ゾウ使いキャロルと子ゾウの物語
1月1日の朝、嬉しいメッセージが届いた。Elephant Sanctuary(テネシー州)の創設者キャロル・バックレーからのメールで、葉っぱの坑夫が今年取り組もうと思っているキャロルとゾウのタラの物語の作品化に興味をもってくれたようなのだ。エレファント・サンクチュアリとは、動物園やサーカスを引退したり、病気や怪我で働けなくなったゾウたちが豊かな自然の中で、安心して暮らせるようにつくられた保護・避難施設である。1995年、ゾウの調教師だったキャロル・バックレーとスコット・ブライスによって創設された。
エレファント・サンクチュアリのことを知ったのは、去年の秋に出版したデニース・ハージングの『イルカ日誌』を通してだった。赤ん坊の頃にアフリカやアジアで捕獲され、飛行機で遠い外国に輸送され、動物園やサーカスで本来の姿ではない生活を長く送ってきたゾウたちのための安息の場所、そういうものがあるとは知らなかった。ゾウ以外にも類人猿やクマのための同様の施設がいくつかある。ハージングは飼育イルカのための引退施設ができたら、という願望をもっていた。
エレファント・サンクチュアリのことを調べていて、創設者であるキャロルと彼女が所有していたゾウのタラのことを知った。キャロルは1970年代半ば、南カリフォルニアのカレッジで外来種動物の飼育や管理を学んでいたとき、偶然、タイヤ商が所有する子ゾウと出会った。家の窓から通りを行く子ゾウを見つけ、飛んでいったという。タイヤ商は自分のトラックに子ゾウを積んで、商売のためのマスコットにしていた。キャロルは彼に頼んで、子ゾウの世話をさせてもらうようになる。
子ゾウとすっかり仲良くなったキャロルは、いつか自分のそばに置きたいと願うようになる。そして子ゾウが2歳のとき、とうとうキャロルはタイヤ商から子ゾウを買い取り、タラという名をつけた。こうしてキャロルは子ゾウのタラと暮らすようになり、一緒に遊ぶうちに芸を教えるようになる。その後、キャロルとタラはコンビを組んで、アメリカ中をパフォーマンスをしながら旅する生活を送るようになった。ところがあるとき、パフォーマンスを終えたキャロルに、一人の女性が近づいてきて、「あなたはこのゾウを虐待している」と言い、激しい怒りをぶつけてきた。キャロルは虐待などしていない、と反論したものの、その後、それまでタラにさせていたローラースケートなどのパフォーマンスをやめてしまう。自分がタラにさせていることは、世の中にどのようなメッセージを送っているのだろう、それは間違ったメッセージではないか、そうキャロルは考えた。その後しばらく、生計を立てるため、鼻をつかって絵を描かせ披露することをしていたが、タラが本来の姿で生きていくにはどうしたらいいか、その道を探る日々となった。
そしてその頃出会ったゾウの調教師スコット・ブライスと意気投合し、ゾウのための安息地を思いつく。二人であちこち土地を探しまわったのち、ゾウの生息地に近い気候をもつテネシー州ホーヘンウォルドに220エーカーの土地を取得し、ゾウのためのサンクチュアリをつくった。タラが最初の居住者となり、その後、各地から引退したゾウが安息の地を求めてやって来た。現在は、キャロルもスコットもそれぞれテネシーのサンクチュアリを離れ、自らまた別のサンクチュアリをつくって活動をしている。
わたしはサンクチュアリの創設者がゾウ使いだったことを知って、最初とても驚いた。しかしキャロルとタラの出会いと交流、その後の活動を本などで読むうちに、そういった履歴の人だからこそ、深い関係性をもった者だからこそ愛するゾウの生涯に頭を巡らせ、サンクチュアリをつくるという発想が生まれたのかもしれない、と思うようになった。子ゾウだったタラの世話をし、一緒に遊び、成長を見守り、芸を教えてきた人間が、共に暮らす異種の動物に対して深く考え、どうあることがゾウにとって幸せか、真剣に追求したことの結論として、サンクチュアリがあったのだ。
エレファント・サンクチュアリには、アメリカ各地の動物園やサーカスを引退したゾウたちが多数迎えられ、現在は2700エーカーにまで広がった土地に、チェーンで繋がれることもなく、手鉤で痛めつけられたり脅されることもなく、ゾウの世話人の管理のもと、ゆったりと自然の中で暮らしている。もはや野生に戻すことが叶わないゾウたちが、故郷と似た気候の土地で、森林や草原に囲まれて日々を送っている。ここは動物園のように一般公開されているわけではないので、どんなところで、どんな風に暮らしているのかは、ELECAMというライブ映像と、Trunklinesというニュースレターでしか知ることはできない。
ここ何週間かわたしは、朝起きるとまず、ここのライブカメラでゾウたちの様子を見るのが日課になっている。日本の朝7時が、テネシーの午後4時に当たるので、見るのはいつも夕方の風景だ。敷地はアジアゾウ、アフリカゾウ、隔離地区(病気や相性などの問題で)、この三つのエリアに分かれ、柵でかこわれている。ライブ映像を見て、ゾウたちの姿を目にできるのは50%くらいの確率だ。ゾウのいないテネシーの夕暮れの風景の中で、野生のシカたちが草を食んでいたりする。それでも遠くの方にゾウの姿が見えれば嬉しいし、ときにカメラのすぐ近くまでやって来てじっと佇んだり、柵越しに仲間と交流しているのに出会えれば得をした気分だ。
カメラの設置場所やアングルが日々変えられているが、敷地が広いため、ゾウの姿は追いきれない。しかしそのことが見る者を安心させるところもある。動物園では多くの時間、動物たちは人間の目に触れるよう囲いの中に展示されている。サンディエゴ動物園のように、比較的広い園内に動物たちが住んでいる場合も、ライブカメラが捉える頻度は、サンクチュアリと比べれば格段に高い。80%以上の確率で動物を見ることが可能だ。サンクチュアリのゾウたちは、たまたまカメラに捉えられたときだけ姿が見られる。それで全然かまわないし、待ったり探したりすること自体が楽しみになる。
現在タラは40歳を超え、テネシーのサンクチュアリで変わらず暮らしている。一方キャロルは2010年にサンクチュアリを離れ、新たな土地を手に入れてゾウの保護活動をしている。ネパールやタイのゾウ使いへの教育や啓蒙活動もしているようだ。もう一人の創設者スコット・ブライスもテネシーのサンクチュアリを離れ、自らの動物保護活動をはじめている。アメリカで最初のゾウの保護施設を創設した二人は活動拠点を変えたが、施設と組織はしっかり残り活動をつづけている。保護活動が三手に別れ、広がったと考えてもいいのかもしれない。
タラがまだ小さかったころのキャロルとの2ショットがある。地面に足を投げ出してノートをとる若いキャロルを、頭から背中、お腹と毛がいっぱい生えた子ゾウのタラが覗き込んでいる。そこから40年。今は別々に暮らすタラとキャロルだが、ゾウにとって本来の姿に近い生活を送らせたいというキャロルの願いは叶ったと言える。タラとキャロルが興行をしていた年月と同じ20年間を、タラはこのサンクチュアリで過ごしてきたのだから。
エレファント・サンクチュアリのことを知ったのは、去年の秋に出版したデニース・ハージングの『イルカ日誌』を通してだった。赤ん坊の頃にアフリカやアジアで捕獲され、飛行機で遠い外国に輸送され、動物園やサーカスで本来の姿ではない生活を長く送ってきたゾウたちのための安息の場所、そういうものがあるとは知らなかった。ゾウ以外にも類人猿やクマのための同様の施設がいくつかある。ハージングは飼育イルカのための引退施設ができたら、という願望をもっていた。
エレファント・サンクチュアリのことを調べていて、創設者であるキャロルと彼女が所有していたゾウのタラのことを知った。キャロルは1970年代半ば、南カリフォルニアのカレッジで外来種動物の飼育や管理を学んでいたとき、偶然、タイヤ商が所有する子ゾウと出会った。家の窓から通りを行く子ゾウを見つけ、飛んでいったという。タイヤ商は自分のトラックに子ゾウを積んで、商売のためのマスコットにしていた。キャロルは彼に頼んで、子ゾウの世話をさせてもらうようになる。
子ゾウとすっかり仲良くなったキャロルは、いつか自分のそばに置きたいと願うようになる。そして子ゾウが2歳のとき、とうとうキャロルはタイヤ商から子ゾウを買い取り、タラという名をつけた。こうしてキャロルは子ゾウのタラと暮らすようになり、一緒に遊ぶうちに芸を教えるようになる。その後、キャロルとタラはコンビを組んで、アメリカ中をパフォーマンスをしながら旅する生活を送るようになった。ところがあるとき、パフォーマンスを終えたキャロルに、一人の女性が近づいてきて、「あなたはこのゾウを虐待している」と言い、激しい怒りをぶつけてきた。キャロルは虐待などしていない、と反論したものの、その後、それまでタラにさせていたローラースケートなどのパフォーマンスをやめてしまう。自分がタラにさせていることは、世の中にどのようなメッセージを送っているのだろう、それは間違ったメッセージではないか、そうキャロルは考えた。その後しばらく、生計を立てるため、鼻をつかって絵を描かせ披露することをしていたが、タラが本来の姿で生きていくにはどうしたらいいか、その道を探る日々となった。
そしてその頃出会ったゾウの調教師スコット・ブライスと意気投合し、ゾウのための安息地を思いつく。二人であちこち土地を探しまわったのち、ゾウの生息地に近い気候をもつテネシー州ホーヘンウォルドに220エーカーの土地を取得し、ゾウのためのサンクチュアリをつくった。タラが最初の居住者となり、その後、各地から引退したゾウが安息の地を求めてやって来た。現在は、キャロルもスコットもそれぞれテネシーのサンクチュアリを離れ、自らまた別のサンクチュアリをつくって活動をしている。
わたしはサンクチュアリの創設者がゾウ使いだったことを知って、最初とても驚いた。しかしキャロルとタラの出会いと交流、その後の活動を本などで読むうちに、そういった履歴の人だからこそ、深い関係性をもった者だからこそ愛するゾウの生涯に頭を巡らせ、サンクチュアリをつくるという発想が生まれたのかもしれない、と思うようになった。子ゾウだったタラの世話をし、一緒に遊び、成長を見守り、芸を教えてきた人間が、共に暮らす異種の動物に対して深く考え、どうあることがゾウにとって幸せか、真剣に追求したことの結論として、サンクチュアリがあったのだ。
エレファント・サンクチュアリには、アメリカ各地の動物園やサーカスを引退したゾウたちが多数迎えられ、現在は2700エーカーにまで広がった土地に、チェーンで繋がれることもなく、手鉤で痛めつけられたり脅されることもなく、ゾウの世話人の管理のもと、ゆったりと自然の中で暮らしている。もはや野生に戻すことが叶わないゾウたちが、故郷と似た気候の土地で、森林や草原に囲まれて日々を送っている。ここは動物園のように一般公開されているわけではないので、どんなところで、どんな風に暮らしているのかは、ELECAMというライブ映像と、Trunklinesというニュースレターでしか知ることはできない。
ここ何週間かわたしは、朝起きるとまず、ここのライブカメラでゾウたちの様子を見るのが日課になっている。日本の朝7時が、テネシーの午後4時に当たるので、見るのはいつも夕方の風景だ。敷地はアジアゾウ、アフリカゾウ、隔離地区(病気や相性などの問題で)、この三つのエリアに分かれ、柵でかこわれている。ライブ映像を見て、ゾウたちの姿を目にできるのは50%くらいの確率だ。ゾウのいないテネシーの夕暮れの風景の中で、野生のシカたちが草を食んでいたりする。それでも遠くの方にゾウの姿が見えれば嬉しいし、ときにカメラのすぐ近くまでやって来てじっと佇んだり、柵越しに仲間と交流しているのに出会えれば得をした気分だ。
カメラの設置場所やアングルが日々変えられているが、敷地が広いため、ゾウの姿は追いきれない。しかしそのことが見る者を安心させるところもある。動物園では多くの時間、動物たちは人間の目に触れるよう囲いの中に展示されている。サンディエゴ動物園のように、比較的広い園内に動物たちが住んでいる場合も、ライブカメラが捉える頻度は、サンクチュアリと比べれば格段に高い。80%以上の確率で動物を見ることが可能だ。サンクチュアリのゾウたちは、たまたまカメラに捉えられたときだけ姿が見られる。それで全然かまわないし、待ったり探したりすること自体が楽しみになる。
現在タラは40歳を超え、テネシーのサンクチュアリで変わらず暮らしている。一方キャロルは2010年にサンクチュアリを離れ、新たな土地を手に入れてゾウの保護活動をしている。ネパールやタイのゾウ使いへの教育や啓蒙活動もしているようだ。もう一人の創設者スコット・ブライスもテネシーのサンクチュアリを離れ、自らの動物保護活動をはじめている。アメリカで最初のゾウの保護施設を創設した二人は活動拠点を変えたが、施設と組織はしっかり残り活動をつづけている。保護活動が三手に別れ、広がったと考えてもいいのかもしれない。
タラがまだ小さかったころのキャロルとの2ショットがある。地面に足を投げ出してノートをとる若いキャロルを、頭から背中、お腹と毛がいっぱい生えた子ゾウのタラが覗き込んでいる。そこから40年。今は別々に暮らすタラとキャロルだが、ゾウにとって本来の姿に近い生活を送らせたいというキャロルの願いは叶ったと言える。タラとキャロルが興行をしていた年月と同じ20年間を、タラはこのサンクチュアリで過ごしてきたのだから。