そういう権利が人間にはあると思っているからだ。

アフリカの草原から連れ去られ「動物園」や「サファリパーク」に展示されているライオンやしまうまも、人間の楽しみのために異郷で奉仕する労働者(あるいは自由のない奴隷)だ。旭山動物園をはじめとする動物園園長の書いたものや対談集をいくつか読んだけれど、どんなに展示の仕方を工夫したとしても、たとえ合法的な手段で動物を入手していたとしても、生地の故郷から連れてきて見世物にしていることに変わりはない。良いとされている動物園の責任者の本を読んでみても、納得のいく説明には最後まで出会えなかった。

水族館でショーをやっているイルカたちも同様だ。危険な海で生活するより、水槽の中で飼われている方が安全だし餌の心配もなく、イルカにとっても幸せかもしれない? それは人間に都合のいい解釈だ。野生の中で暮らすイルカと飼育環境で育つイルカとは、いろいろな点で大きく異なると言われる。野生の中で暮らすイルカは、ほとんどの場合、コミュニティーを形成し、集団で複雑な社会生活を送っている。社会的な役割を個々のイルカが担い、友だちと遊んだり、経験者に学んだり、教え合ったり、交流したり、と人間がやっているようなことを日常して暮らしている。水族館などでは人間に管理されているため、そのような当たり前のことができる環境にはない。

草原からライオンを連れてきて、海からイルカを持ち込んで、人間の楽しみの道具にしてもいい、という論理はどう考えても人間中心主義であり、種差別であると言えると思う。人間の腹を満たすため、あらゆる手をつくして家畜を増産し、太らせ、大量に流通させて少しでも多くの利益をあげようとする、あるいは「霜降り、霜降り」と言って欲望のままに「高級牛」に飛びつく、それに何の疑問ももたない、これも種差別と言えるのではないだろうか。

今のところ、そうしていたからといって、自分だけが非難を浴びることはない。黒人を売り買いしていた時代に、奴隷を買ったからといって悪人とは思われなかったことと同じだ。