オリンピックどうでした?
リオオリンピックは日本ではどのくらい楽しまれたのだろう。テレビの実況や新聞の報道を覗いた感じでは、相当もりあがっているように見えた。NHKをはじめとするテレビ(ラジオもあったようだ)では地上波、BSどちらも一日中といっていいくらいライブや録画を放映していた。新聞については一面から社会面まで、べったりブチ抜き記事も含め、オリンピック(特に日本のメダル獲得)のニュースで埋め尽くされていた。2020年に東京でオリンピック開催が決まっていることの影響があるのかもしれない。しかし日本に住む住人のどれくらいの人が、このオリンピック一辺倒のやり方も含めて、この大会を心から楽しんでいたかは不明だ。
オリンピックは国際スポーツ大会の一つに過ぎないし、そもそもオリンピックはオリンピック憲章によれば、国ごとのメダル数を数えたり、誇ったりするものではないという。国際オリンピック委員会は、国ごとのメダル数を数えることを禁止もしている。オリンピックとは個々の選手やチームの健闘を称えるものであって、国ごとの競争ではない、ということらしい。オリンピックへの参加度は、スポーツの能力だけでなく、その国の経済事情が影響し、かなりバラつきがあるようだ。日本は経済的に豊かで、また「国体」を重要視する国なので、オリンピックへの参加度は高く、「国としての参加」の側面がかなり強い。だから禁止されているにも関わらず、日本のオリンピック委員会は堂々「2020年の大会では、メダル数で3位になることが目標」などと、オリンピック憲章に反する発言をしている。
6月にこのブログで「スポーツ小国、ニッポン」という記事を書いたが、オリンピックが終わった今、ますますそれを強く感じる。あれは(オリンピックの日本のテレビ放映と新聞の記事の扱い)は、スポーツ報道というより、国威の誇示の典型のように見えた。niftyニュースによると、NHKの番組『おはよう日本』では、「五輪開催5つのメリット」として「国威発揚」を挙げていたという。確かに安倍内閣の憲法改正案では、「個人」より「国体」を重視するという内容の変更が「前文」に起きているのだから、国営放送がそう発言しても驚くことではないのかもしれない。そのような国なのだ。でも一人一人の市民(国民)はどうか、オリンピック=国威発揚に同意したり、共感をもったりするだろうか。
わたしはオリンピック自体にはさほど興味がないので、見た競技数は非常に少ない。見ようと思って見たのは、サッカーとテニスくらいだ。男子400mリレー決勝と水球の一試合はたまたま目にしたが。それ以外ほとんど見ていない。テレビのニュースも見ないのでハイライト映像も見ていない。これが特殊なのか、まあそうなのかもしれないが、よくわからない。
違和感を感じたのは、テレビの放映が日本戦に集中していたこと、そして新聞の(日本の)メダル獲得の記事が、第一面からスポーツ、社会面にまで渡って、大見出しと特大の写真で何度も繰り返されたこと。時差の関係でまず夕刊で2、3回、朝刊で2、3回。一つのメダル獲得記事が、およそ数回紙面を占めていた。まるで何倍もの数のメダルをとったようだ。通常、第一面は国内外の大きな事件や事故、戦争開始や重大な政治的決断、法改正などの最重要事項を扱うものだと思うが、そこに「金、金、金」のような踊る特大文字と、特大の写真入り記事が連日のようにあった。スポーツ新聞のようなイメージ。スポーツ面はもっとすごいが、まあスポーツ面ということで大目に見たとして、さらに社会面でも、大きな文字とぶち抜き写真でメダル獲得の記事は繰り返された。しかし内容的にはあまり実がない。スポーツジャーナリズムとして見ると、視野が狭く、情報量も少なく、日本サイドに偏った内容がほとんどで、記事のレベルは低いと思った。スポーツではなく、国威発揚の記事ということなら、そんなこと知ったことではないのかもしれないが。
テレビの放映については、EPGで夜中のサッカーやテニスの試合を録画しようとしても、日本戦以外は、ベタで5時間くらいの一つの(他の競技と混合の)番組登録になってしまい、個別の試合の予約ができなかった。また個別に予約できる場合も、再生してみると、試合最初の10分が欠けていたり、終わりの30分が切れていたりした。日本戦はこんな扱いは絶対にしない。それでも他国の試合を中継するだけでも良いほうで、多くの試合は見ることができない。今回、NHKなどのネットでライブが見られることを発見し、サッカーの韓国、ホンジュラス戦を見ることができた。これは良い方法だと思う。ただし見れるのはライブのみようで、録画映像をあとで見ることはできなかった。
テレビ放映で自国の試合に偏ってしまうのは、ある程度は仕方のないこととは思う。しかしもう少し工夫があっていいと思うし、日本在住の外国人のためにも、日本が関係しない試合のプログラムを組めないものかと感じる。日本のテレビ放映、日本の新聞を見ていると、オリンピック全体が見えない。オリンピックの競技といえば、柔道であり、体操であり、レスリングであり、平泳ぎであり、マラソン(最近はダメだが)ということになる。実際はもっとたくさんの競技がオリンピックにはある。それを知り、発見し、楽しむ機会が、日本では奪われている。東京オリンピックではホストシティとなるが、この状況は変わらないのだろうか。
サッカー以外では、テニスの決勝戦を見た。サッカーもそうだが当初は、日本が敗退した場合は、試合の放映は決勝までしない(あるいは未定)となっていてがっかりした。テニスの決勝はアンディ・マレーとデルポトロだった。テニスのオリンピックの試合は、四大大会とは異なり、著名なスター選手ではない人が金メダルをとるケースが歴史的に多い。四大大会では優勝経験のないチリの選手が、金メダルをとったりもしている。現世界1位でチャンピオンとして名高いジョコビッチも、数々の大会を制覇してきたフェデラーも金メダルをとっていない。前提としてオリンピックのテニス(サッカーもそうだが)は、通常の大きな国際大会とは違うものと思って見る必要がある。スポーツをあまり見ない人にとっては、オリンピックこそ世界一を決める大会と思っているかもしれないが、競技によってはそれは当たらない。
今年のテニスの決勝戦は、現在世界ランク2位のイギリスのアンディ・マレーと、世界ランク141位のアルゼンチンのデルポトロだった。マレーはロンドン大会でも優秀しているし、これはオリンピックだからデルポトロが勝つかなと期待していたが、マレーの連勝だった。連勝はオリンピック史上、初めてのことらしい。この決勝戦は見ていてかなり面白かった。フルセットにはならかったものの、4セット中2セットはタイブレークになった。世界ランク141位といえば、トップレベルの選手とは言えない。しかし、このオリンピックでは、デルポトロは第1戦でジョコビッチと当たり、7-6、7-6と2セットともタイブレークの接戦で勝っている。準決勝ではナダルと接戦を演じて、ここでも競り勝った。それでどのような選手なのか、ウィキペディアで調べてみた。
デルポトロは1988年生まれの27歳、錦織選手と同世代だ。実はまったく無名の選手だったわけではなく、20歳のときに全米オープンで優勝している(そうだったんだ!)。しかしその後、右の手首、左の手首をそれぞれ痛めて手術し、長期にわたりプレーしていない時期があったようだ。そのため世界ランクはガタ落ち。しかし2012年のロンドンオリンピックでは、準決勝まで進み、3位決定戦でジョコビッチに勝って銅メダルをとっている。そして今年の決勝戦と銀メダル。オリンピックのテニスは、こういった下位にいる選手が復活し、なんとか競り勝ってメダルを得ることが可能な大会なのだ。錦織選手の銅メダルも、そういう文脈の中にある。錦織選手は世界ランク10位内に入るトップレベルの選手と言えるが、四大大会やATPマスターズでの優勝経験はない。そういう選手にもメダルの可能性があるのがオリンピックのテニスだ。
20歳で全米オープン優勝ということは、デルポトロは当時、才能ある若手選手だったのだと思う。怪我のために棒に振ったキャリアを、オリンピックで取り戻せたのは素晴らしい。しかもジョコビッチやナダルを破っての銀メダルなのだから。日本の報道では「ジョコビッチの目に涙」と世界ランク1位の初戦敗退を報じていたが、ノーシードから勝ち上がったデルポトロの奮闘には、まったく触れられていなかった。そこには取材すれば、語られるべきストーリーがたくさんあっただろうに。スポーツジャーナリズムの記事の種としては、十分な素材と思われた。実はストーリーどころか、決勝戦の結果は、新聞のスポーツ欄の囲み記事で小さく報じられただけだった。そのページにデカデカとあったのは、錦織選手の銅メダルの記事。もちろん朝夕刊合わせて数回、第一面から社会面にいたるまで、繰り返しデカデカと写真入りで。決勝の記事は、見逃すほど小さなもの、それも1回のみ。これは何を意味しているかと言えば、オリンピックのテニスとは、日本人選手(錦織)のことであり、メダルメダルと騒ぎはするが(日本にとって)大会自身はたいして意味がない、ということだ。誰がどんな風に優勝しようが、どうでもいいという。決勝戦の記事の扱いはそのことを示している。
このような報道や試合の実況の中で、スポーツの国際大会としてのオリンピックを楽しむのは難しいことだ。子どもたちもオリンピックとは、スポーツを楽しむというより、日本人の活躍に沸き、日本人を応援することだと解釈するだろう。日本国という「国体」や愛国心の必要性こそが、子どもたちに伝えるべきことなのだ。
オリンピックは国際スポーツ大会の一つに過ぎないし、そもそもオリンピックはオリンピック憲章によれば、国ごとのメダル数を数えたり、誇ったりするものではないという。国際オリンピック委員会は、国ごとのメダル数を数えることを禁止もしている。オリンピックとは個々の選手やチームの健闘を称えるものであって、国ごとの競争ではない、ということらしい。オリンピックへの参加度は、スポーツの能力だけでなく、その国の経済事情が影響し、かなりバラつきがあるようだ。日本は経済的に豊かで、また「国体」を重要視する国なので、オリンピックへの参加度は高く、「国としての参加」の側面がかなり強い。だから禁止されているにも関わらず、日本のオリンピック委員会は堂々「2020年の大会では、メダル数で3位になることが目標」などと、オリンピック憲章に反する発言をしている。
6月にこのブログで「スポーツ小国、ニッポン」という記事を書いたが、オリンピックが終わった今、ますますそれを強く感じる。あれは(オリンピックの日本のテレビ放映と新聞の記事の扱い)は、スポーツ報道というより、国威の誇示の典型のように見えた。niftyニュースによると、NHKの番組『おはよう日本』では、「五輪開催5つのメリット」として「国威発揚」を挙げていたという。確かに安倍内閣の憲法改正案では、「個人」より「国体」を重視するという内容の変更が「前文」に起きているのだから、国営放送がそう発言しても驚くことではないのかもしれない。そのような国なのだ。でも一人一人の市民(国民)はどうか、オリンピック=国威発揚に同意したり、共感をもったりするだろうか。
わたしはオリンピック自体にはさほど興味がないので、見た競技数は非常に少ない。見ようと思って見たのは、サッカーとテニスくらいだ。男子400mリレー決勝と水球の一試合はたまたま目にしたが。それ以外ほとんど見ていない。テレビのニュースも見ないのでハイライト映像も見ていない。これが特殊なのか、まあそうなのかもしれないが、よくわからない。
違和感を感じたのは、テレビの放映が日本戦に集中していたこと、そして新聞の(日本の)メダル獲得の記事が、第一面からスポーツ、社会面にまで渡って、大見出しと特大の写真で何度も繰り返されたこと。時差の関係でまず夕刊で2、3回、朝刊で2、3回。一つのメダル獲得記事が、およそ数回紙面を占めていた。まるで何倍もの数のメダルをとったようだ。通常、第一面は国内外の大きな事件や事故、戦争開始や重大な政治的決断、法改正などの最重要事項を扱うものだと思うが、そこに「金、金、金」のような踊る特大文字と、特大の写真入り記事が連日のようにあった。スポーツ新聞のようなイメージ。スポーツ面はもっとすごいが、まあスポーツ面ということで大目に見たとして、さらに社会面でも、大きな文字とぶち抜き写真でメダル獲得の記事は繰り返された。しかし内容的にはあまり実がない。スポーツジャーナリズムとして見ると、視野が狭く、情報量も少なく、日本サイドに偏った内容がほとんどで、記事のレベルは低いと思った。スポーツではなく、国威発揚の記事ということなら、そんなこと知ったことではないのかもしれないが。
テレビの放映については、EPGで夜中のサッカーやテニスの試合を録画しようとしても、日本戦以外は、ベタで5時間くらいの一つの(他の競技と混合の)番組登録になってしまい、個別の試合の予約ができなかった。また個別に予約できる場合も、再生してみると、試合最初の10分が欠けていたり、終わりの30分が切れていたりした。日本戦はこんな扱いは絶対にしない。それでも他国の試合を中継するだけでも良いほうで、多くの試合は見ることができない。今回、NHKなどのネットでライブが見られることを発見し、サッカーの韓国、ホンジュラス戦を見ることができた。これは良い方法だと思う。ただし見れるのはライブのみようで、録画映像をあとで見ることはできなかった。
テレビ放映で自国の試合に偏ってしまうのは、ある程度は仕方のないこととは思う。しかしもう少し工夫があっていいと思うし、日本在住の外国人のためにも、日本が関係しない試合のプログラムを組めないものかと感じる。日本のテレビ放映、日本の新聞を見ていると、オリンピック全体が見えない。オリンピックの競技といえば、柔道であり、体操であり、レスリングであり、平泳ぎであり、マラソン(最近はダメだが)ということになる。実際はもっとたくさんの競技がオリンピックにはある。それを知り、発見し、楽しむ機会が、日本では奪われている。東京オリンピックではホストシティとなるが、この状況は変わらないのだろうか。
サッカー以外では、テニスの決勝戦を見た。サッカーもそうだが当初は、日本が敗退した場合は、試合の放映は決勝までしない(あるいは未定)となっていてがっかりした。テニスの決勝はアンディ・マレーとデルポトロだった。テニスのオリンピックの試合は、四大大会とは異なり、著名なスター選手ではない人が金メダルをとるケースが歴史的に多い。四大大会では優勝経験のないチリの選手が、金メダルをとったりもしている。現世界1位でチャンピオンとして名高いジョコビッチも、数々の大会を制覇してきたフェデラーも金メダルをとっていない。前提としてオリンピックのテニス(サッカーもそうだが)は、通常の大きな国際大会とは違うものと思って見る必要がある。スポーツをあまり見ない人にとっては、オリンピックこそ世界一を決める大会と思っているかもしれないが、競技によってはそれは当たらない。
今年のテニスの決勝戦は、現在世界ランク2位のイギリスのアンディ・マレーと、世界ランク141位のアルゼンチンのデルポトロだった。マレーはロンドン大会でも優秀しているし、これはオリンピックだからデルポトロが勝つかなと期待していたが、マレーの連勝だった。連勝はオリンピック史上、初めてのことらしい。この決勝戦は見ていてかなり面白かった。フルセットにはならかったものの、4セット中2セットはタイブレークになった。世界ランク141位といえば、トップレベルの選手とは言えない。しかし、このオリンピックでは、デルポトロは第1戦でジョコビッチと当たり、7-6、7-6と2セットともタイブレークの接戦で勝っている。準決勝ではナダルと接戦を演じて、ここでも競り勝った。それでどのような選手なのか、ウィキペディアで調べてみた。
デルポトロは1988年生まれの27歳、錦織選手と同世代だ。実はまったく無名の選手だったわけではなく、20歳のときに全米オープンで優勝している(そうだったんだ!)。しかしその後、右の手首、左の手首をそれぞれ痛めて手術し、長期にわたりプレーしていない時期があったようだ。そのため世界ランクはガタ落ち。しかし2012年のロンドンオリンピックでは、準決勝まで進み、3位決定戦でジョコビッチに勝って銅メダルをとっている。そして今年の決勝戦と銀メダル。オリンピックのテニスは、こういった下位にいる選手が復活し、なんとか競り勝ってメダルを得ることが可能な大会なのだ。錦織選手の銅メダルも、そういう文脈の中にある。錦織選手は世界ランク10位内に入るトップレベルの選手と言えるが、四大大会やATPマスターズでの優勝経験はない。そういう選手にもメダルの可能性があるのがオリンピックのテニスだ。
20歳で全米オープン優勝ということは、デルポトロは当時、才能ある若手選手だったのだと思う。怪我のために棒に振ったキャリアを、オリンピックで取り戻せたのは素晴らしい。しかもジョコビッチやナダルを破っての銀メダルなのだから。日本の報道では「ジョコビッチの目に涙」と世界ランク1位の初戦敗退を報じていたが、ノーシードから勝ち上がったデルポトロの奮闘には、まったく触れられていなかった。そこには取材すれば、語られるべきストーリーがたくさんあっただろうに。スポーツジャーナリズムの記事の種としては、十分な素材と思われた。実はストーリーどころか、決勝戦の結果は、新聞のスポーツ欄の囲み記事で小さく報じられただけだった。そのページにデカデカとあったのは、錦織選手の銅メダルの記事。もちろん朝夕刊合わせて数回、第一面から社会面にいたるまで、繰り返しデカデカと写真入りで。決勝の記事は、見逃すほど小さなもの、それも1回のみ。これは何を意味しているかと言えば、オリンピックのテニスとは、日本人選手(錦織)のことであり、メダルメダルと騒ぎはするが(日本にとって)大会自身はたいして意味がない、ということだ。誰がどんな風に優勝しようが、どうでもいいという。決勝戦の記事の扱いはそのことを示している。
このような報道や試合の実況の中で、スポーツの国際大会としてのオリンピックを楽しむのは難しいことだ。子どもたちもオリンピックとは、スポーツを楽しむというより、日本人の活躍に沸き、日本人を応援することだと解釈するだろう。日本国という「国体」や愛国心の必要性こそが、子どもたちに伝えるべきことなのだ。