20160928

パラアスリートたち:スポーツと障害

リオのパラリンピックがはじまる前から、競技をテレビで見てみたいと思っていた。これまでほとんど見たことがなかったのだ。NHKではパラリンピックの少し前に、出場するアスリートや義手、義足をつくる技術者のドキュメンタリーをやっていて、それをいくつか見た。この分野の技術はかなり進んできたように見えたが、技術者の数はまだ少ないのか、登場した日本の技術者はいつも同じ人だった。

日本でのパラアスリートや競技への興味や認知度はどのようなものだろう。ある記者が、テニスのロジャー・フェデラー選手に「日本からはなかなかチャンピオンが生まれないが、どうしてだと思うか」と質問したところ、即座に「国枝がいるではないか」という答えが返ってきたそうだ。国枝が近年グランドスラムで圧倒的な強さを見せ、車椅子テニスの世界で、世界に名だたるチャンピオンであることはわたしも知っていた。でもフェデラーの口から国枝の名前が出るとは、と少し驚いた。さすが圧倒的な優勝回数を誇る世界的王者フェデラーだけのことはある。パラリンピックのパラとは、パラレル(平行)から来ていて、「もう一つのオリンピック」を指しているそうだ。

今回、車椅子テニスのほか、車椅子バスケット、ブラインドサッカーなどを主に見た。陸上競技もNHKの番組内で見て、義足をどのようにつかうかを目にしていた。車椅子バスケットは、日本と対戦したトルコやスペインとの試合を見た(決勝のスペイン、アメリカ戦は見ようと思っていて見逃した。アメリカの優勝!)。トルコもスペインもなかなかの強さで、残念ながら日本は負けてしまった。日本のエース、香西宏昭選手は持ち点3.5の選手。28歳、先天性両下肢欠損(膝上)。

持ち点とは、各選手が障害や身体能力の程度によって分けられるクラスごとに決められた点数のこと。プレイする5人のプレイヤーの持ち点合計が14点以内になるようにする(一人平均にする2.8ということか)。このルールを今回知って、なにか新鮮なものを感じた。香西選手の3.5という点数は、立ち上がりつたい歩きのできるレベルである。彼は生まれたときから両下肢がない。けれど1とか2(最も障害が重いレベル)ではない。1や2の人は脊椎損傷などにより、立ち上がることができない。そしてクラスごとに、それぞれの障害に合った車椅子を使用する。

障害や身体能力がクラス分けされ、それに対して各選手の持ち点が決まり、その合計点によってチームが組まれる。あるいは途中交代が行われる。からだの特徴がはっきりと区分けされ、そのことが差別につながるのではなく、チーム戦略の一環となっている。障害というものは、そういう見方ができるものなのだ。先天的に、あるいは事故で、からだの一部が、あるいは機能が欠けている。それは換算し得るものなのだ。ということは欠損をからだの他の部位で補ったり、鍛錬によって機能を高めたり、器具をつかうことで、プラスマイナス0にすることも可能なのかもしれない。

失明などからだの機能の一部を失ったとき、脳の働きによって他の部位が欠損をカバーすることがあると聞いたことがある。からだと脳の関係、活動によって機能が促進されること、からだの細胞レベルまで神経をいき渡らせること、それによって早期の察知やコントロールが効くことなど、興味深い事象がある。これについてはまた別の機会に詳しく書こうと思っている。

そもそも障害とは何だろう。著名な登山家で、凍傷により手足の指を切断している人がいる。山野井泰史さん、妙子さん夫婦は、ギャチュン・カン北壁を登攀したとき雪崩にあい、それぞれ手足の指を切断している。妙子さんは両手すべての指を切断しているが、包丁をもって料理をし、箸でご飯を食べ、縫い物をしたりもする。二人のギャチュン・カン登攀を描いた、沢木耕太郎の「凍」というノンフィクションを読んだ。帰国して手術と治療を受けているとき、病院から近くコンビニに買い物に行った妙子さんは、両手とも使えなかったので、首から財布を吊るして出かけ、店の人にそこからお金を取ってもらうようにしていたという。障害があったとしても、解決法があれば問題ないとでもいうように。

パラリンピックを見ていて思ったのは、からだのどこかに障害がある人はたくさんいる、ということだ。先天性の人も少なくない。それでもバスケットの香西選手のように、アメリカの大学から声がかかり、高校卒業後、留学してそこで車椅子バスケで活躍したり、その後ドイツでプロ契約を結んだり、と多様な道が開かれることもあるのだ。パラリンピックに出場していた選手たちの多くは、障害そのものを問題とは感じていないようで(当たり前の日常になっている)、アスリートとして記録に挑戦することに励んでいた。その意味で、健常者アスリートと大きな違いはないのだろう。

車椅子バスケットは、シュートやパスなどバスケットの技術とともに、車椅子の扱いの技巧がプレイの中で顕著だった。ホイールを片手で回し、もう片方の手でドリブルしながらトップスピードでゴールに向かう。急停止や回り込み、フェイントにバックランと自由自在だ。守備では車椅子2台での囲い込みもする。ぶつかって車椅子ごとひっくり返ることもあるが、たいていは自分の力ですぐ起き上がる。車椅子もそういう設計にできているのだろう。カウンターのときの抜け出しなどは、普通のバスケのときと同じように見事で、美しさとスピード感が味わえる。

日本車椅子バスケット連盟のオフィシャルサイトでは、今も日本代表の試合の映像をいくつか見ることができる(スケジュール&リザルトのタブ)。同じような障害をもつ子どもたちが見たら、きっと「かっこいい」、「オレも(ワタシも)やりたい」と思うようなプレイ満載だと思う。
日本車椅子バスケット連盟オフィシャルサイト
http://www.jwbf.gr.jp/national_team/

20160913

ゴミ袋と食品ロス

先日、家の近くのイトーヨーカ堂の雑貨売り場にゴミ捨て用のビニール袋を買いに行った。わたしの家では、生ゴミ用として10リットルの袋を購入している。いつもの棚に行って探すと、それがない。おかしいな、いつも買っているのに、と思い棚を隅から隅まで見ていったが、やはりない。レジに行って、販売員の女性に聞いたところ、その人はよくわからないようで、年配の別の女性がやって来た。その人は棚に行って一通り探したあと、ありませんねぇ、と言う。ん? 切れているのですか?と聞くと、プライスカードがどこにもないので、置いてないのだと思うという返事。

棚にあったのは、30リットルと45リットルの袋ばかり。それぞれ何種類ずつかあり、その棚をずらりと埋めている。しかし10リットルはない。「でも、前回来たときはあったんですが。。。」と言うと、お待ちくださいと言って、男性のマネージャーのような人を連れてきた。

「お客様、そうですね、ありませんね」
「でも前からずっと、こちらで買ってきたものなんですけど。。。」
「いつ頃でしょうか?」
「さあ、でもそれほど前では。。。前回二つ一度に買っていたとしても、2、3ヶ月前でしょうか。半年、1年ではないと思いますが」
「でも10リットルと言えば、こんな小さなバケツにしか入りませんよ」
「はい、それくらいの大きさのものを使っています」
「うーん。うちで買われました?」
「はい、ここ何年かずっとこちらのこの売り場で買っています」

と、こんな会話をしていたら、もう一人の男性社員が商品リストのようなものを手にやって来た。「うちでは10リットルは扱ってないですねぇ」
「でもこちらで買っていたんですよ。この45リットルのピンクの袋と同じパッケージで、10リットルなんですが」
「ここにあるのはPB商品なので、商品がなければ仕入れようがないんですよ。よその商品であれば、簡単に取り寄せできるんですけどねぇ」
「つくるのをやめた、ということなんでしょうか?」
「さあ、、、、」

ここまでの会話で、こちらが驚いたのは、マネージャーらしき人も含め、販売員の全員が10リットルの袋について記憶がまったくない、ということだった。2年、3年前の話ではない。扱っていた商品を覚えていないということがあるのだろうか。仕入れ管理をPOSシステムでやるようになって、販売員が個々の商品そのものと疎遠になってしまったのか。

販売員たちはおおむね親切ではあったが、キツネにつままれたようでもあり、次第にこちらも自分の記憶が間違っているのかと不安になってきた。すると男性社員の一人が、下の階のOXさんに行けば、ひょっとしてあるかもしれないですよ、と言うので、そうですねそうしてみます、と言って階下におりた。しかしそこでも30リットルと45リットルの袋のみだった。

ヨーカ堂の社員の人が言うには、標準が45リットルだそうだ。30リットルは小さ目とか。しかし45リットルと言えば、相当な大きさだと思うのが。10ガロン(37.85リットル)のゴミ袋に死体を切り分けて詰めて海に流したら岸に上がって発見された、という事件を聞いたことがあるが、アメリカではそれくらいの大きさが標準なのかもしれない。確かに10リットル袋に合うゴミ用バケツは小さ目ではある。しかしゴミを捨てる際、この10リットル袋がパンパンになっていると、あー、いっぱい捨ててしまったな、という後悔の念に陥る。

そこでふと最近話題にのぼることの多い「食品ロス」という言葉が浮かんできた。食べ残しや賞味期限切れしてしまったものなど、たくさんの食品が捨てられていることが、最近メディアで問題になっている。捨てられる食品の半分は、家庭から出るゴミだそうだ。朝日新聞の最近の連載特集では、なぜ捨てるはめになるのかのアンケートを取ったりもしていた。安いときに買いすぎて食べきれなかった、冷蔵庫の中でいつの間にか死んでいた、賞味期限が切れたので捨てた、食べてみたらまずかった、などなど。食品ロスには、腐るなど食べられなくなったものから、まだ食べられるものまで含まれているらしい。

これだけの量の食品廃棄が問題となっているということは、捨てるためのゴミ袋は大きなものが必要になる、ということか。しかし逆に、ポリバケツ、ゴミ袋を小さくしたら、食品ロスは減らせないだろうか。これ以上捨てると、ゴミ袋に入らないという規制がかかって。大きなポリバケツがあれば、安心してゴミを出せるという状態を心理的に制御するのだ。

ここまで考えたとき、もう一つ思い当たることがあった。これはわたしの住む川崎市のことだが、2013年以前は、普通ゴミの収集がほぼ毎日あった。分別収集がなかったため、何もかも一緒に月曜から金曜までゴミを捨てられた。だから大きなゴミ袋は必要なかったのかもしれない。2013年以降、普通ゴミの収集は週2回に減り、他の日はプラスチックや缶、ビンの収集日になった。週2回ペース以下だと、生ゴミは限界を超えるかもしれない。特に夏は困るだろう。

普通ゴミ収集日が減ったことで、ゴミ袋の大きさの標準が変わったのかもしれない。収集システムの変更後、わたしが購入していたのは、在庫分だったのだろうか。それもいよいよ切れて、商品リストからも削られたということか。

ゴミ袋の場合、大は小を兼ねるという風にはあまりいかないと思う。食品ロスを減らすため、自分の捨てるゴミに意識をもつためにも、小さなサイズのゴミ袋を店は用意した方がいいのではないか。消費者を啓蒙する意味で、「食品ロスを減らそう」というポップを置いて、ゴミ袋を小さいものから大きいものまで棚に並べるのもいい。食品ロスは社会問題なのだから、そういうアプローチを店がすることは、消費者からの信頼にもつながる。

昔ながらの少品種大量生産から、多品種少量生産のシステムへと変わっているのなら、店のPB製品も多品種であるべきだろう。たしかにイトーヨーカ堂のゴミ袋の棚には、45リットルと30リットルの袋は多品種あった(袋の強度なのか、中の枚数なのか)。しかし基本となる大きさは2種類だ。販売員によると、置いてあるすべての袋がPBだと言う。外部から商品を取り寄せできないため、別の種類の商品(たとえば10リットルの袋)に対応できないらしい。会社のシステム上どうしようもないそうだ。とすると、PBで生産から販売まで管理することには大きなデメリットがありそうだ。販売側にはメリットがあっても、消費者側にはあまりない(安いというメリットはあっても)かもしれない。

ゴミが多くなっていることの理由の一つに、意識の問題がある程度関係しているかもしれない。ゴミを大量に捨てることに鈍感になっている、ゴミ袋は大きい方が安心できる、売っている側もゴミ袋の大きさに気をとめていない、など。

何かの都合で買いものに行けず、冷蔵庫も冷凍庫も空っぽに近くなったとき、生ゴミの量は画期的に減る。経験的に何度か実感したことだ。キャベツの切れ端でも、大丈夫かなと思うソーセージでも、ものがないときはギリギリまでつかうので、ゴミになるものが少ない。ということから、意識の問題はやはり小さくないと思うのだが。因みに、イトーヨーカ堂から家に帰ってゴミ袋を念のため確認すると、間違いなくイトーヨーカ堂のPB商品で、10リットル袋だった。