20170519

外国語で話すときの言語力、会話力

最近2015年度のショパン国際ピアノコンクールのビデオを見ていて気づいたことがあった。母語ではない言語で話すとき、会話が一応成り立っていれば、その言葉が話せるという見方はできる。しかし会話が成り立っていたとしても、個々の言語レベルは一様ではなく、大きくは二つか三つくらいの階層に分類できるのではないか、と感じた。

ショパンコンクール公式サイトの中に、10人のファイナリストの演奏とインタビューをビデオで紹介するページがある。その10人のコンペティターのインタビューを順番に聞いてみた。国籍は第1位が韓国、第2位カナダ、第3位アメリカ(中国系)、第4位アメリカ(中国系)、第5位カナダ(中国系)、第6位ロシア、以下クロアチア、日本、ポーランド、ラトビアの国籍をもつ人々。10人のうち5人がアジア系だった。ただし3位のケイト・リウ(2015年当時21歳)はシンガポール生まれだが8歳でアメリカに渡っており、4位のエリック・ルー(17歳)はアメリカ生まれの中国系二世、5位のヤイク・ヤン(16歳)は中国生まれのカナダ人で6歳で移住。この3人については英語の母語話者と同等と見ていいだろう。

第1位のチョ・ソンジン(21歳)は韓国生まれの韓国育ち。高校卒業後パリのコンセルヴァトワールで勉強をしている。そこでついている先生もフランス人なので、どれくらい英語をつかう機会があるかわからないが、ショパンコンクール公式サイト以外のインタビューもすべて英語で受けているようだった。(英語話者ではない外国人としては)まあまあ普通に話せているかなと思っていたが、今回改めてビデオを見比べてみて、そこまで思ったようには話せてないのではないかと感じた。

それは17歳のエリック・ルーのインタビューを聞いて、違いを感じたからだ。エリック・ルーはまだ10代とは言え、母語が英語であるせいか話には深みがあった。質問に対して考えながら言葉を選び、よりよく伝えようと、丁寧に自分の思ったことを語っていた。ショパンという作曲家についての自分の考えを述べる態度など、インテリジェンスを感じさせた。それに比べると、母語ではない言葉で話したチョ・ソンジンは、型通りの答えになりがちだった。おそらく母語で話せばもっと自分の作品への思いや考え方が語れたのではないか。話すだけの内容をもっていないのではなく、話す術が内容に追いついてないのかもしれない。

そうしてみると、あの人は英語が話せる、英語が達者だと言うとき、その一つ一つにはかなりのバラツキがあるのではと思い至った。それが今回気づいたことだ。今までなぜ気づかなかったのか、とも思う。

さらに別の入賞者のインタビューも聞いてみた。日本の小林愛実、ロシアのドミトリー・シシュキン、ポーランドのSzymon Nehringは、それぞれ日本語、ロシア語、ポーランド語と母語で話した。クロアチアのAljosa Jurinic、ラトビアのGeorgijs Osokinsは英語だった。クロアチアのJurinicは20代半ばで、クロアチアで生まれ育っている。ドイツやオーストリアで勉強した経験はあるようだったが、英語圏に住んでいた形跡は見当たらなかった。しかし英語で話す言語能力は高いように見えた。考えつつ、言葉を選びつつ、自分の思っていることを正確に伝えようとしている姿勢が見えた。英語で話すことにある程度慣れているようで、語彙や表現もそれなりにバラエティが見えた。ラトビアのGeorgijs Osokinsも同様だった。英語で話すことにそれほど苦手意識はなさそうだった。ある程度の深さをもった話ができていた。

話術や表現能力と、使う言葉のスキルとの関係はどのようなものなのだろう。日本のファイナリストの人は日本語でインタビューを受けていたが、話はいくぶん型通りの受け答えのように見えた。正直な答え方ではあったと思うが、内容や表現はやや幼い感じだった。母語で話しているのだから、もう少し踏み込んだ内容、あるいは印象深い話ぶりを見せられたのではないかと思った。そのようなことを要求される場面が少ないので、慣れていないのかもしれない。もし彼女が英語でインタビューを受けていたら、話し方の幼さや型どおりの受け答えを英語能力の足りなさのせいと思ったかもしれない。

韓国の元サッカー選手でパク・チソンという人がいる。10代のとき日本でプレーし、20代の初めにオランダに渡り、その後イギリスで長くプレーした。日本には多分1、2年しかいなかったと思うが、日本語は非常にうまいらしい。日本を離れて何年もあとに、日本の新聞でインタビューを受けたときも日本語だった(そう記事に記されていた)。2010年W杯のときで、内容は北朝鮮と韓国の関係についてなど、それなりに深いことが含まれていた。イギリスに行ってからは英語でインタビューを受けるようになり、CNNのようなテレビ番組にも出ていた。しかし今考えると、英語が話せるということにはなっていたものの、日本語と比べると型通りの受け答えに近かったのではないかと思う。なぜそう感じるかというと、最近になって、パク・チソンがイギリスのテレビ番組に出演した映像を見て、英語が素晴らしく上達しているのを目の当たりにしたからだ。彼は引退後、選手時代に所属していたマンチェスター・ユナイテッドのアンバサダーをやっており、イギリスにずっと住んでいる。最近大学でスポーツに関する勉強を始めたようで、そのせいもあって英語の表現能力が上がったのではないか。イギリスの大学で勉強するということは、たくさんの英語の本を読み、レポートなどではたくさんの英語の文章を書くことになる。またアンバサダーという役割においては、選手時代の英語以上の能力が要求されるのかもしれない。

最近見た映像では、パク・チソンは複雑なことを表現し、切れぎれではない構文的に長い文章を口にすることができていた。かなり楽に話しているようにも見えた。選手時代にはなかった話し方だと思う。自信をもって、今その場で考えていることを口にできる技術を手にしたのだ。他人事ながらこういう成果を見ると、こちらも嬉しくなる。もう一人韓国人のサッカー選手で、YouTubeで見て驚いた人がいる。現在イングランドのプレミアリーグのトットナムに所属するソン・フンミン選手だ。16歳でドイツに渡り、イングランドに来るまでの数年間ブンデスリーガでプレイし、2年前にトットナムにやって来た。ドイツ語はかなり話せるらしいとは聞いていたが、英語でのインタビューはチラッと目にしたくらいで、そのときは片言のように見えた。イングランドに来たばかりのときは、イギリスのテレビ番組で韓国語でインタビューに答えていた。それが1年たったとき、滑らかとは言えないもののそれなりに話ができていた。型通りの受け答えばかりでもなく、楽しげに話し、インタビュアーを笑わせてもいた。もちろんレベルとしては高い会話力とは言えないが。ここから先、語彙や表現力を高めていって、深い話ができるようになるだろうか。

型通りの話で終わるか、自分の考えていることをそれなりのレベルで伝えられるか、この二つには大きな違いがある。多分、それなりのレベルで伝えられるようになるには、それなりの道筋があり、努力が必要になってくるのだと思う。たとえば人と話をするだけでなく、その言語で本を読んだり、手紙やメールを書いたりという経験を多くもつことだ。型通りの受け答えや仲間うちの会話に終始していると、何年英語圏にいたとしても、そこからレベルを上げることは難しいかもしれない。

慣用句やいかにも英語らしい表現を使わなくとも、非常に深い話ができる人もいる。マリア・ジョアン・ピリスはポルトガルのピアニストで、現在はブラジルに住んでいる。何年か前に、彼女がNHKのピアノのレッスンの番組で教えていたとき、そのような英語で話していた。生徒たちの国籍は多様で、英語圏の生徒はいなかったと思う。一番若い生徒は12歳のオランダ人だった。それを意識してわかりやすい英語で話していたのかもしれない。ポルトガル語風のなまりはあるが、シンプルで、言いたいことの本質をついた強い表現で、彼女の個性が出た話ぶりだったと記憶している。中身の薄い型通りの話し方とは対極にあるものだ。

元ハンマー投げの室伏広治選手の英語でのインタビューを聞いたことがあるが、彼の話ぶりも好感のもてるしっかりとしたものだった。言いたいこと、伝えたいことがまずあって、それを表現するための話術と英語のスキルがあるという感じだった。それは一つには基本的な英語の文法や語彙があるということ。流暢とかペラペラという話し方ではない。話す内容と話し方がぴったり合っていて、伝えたいという気持ちが相手に届くような話し方だ。このように外国語を話せば、話すことの意味は増す。

意外だったのはYouTubeでたまたま目にした村上春樹の会見模様。室伏選手同様、堅実な話ぶりで好感が持てたが、英語の表現や語彙自体は中学生レベルだった。それで言いたいことをしっかり表しているように見えた。彼の場合、英語の本の翻訳歴は長いし、海外の公の場で英語でスピーチもしているので、英語の能力は高いはず。しかし自分の言葉で「話す」際は、易しい表現や語彙を使った堅実な話ぶりだった(たまたまだったのだろうか?)。これは日本人が英語で話したり、インタビューを受けるときのヒントになりそうだ。日本の著名人でそれなりに英語で話せる人の中には、一見もの慣れているように見えて、話に曖昧な部分が多かったり、文があちこちに飛んだりと落ち着かない話しぶりであることも多い。このようなケースは外国語で話すときの手本にはなりにくいと思う。

2015年のショパンコンクールで審査員をしていた海老彰子さんは、日本のピアノ学習者は「楽譜を弾けるようになってから表現を探している」が逆でなければならない、というようなことを書いていた。楽譜を音にする最初の段階で構想をもち、表現を考え、表現にしていく、音にしていく、音楽にしていくということだろう。まず弾ける技術を手に入れて、そのあとで自分の表現を探すのではない、というのは納得のいく考えだ。


同様に外国語での会話も、言いたいことがまずあり、どうやって表現したらそれを人に伝えられるか、そのことを追いながら話すスキルを上げていく、言語力を上げていくのがいいように思う。一番適切な言い方を見つけるためには、未知の語彙や表現を手にしなくてはならない。ひとたび手にしたら、そのスキルは言いたいことのために、何度も使われるようになるだろう。そのようにして表現や語彙が身についていくと、自分の「英語での話し方」が徐々に出来上がっていくのではないか。話し方にはその人の人間性が出るものだ。型どおりの受け答えで個性を出すのは難しい。