20170630

「知る」とはどんなこと?

何かを「知る」とは具体的にはどういうことを指すのだろう。どうであれば知っていることになるのか。たとえば 新聞やテレビでニュースを受け取る、何か起きたことを、あるいは発見されたことについて情報を得る。こういうことが起きました。原因は何々と見られます。など、発信者から出来事の概要を手にする。しかしそのとき、発信者の「身元」、つまりどういう考えの、いかなる立場の、世界をどう動かそうとしている存在がそれを伝えているのか、を問うことはあまりない。

しかしニュースや情報は本来、発信者の身元と切り離せないものだ。起きた出来事、ある事実は、それを拾う者によっていかようにも「編集」される。そういう意味で事実は一つではない。ニュースの受け手というのは、出来事に直接関わらないので、いつも他者の解釈と表現の方法によってしか事実を知ることができない。それはしかたのないことだ。

ここで差が出るのは、一つのニュースを受け取るとき、これは発信者Aの解釈による情報である、と意識的に発信者込みでニュースを見るか、そうではなく、その内容だけを事実として受け取ろうとするかの態度の違いだと思う。もし発信者のことも意識しながらニュースを見るなら、発信者がどういう身元なのかの確認を同時にするだろう。

たとえば「移民による犯罪がここのところ増えている」というニュースがあったとする。発信者の身元を問わない受け手は、「ああそうなんだ、移民の犯罪が増えて怖いね」という方向に簡単にいってしまうことがある。そしてそれはその人間の事実認識として定着する。さらには「そういえば、うちの会社の取引先の中国の人で問題を起こした人がいて、やっぱり、、、、」のように広がっていったりもする。ニュース元である発信者が、どんな意図でなんのために、たくさんの出来事の中からそのニュースを伝えているのか、などについては考えることがない。

一方、「移民による犯罪がここのところ増えている」という同じニュースを受けた人の中には、その発信元に目を向け、なぜ今この放送局が、あるいは新聞社が、これをトップニュースで扱おうとしているかを考える人もいる。そしてそのメディアが関係している企業のこと、あるいは国営放送であれば政府のことに目を向け、そのメディアが公平な立場から発言しているかを検証する。そこに何か疑問が起きれば、「移民による犯罪がここのところ増えている」ということが本当に事実なのか、調べようとする。

マーケティングがそうであるように、ニュースも、事実の記録や調査データを意図する方向に組み換え、一つの結論に導くことは可能だ。たとえば何らかの理由で移民流入を減らしたい、と思っている組織や団体があるとして、移民が定住しにくい状況をつくりだすために、意図的に調査データを「編集」するとしよう。あからさまに捏造と言われない程度、方法で、記録年や期間、該当国、調査地域をうまい具合に選定し、場合によって都合の悪いものは外し、「移民による犯罪が増えている」ということが言えなくもない「事実」を仕立てる。

こうして生み出された「事実」がニュースに乗り、発信者がいかにも困ったことであるかのように発言し、それを聞いた人が鵜呑みにして、こうなんだってね、と広めてくれれば、そのことは着実に事実化していく。そして常識になる。地球温暖化の情報の中にも、こういった情報操作によるデータがかなり含まれているらしい。複数の専門書を読んでそれを知った。しかし温暖化人為説はいまや常識である。ひとたび常識となったことは覆すことが難しい。

しかしニュースを聞いてそのまま信じてしまう人々も、信じているとはいっても、それほど深刻に考えたり信じたりしているわけでもなさそうだ。こうなんだって、という話のレベルに過ぎない。知ったつもりになっているが、どこまで本気で信じているかと聞かれれば、ニュースで言っていたからそうなんでしょ、という程度であると思う。じゃあ、そのことについて少し話しましょうか、と持ちかけられれば、いやニュースで聞いたこと以上のことは何も知らない、と答えるかもしれない。「マグロって泳ぐのをとめると、死んじゃうんだってねー」とニュースで聞きかじった人と、マグロの生態について話そうとしても、その先を話すことは難しい。

先日、CSのナショナルジオグラフィックのドキュメンタリーで、エコロジー活動でも知られるレオナルド・デカプリオが案内役となって、地球温暖化について各国の専門家に話を聞いてまわる番組を見た。その番組の意図としては、地球温暖化は事実であり、人為説を疑うことはできない、というもので、プロパガンダ風のつくりになっているように見えた。番組の製作者あるいはナショナルジオグラフィクにそういう意図があったのだろう。ただその中で異色だったのが、ある牧畜の専門家の発言だった。「牛が大量の餌を食べるときにメタンガスを大量に発生させるので、地球への影響は計り知れない」と述べ、牛の肉を生産するには、その何倍もの飼料が必要になるため、肉を食べることが食料危機問題にも大きな影響を与えていると言っていた。これらのことは、初めて聞くことではない。比較的、昔から耳にすることの一つだ。その牧畜関係の人はこうも言っていた。「食生活を変えることは簡単です。牛を食べないようにすればいいだけです」と。

「水を飲まないようにする」であれば、非常に難しく命にかかわるかもしれないが、牛なら確かにできないことはない。その人も「たまに代わりに(影響のより少ない)鶏を食べればいいんです」と言っていた。もし地球温暖化のニュースを見て、あるいはドキュメンタリーを見て、ある事実を「知り」「理解し」、深く考え自分のできることに目をやったなら、「今日からなるべく牛を食べないようにしよう」という決断は一つの選択肢になり得る。また確かに、それほど難しいことではないかもしれない。 

しかしそれを自分の日常の中で本当に、持続的に実行するには、そのことを心から事実として受け止めなければ、なかなか実際には行動に移せないのではないか。このドキュメンタリーの中で、取材していたデカプリオも、「そうか、牛か。わかった、ぼくも明日から牛をなるべく食べないようにしよう。みなさんもそうしませんか?」とは言っていなかった。簡単そうに見えて、自分の慣れ親しんだ生活の中で、さらには家族で暮らしていればなおのこと、ステーキやハンバーグ、チンジャオロースを食べないことにするのは、家族の和をちょっと乱したり、家庭に小さな刺を持ち込む要因になるかもしれない。

何かをただ「知っている」というのは、ある意味役立たずだ。知っているつもり、というのは情報を受けたあと、その先がない。せいぜい友だちや家族にこうなんだって、と伝えるくらいだ。伝えられた人も、その伝えられ方では、知ってるつもりレベルで終わってしまう。


現代は「情報」で社会が成り立っているように思われているところもあり、新製品や面白い、珍しいニュースや情報をいち早く知ってる「情報通」は受けがいいのかもしれない。しかし底の浅い情報は、さほど役には立たない。情報が情報のレベルで完結してしまうからだ。それよりも、もっと「知る」ことに対して意識的になった方がいい気がする。情報元の立ち位置を知った上で知る情報は、より多くのことを伝えてくれるだろう。また事実の理解にも役立つ。知った情報を自分の生活に直接生かすことができる。それは納豆がからだに「いいらしい」からスーパーに走る、という活かし方ではなく、牛肉を食べないという選択をするかどうか調査し検討してみる、家族にもその考えを伝えてみる、というような活かし方だ。

20170616

極貧地区に生まれ育った少年ケニーの物語

ジャマイカといえばレゲエ、カリブ海クルーズ、熱帯のリゾートがまず頭に浮かぶかもしれない。もし観光で訪れるとすれば、そういった情報を集めればことは足りる。でも実際のところ、ジャマイカは楽園ではない。少なくとも住民にとっては。小説『ディスポ人間』( 原題:Disposable People)の主人公ケニー・ラブレイスにとっては、自分たちニッガの住む村は「クソ沈下地区」であり、ジャマイカという国全体もそれに準じる。

ジャマイカの作家エゼケル・アラン(1970年、ジャマイカ生まれ)の初めての小説『Disposable People』は、日記、モノローグ、民話、短編小説などが混在するスタイルによる自伝的小説で、2013年度のコモンウェルス新人文学賞(カリビアン地区)を受けた。コモンウェルスというのはイギリス連邦(及び連邦王国)に属する国々で、イギリス本国をはじめ、オースラリア、ナイジェリア、カナダ、スリランカ、インド、バハマなどの全53カ国(人口約23億人)がここに入る。コモンウェルス新人文学賞というのは、18歳以上の書き手による長編小説で、初めて発表する作品を対象にしている(Commonwealth Book Prize)。

わたしがこの小説に出会ったのは今年の初めごろ。コモンウェルス賞周辺の作家は、交流のある人や実際に作品を訳した人が以前から何人かいて、面白い作家と出会えるので時々情報にアクセスしていた。移民作家やアフリカ系、アジア系の英語作家を知るための一つのルートでもあった(小説の言語が英語であるため)。たとえばガーナの作家ニイ・アイクエイ・パークスはコモンウェルス賞を通じて知った作家で、2010年の新人賞最終候補作品になった『青い鳥の尻尾』(原題:Tail oF the Blue Bird)を訳して2014年に葉っぱの坑夫から出版している。

コモンウェルスの新人賞は、日本の芥川賞同様、比較的若い層の作家の作品に出会えることがメリットにもなっている。すでに名を成した作家ではなく、第1作目を出して文学賞を取ったり、候補作品になった作品を探し、質の高いもの、ユニークなものを見つけることは楽しいことだ。

そんな風にして出会ったエゼケル・アランの小説を来月(7月)から、葉っぱの坑夫のウェブ上で連載の形で発表することになっている。日本語タイトルは『ディスポ人間』(仮題)。著者と直接連絡をとって、出版許可を得た。エゼケル・アランはペンネームだが、彼と連絡を取れるかどうか、最初は定かではなかった。というのもネットで散々探したものの、本名でないためなのかFacebookやTwitterも該当するものが見つからなかったのだ。さらにこういった賞の受賞者には珍しいことだが、版元がランダムハウスやハーパーコリンズあるいは大学の出版社ではなくCreateSpaceとなっていたことだった。CreateSpaceはアメリカのアマゾン傘下の会社で自費出版を担っている。つまり自費出版による作品が賞を得たのだ。

CreateSpaceは葉っぱの坑夫も利用している機関なので、ここに連絡してみるのがいいだろうと思い、サポートを使ってこちらの意向を(『Disposable People』の著者と連絡したいという)伝えた。すぐに返事が来て、こちらの連絡先と意向を著者に伝えることで仲介することは可能、と言われた。それでCreateSpaceを通じて短い伝言を送った。実はその時点で、つまりオファーを出す時点で、最終的な出版の決断はできていなかった。通常は本をすべて読んだ上で、ときに試訳をしてみた上でオファーを出す。今回は読んでいる途中で著者に連絡を取りたいと思った。それは一つには、連絡が取れないかもしれない、という不安があったから。連絡が取れなければ、どれほど意欲があっても出版は不可能だ。また通常の小説と違い、『ディスポ人間』は一つの物語が貫かれて完結しているのではなく、日記や民話、モノローグ、イラストといった断片の集積で構成されている。短編連作のように、一つ一つの話は連携しているが、各挿話は独立したものでもある。それで最後まで読みつく前の時点で、作品全体の予測がある程度ついた。

最初に読んでいたときの状態は、目を洗われるような感覚が内容からも表現から感じられたものの、それがなんなのか充分に把握できていなかった。パッと思ったのは、ジンバブエの若手作家の小説『We Need New Names』だった。これを読んだときの衝撃は忘れない。まず日本語への翻訳は難しいのではと思ったのを覚えている。この作品は2013年に作者の初小説ながらブッカー賞を受賞。最近になってやっと日本でも翻訳出版された(ノヴァイオレット・ブラワヨ『あたらしい名前』)。偶然かもしれないが、2013年といえばちょうど『ディスポ人間』と同じ年の受賞だ。 

ブラワヨの小説はジンバブエの貧しい田舎に住む、悪ガキたちの物語。ここは『ディスポ人間』と共通するところ。『ディスポ人間』の方は、大人になった語り手が子ども時代を回想するような形で進められているが、読んでいる実感としては、多くの挿話では、10歳そこそこの男の子の語りとして受け取ることができる。こういったシチュエーションの類似以外にも、使われている言葉の面白さ、生きの良さ、弾け具合、ユーモア、それに加えてギョッとするような話の中身など共通するところはある。笑うしかない究極の極貧という舞台設定、子どものもつ生命力が悲惨さ残酷さを冷徹な目で見据えることを許すところ、自分たちの生きている世界を批評する精神と感性。どこか似ているなと思った。

しかしどちらがより悪辣で地獄性が高いか、つかわれている言葉の汚さと露出性、という点ではブラワヨの小説の方が穏やかと言える。ブラワヨは女の子が語り手、アランは男の子。その違いもあるだろう。『ディスポ人間』のクソッタレな言葉で埋め尽くされた世界は、その極端さゆえにいっしゅ清冽でもある。混沌の世界を鋭く、冷たく、透明な目が見る。そして書く。使われている言葉の汚さは、この物語を語るにふさわしい。言葉にし難い強烈熾烈な状況をつたえるには、それに見合う道具が必要だ。

エゼケル・アランによる小説の語りは、主としてファンキーなトーン。ユーモアという品のいいものではなく、笑うしかないような悪辣地獄な出来事はこう書くしかないのかもしれない。その底には無念の思いや怒り、悲しみ、後悔といろいろあると思うが、生真面目に語ることはない。そうは語れない理由があるのだと思う。この話の時代的背景としては、1970年代から80年代にかけてのジャマイカの社会主義化政策による経済の破綻や、冷戦構造の中での不安定な国の立場が貧困に拍車をかけ、社会を暗黒の世界へと引きずり落としていることがうかがえる。その時代に生まれ、成長した少年(著者)は、家族や友だちや地域の話を語りながらその時代のジャマイカの真実をあぶり出し、映し出そうとしている。

20170602

愛護か保護か、それとも福祉、権利?

四つ並べた動物への対応に関する言葉の中で、日本で、日本語として、一般的でいちばん馴染んでいる言葉は「動物愛護」の愛護ではないかと思う。動物を傷つけたり不幸にしないよう、愛をもって接することを表した言葉といっていいだろうか。しかしここ20年くらいの間に、愛護という言葉が時代とのずれを感じさせるようにもなってきた。それは環境問題やエコロジーといった言葉が一般社会で使われるようになり、またイギリス発のBody Shopという化粧品メーカーが日本にもショップを出し始めた1990年代以降、動物の問題は「個々の人間の動物への態度」というより、社会的課題として捉えられるようになったからかもしれない。

Body Shopは化粧品製造過程での動物実験に反対していること知られ、日本の消費者に対して動物実験へ目を向けさせたという意味で際立った存在だった。ショップに行くと、製品紹介のパンフレットとともに、動物実験に関する啓蒙的な印刷物が置かれていた。動物実験に反対する営利企業の活動と、日本に根付く個人的な動物愛護の精神の間には、福祉か愛護かといった言葉上の違いを超えて、決定的な差異がある印象だった。

動物愛護という言葉で思い出すのは、1960年代に活躍したフランスの俳優ブリジット・バルドーだ。アメリカのマリリン・モンローに対して、フランスのバルドーというように、彼女はセックスシンボルとして見られるところがあった。そのバルドーが動物愛護に熱心だ、というニュースが日本に入ってきたとき、セックスシンボルというイメージもあってか、知的な関心から生まれた行動ではなく、「女の人にありがちな動物が好きでたまらない動物好きの人」の行動であるといったニュアンスで(日本では)受け取られたかもしれない。それは受け取る側の動物に対する視野が限定的だったからと想像する。日本人にとっての動物とは野生動物ではなく、おおむねペットのことだ。日本語では愛玩動物と言う。petという英語は動詞では、愛撫する、かわいがる、という意味。

今回そのバルドーの動物愛護活動がどのようなものだったのか、気になって調べてみた。ウィキペディアの日本語版、英語版を見てみると、活動はかなり本格的なもので、単なる動物好きの範囲を超えていることがわかった。英語版ではバルドーはanimal rights activist(動物の権利に関わる活動家)という説明になっていた。1986年には Brigitte Bardot Foundationという動物福祉と保護(Welfare and Protection of Animals)のための組織を立ち上げている。

日本語版ウィキペディアによれば、バルドーは屠畜場での家畜の殺し方に不満を持ったことでベジタリアンになったとある。自伝の中で「この恐ろしい血まみれの虐殺を世界で誰も告発しないのなら私がする。」と書いてもいるらしい。フランスのテレビ番組に屠殺用のピストルをもって出演し、その残酷性を世に訴えたとも伝えられている。バルドーのテレビ出演が影響を与えたのか、その2年後の1964年には、フランスの農林水産省が屠殺に関する法令を変え、1970年には屠殺場での殺し方を人道的なものにするなど、屠殺に関する法律を厳しくしたそうだ(日本語版ウィキペディア)。これが事実なら、バルドーのやったことは、社会や政治を動かす活動と言っていいだろう。

また1976年に、バルドーが 動物福祉団体とともにカナダのアザラシ狩りを告発すると、その翌年に、当時のジスカール・デスタン大統領が、アザラシの毛皮の輸入を禁止している。英語版ウィキペディアにも、バルドーがシーシェパード(海洋生物の保護活動団体:クジラやイルカの捕獲問題のため日本では悪名高い組織として伝えられることが多い)の創設者ポール・ワトソンとともに、カナダのアザラシ漁を告発したことが書かれていた。シーシェパードの船舶の一つは、バルドーの支援に感謝を表して、「MV Brigitte Bardot」と彼女の名を冠しているそうだ。

こういったバルドーの活動とフランス社会への影響力を見ると、彼女のやっていることは「動物愛護」というより、アニマル・ライツ・アクティビストの活動と言ったほうがしっくりくる。

そもそも愛護という言葉に当てはまる英語はないように思う。英語ではanimal welfare(動物福祉)、animal protection(動物保護)、animal rights(動物の権利)といった言葉が一般に使われている。愛護と保護は似た言葉で、animal rights activistを動物愛護運動家と訳してある辞書もあった(英辞郎)。言葉が与えるイメージということで言えば、愛護の方は「愛」があるから、あるいは愛をもって守るという動物との関係性に焦点が当てられている。保護の方は愛があろうとなからろうと、実質的に害から動物を守るという行動が焦点になっている。

ペットのことを愛玩動物と言う人はいまはほとんどいないのではないか。愛玩の意味は「大切にしてかわいがること。また、おもちゃにして慰みとすること」だそうだ。玩は「おもちゃにする。もてあそぶ」の意味があり、玩具の玩だ。愛護という言葉は、どこかこの愛玩と繋がっている気がする。野生動物を「愛護する」ことは可能か。野生動物は人間が好きなように可愛がることのできる存在ではない。自然界では、人間と対立することも多い、本来は人間のコントロールの外にある存在だ。日本語の動物愛護という言葉には、動物を捉えるときに、野生動物の存在をあまり視野に入れていない感じがある。

人間社会にいる動物には、ペット、実験動物、畜産動物、荷役動物、動物園や水族館などの展示動物、サーカス、観光地の動物乗りなどの娯楽用動物、介護動物、セラピー動物、、、などがある。元をたどれば、どれくらい遡るかは別にして、どれも野生動物だった。人間に必要とされて、野生から人間社会に連れてこられ、人間の目的のために使用されている。動物自身がが選択したことではない。

動物福祉の考え方には、人間社会の中での効用との比較の中で、その行為や制度が正しいかどうか判断するというutilitarianism(功利主義あるいは公益主義)がある。ある意味人間中心主義ではあるが、どこまで動物への負担(苦痛)が許されるか、という判断をする際の有効な線引きになっていると思われる。豚や牛を屠殺する場合も、人間にとって動物の肉は重要な栄養源だから食肉は認めるが、屠殺の際の動物の負担(恐怖や痛みなど)をどこまで減らせるかの努力は、人間がしなければならない行為であり制度である、というようなことだ。

最近エジンバラ大学のMOOCSで、動物福祉に関する授業を何週間かにわたって受けた。イギリスはもともと動物福祉への関心の高い国のようだ。科学者たちが畜産の現場や動物実験のラボに入りこみ、そこでやっていることを否定するのではなく、いかに動物の苦痛を軽減できるかを日々研究し、現場で働く人々にフィードバックしたり指導したりしている。非常に実際的な活動だ。畜舎の環境の整備では、一匹当たりどれくらいの広さが必要で、餌や水はどのように与えられるべきか、出産の際必要なことは何か、子を産んだあとの処置はどのようにされるべきか、など動物の心理肉体両面にわたる詳細な観察検査が行なわれ、指針が提供される。屠殺の場合は、その方法論、設備の種類などが検討される。

豚は出産の際、穴を掘ってそこに子を産みたがる。これは研究所敷地内の野外に放した豚の実験から得られた情報だった。それを畜産の現場でも取り入れ、出産の際に豚が穴を掘れる環境を整えてやる。すると豚は本来の形で出産できるので、安心してよい状態で子を産める。これが豚の心理面においてよい影響をもたらすであろうことは充分想像できる。いずれ屠殺してしまう豚であっても、生きている間の生存権を最大限に保証することは倫理的に正しいと思われる。

畜産用の動物にとって、農場から農場へ、屠殺場へといった輸送の際の苦痛も大きな問題だと言う。輸送の間に体調を崩したり、死んでしまう動物も少なくないそうだ。これもどのような状態で運ぶべきかという正しい指針があれば、被害は減らせるし、動物は苦痛を味わわなくて済む。動物に対する人間の対応には、世界中どこであっても、まだまだ改善の余地がたくさんあるようだ。動物福祉の功利主義とはこのようなことであるとエジンバラ大学の講義で知った。


こういった動物福祉の功利主義の考え方は、日本語でいう動物愛護の中からは生まれにくい思想のように感じる。愛護という精神は尊いとしても、いま緊急に目を向けなければならないのは、現実の状況の把握(野生でも人間社会でも、動物たちがどのような苦境に立たされているのかを目にする)と、そこにある問題を解決するための実際的な改善策だからだ。