「知る」とはどんなこと?
何かを「知る」とは具体的にはどういうことを指すのだろう。どうであれば知っていることになるのか。たとえば 新聞やテレビでニュースを受け取る、何か起きたことを、あるいは発見されたことについて情報を得る。こういうことが起きました。原因は何々と見られます。など、発信者から出来事の概要を手にする。しかしそのとき、発信者の「身元」、つまりどういう考えの、いかなる立場の、世界をどう動かそうとしている存在がそれを伝えているのか、を問うことはあまりない。
しかしニュースや情報は本来、発信者の身元と切り離せないものだ。起きた出来事、ある事実は、それを拾う者によっていかようにも「編集」される。そういう意味で事実は一つではない。ニュースの受け手というのは、出来事に直接関わらないので、いつも他者の解釈と表現の方法によってしか事実を知ることができない。それはしかたのないことだ。
ここで差が出るのは、一つのニュースを受け取るとき、これは発信者Aの解釈による情報である、と意識的に発信者込みでニュースを見るか、そうではなく、その内容だけを事実として受け取ろうとするかの態度の違いだと思う。もし発信者のことも意識しながらニュースを見るなら、発信者がどういう身元なのかの確認を同時にするだろう。
たとえば「移民による犯罪がここのところ増えている」というニュースがあったとする。発信者の身元を問わない受け手は、「ああそうなんだ、移民の犯罪が増えて怖いね」という方向に簡単にいってしまうことがある。そしてそれはその人間の事実認識として定着する。さらには「そういえば、うちの会社の取引先の中国の人で問題を起こした人がいて、やっぱり、、、、」のように広がっていったりもする。ニュース元である発信者が、どんな意図でなんのために、たくさんの出来事の中からそのニュースを伝えているのか、などについては考えることがない。
一方、「移民による犯罪がここのところ増えている」という同じニュースを受けた人の中には、その発信元に目を向け、なぜ今この放送局が、あるいは新聞社が、これをトップニュースで扱おうとしているかを考える人もいる。そしてそのメディアが関係している企業のこと、あるいは国営放送であれば政府のことに目を向け、そのメディアが公平な立場から発言しているかを検証する。そこに何か疑問が起きれば、「移民による犯罪がここのところ増えている」ということが本当に事実なのか、調べようとする。
マーケティングがそうであるように、ニュースも、事実の記録や調査データを意図する方向に組み換え、一つの結論に導くことは可能だ。たとえば何らかの理由で移民流入を減らしたい、と思っている組織や団体があるとして、移民が定住しにくい状況をつくりだすために、意図的に調査データを「編集」するとしよう。あからさまに捏造と言われない程度、方法で、記録年や期間、該当国、調査地域をうまい具合に選定し、場合によって都合の悪いものは外し、「移民による犯罪が増えている」ということが言えなくもない「事実」を仕立てる。
こうして生み出された「事実」がニュースに乗り、発信者がいかにも困ったことであるかのように発言し、それを聞いた人が鵜呑みにして、こうなんだってね、と広めてくれれば、そのことは着実に事実化していく。そして常識になる。地球温暖化の情報の中にも、こういった情報操作によるデータがかなり含まれているらしい。複数の専門書を読んでそれを知った。しかし温暖化人為説はいまや常識である。ひとたび常識となったことは覆すことが難しい。
しかしニュースを聞いてそのまま信じてしまう人々も、信じているとはいっても、それほど深刻に考えたり信じたりしているわけでもなさそうだ。こうなんだって、という話のレベルに過ぎない。知ったつもりになっているが、どこまで本気で信じているかと聞かれれば、ニュースで言っていたからそうなんでしょ、という程度であると思う。じゃあ、そのことについて少し話しましょうか、と持ちかけられれば、いやニュースで聞いたこと以上のことは何も知らない、と答えるかもしれない。「マグロって泳ぐのをとめると、死んじゃうんだってねー」とニュースで聞きかじった人と、マグロの生態について話そうとしても、その先を話すことは難しい。
先日、CSのナショナルジオグラフィックのドキュメンタリーで、エコロジー活動でも知られるレオナルド・デカプリオが案内役となって、地球温暖化について各国の専門家に話を聞いてまわる番組を見た。その番組の意図としては、地球温暖化は事実であり、人為説を疑うことはできない、というもので、プロパガンダ風のつくりになっているように見えた。番組の製作者あるいはナショナルジオグラフィクにそういう意図があったのだろう。ただその中で異色だったのが、ある牧畜の専門家の発言だった。「牛が大量の餌を食べるときにメタンガスを大量に発生させるので、地球への影響は計り知れない」と述べ、牛の肉を生産するには、その何倍もの飼料が必要になるため、肉を食べることが食料危機問題にも大きな影響を与えていると言っていた。これらのことは、初めて聞くことではない。比較的、昔から耳にすることの一つだ。その牧畜関係の人はこうも言っていた。「食生活を変えることは簡単です。牛を食べないようにすればいいだけです」と。
「水を飲まないようにする」であれば、非常に難しく命にかかわるかもしれないが、牛なら確かにできないことはない。その人も「たまに代わりに(影響のより少ない)鶏を食べればいいんです」と言っていた。もし地球温暖化のニュースを見て、あるいはドキュメンタリーを見て、ある事実を「知り」「理解し」、深く考え自分のできることに目をやったなら、「今日からなるべく牛を食べないようにしよう」という決断は一つの選択肢になり得る。また確かに、それほど難しいことではないかもしれない。
しかしそれを自分の日常の中で本当に、持続的に実行するには、そのことを心から事実として受け止めなければ、なかなか実際には行動に移せないのではないか。このドキュメンタリーの中で、取材していたデカプリオも、「そうか、牛か。わかった、ぼくも明日から牛をなるべく食べないようにしよう。みなさんもそうしませんか?」とは言っていなかった。簡単そうに見えて、自分の慣れ親しんだ生活の中で、さらには家族で暮らしていればなおのこと、ステーキやハンバーグ、チンジャオロースを食べないことにするのは、家族の和をちょっと乱したり、家庭に小さな刺を持ち込む要因になるかもしれない。
何かをただ「知っている」というのは、ある意味役立たずだ。知っているつもり、というのは情報を受けたあと、その先がない。せいぜい友だちや家族にこうなんだって、と伝えるくらいだ。伝えられた人も、その伝えられ方では、知ってるつもりレベルで終わってしまう。
現代は「情報」で社会が成り立っているように思われているところもあり、新製品や面白い、珍しいニュースや情報をいち早く知ってる「情報通」は受けがいいのかもしれない。しかし底の浅い情報は、さほど役には立たない。情報が情報のレベルで完結してしまうからだ。それよりも、もっと「知る」ことに対して意識的になった方がいい気がする。情報元の立ち位置を知った上で知る情報は、より多くのことを伝えてくれるだろう。また事実の理解にも役立つ。知った情報を自分の生活に直接生かすことができる。それは納豆がからだに「いいらしい」からスーパーに走る、という活かし方ではなく、牛肉を食べないという選択をするかどうか調査し検討してみる、家族にもその考えを伝えてみる、というような活かし方だ。