スポーツ小国、ニッポン
まもなくリオオリンピックが始まる。その次の2020年は「国をあげて」「念願」の東京での開催。しかし東京都、あるいは日本のスポーツや競技大会への取り組みは心もとない。そもそも国民も含めて、日本社会がスポーツをどのように捉えているのかがよくわからない。国威発揚とか商業的成功がまっさきに来るのでは、それは違う&恥ずかしいと思う。もし映画祭やアートの世界であからさまにそのようなやり方をしたら、信用を失いイベントの地位は落ちるのではないか。いま一度、日本社会のスポーツに対する姿勢を検証してみたい。
6月8日からコパアメリカという南米のサッカー代表チームのカップ戦がはじまった。通常は4年ごとに、参加国のいずれかの場所で開催されるのだが、今回は諸般の事情(FIFAの不祥事、コパの100周年など)から、例外的に南米外であるアメリカで、しかも去年につづいて2年連続で行なわれている。開催国であるアメリカに加え、メキシコ、コスタリカといった中米の大会での上位入賞国や招待国をまじえた全16カ国での競技会となった。
日本でも去年に引き続きスカパーが全試合をライブで放送し、毎日生のハイライト番組や深夜のトーク番組もそろえ、なかなか力がはいる観戦となっている。南米にはヨーロッパの主要トップリーグで活躍する、人気スタープレイヤーがたくさんいて、それが南米サッカーそのものの魅力に加えて、広い範囲での人気にもつながっていると思われる。
開催地であるアメリカは、スポーツと言えば、アメリカンフットボールやバスケットボール、野球などが人気種目で、実はサッカーはそれほどでもない。それでも女子サッカーは盛んで、代表チームは世界首位を維持している。男子の方は人気の低い割には強いのだが(W杯ではベスト16に行くことが多い)、プロリーグが80年代に中断して90年代に再開するなど多難の道を歩んできた。しかし最近は、ヨーロッパで活躍した選手の晩年の行き先として、選手側からもアメリカのプロリーグは人気があり、名だたるプレイヤーが続々ニューヨークやロサンゼルスのクラブチームに参加している。
そんなこともあって、サッカー熱はじょじょに高まってはいるのだろう。今回のコパアメリカの会場として、6万~9万人を収容するアメフトのスタジアムなどが使用されている。わたしの観戦したアメリカ対コロンビア戦、ブラジル対メキシコ戦は客席は満杯だった。これだけの人間を集められる(参加国からも、もちろん応援は来ているが)というのは、すごいなと思った。サッカーがそれほど盛んではない国で、数万単位の観客が呼べる。おそらくアメリカはスポーツ・エンターテインメントの国だから、種目によらず人集めがうまく、また国民もスタジアムでスポーツを楽しむことを知っているのだろう。
スポーツ・エンターテインメントとは何か。その中心となる要素や条件は何なのだろう。日本では「スポーツは戦争の形を変えたもの」「愛国心でなりたっているのがスポーツ」と考える人々が少なからずいるようだが、世界的な傾向としては、今のスポーツ・エンターテインメントにはそれほどその要素は強くないとわたしは思う。ただし日本に関して言えば、愛国心とスポーツは深い関係にあるように見える。
コパアメリカと同時期に、日本ではキリンビールが協賛する日本サッカー協会主催のカップ戦が開催されていた。参加国は4つ。日本と招待国3カ国で、試合は準決勝2試合、決勝と3位決定戦で構成される。日本サッカー協会サイトの大会概要には説明がないので経緯はわからないが、対戦の組み合わせはなぜか、(FIFAランキングの)強対強、弱対弱で第一試合が行われ、そのため日本(弱)は、弱のブルガリアと初戦で対戦した。通常のトーナメントは、テニスでもサッカーでも、弱と強がやって残った者が最後に決勝戦をする。なぜこのキリンチャレンジカップでは弱対弱なのか、と言えば、その方が日本が決勝に残れる確率が上がるからだ。
この大会はいわば「日本が優勝するため」の人気とり競技会、出来レース的な大会のようにわたしには見える。実際日本代表は、今までに何連勝かしているようだ。2組ある試合のもう一方(日本戦でない方の試合)は、テレビ放映もないし、もう1試合あること自体が新聞などでもほとんど報道されていない。スタジアムにテレビカメラが入っていないとすれば、参加国の国でも放映はないということだと思う。試合自体、無観客試合に近いのではないか。つまり日本以外の参加国にとっては奇妙なスタイルの、なんのモチベーションももてない大会だということ。しかも招待した国の代表は、ヨーロッパのチームとはいえ、6月10日開催のユーロ(ヨーロッパの24ヵ国の代表チームが参加し、2年ごとに開かれるUEFA主催の大会)の予選で敗れ、すでにプロリーグのシーズンも休みに入っているため、プレーできるコンディションにはなっていないと思われる(現地で観戦したサッカーライターの後藤健生さんはそのように書いていた)。
そのようなマッチメーキング(しかも開催地は必ず日本)を、このキリンチャレンジカップで日本は長年やってきた。そのセンスはどうなのか、一度疑ってみたほうがよくはないか。日本と実力が近い韓国は、この時期にヨーロッパに遠征し、強豪国スペインと親善試合をし大敗(7-1)したそうだ。スペインは直近のユーロのテストマッチとして韓国と戦ったはずだ。つまり相手のモチベーションやコンディションは最適で、親善試合とはいえ実のある戦いが望めた可能性が高い。韓国はさらに、やはりユーロに出場するチェコともアウェイで対戦している(こちらは2-1で勝利)。一方日本はモチベーションもコンディションも整わないブルガリアとホームで試合し、7-2と大勝して選手も監督も大喜び、メディアも褒めちぎる。しかし韓国と日本、どちらが価値ある実践を積めただろうか。
予定どおり決勝に勝ち進んだ日本。翌日の朝日新聞では、日本戦を写真入りで大きく扱う一方、もう一つの試合(デンマーク対ボスニア・ヘルツェゴビナ)は、ほんの一言「2ー2」の引き分けでPK戦でボスニア・ヘルツェゴビナが勝利、とあっただけ。誰がゴールしたかさえ書いていなかった。新聞も、読者も、誰もかれも、日本戦以外は興味の範囲の外なのだ。このことをよーく表しているのが、日本のテレビ局の放映スタンダードだ。通常、FIFAやUEFAなど国際機関が運営する試合では(ヨーロッパの国内リーグも同様)、対戦両チームの名前と試合会場を紹介したあと、まずホーム(開催地側)チームの選手のラインアップをリストやCGをつかって示し、次にアウェイチームの選手を同様に紹介する。なんのことはない、これから試合を見ようという人への最低限の基本情報である。しかし、日本ではこれがほとんど行われていない。親善試合ばかりか、W杯の予選でもこれが実行されていない。試合前に紹介するのは日本代表のメンバーのみ。練習風景などの映像とともに繰り返し紹介される。対戦相手は? こちらはなし。試合がはじまってしばらくしてから申しわけ程度にリストを出すくらいだ。それもお座なりなもので、各選手がどこに所属しているかなどの情報はいっさいないし、実況の中でもほとんど触れられない。対戦相手はどうでもいいし、興味がないということがあまりにあからさまなのだ(例外は、海外のスター選手が所属するチームが来日して試合が組めたときで、そのときは明石家さんまなどのタレントを総動員して、スター選手を芸能人のように持ち上げ、サッカーとは関係ないような馬鹿騒ぎをする)。
スポーツは対戦相手あってはじめて成り立つもの。日本では一人相撲のような試合の紹介を、いつも悪びれることなくしている。誰からも今まで文句がでないし、サッカー評論家、ライターたちも指摘しない(のはなぜか。長年のことであきらめているのか。それとも大会運営やメディアを批判したりすると取材させてもらえなくなるのだろうか)。
日本は(本当は東京都は)、2020年の東京オリンピック開催が悲願で、やっとそれが叶った。しかしサッカーという一競技すらスタンダードな方法で開催・放映できない、親善試合さえまともなマッチメーキングができない国が、オリンピックをユニバーサルな姿勢でオーガナイズ&ナビゲートできるのだろうか。オリンピックを日本のアピール、誇示の機会としてしか捉えていなかったとしたら。それがあからさまになってしまったら。オリンピックの開催国に求められることは、「おもてなし」というようなキーワードで表されることなのか。そこにも疑問がわいてくる。
勝敗を決めることから、スポーツでは公平性がある程度ないと、勝負をしたと言えなくなる。エンターテインメント性も薄れてしまう。それは審判のジャッジだけのことではない。試合の組み方や放映の仕方、メディアでの扱いも含めた広い意味での公平性が求められるはずだ。いやサッカーの日本代表戦では、あるいはテニスの錦織戦では日本中心で好きにやってますが、オリンピックは大丈夫です、というものではないと思う。テニスの大きな国際大会も、NHKや民放は錦織が勝っている間だけ放映、負けたらその後はなし、というのがほとんど。それが今の日本のスポーツの常識ということだろう。
前述のキリンチャレンジカップでは、予定通りことが進まず、日本は決勝でボスニア・ヘルツェゴビナに負けてしまった。翌日の朝日新聞の見出しは「日本、連勝逃す」である。写真2枚は大小どちらも日本代表の選手の写真(1枚はゴールのあとの喜びの場面、もう1枚は負けて肩を落とす選手たち)。もしこの大会が真にスポーツの大会として意味あるものなら、そう思って開催し報道しているなら、優勝チームを飾る言葉や写真がメインにあっていいはずだ。このようなひとりよがりな記事の扱いをしたことでいっそう、この大会は価値の低い、どうでもいいものになってしまった。つまり日本のための、日本が優勝するかどうかだけが焦点の、日本人のみ相手の、他者の存在しない内々の競技会でしかないことを露わにしてしまった。
しかしこれはテレビ局や新聞社だけの問題ではない。このような見え方を大多数の国民は疑問に思わず、不快に思わず(むしろ心地よく思って)受け入れてきたのだ。サッカー評論家たちも、試合の中身や勝ち負けの意味だけ語るのではなく、もっと大会のオーガナイズの仕方や放送のあり方にも口を挟むべきだと思う。全体の仕組が公平性を欠き、おかしなやり方がまかり通っているとしたら、試合の中身をいくら熱心に論じてもそこで生まれるものは小さい。
日本社会のスポーツに対する姿勢の検証をしてみて、日本はスポーツ小国だとわたしは改めて確信した。
6月8日からコパアメリカという南米のサッカー代表チームのカップ戦がはじまった。通常は4年ごとに、参加国のいずれかの場所で開催されるのだが、今回は諸般の事情(FIFAの不祥事、コパの100周年など)から、例外的に南米外であるアメリカで、しかも去年につづいて2年連続で行なわれている。開催国であるアメリカに加え、メキシコ、コスタリカといった中米の大会での上位入賞国や招待国をまじえた全16カ国での競技会となった。
日本でも去年に引き続きスカパーが全試合をライブで放送し、毎日生のハイライト番組や深夜のトーク番組もそろえ、なかなか力がはいる観戦となっている。南米にはヨーロッパの主要トップリーグで活躍する、人気スタープレイヤーがたくさんいて、それが南米サッカーそのものの魅力に加えて、広い範囲での人気にもつながっていると思われる。
開催地であるアメリカは、スポーツと言えば、アメリカンフットボールやバスケットボール、野球などが人気種目で、実はサッカーはそれほどでもない。それでも女子サッカーは盛んで、代表チームは世界首位を維持している。男子の方は人気の低い割には強いのだが(W杯ではベスト16に行くことが多い)、プロリーグが80年代に中断して90年代に再開するなど多難の道を歩んできた。しかし最近は、ヨーロッパで活躍した選手の晩年の行き先として、選手側からもアメリカのプロリーグは人気があり、名だたるプレイヤーが続々ニューヨークやロサンゼルスのクラブチームに参加している。
そんなこともあって、サッカー熱はじょじょに高まってはいるのだろう。今回のコパアメリカの会場として、6万~9万人を収容するアメフトのスタジアムなどが使用されている。わたしの観戦したアメリカ対コロンビア戦、ブラジル対メキシコ戦は客席は満杯だった。これだけの人間を集められる(参加国からも、もちろん応援は来ているが)というのは、すごいなと思った。サッカーがそれほど盛んではない国で、数万単位の観客が呼べる。おそらくアメリカはスポーツ・エンターテインメントの国だから、種目によらず人集めがうまく、また国民もスタジアムでスポーツを楽しむことを知っているのだろう。
スポーツ・エンターテインメントとは何か。その中心となる要素や条件は何なのだろう。日本では「スポーツは戦争の形を変えたもの」「愛国心でなりたっているのがスポーツ」と考える人々が少なからずいるようだが、世界的な傾向としては、今のスポーツ・エンターテインメントにはそれほどその要素は強くないとわたしは思う。ただし日本に関して言えば、愛国心とスポーツは深い関係にあるように見える。
コパアメリカと同時期に、日本ではキリンビールが協賛する日本サッカー協会主催のカップ戦が開催されていた。参加国は4つ。日本と招待国3カ国で、試合は準決勝2試合、決勝と3位決定戦で構成される。日本サッカー協会サイトの大会概要には説明がないので経緯はわからないが、対戦の組み合わせはなぜか、(FIFAランキングの)強対強、弱対弱で第一試合が行われ、そのため日本(弱)は、弱のブルガリアと初戦で対戦した。通常のトーナメントは、テニスでもサッカーでも、弱と強がやって残った者が最後に決勝戦をする。なぜこのキリンチャレンジカップでは弱対弱なのか、と言えば、その方が日本が決勝に残れる確率が上がるからだ。
この大会はいわば「日本が優勝するため」の人気とり競技会、出来レース的な大会のようにわたしには見える。実際日本代表は、今までに何連勝かしているようだ。2組ある試合のもう一方(日本戦でない方の試合)は、テレビ放映もないし、もう1試合あること自体が新聞などでもほとんど報道されていない。スタジアムにテレビカメラが入っていないとすれば、参加国の国でも放映はないということだと思う。試合自体、無観客試合に近いのではないか。つまり日本以外の参加国にとっては奇妙なスタイルの、なんのモチベーションももてない大会だということ。しかも招待した国の代表は、ヨーロッパのチームとはいえ、6月10日開催のユーロ(ヨーロッパの24ヵ国の代表チームが参加し、2年ごとに開かれるUEFA主催の大会)の予選で敗れ、すでにプロリーグのシーズンも休みに入っているため、プレーできるコンディションにはなっていないと思われる(現地で観戦したサッカーライターの後藤健生さんはそのように書いていた)。
そのようなマッチメーキング(しかも開催地は必ず日本)を、このキリンチャレンジカップで日本は長年やってきた。そのセンスはどうなのか、一度疑ってみたほうがよくはないか。日本と実力が近い韓国は、この時期にヨーロッパに遠征し、強豪国スペインと親善試合をし大敗(7-1)したそうだ。スペインは直近のユーロのテストマッチとして韓国と戦ったはずだ。つまり相手のモチベーションやコンディションは最適で、親善試合とはいえ実のある戦いが望めた可能性が高い。韓国はさらに、やはりユーロに出場するチェコともアウェイで対戦している(こちらは2-1で勝利)。一方日本はモチベーションもコンディションも整わないブルガリアとホームで試合し、7-2と大勝して選手も監督も大喜び、メディアも褒めちぎる。しかし韓国と日本、どちらが価値ある実践を積めただろうか。
予定どおり決勝に勝ち進んだ日本。翌日の朝日新聞では、日本戦を写真入りで大きく扱う一方、もう一つの試合(デンマーク対ボスニア・ヘルツェゴビナ)は、ほんの一言「2ー2」の引き分けでPK戦でボスニア・ヘルツェゴビナが勝利、とあっただけ。誰がゴールしたかさえ書いていなかった。新聞も、読者も、誰もかれも、日本戦以外は興味の範囲の外なのだ。このことをよーく表しているのが、日本のテレビ局の放映スタンダードだ。通常、FIFAやUEFAなど国際機関が運営する試合では(ヨーロッパの国内リーグも同様)、対戦両チームの名前と試合会場を紹介したあと、まずホーム(開催地側)チームの選手のラインアップをリストやCGをつかって示し、次にアウェイチームの選手を同様に紹介する。なんのことはない、これから試合を見ようという人への最低限の基本情報である。しかし、日本ではこれがほとんど行われていない。親善試合ばかりか、W杯の予選でもこれが実行されていない。試合前に紹介するのは日本代表のメンバーのみ。練習風景などの映像とともに繰り返し紹介される。対戦相手は? こちらはなし。試合がはじまってしばらくしてから申しわけ程度にリストを出すくらいだ。それもお座なりなもので、各選手がどこに所属しているかなどの情報はいっさいないし、実況の中でもほとんど触れられない。対戦相手はどうでもいいし、興味がないということがあまりにあからさまなのだ(例外は、海外のスター選手が所属するチームが来日して試合が組めたときで、そのときは明石家さんまなどのタレントを総動員して、スター選手を芸能人のように持ち上げ、サッカーとは関係ないような馬鹿騒ぎをする)。
スポーツは対戦相手あってはじめて成り立つもの。日本では一人相撲のような試合の紹介を、いつも悪びれることなくしている。誰からも今まで文句がでないし、サッカー評論家、ライターたちも指摘しない(のはなぜか。長年のことであきらめているのか。それとも大会運営やメディアを批判したりすると取材させてもらえなくなるのだろうか)。
日本は(本当は東京都は)、2020年の東京オリンピック開催が悲願で、やっとそれが叶った。しかしサッカーという一競技すらスタンダードな方法で開催・放映できない、親善試合さえまともなマッチメーキングができない国が、オリンピックをユニバーサルな姿勢でオーガナイズ&ナビゲートできるのだろうか。オリンピックを日本のアピール、誇示の機会としてしか捉えていなかったとしたら。それがあからさまになってしまったら。オリンピックの開催国に求められることは、「おもてなし」というようなキーワードで表されることなのか。そこにも疑問がわいてくる。
勝敗を決めることから、スポーツでは公平性がある程度ないと、勝負をしたと言えなくなる。エンターテインメント性も薄れてしまう。それは審判のジャッジだけのことではない。試合の組み方や放映の仕方、メディアでの扱いも含めた広い意味での公平性が求められるはずだ。いやサッカーの日本代表戦では、あるいはテニスの錦織戦では日本中心で好きにやってますが、オリンピックは大丈夫です、というものではないと思う。テニスの大きな国際大会も、NHKや民放は錦織が勝っている間だけ放映、負けたらその後はなし、というのがほとんど。それが今の日本のスポーツの常識ということだろう。
前述のキリンチャレンジカップでは、予定通りことが進まず、日本は決勝でボスニア・ヘルツェゴビナに負けてしまった。翌日の朝日新聞の見出しは「日本、連勝逃す」である。写真2枚は大小どちらも日本代表の選手の写真(1枚はゴールのあとの喜びの場面、もう1枚は負けて肩を落とす選手たち)。もしこの大会が真にスポーツの大会として意味あるものなら、そう思って開催し報道しているなら、優勝チームを飾る言葉や写真がメインにあっていいはずだ。このようなひとりよがりな記事の扱いをしたことでいっそう、この大会は価値の低い、どうでもいいものになってしまった。つまり日本のための、日本が優勝するかどうかだけが焦点の、日本人のみ相手の、他者の存在しない内々の競技会でしかないことを露わにしてしまった。
しかしこれはテレビ局や新聞社だけの問題ではない。このような見え方を大多数の国民は疑問に思わず、不快に思わず(むしろ心地よく思って)受け入れてきたのだ。サッカー評論家たちも、試合の中身や勝ち負けの意味だけ語るのではなく、もっと大会のオーガナイズの仕方や放送のあり方にも口を挟むべきだと思う。全体の仕組が公平性を欠き、おかしなやり方がまかり通っているとしたら、試合の中身をいくら熱心に論じてもそこで生まれるものは小さい。
日本社会のスポーツに対する姿勢の検証をしてみて、日本はスポーツ小国だとわたしは改めて確信した。