人間のからだ、更新力はどれくらい?
失明などからだの機能の一部を失ったとき、脳の働きによって他の部位が欠損をカバーすることがあると聞いたことがある。からだと脳の関係、活動によって機能が促進されること、からだの細胞レベルまで神経をいき渡らせること、それによって早期の察知やコントロールが効くことなど、興味深い事象がある。これについてはまた別の機会に詳しく書こうと思っている。2016年9月28日のブログ「パラアスリートたち:スポーツと障害」より
人間のからだが、使用頻度や必要性に応じて進化したり、退化したりすることは経験や知識である程度知っている。またある部位の欠損によって、別の部位が活性化しそれを補おうとする働きがあることは、自然の原理として納得のいくことだ。
現代は予防医学や予防美容などが発達し、からだに何か変化が起きる前に、それに気づく前に、それが起こらないよう化学的な処置を施したりするので、自分のからだの実態がわかりにくい、あるいは実態を知る機会が失われている気がする。
わかりやすい例をあげると、ここ10年(いや20年か)くらいは美容マーケットの中で(少なくとも日本やアメリカでは)、エイジングへの対処は大きな柱になっている。「女性は見た目の美しさ、若々しさが大事」という信仰のもと、顔のしわ、しみ、くま、たるみ、などが起きないよう、あるいは起きてしまった場合は修復するため、様々な合成化学物質や栄養素などを含むが商品が販売されている。これらの化粧品は一定の効果があるのかもしれない(有毒性もあり得る)が、(想像するに)お金、費やす時間、自分の顔と向き合い日々一喜一憂する精神の健全性を考えると、自分を総合的な人間像として捉える能力が劣化しないかと心配になる。
ある種の脅迫観念にさらされているのだと思う。日常目にする雑誌やネットのメディアでは(広告はもちろん、純粋な記事であっても)「何もせずに放置すればやがて大変なことになる」と謳われているのかもしれない。しかし最近ある日本の女優が書いたコラムを読んで、愉快な気分になった。その人は80歳を優に超えた女性と出会う機会があり、肌の美しさに驚き、どんな手入れをしているのか尋ねた。すると「顔を洗わない」と答えたそうだ。顔を洗わない! その女優はショックを受けながらも、目の前の実証例を見て信じるに足ると思い、実行に移したそうである。
顔を洗わない、というのは、以前に日本の男性作家が同じことをいうのを聞いた覚えがある。人間のからだは自然のもの、自然の法則に従って循環、運営、管理されている。足りないものがあれば、自分自身のからだが補充するのかもしれない。顔を洗わないと、顔の油分が石鹸で強制的に除外されることがない。またからだの方が肌の調子を見て、油分量を適度に補充するのかもしれない。かくいうわたしも、顔は猫程度には洗うものの、そこに何かを塗るということはしない。しかし長年の間に、からだの方が調整するようになっているらしく、洗顔後に(石鹸をつかった場合も)肌がつっぱるというようなことは全くない。
予防医学や予防美容が過ぎると、自分のからだの状態に、逆に無頓着になってしまうのではとも思う。風邪をひいたり、ちょっとした怪我をした際の回復過程は神聖なものだ、という話をきいた。確かに風邪がじょじょに治り、体調が戻っていく過程や、傷口が新たな皮膚におおわれて綺麗になっていく様子を見れば、自然の回復力を実感するし、一種神秘でもある。薬に頼り過ぎると、その感覚が失われてしまうことがある。
人間が自分のからだを、どれくらい意識下でコントロールすることが可能なのかも興味深い問題の一つだ。スピートスケートの清水宏保さんが、新聞のコラムで書いていたこと。彼は子どもの頃、ひどい喘息だった。発作に対して恐怖感があるため、発作が起こりそうな気配に神経を尖らせるようになる。それによってどのような状態になったとき、発作が起きるのかをある程度察知できるようになったらしい。そのことがスピードスケートの選手になったとき生きたという。つまり自分のからだの隅々まで、細胞レベルまで、神経を行き渡らせることが可能になったのだ。それにより、筋肉のコントロールが効くようになり、効果的な使い方ができる、というような話だった思う。
人間のからだは、そして神経も、訓練次第。清水宏保さんは子どもの頃に喘息で「訓練」していたことが、大人になって効いた。おそらく年齢が低い方が、訓練には向いているかもしれない。ある人が、テニスでもピアノでも、何歳になっても始められるが、ただ40歳で始めた人は40歳のテニスに、60歳で始めた人は60歳のピアノになる、と言っていた。それもわかる気がする。年齢が低い方が、神経や意識とからだの部位が結びつきやすい可能性はある。とくに成長期は、訓練に対する受け入れ態勢が、からだの発達と相まってスペシャルな状態にあるのかもしれない。
ひとがピアノを弾けるのは訓練の結果だ。ピアノを小さい頃から弾いている人の指は、一本一本が独立した生きものである。同じ人間のからだなのに、ピアノを弾いたことのない人の10本の指は、鍵盤に乗せたとき太い棒のようである。一本ずつの独立性はほとんどない。人差し指で一つの鍵盤を押そうとすれば、中指や小指にも力が入り突っ張ってしまう。もしかしたら使っていない反対の手も突っ張っているかもしれない。バレエの1番のポーズ(足首から先だけを180度に開いてまっすぐに立つ)を、未経験の人にやらせると、たいてい左右の手も、手首から先が開いてしまっている。それと同じだ。からだの部位ごとに、独立して神経が行き渡らないためだ。
人間のからだは訓練を積めば、部位ごとに神経を行き渡らせることができ、その変化は画期的だ。ひとつには意識の問題がある。意識を極限まで高め、集中することで、からだの隅々まで自分の管理下に置くことが可能になる。意識(神経)をからだの各部位に緊密につなげるのだ。その線は一度しっかり結びつけば、そう簡単には分裂しない。おそらく野生動物も、必要に応じて、神経を高め肉体の訓練をしているだろう。それによって生き延びることができる。
人間は自分以外のもの、からだの外からやってくる化学物質やテクノロジーにより、肉体に変化をもたらすことができるようになった。しかし、それに頼りすぎると、自分のからだが自分の管理外のものになってしまうこともある。知らないうちに、意識のレベルで、自分のからだを感知する力が低下しているのかもしれない。